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セブンズレイ

『神経衰弱』





 水のにおいを含んだ湿った空気を胸に吸い込む。
 雨はまだ降り出してはいない。だんだんと暗くなり出した空が、しかし確実にその訪れを告げている。
 秀海は立ち止まってその空を振り仰いだ。
 足の動きとともに揺らされていたビニール袋のガサガサうるさい音が止み、隣を歩いていた鳩丸が振り向く。そして、止まっている秀海に気付いた。
「秀海さん、何してるんですか? 帰りますよ」
 親がこどもを注意するような、大人びた口調。それでも秀海は怒りもせずに、静かに空を指差す。
「雨。……降りそうね」
「ああ……」
 鳩丸は合点がいったというように、何度もうなずく。
「確かに、そうですね。今にも降りそうです。……秀海さん、また当たりですか?」
 問いかけられた秀海は、鳩丸のほうを向き、首を傾げた。
「そうねェ……これでもうすぐ雨が降るでしょ? そしたらね、アタシは雨の中を出かけなくちゃいけない……そして道路を歩いていたら車が水をはねて飛ばしてアタシの服にかかるの。それでアタシ、今日は傘をなくわ。……嫌ァね。なるだけ防ぐつもりだけど……服は気に入らないの着ていけばいいし、傘もビニール傘持ってくつもり。それに今だって、無事に帰りつく前に雨が降り出すわ。洗濯物は干さないほうがいいと思って干してきてないけど……でも、嫌ァね」
 うんざりと重いため息を吐いて、首を振る。
 秀海をじーっと見ていた鳩丸は、空を見上げる。どんよりとした空。昨日の晴天が嘘のよう。
「秀海さんは……昨日から、『今日は雨になる』とおっしゃっていましたね」
「だってそんな気がしたんですもの」
 小さく肩をすくめて歩き出す。すぐに鳩丸の横に並び、ふたりは揃って歩き出した。
「アタシのこのテのカンって当たるのよォ。……いえ、『予知』かしら? 物とかに触れるとね、パッと浮かぶの。『もうじき雨が降る』とか、『これがなくなる』とか。昨日も庭でお花見てたら雨が近いうちに降ると思ったの。傘はね、もうちょっと前に、『あ、なくなるな』って思ったんだけど、傘をなくすのって雨の日以外になさそうじゃない?」
 鳩丸に合わせてゆっくり歩きながら秀海は話す。こちらは速足でスタスタと歩く鳩丸が、訝しげな目を向けた。
「……そうですね」
 間が空いた後、結局鳩丸は同意して視線を外す。じっと鳩丸の言葉を待っていた秀海はムッと眉根を寄せた。
「わかってるわよゥ。雨はいつか降るものだし、物はいつかなくなるものだって言いたいんでしょう? でもね、そういう出来事が起きるタイミングとか、それによる被害とか、少しだけ細かくわかるのよ。それでかろうじて最悪は免れるの。まァ、それでもやっぱり、形が違えど起こることは起こるんだけどね。たとえば……地震が起こるのは防げないけど、それによって死ぬのは避けられるかも。……って、聞いてるの? 鳩丸」
 ぼーっとしていた鳩丸は、名前を呼ばれてビクッと顔をあげる。
「えっ? ああ、はい。まあ……」
「聞いてないじゃない」
「いえ、そんなことはありません。ただ……」
 言いかけて口ごもり、目線を外す。
「ただ、なァに?」
 問い詰める秀海に、鳩丸は少しためらった後、小さく声に出す。
「……ビニール傘を持っていけば、間違いなくとられますよ」
 秀海はプッと笑った。
「やァだ。それ、だいぶん前の話じゃない。アナタ、いつからアタシの話聞いてないのよォ?」
「聞いてましたよ!」
 からかいの調子を含んだ声を怒声で遮り、鳩丸は真っ赤になってあたふたと言葉を続けた。
「すいません、秀海さん。本当に聞いていたんですよ。ですが、あまりに非常識なもので……ああ! すいません!」
「アンタそれわざと?」
 秀海の声音が一気に低くなる。鳩丸はさらに謝った。
「失言でした。申し訳ありません」
 ペコペコ頭を下げてうなだれる鳩丸に、秀海は微笑んだ。
「いいのよ。すぐに本気にとって、いいコよねェ、アナタって。かげで馬鹿にされるよりよっぽどマシだわ。多いのよ、そういうことって。そのくせそれが表に出るのはサイアク。最初から出しているほうが正直でいいと思うわ。……そうねェ、アタシも非常識だと思うわ。非常識でいいわよねェ」
 うっとりとため息を吐く。
「そうですか?」
 鳩丸は不思議そうに問いかける。
「そうよォ。だってね、普通じゃないってことに、驚きがあるじゃない? 新鮮でしょ? そういうもののほうが、感謝に実感がこもる。……それが大事なのよ」
「はあ……」
 鳩丸は複雑な表情で相槌を打つ。
「大事なのはね、当たるかどうかじゃない。それが役に立つかどうかなの」
 秀海は灰色から黒く変わりつつある空を見上げる。
「占いとかでもそうだけどね、いいことだけ信じるって人がいる。だけど、人生には悪いことだって起きるのに、いいことだけ信じるなんてできない。大事なのは、それが今自分が必要としている助言かどうか。心に留めておくべき言葉かどうか。たとえば、『アナタは怒りっぽいので、今日一日は怒らないようにしてください』なんて占いが出たとするわね。それを読んだ人は、自分は怒りっぽくないから外れだ、って思うかもしれない。でも、誰にとってもむやみに怒らないことはいいことだわ」
「詐欺ですね」
 秀海はクックッと肩を揺らして笑う。
「アタシだったらもっと教訓っぽい言葉を使うわね。そうねェ、『他人の為した行いはアナタとの間にある』とか、『怒りが生むのは憎しみだけである』とか。基本的には、考え方次第で、全部いいもののはずなのよ、助言って。本当に悪いのは、それで二次的にお金をだまし取ろうとするエセ占い師くらい」
「はあ……」
 それでも納得いかないというふうに、小首を傾げる鳩丸。秀海は苦笑して、『おみくじで失せ物が見つからないなら諦めましょうぐらいの心持ちかしら?』と告げる。
「でも、それじゃ意味ないじゃないですか」
「どうして? あるわよ。たとえば今なら、小走りで帰るとかね!」
 言うなり、駆け出した。
「待ってください、秀海さん!」
 鳩丸が慌てて後を追いかける。



 ザァァァ……
 窓の前に立ち、額をくっつけて外を眺める。
「やっぱり降ってきたわね」
 灰色に染まった景色の中、石畳が濡れて光っている。せっかくの雨も、紫陽花が咲くにはまだ早い頃。庭には色がなく、味気なく、寂しかった。
「明日も雨よ」
 振り向いて、居間のテーブルの前にきちんと正座して宿題をやっている鳩丸に告げる。
「カンですか」
 顔を上げた鳩丸は、鋭い一瞥をくれた。
「いいえ。天気予報で言ってたわ」
 軽く肩をすくめて否定する。鳩丸はじっと視線を秀海に据えて、物言いたげだ。視線を浴びたまま、無言で秀海は歩み寄り、鳩丸の向かいに座る。
「本当は夜までに止んでくれるとありがたいんだけど。でも、これは迷信みたいなものなんだけど、お昼に降りだした雨ってなかなか止まないのよねェ。困っちゃうわ」
「……はぁ」
 ぽかんと口を開けて相槌を打ち、鳩丸は視線を窓の外に移す。
 しとしとと、勢いは弱く、しかし降り注ぐ雨は、止む気配を見せない。
 秀海がうつむき、深いため息を吐いた。
 じーっと窓の外を見ていた鳩丸は、パタン、と教科書とノートを閉じ、立ち上がった。
「僕、雨を止ませてきます」
 きっぱりと宣言して歩き出す。
「えっ……えええっ?」
 すっとんきょうな声を上げ、秀海は慌てて立ち上がり、鳩丸を追った。
「ちょっと待ちなさいよ。何言ってるの? どうしたのよォ?」
 袖をつかんで止める。鳩丸はそれを振り払い、決然と言った。
「秀海さんは、雨が止んでほしいんでしょう? なんとかします」
「なんともならないわよ、バカね!」
 ドタドタドタと足音を家中に響かせ、ふたりは玄関へと向かう。鳩丸はドアを開けると、一歩出て立ち止まった。秀海も後から横に並ぶ。
「……ほらーァ、降ってるわよーぅ」
「大丈夫です。止みます」
 鳩丸は自信たっぷりに言って、空をにらむ。強情なその様子に、秀海は、ふう、とため息を吐いた。
「だからどうやって?」
「僕の念力で」
 鳩丸は即座に答えた。その顔はしごく真面目だ。秀海はプッとふき出した。
「……アナタ、念力なんて使えたの?」
 ギロッと三白眼が向けられる。
「秀海さんの言った通り、本当に雨が降りました。だったら、僕が雨を止ませたっておかしくありません」
 そして鳩丸は空を見上げる。手を広げるわけでもなく、呪文を唱えるわけでもなく。ただ黙って、じっと空を見上げる。
 秀海はしばらく黙って隣に立ち、同じようにしていたが、やがてポリポリと頭をかいて言った。
「……あのねェ、ありがたいんだけどねェ、やっぱりちょっと無理じゃないかしら。正直に言えば、実はアタシ、わりとそのテのことって信じてンだけど……でもねェ?」
 ポン、と、いまだ熱心に空を見つめる鳩丸の肩を叩く。
「アナタがそこまですることないのよ」
 ぐるりと正面を向かせて、秀海はその場にしゃがみこんだ。そうすると、ちょうど鳩丸と目が合う高さになる。
 鳩丸は目の前の顔を見つめ、眉をひそめた。
「だって、嫌なことばっかり当たったら嫌じゃないですか」
 秀海はそっと、やさしくその頭を撫でる。
「だから、当たる当たらないじゃないんだってば。わかるだけなのよ」
「……」
 サァァー……
 雨の音が遠く近く響く。
 鳩丸は秀海の目をひたと見つめる。どんなごまかしも通じないように。だが、秀海は表情を買えずに微笑んでいる。
 鳩丸はやがてあきらめたようにポツリと言った。
「……でも、つらいでしょう」
 秀海はにっこり笑って、鳩丸の頭をぐしゃぐしゃにかき回す。
「対処法は五万とあるわ。たとえば、出かけるのをやめて今日はずっと家にいるとか、ね?」
 立ち上がり、鳩丸の肩を押して家の中へ導く。
 素直にそれに従いながら、鳩丸は物言いたげに秀海の顔を見つめたままだった。その肩を抱いて、秀海は強引に引きずる。
「ほらほら、冷たくなっちゃったじゃないの。今の時期は風邪をひきやすいんだから、油断しちゃダメよォ?」
 居間に引っ張っていき、ソファからひざ掛けを持ってきて鳩丸の肩に被せる。
「あ、……ありがとうございます」
「うん」
 秀海は微笑んで、窓を振り返る。
「本当はアタシ、雨は大好きなのよ」
「……は」
「だって、いろいろとサボれるデショ?」
 窓の外は雨。
 天からバラバラに落ちる水滴が、自然の楽器を鳴らして、素晴らしい音楽を奏でる。
 そんな日の、小さな出来事。



(終)
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