セブンズレイ
『ガラスの向こうの世界』
まだ外はじゅうぶんに明るい時間だというのに、部屋は薄暗い。部屋に唯一光を誘い込む窓には分厚いカーテンが引かれ、蛍光灯さえも点けられていない。ただ机の上に置かれたスタンドライトがオレンジに輝き、まるで夕陽のようだ。そんな、いつもと同じ様子の社長室を想像しながら侵入した朝風(あさかぜ)は、そこにいつもと違う風景を見つけ、目を丸くした。
いくつも仕切りを持つガラス張りの戸棚。いつもは暗闇に紛れているそれが、今日は内側から光っている。
中にはガラスの人形や陶器の飾りが並べられ、段ごとにつけられた蛍光灯の白い光に照らし出され、きらきらと眩しく輝いている。
朝風は目を輝かせ、吸い寄せられるように近付いていった。
透明な輝きと様々な色に満ちたそこは、夢に出てくる城のよう。
朝風、十四歳、まだまだ好奇心旺盛なお年頃。
ガラスの中を興味津々に覗き込んで、朝風はくるりと振り向く。視線の先に、この部屋の主である、椅子に座った夕渚(ゆうなぎ)の姿があった。
「おいあんた、これなんだよ?」
朝風の部屋への侵入を黙認し、鷹揚に構え、言い方を変えれば知らんぷりをしていた夕渚は、そこで初めて口を開いた。
「あんたじゃない。社長と呼べ」
「ヘッ、社長さぁ~んv」
浮かれた声に対し、心底嫌そうに顔をしかめる。
「気色の悪いマネをするな」
「あんたが言えって言ったんじゃねぇか」
「お前、日本語わからんか? 俺は『社長』と呼べと言ったんだぞ。誰がオカマの真似をしろなどと言った?」
「おれ、おミズの女のつもりだったんだけど?」
きょとんとして返す朝風の横で、突然声が割り込んだ。
「それでもアンタがやったらオカマでしょうが……。ちょっと、やめてちょうだい、そういう会話は。心に刺さるのよ」
驚く朝風の横、ガラスの棚の隣に小さな一人用の机と椅子があった。そこに、微かな明かりに照らされ、顔に陰影をつけてそうとう不気味な秀海(ほずみ)がいた。普段は闇に紛れてその存在がわからない机と椅子が、今日は棚の明かりでうっすら浮かんでいた。
夕渚が冷たい視線を投げる。
「ふん。とうにボロボロだと思っていたぞ、お前の心臓は。まだ刺さる余地があるのか。あれだけ世間の侮蔑の目にさらされておいて、本当にしぶといな。毛でも生えてんのか」
「……アリガト。理解してもらえて嬉しいわ。たとえそれが反対の立場からでもね……。一番の理解者が一番の告発者になるのよねェ、人生ってつらいわ……」
秀海は非難がましく冷たい視線を送り返した。だが、夕渚は軽く肩をすくめただけだった。
「孤独か。そういうもんさ。それでもお前のは特殊だと思うが?」
「あのさ、どーでもいいけどさーっ!」
耐え切れずに朝風が大声を上げて注意を引きつけ、棚を指さして訊ねる。
「なんなわけ? これ。おれはさっきから気になってたんだけど」
「それか? それはコレクションボードという……。中身か? 中身はただの古いだけの人形と面白くもないガラスの小瓶とくだらない像、頭のおかしい奴の描いた絵皿と、壊れた時計、使えない飾り、それぐらいか」
熱のない口調で見もせずに説明する。朝風は呆れ顔になった。
「……んなもんなんで大事に飾ってんだよ。アホらしい」
夕渚は、黙って口を歪めて皮肉げに笑う。見ていた秀海が、双方をたしなめた。
「本気にしちゃあいけません。もうッ、夕ちゃんてばなんでそうひねくれた言い方するのよ。ちゃんと値打ちもんですって言っとかないと、そのうち壊されちゃうかもよォ?」
「……強化ガラスだ。壊せるもんなら壊してみな」
平然として夕渚が返した。その次の瞬間、朝風の足がガラスに突っ込んだ。
ガッシャーンッ…………!!
足はたやすく下段のガラスを割って棚に突っ込み、はめこまれたガラスは粉々に、破片は内と外に散った。朝風は足を突っ込んだまま、静かに固まる。それは他のふたりも同様だ。やがて秀海がふーっと息を吐き、遠い目をしてつぶやく。
「……壊せちゃったわねェ」
そのまま立ち上がり、朝風の前にしゃがんだ。
「大丈夫? 朝風」
「あ……ああ。たぶん。ほら、ズボンなげぇし、靴が」
おそるおそる足を引き抜いてガラスを払う。秀海は掃除用具と袋を取ってガラスの破片を片付け始めた。黙ってそれを見ていた夕渚が、急に『ドン!』と机を叩いた。
「やりやがったな、てめぇッ……」
「なっ、なんだよ、急にッ!」
にらみつけられ、すごまれ、朝風は怯みながらも立ち向かう。
「強化ガラスって言ったよな? こんなん強化ガラスじゃねえ。あんた、だまされてたんだ。良かったな、わかって」
「アホウ。嘘に決まっているだろうが。ああ言っときゃ割れもせんガラスをわざわざ割ろうとする馬鹿はいないだろうから安全だと思ったんだ」
「ひでぇッ、おれをだましたのかよ!?」
「即座に試した奴が言うな。どうやら俺が思っていたよりずっとお前は馬鹿だったらしいな。一体いくらすると思ってるんだ。お前、払うつもりがあるんだろうな?」
「バッ、おれが払えねぇってことくらいあんたが一番よく知ってんじゃねぇか!」
「そうか? 俺はてめぇが支払える方法も知っているぞ? 教えてやろうか?」
低く笑い、目をすがめて朝風を見る。夕渚の深い笑みに、朝風はじりっと後退する。そして足元の秀海に目を移した。
「いらねえよ、支払いたくねーもんよぉ。なあー、秀海ぃー」
「知らないわよ、アタシは。本気でぶち破ったアンタが悪いんでしょーが。あたしにどうしろってゆーの!?」
「頼むっ、助けてくれっ!!」
「あー、もうッ。しょうのないコねェ。夕ちゃん、いくら?」
顔を上げて訊ねた秀海に、夕渚は真顔のまま『十万だ』と答えた。とたんに秀海の顔が引きつる。
「冗談でしょおッ? 誰がそんものに十万も払うのよ。バカにしないでよ。ぼったくりバーじゃあるまいしッ」
「それがもし買った者が馬鹿だという話なら、目の前にその『誰』がいるぞ。とくと見ろ。そのコレクションボードもアンティークだからな。お前たちには価値がわるまいが」
鼻で笑う夕渚の顔をしばし無言で眺め、秀海は隣でズボンや靴の中を必死に確かめている朝風をつついて、夕渚を指し示す。
「……朝風、いい? これがお坊ちゃん育ちのバカよ。とくとご覧なさい。『近くば寄って目にも見よ』、よ。観光バス通っちゃってもいいようなおバカさんよ。たかがガラスのケースに十万も払うのよ? でも中の物はもっと高いの。十万なんて鼻で笑っちゃうくらい。それなのに十万、たった十万、ほんの十万。それを新しく出すのは惜しむのよ? だいたい百万のアンティーク入れる棚に十万しか出さないケチよ。バカね。アンティークだなんだっていったって壊れちゃったらもうしょうがないじゃないの」
心が貧しいこと、と吐き捨てて秀海は背を向ける。朝風は呆気に取られてぽかんと赤い頭を見下ろす。忙しく手を動かす秀海のその背中に、声が投げられた。
「うるせえ。貧乏はてめぇのほうだ」
ぴくっと肩を震わせ、秀海は振り返る。
「うるさいわね、そっちこそ。どうせアタシは貧乏育ちよ。でも、だからこそ心は豊かだもの」
「なんだかんだとお前も出ししぶってるじゃないか」
「そりゃ……こんなケースに十万も払いたくないもの」
「たかが十万なんだろ?」
「そうよ。アナタにとっては」
ふたりの言い合いを、きょとんとして朝風は見守る。
「アタシにとってはそんなもの価値がないのよ。だから払いたくないの。……でも、だいたいアタシが壊したわけじゃないじゃないッ?」
憤然と吐く秀海におかしそうに含み笑いをして、上機嫌で夕渚は朝風に目を移し、面白そうに言い放つ。
「おい朝風。お前、見捨てられるらしいぞ」
「えっ、マジ!?」
呆然と突っ立っていた朝風は突然振られてすっとんきょうな声を上げ、次には声を落とした。
「っつーか、でもいいよ、秀海。サンキュ」
「いいええ、お役に立てませんで。……大丈夫?」
うなずき返し、朝風は夕渚に向き直る。
「おい夕渚、さっき払う方法があるって言ってたよな。なに?」
夕渚は腕を組み、ふんぞり返る。
「決まってるだろう? 肉体労働だ。お前、他になんの取り柄があると思っている?」
「ん? 料理……とか」
頭をかいてポツリと言った朝風に、夕渚はトントンと叩いてから椅子を九十度回転させ、横を向いて言った。
「役立たずめ。便所掃除。あと廊下と、事務所の床だな」
「うっげ、小学生の罰じゃん、そんなの」
「マジだ。毎日やれ。サボるんじゃないぞ。秀海、監視しろ」
有無を言わさぬ調子と斜めからのきつい視線に、秀海は不機嫌そうに鼻を鳴らして返す。
「やぁよ。アタシもそんなにヒマじゃないもの」
「お前以上に暇な奴はいない。サボるのは得意じゃなかったか、早坂先輩?」
「だからこそのヒマなのよ……でもまァ、いいわ。わかったわよ」
秀海は不貞腐れた投げやりな返事をして、ガラスの入った袋を持って、むっつりとした顔で出て行く。
夕渚は小さくの口の端をつり上げて、声を出さずに笑った。そして朝風を振り返る。身を乗り出して、机に肘をつき、組み合わせた手の上にあごを乗せ、機嫌良さそうに朝風を見ると、目を細めてうなずく。
「良かったな、朝風。事務所の床は広いからやりがいがあるだろう? 体も鍛えられて、心も鍛えられて、借金も返せる。ちゃんと与える金を計算して貯めるからな。十万いけば許してやろう。それまで、せいぜい頑張るんだな」
朝風は肩をすくめて訊く。
「普通のバイトしたほうが早いんじゃねぇの?」
朝風と同じように肩をすくめて夕渚は返す。
「黄色い頭は世間に出せんな」
「え? 何それ。染めろってこと?」
小型掃除機を手に戻ってきた秀海が朝風の後ろから口を出す。
「……アーサー、『ひよっこ』ってことよ。アナタ十四歳でしょう? ちゃんとおとなになるまでダメだって」
秀海はコレクションボードの前に座り込み、掃除機を動かす。ブゥーンと低くうなる掃除器を熱心に動かし、秀海は背後に向けて言う。
「夕ちゃんみたいに毛が真っ白になるまで待ちなさいよ。そうすりゃ立派な鶏として胸張って人前に出られるわ。誰かさんは引きこもりだけど」
掃除を切り上げて立った秀海は、フフッと静かに笑ってふたりの前を過ぎ、また部屋を出て行った。
朝風は黙りこくって夕渚を見る。物言いたげな目を向けられた夕渚は、顔をしかめた。
「見るな。俺はお前の将来の姿じゃねえ。ちくしょう、秀海め……」
「あんた、嫌われてんじゃねえか?」
「……だろうな」
そっぽを向いた夕渚は、煙草を取り出して火をつけた。
+++++
後日。
「へへっ、なんだかんだいって十万も払えちゃうおれの労働力って素晴らしくねぇ?」
モップを振り回しながら朝風は側の机に腰かけて眺めている秀海に訊ねる。秀海はため息を吐いて退屈そうに言った。
「十万くらい就職すりゃすぐに稼げるわよ。でもその代わり借金も大きなものになるけどね。社会に出るといろいろと」
秀海はもう一度、小さくため息を吐いた。
「でも……良かったわ。ちょっとは心配していたみたいで」
「はあ? 何が?」
「夕渚よ。あのコも人並みに他人の心配するのねェ」
しみじみと言って微笑む秀海に、朝風が訝しげに首を傾げる。
「どこが?」
「無事がわかるまで責めなかったでしょう?」
「ああ……」
朝風はうなずいて、顔に満面の笑みを浮かべた。片手を腰に当てて、気持ち良さそうに上を向く。
「そりゃまぁ、俺は可愛いからなっ!!」
言って振り上げたモップが、机にぶつかってバキッと折れた。
「……あらららら」
(終)
まだ外はじゅうぶんに明るい時間だというのに、部屋は薄暗い。部屋に唯一光を誘い込む窓には分厚いカーテンが引かれ、蛍光灯さえも点けられていない。ただ机の上に置かれたスタンドライトがオレンジに輝き、まるで夕陽のようだ。そんな、いつもと同じ様子の社長室を想像しながら侵入した朝風(あさかぜ)は、そこにいつもと違う風景を見つけ、目を丸くした。
いくつも仕切りを持つガラス張りの戸棚。いつもは暗闇に紛れているそれが、今日は内側から光っている。
中にはガラスの人形や陶器の飾りが並べられ、段ごとにつけられた蛍光灯の白い光に照らし出され、きらきらと眩しく輝いている。
朝風は目を輝かせ、吸い寄せられるように近付いていった。
透明な輝きと様々な色に満ちたそこは、夢に出てくる城のよう。
朝風、十四歳、まだまだ好奇心旺盛なお年頃。
ガラスの中を興味津々に覗き込んで、朝風はくるりと振り向く。視線の先に、この部屋の主である、椅子に座った夕渚(ゆうなぎ)の姿があった。
「おいあんた、これなんだよ?」
朝風の部屋への侵入を黙認し、鷹揚に構え、言い方を変えれば知らんぷりをしていた夕渚は、そこで初めて口を開いた。
「あんたじゃない。社長と呼べ」
「ヘッ、社長さぁ~んv」
浮かれた声に対し、心底嫌そうに顔をしかめる。
「気色の悪いマネをするな」
「あんたが言えって言ったんじゃねぇか」
「お前、日本語わからんか? 俺は『社長』と呼べと言ったんだぞ。誰がオカマの真似をしろなどと言った?」
「おれ、おミズの女のつもりだったんだけど?」
きょとんとして返す朝風の横で、突然声が割り込んだ。
「それでもアンタがやったらオカマでしょうが……。ちょっと、やめてちょうだい、そういう会話は。心に刺さるのよ」
驚く朝風の横、ガラスの棚の隣に小さな一人用の机と椅子があった。そこに、微かな明かりに照らされ、顔に陰影をつけてそうとう不気味な秀海(ほずみ)がいた。普段は闇に紛れてその存在がわからない机と椅子が、今日は棚の明かりでうっすら浮かんでいた。
夕渚が冷たい視線を投げる。
「ふん。とうにボロボロだと思っていたぞ、お前の心臓は。まだ刺さる余地があるのか。あれだけ世間の侮蔑の目にさらされておいて、本当にしぶといな。毛でも生えてんのか」
「……アリガト。理解してもらえて嬉しいわ。たとえそれが反対の立場からでもね……。一番の理解者が一番の告発者になるのよねェ、人生ってつらいわ……」
秀海は非難がましく冷たい視線を送り返した。だが、夕渚は軽く肩をすくめただけだった。
「孤独か。そういうもんさ。それでもお前のは特殊だと思うが?」
「あのさ、どーでもいいけどさーっ!」
耐え切れずに朝風が大声を上げて注意を引きつけ、棚を指さして訊ねる。
「なんなわけ? これ。おれはさっきから気になってたんだけど」
「それか? それはコレクションボードという……。中身か? 中身はただの古いだけの人形と面白くもないガラスの小瓶とくだらない像、頭のおかしい奴の描いた絵皿と、壊れた時計、使えない飾り、それぐらいか」
熱のない口調で見もせずに説明する。朝風は呆れ顔になった。
「……んなもんなんで大事に飾ってんだよ。アホらしい」
夕渚は、黙って口を歪めて皮肉げに笑う。見ていた秀海が、双方をたしなめた。
「本気にしちゃあいけません。もうッ、夕ちゃんてばなんでそうひねくれた言い方するのよ。ちゃんと値打ちもんですって言っとかないと、そのうち壊されちゃうかもよォ?」
「……強化ガラスだ。壊せるもんなら壊してみな」
平然として夕渚が返した。その次の瞬間、朝風の足がガラスに突っ込んだ。
ガッシャーンッ…………!!
足はたやすく下段のガラスを割って棚に突っ込み、はめこまれたガラスは粉々に、破片は内と外に散った。朝風は足を突っ込んだまま、静かに固まる。それは他のふたりも同様だ。やがて秀海がふーっと息を吐き、遠い目をしてつぶやく。
「……壊せちゃったわねェ」
そのまま立ち上がり、朝風の前にしゃがんだ。
「大丈夫? 朝風」
「あ……ああ。たぶん。ほら、ズボンなげぇし、靴が」
おそるおそる足を引き抜いてガラスを払う。秀海は掃除用具と袋を取ってガラスの破片を片付け始めた。黙ってそれを見ていた夕渚が、急に『ドン!』と机を叩いた。
「やりやがったな、てめぇッ……」
「なっ、なんだよ、急にッ!」
にらみつけられ、すごまれ、朝風は怯みながらも立ち向かう。
「強化ガラスって言ったよな? こんなん強化ガラスじゃねえ。あんた、だまされてたんだ。良かったな、わかって」
「アホウ。嘘に決まっているだろうが。ああ言っときゃ割れもせんガラスをわざわざ割ろうとする馬鹿はいないだろうから安全だと思ったんだ」
「ひでぇッ、おれをだましたのかよ!?」
「即座に試した奴が言うな。どうやら俺が思っていたよりずっとお前は馬鹿だったらしいな。一体いくらすると思ってるんだ。お前、払うつもりがあるんだろうな?」
「バッ、おれが払えねぇってことくらいあんたが一番よく知ってんじゃねぇか!」
「そうか? 俺はてめぇが支払える方法も知っているぞ? 教えてやろうか?」
低く笑い、目をすがめて朝風を見る。夕渚の深い笑みに、朝風はじりっと後退する。そして足元の秀海に目を移した。
「いらねえよ、支払いたくねーもんよぉ。なあー、秀海ぃー」
「知らないわよ、アタシは。本気でぶち破ったアンタが悪いんでしょーが。あたしにどうしろってゆーの!?」
「頼むっ、助けてくれっ!!」
「あー、もうッ。しょうのないコねェ。夕ちゃん、いくら?」
顔を上げて訊ねた秀海に、夕渚は真顔のまま『十万だ』と答えた。とたんに秀海の顔が引きつる。
「冗談でしょおッ? 誰がそんものに十万も払うのよ。バカにしないでよ。ぼったくりバーじゃあるまいしッ」
「それがもし買った者が馬鹿だという話なら、目の前にその『誰』がいるぞ。とくと見ろ。そのコレクションボードもアンティークだからな。お前たちには価値がわるまいが」
鼻で笑う夕渚の顔をしばし無言で眺め、秀海は隣でズボンや靴の中を必死に確かめている朝風をつついて、夕渚を指し示す。
「……朝風、いい? これがお坊ちゃん育ちのバカよ。とくとご覧なさい。『近くば寄って目にも見よ』、よ。観光バス通っちゃってもいいようなおバカさんよ。たかがガラスのケースに十万も払うのよ? でも中の物はもっと高いの。十万なんて鼻で笑っちゃうくらい。それなのに十万、たった十万、ほんの十万。それを新しく出すのは惜しむのよ? だいたい百万のアンティーク入れる棚に十万しか出さないケチよ。バカね。アンティークだなんだっていったって壊れちゃったらもうしょうがないじゃないの」
心が貧しいこと、と吐き捨てて秀海は背を向ける。朝風は呆気に取られてぽかんと赤い頭を見下ろす。忙しく手を動かす秀海のその背中に、声が投げられた。
「うるせえ。貧乏はてめぇのほうだ」
ぴくっと肩を震わせ、秀海は振り返る。
「うるさいわね、そっちこそ。どうせアタシは貧乏育ちよ。でも、だからこそ心は豊かだもの」
「なんだかんだとお前も出ししぶってるじゃないか」
「そりゃ……こんなケースに十万も払いたくないもの」
「たかが十万なんだろ?」
「そうよ。アナタにとっては」
ふたりの言い合いを、きょとんとして朝風は見守る。
「アタシにとってはそんなもの価値がないのよ。だから払いたくないの。……でも、だいたいアタシが壊したわけじゃないじゃないッ?」
憤然と吐く秀海におかしそうに含み笑いをして、上機嫌で夕渚は朝風に目を移し、面白そうに言い放つ。
「おい朝風。お前、見捨てられるらしいぞ」
「えっ、マジ!?」
呆然と突っ立っていた朝風は突然振られてすっとんきょうな声を上げ、次には声を落とした。
「っつーか、でもいいよ、秀海。サンキュ」
「いいええ、お役に立てませんで。……大丈夫?」
うなずき返し、朝風は夕渚に向き直る。
「おい夕渚、さっき払う方法があるって言ってたよな。なに?」
夕渚は腕を組み、ふんぞり返る。
「決まってるだろう? 肉体労働だ。お前、他になんの取り柄があると思っている?」
「ん? 料理……とか」
頭をかいてポツリと言った朝風に、夕渚はトントンと叩いてから椅子を九十度回転させ、横を向いて言った。
「役立たずめ。便所掃除。あと廊下と、事務所の床だな」
「うっげ、小学生の罰じゃん、そんなの」
「マジだ。毎日やれ。サボるんじゃないぞ。秀海、監視しろ」
有無を言わさぬ調子と斜めからのきつい視線に、秀海は不機嫌そうに鼻を鳴らして返す。
「やぁよ。アタシもそんなにヒマじゃないもの」
「お前以上に暇な奴はいない。サボるのは得意じゃなかったか、早坂先輩?」
「だからこそのヒマなのよ……でもまァ、いいわ。わかったわよ」
秀海は不貞腐れた投げやりな返事をして、ガラスの入った袋を持って、むっつりとした顔で出て行く。
夕渚は小さくの口の端をつり上げて、声を出さずに笑った。そして朝風を振り返る。身を乗り出して、机に肘をつき、組み合わせた手の上にあごを乗せ、機嫌良さそうに朝風を見ると、目を細めてうなずく。
「良かったな、朝風。事務所の床は広いからやりがいがあるだろう? 体も鍛えられて、心も鍛えられて、借金も返せる。ちゃんと与える金を計算して貯めるからな。十万いけば許してやろう。それまで、せいぜい頑張るんだな」
朝風は肩をすくめて訊く。
「普通のバイトしたほうが早いんじゃねぇの?」
朝風と同じように肩をすくめて夕渚は返す。
「黄色い頭は世間に出せんな」
「え? 何それ。染めろってこと?」
小型掃除機を手に戻ってきた秀海が朝風の後ろから口を出す。
「……アーサー、『ひよっこ』ってことよ。アナタ十四歳でしょう? ちゃんとおとなになるまでダメだって」
秀海はコレクションボードの前に座り込み、掃除機を動かす。ブゥーンと低くうなる掃除器を熱心に動かし、秀海は背後に向けて言う。
「夕ちゃんみたいに毛が真っ白になるまで待ちなさいよ。そうすりゃ立派な鶏として胸張って人前に出られるわ。誰かさんは引きこもりだけど」
掃除を切り上げて立った秀海は、フフッと静かに笑ってふたりの前を過ぎ、また部屋を出て行った。
朝風は黙りこくって夕渚を見る。物言いたげな目を向けられた夕渚は、顔をしかめた。
「見るな。俺はお前の将来の姿じゃねえ。ちくしょう、秀海め……」
「あんた、嫌われてんじゃねえか?」
「……だろうな」
そっぽを向いた夕渚は、煙草を取り出して火をつけた。
+++++
後日。
「へへっ、なんだかんだいって十万も払えちゃうおれの労働力って素晴らしくねぇ?」
モップを振り回しながら朝風は側の机に腰かけて眺めている秀海に訊ねる。秀海はため息を吐いて退屈そうに言った。
「十万くらい就職すりゃすぐに稼げるわよ。でもその代わり借金も大きなものになるけどね。社会に出るといろいろと」
秀海はもう一度、小さくため息を吐いた。
「でも……良かったわ。ちょっとは心配していたみたいで」
「はあ? 何が?」
「夕渚よ。あのコも人並みに他人の心配するのねェ」
しみじみと言って微笑む秀海に、朝風が訝しげに首を傾げる。
「どこが?」
「無事がわかるまで責めなかったでしょう?」
「ああ……」
朝風はうなずいて、顔に満面の笑みを浮かべた。片手を腰に当てて、気持ち良さそうに上を向く。
「そりゃまぁ、俺は可愛いからなっ!!」
言って振り上げたモップが、机にぶつかってバキッと折れた。
「……あらららら」
(終)