神様のガラス。
「ちゃんとがんばんなきゃなれないよ。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、ちゃんと遊ばないとー」
「やだー!」
結局、自分はだめなのに夜に外に出られるアガリを『ずるい』と思っているのだろう。キワムはじたばたとする。服にしがみつかれ、わめかれて、さすがに困惑顔のユイイチは、抱きしめるようにキワムの背中に腕を回し、ぽんぽんと軽く叩いて、やさしくささやいた。
「きーちゃん、ほら、ゆっちと寝よう? ゆっち、今日はお泊りだから。きーちゃんの好きなご本読んであげるよー?」
「……うん!」
お母さん代わりのようにして面倒をみたユイイチのその抱っこにキワムは弱かった。たぶん、多少ふっくらしているのがいいのだろう。ぎゅっとユイイチの服をつかみ、胸に顔をこすりつけている。
(ませガキめ……)
アガリがそう思うのはおかしいようだが……ユイイチは男だし……キワムのそれには兄弟に対するよりもっと熱いものがあった。まあ、女みたいにきれいな兄ではあるが。キワムは常日頃から『ゆっちはきーちゃんのおよめさん』などと言ってはばからない。『ゆっちがお母さんがよかった』と言っていて、それが駄目だったものだから、いつのまにかお嫁さんにすりかわった。ちなみにもちろん本物の母には衝撃だった。しかし、兄弟仲良くしてるというのは母の目によほど微笑ましく映るのか、キワムが母より兄と寝たがっても寂しがらないどころか、面倒が減って助かると喜んでいる。まあ、ユイイチとは一緒に住んでいるわけではなく、いつもは母と寝ているのだから。親は変えられるものではない。しかし。
(出かけるのやめようか……)
アガリはムッとしてついそんなことを考えてしまう。『可愛い弟の将来が心配だ』というのは建前で、『上と下との仲の良さに嫉妬せずにはいられない』というのが正直なところ。嫌われているわけではないが、キワムはよほどのことがない限り、アガリとは一緒に寝ようとしないのだ。ユイイチのことは『ゆっち』で、アガリのことは『お兄ちゃん』だし。しかし、アガリがユイイチに嫉妬しているのかというと、そうではない。
(兄貴をとりやがって……)
兄にぎゅっとしがみついて離れない弟のほうをにらみつける。困った顔をしていても、ユイイチは嬉しそうだ。少しでも血がつながっているほうが有利なのか。それとも、やはりこどもだからか。今ユイイチに『どっちの弟が大切か』などと問えば、間違いなく『キワム』と答えるのではないか。いや、小さい子を大切にしなければならないことは確かで、母性のありすぎる兄がキワムを選ぶことは当たり前といえるのだが。それでも、アガリの胸には、むらむらとこみあげるものがあるのだ。もちろん、アガリにとってもキワムは可愛い弟だけれども。
キワムの頭を撫でていたユイイチが顔を上げた。
「じゃ、ガリ。気をつけて行ってこいよー」
「お兄ちゃん、いってらっしゃいー」
キワムが『バイバイ』と笑って手を振る。先ほどの話の効果もあるのだろうが、出かけるのがユイイチだったら、もっと熱心に引き止めるのに。
「……おう」
しかし、結局アガリはそれだけ答えて、背を向け、玄関に向けて歩き出す。
「さ、行こうね」
アガリは玄関の扉に手をかけて振り向いた。
手をつなぎ、廊下を歩いている、兄と弟。
「ねぇ、なんで小さいと使えないのー?」
「きーちゃんの小さいおててで叩かれるのと、ゆっちの大きいおててで叩かれるの、どっち痛い?」
「きーちゃん、いっぱいたたくよ」
「じゃあ、叩いてごらん。きーちゃんがゆっちを十回叩いたら、ゆっちがきーちゃんを一回叩くよ」
「やだーっ」
甘える弟を見つめる、いたずらっこのように笑う兄の目の輝き。
あの目には、きれいなものが見えているのだ。いまだに。
天の神様の家の床に暗闇のじゅうたんが敷かれ、やさしい神様や天使がそこに小さな穴を開けて、可愛いこどもである人間たちを見守る、そんな世界が。
守りたいと思ったものがそこにある。
それは確かなものではないかもしれないけれど。
嘘のようにはかないものであるかもしれないけれど。
それでも、見つめていたい。
せめて、その夢見る瞳を。
月や星と同じくくらいやさしい、地上の光を。
アガリはふっと笑って玄関の扉を開けた。
(おわり)