魔法のえほん。
「これはそういう絵本なんだから」
ひょいと絵本を取り上げると、開いたページをアガリに見せる。
真ん中に丸い輪……皿……があり、その中には何も描かれていない。その周囲には、猫やらねずみやらの動物たちがいろんな食べ物を運んでいる絵が描かれている。動物たちが皿に食べ物を乗せようとしているようだ。その上のほうに、大きく『○○○ くん/ちゃんの、たべたいものは?』。そして下のほうに『○○○です。』とある。
皿は今、真っ白だ。
「これはこの本をもらった子の本なんだよ。自分が食べたいものや欲しいものを描いて自分で作る絵本なんだ。だから、ほら……」
ユイイチは本を閉じ、表紙を向けると、その下のほうに書かれていた名前に触った。名前を指でひっかく。剥がれた部分をつまんで引っ張ると、なんと名前がなくなった。
「名前、シールにしてもらったんだ。まあ、奥付に小さくあるけどね。こどもは見ないだろ。……あ、ごめん、きーちゃん」
掲げていた本を開いてテーブルに戻し、端に手を置いて押さえる。マーカーを握って待っていたキワムがさっそく本に襲いかかる。白い部分も、絵の描いてある部分も関係なく赤い線がだだっと走っていく。
見ていたアガリは内心『あーっ』と悲鳴を上げる。
だが、ユイイチはにこにことして、キワムのその暴挙を見守っている。
赤い線でページをびっしり埋め、ユイイチを振り向いたキワムは、得意げに言った。
「いちごー!」
「すごいね、きーちゃん!」
ユイイチは笑顔でぱちぱちと手を叩く。
見ていたアガリは耳まで赤くなるような気がする。
(恥ずかしい……)
誰に対してというわけではない。こども心を忘れない兄はすてきだと思う……アガリはユイイチのそんなところが好きだし……が、あまりにも甘くて。地面を転げ回りたいほど体の内側から熱が出てくる。恥ずかしいというより、嬉しくてしょうがないようなものだ。
愛する者が愛する者にやさしくしている。そして、そのふたりと家族なのだ、自分は。
(くーっ……たまらない)
お父さんになったような気分。兄弟というより、母子を見ているようだし。
(いいトシした男が……)
そんなことも思うが、ユイイチは『いいトシした男』らしくなくて。ユイイチとキワムは年齢差のこともあり、なによりユイイチの外見により、本当に母と子のようだし。
そんなこと思ってるなんて言えやしないけれど。
だからやっぱりヤケのように『いいトシした男が恥ずかしい』からだと決めてしまう。内心のこの熱いものの正体は。
アガリのそんな内心を察したかのように、ユイイチがムッとした顔を向けた。
「ガリ、何も用ないなら、見てないでどっか行けよ」
「……」
アガリは仏頂面で静かに兄を見返す。反抗的に。
ユイイチはその一言で気が済んだ様子でまたキワムと絵本に戻る。
「じゃあ、春になったらまたイチゴ食べに遠くに行こうね、きーちゃん」
「ほんとーっ?」
「うん、本当、本当」
ユイイチはよしよしとキワムの頭を撫でる。
(……兄貴のやつ)
アガリは少し腹立たしく思う。
(心配してやってんのに……)
キワムが何かユイイチを傷つけるようなことを言えば、すぐさまフォローするつもりだったのだ、アガリは。なんとしてもユイイチを守ろうと思っているのだ、アガリは。それで何もせずに横に座ってふたりを見ていたのだ。あたかも主人を守る犬のように。
ところが主人は膝の上の猫のほうが可愛いらしい。
(どっか行け、だと?……)
ふと、寂しくなった。
上と下との仲の良さに置いてきぼりになっている真ん中の寂しさというよりは、キワムとの年齢差がありすぎて、それこそこどもに妻を奪われた夫のよう。
(つづく)