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番外編

『第3光線<緑>の章』





 一、罠……



 暗闇に導かれるように男は走っていた。
 家に帰らなければ。その焦りが、男を駅近くの華やいだ明かりから遠ざけ、ぽつんぽつんと立つ街灯がぼんやりと照らすだけの深夜の住宅街へと向かわせていた。
 不意に目の前に現れたトンネルに、男の足がすくむ。
 男はじりじりと後退して暗いトンネルの彼方にある出口を見据えた。そこは横に立つ街灯の光によって白くかすんで見える。
 トンネルの中は闇に閉ざされていた。まるで、別の空間につながるように。
 立ち止まって逡巡した後、男は暗闇の中へ飛び込んだ。自宅へ戻るにはトンネルの中を通らなければならない。迂回などしている場合ではなかった。男は追われていたのだ。
 追っているのは若い青年。十代と思しき幼さと勢いがまだ体中に残っている、これといって特徴のない『普通』の青年。美形といっていい整った顔立ちをしていたが、そんな相手はよく街中で見かける。今時の青年らしい退屈そうな様子と、そのくせ楽しんでいるようなつかめない雰囲気。だが、その青年にはそこに奇妙な落ち着きが加わっていた。切れ長の目、黒く冷たい瞳の持ち主。それでも、にぎやかな通りにいれば、青年は溶け込んでいただろう。男とはすれ違うだけだったに違いない。だが、男が青年と出会ったのはそんな場所ではなかった。
 そこは、殺人現場。
 男は青年が人を殺めているところを目撃した。そして、今の追いかけっこが始まったのだ。男にとって今や家だけが安息の地だった。
 暗いトンネルを抜ける。男は足を止めて荒い呼吸を整えた。弱い街灯の明かりとはいえ、光のもとに出たことにフッと気が抜ける。
 だが、再び顔を上げて男は凍りついた。
「ごくろうさま」
 すぐ、目の前にあの青年がいる。後ろを追ってきていたはずの、あの青年が。
 男は愕然としてその場を動けず、怯え震えて、青年を凝視する。青年は歩み寄りながら、ゆっくりと男に言葉を浴びせた。
「逃げなくてもいいんですよ。あなたがあの時間あそこを通るのを、こちらは知っていたんです。あらかじめ計算されていたことなんですよ。あれは、あなたのための殺人なんです」
 男の眼前で立ち止まり、体を優雅に折り曲げて顔を覗き込む。
「運命って信じますか? それを感じてくれるとありがたい。これは俺たちがあなたを選んで運んだものなんです。そして、そこにあなたもちゃんと乗っていただけるとありがたい……」
 青年の吐く息が首にかかり、蒸し暑いにも関わらず、男の背筋を冷たいものが走った。目を見開いて、浅い息を吐く。顔中から冷たい汗がふき出る。走ったことと汗とでずり落ちていた男の眼鏡を、青年の細い指が浮かせて取り上げた。
「ねえ、頭が良くなりたいと思ったことはありませんか? 人の上に立ちたいと思ったことは? 人に悩まされていることはないですか? 不平等で平等だということが常識なら、上に行けばいいんですよ」
 青年が眼鏡から手を放す。他に支えを持たなかった眼鏡は地面に向き、一瞬後に地面が割れた。コンクリートに眼鏡の形の穴が開いている。震えるまま、男は一部始終を見ていた。青年は地面からめり込んでいた眼鏡を取り出し、男の顔に戻した。眼鏡は形を変えずに男の顔にはまる。青年はうっすらと唇を歪めて笑った。
「神なら、ここにもいるんですよ」
 青年の手は、空をよぎる。そこには闇がある。
 自信に満ちた、食らい微笑。
「さあ、ついてきてもらえますか? これから始まる、新しい命のために」
 エスコートするように片手を伸ばし、青年は背を向けた。寸前、白い光が青年の服の表を撫で、そこについた黒いものを鮮やかに浮かび上がらせた。
 ……血だ。
 それだけでたやすく男の脳裏にその臭いが蘇る。そう、それは男にとって嗅ぎなれた臭い。医者である彼、戸田博には。
 本能が告げる危機。青年は敵だ。だが、青年にとって自分もまた敵ならば、そこに自分の命を保証するものは何もない。
 恐怖。
 そして、それ以外に抗いがたい魅力。
 前を歩き出した青年の後をついて、戸田もまた、ゆっくりと歩き出した。



(続)
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