魔法のえほん。
テーブルの上にトンッと本を乗せる。
「ジャーンッ!」
大きめの薄い絵本。表紙には、いかにも手書きらしい色鉛筆の絵があり、上のほうにあやしげな模様の枠に囲まれて、『まほうのえほん』と書かれている。
「きーちゃんにプレゼントー!」
ユイイチは膝に乗せた弟のキワムの顔を後ろから覗きこんで言う。4歳のキワムはきょとんとして目の前のテーブルに置かれた絵本を見ている。
それを横から見ているもうひとりの兄、アガリは、内心はらはらとする。
なにしろ、その本の下のほうに書かれた名前が、『しのはらゆいいち』だったりするものだから。
(兄貴、なんて無謀なっ……)
キワムの反応によっては血を見る……ではなく、涙を見ることになるかもしれない。ユイイチの。
こどもは気を遣ってお世辞なんて言わない。正直なのはいいことだが…… どこででも誰に対しても正直が一番だとアガリは思っているが…… 問題はユイイチが傷つきやすいということだ。ちなみに、出来の問題ではない。出来はいい。一応、世の中に出しているものだし、出せたものだし。だけど弟が気に入るかどうかはまた別の話だ。もし気に入ったとしても、こどもは飽きやすいものだし。
(キワム、喜べっ……)
アガリは祈るような気持ちで見つめる。
絵本を出してまだ2年足らず。そのてのことでは傷つき慣れていないだろうユイイチに、ぐっさりと針を突き刺すようなことは……。
『わかんない』とか『つまんない』とか『ほかのご本がいー』とか、そういうことは……。
はらはらして見守っているアガリの前で、ユイイチは絵本を開く。そして、横に置いてあったペン立てから、何故かペンを一本取った。
「きーちゃん、ここにきーちゃんのお名前書いてー」
膝の上でまん丸お目々をしていたキワムにペンを渡し、本の一箇所を指差す。キワムはサッとユイイチを振り向き、首を傾げて問う。
「きーちゃんのー?」
「うん、そう、『きー』って」
キワムは言われた通り、こどもながらの無遠慮さで本に必死に覚えた『きー』を書き込む。鏡文字だが。
「はい、これでこのご本はきーちゃんのものになりましたー」
ユイイチがぱちぱちと手を叩く。
覗きこむと、文頭に『○○○くん/ちゃんの、たべたいものは?』とある。今はその○○○に『きー』と書かれているが。
まじまじと見たアガリはバッと口をおさえて横を向いた。
「……くっ」
抑えきれない笑いが漏れる。
キワムの鏡文字やら、兄の描いた絵本やら、それで遊ぶふたりやら。いやもうなんと言っていいか。
「あっ!」
『くっくっくっ』と肩を揺らして笑うアガリを振り向き見たユイイチが顔を赤くする。
そして叱りつけるように怒鳴った。
「おまえ、笑うんなら出てけよ!」
「いや……悪い」
アガリはどうしてもニヤけてしまう口元を手で覆い、もう片手を出して兄の視線を遮る。そして、手の下からもごももごと言った。笑いをおさえようとしているため、苦しんでいるかのように低くかすれた声になってしまう。
「兄貴、俺のことは気にせず……先へっ……」
「どこの勇者だ」
ユイイチがあきれた様子で言う。
その膝で、キワムがユイイチを見上げ、もぞもぞとした。
「ゆっち、つづきはー?」
「あー、うん、ごめん」
ユイイチはへらっと笑って絵本を置いたテーブルに向き直る。
その頃には笑いのおさまっていたアガリは、怒られたことでいっそう真面目な顔を作り、またふたりを眺めた。
ユイイチは絵本の文字を指差して、その指をゆっくりと読み上げる声とともにずらしながら言う。
「ほら、『きーちゃんのたべたいものは?』って書かれてるよ。きーちゃん、食べたいもの教えて?」
「いちごー!」
「よし、じゃあ、それをここに描こう」
ユイイチは横に用意してあった18色のマーカーセットを取ってキワムの前に置いた。
「きーちゃん、描いてね」
キワムが色の豊富なマーカーに夢中になっている間に、新聞紙を絵本の下に敷くことも忘れない。しかし。
アガリは焦って口を出した。
「大変なことになるぞ」
それほどやんちゃをしないキワムでも、描くとなったらすごい。絵を描くというより、線を描く。家の庭石に謎の模様を描きまくって親に怒られたことだって、つい最近のことだ。手にペンを持たせ、目の前に紙……あるいは何も描かれていないもの……があれば、描けるだけ線を描くのだ。まるで所有の証とでもいうように。ここからここまでが自分のものだというように。それは誰も踏んでいない新雪に足跡をつけることに似ている。ある種の残酷さもてつだってこどもは白を汚すのだ。得意げに。
しかし、目の前のそれは、ユイイチの描いた絵本であってー……。
「いいんだよ」
アガリを振り向くと、ユイイチは穏やかな顔で言った。
(つづく)