魔法使いのおばあさん
おばあさん、というのは、どういう人だと思いますか? 鬼でも、魔法使いでもない、普通のおばあさんです。きっと、おしゃべりが大好きで、いつもなにかしら気にかけていて、少し頑固で、ちょっと口うるさい。それで、あったかい手をしている。そんな人がみんなのおばあさんでしょう。
進人(しんと)くんが出会ったのも、そんな普通のおばあさんでした。でも、進人くんは『おばあさん』を知らなかったので、黒い毛糸のショールをはおり、公園にひとりっきりでベンチに座って編み物をしているそのおばあさんのことを、お話に出てくる魔女のように不思議な力を持つ人だと思ったのです。そんなわけがない、とたくさんの人が思うでしょう。不思議な力を持つおばあさんなんて、と笑うでしょう。でも、それは本当なんです。だって進人くんには、普通の人と同じはずのそのおばあさんが、不思議な力を持っているように見えたのです。それが、不思議な力でなくてなんでしょう。
進人くんがおばあさんに初めて会ったのは、弟の益人(ますと)くんと一緒に家に帰る途中、近道のために横切った公園でした。進人くんは、お母さんが働いていて忙しいので、いつも代わりに益人くんを小学校の帰りに幼稚園まで迎えに行って、一緒に家に帰っていました。その日も益人くんを連れて家に帰る途中だったのです。進人くんたちは、学校に行くときには公園の外を歩きますが、帰るときは近道半分、散歩半分、公園の中を通ります。
ある日突然でした。いつものベンチに見慣れないおばあさんが座っていたのです。進人くんの日常にはなかったことなんです。空の色に淡いオレンジが重なりはじめた夕暮れ時、ひとりベンチに座って、せっせと編み物をするおばあさんなんて。
進人くんは、お父さんのお母さんにも、お母さんのお母さんにも、ニ、三回しか会ったことがありません。遠くに住んでいるからです。進人くんのおばあさんたちは、いつも家の中にいました。夕方になってから外に出たりはしません。おばあさんのかわいた温かい手は、進人くんの頭を撫でたり、お菓子やお金を渡してくれたりしました。おばあさんはいつもニコニコして、おじいさんやお父さんやお母さんや進人くんや益人くんに囲まれて笑顔です。
ところが、公園にいるそのおばあさんは、ひとりぼっちです。側には誰もいません。お友達も、おじいさんも、家族のひとりも。ひとりぼっちで、ポツンとベンチに腰掛けています。そろそろ日が沈みはじめているというのに、ベンチから動こうとせず、夢中で編み物をしています。その手の、なんと器用なこと。すごい速さで編み棒が動いていて、見る間に毛糸から形になっていきます。まるで、編み棒がひとりでに動いているようです。おばあさんは、怖いくらいに真剣な表情です。長く黒い毛糸のショールが、風に重たく揺れています。魔法のように編み棒は踊り、煙りのように毛糸は動き、編み棒を操るその手の動きは、まるで魔女が呪文をかけているよう。
進人くんはおばあさんを見た瞬間、ドキッとしました。黒いショールのおばあさんと、夕焼け空のしま模様のオレンジと、枯葉を躍らせる冷たい風とは、無関係ではないように思われました。頭の中には、昔読んだ外国の絵本の魔女がよみがえります。魔女、かもしれない。そう思って、進人くんの体はふるえました。
その時の進人くんは、ゆっくりと歩きながらおばあさんの様子を見ていました。弟の益人くんの話はまったく聞いていませんでした。おばあさんは公園の出口の側のベンチに座っていたので、だんだんと進人くんはおばあさんに近くなっていきました。
急に、進人くんは立ち止まりました。なんとなく、そのおばあさんの側を通るのが怖くなったのです。益人くんには、進人くんが立ち止まったわけがわからないらしく、不思議そうに「どうしたの、お兄ちゃん」と聞きます。進人くんはおばあさんに聞かれないようにと小さな声で「あのおばあさん、ちょっとあやしくない? なんだか魔女みたいな」と、益人くんに言いました。益人くんはきょとんとして、おばあさんのほうを見ると、笑って「魔女なんていないって先生言ってたよ」と大きな声で言いました。その声が聞こえたのか、おばあさんが顔を上げました。ドキドキして見ていた進人くんと目が合いました。進人くんは恥ずかしさから真っ赤になって、速足でおばあさんの横を通り過ぎて公園を出ていきました。
それからは、公園におばあさんがいない人はありませんでした。いつから来て、いつ帰るのか、進人くんは知りませんでした。朝、進人くんが学校に行くときにはまだいません。でも、帰るときには必ず、公園の中のいつものベンチに座って編み物をする姿があります。
一度、進人くんが遊びで帰りが遅くなったときにも、おばあさんはまだそこにいました。季節は冬にむかうところ、おばあさんはショールをはおっているだけでした。コートもなく、とても寒そうです。進人くんはそれが気になったものの、いつものようにおばあさんの顔を見ずに早足で通り過ぎようとしました。と、そのとき、おばあさんがくしゃみをしたのです。進人くんは思わず立ち止まって、おばあさんの顔を見てしまいました。すると、顔を上げたおばあさんと目が合ったのです。
おばあさんは鼻をすすって進人くんの顔をじいっと見ました。だから進人くんはズボンのポケットからティッシュを取り出して、おばあさんに渡したのです。「どうぞ」と言うと、おばあさんはとても嬉しそうな顔をして、「どうも」と言いました。鼻をチーンとかみながら、おばさんはしゃべります。
「最近はねぇ、年寄りになったから街で配ってるティッシュももらえなくってねえ。邪魔になってるだけなんだよ。どこにいてもね」
顔を上げて進人くんを見ました。
「公園なんかが似合うんだってさ」
そして進人くんにポケットティッシュの残りを差し出したので、進人くんは首を振りました。
「もらっていいです」
小声で言うと、おばあさんはにかっと笑いました。
「ありがとう。あんたはえらい子だね。いつもそう思って見てたよ。弟の面倒をよくみているねぇ」
進人くんは恥ずかしくなってペコリと頭を下げると、駆け出しました。公園をはなれても、まだ胸はドキドキして、なんだかわくわくしています。おばあさんが不思議な魔法をかけたんだ、と進人くんは嬉しく思いました。
それから少し経ったある日、進人くんの家に白いうさぎがやって来ました。ペットを欲しがっていた益人くんのために、両親がもらってきたものです。それまで進人くんもずっとうさぎが飼いたいと思っていたので、最初は大喜びでした。ところが、益人くんが『ぼくがお願いしてもらってきたんだから』と言って、ちっとも触らせてくれません。そのうえ、『ぼくはうさぎのお兄ちゃんになったんだ』と、益人くんは急にいばり出しました。当然、進人くんには面白くありません。兄弟ゲンカがしょっちゅうになりました。
そんなことが続いて、進人くんはとうとうある日、弟を幼稚園に迎えに行かずにひとりで帰ることにしました。お母さんに怒られるのは嫌だと思いましたが、益人くんと一緒に帰るほうが嫌だったのです。ただ、進人くんは、ひとりで帰るのをおばあさんに見られるのも嫌でした。しかし、やっぱり公園にはおばあさんがいました。しょんぼりと歩く進人くんに、おばあさんは「弟くんはどうしたの?」と不思議そうに尋ねました。進人くんは、「あいつはうさぎの兄ちゃんになったんだからもう一緒に帰ってやんなくても大丈夫なんだよ!」と大声で言いました。益人くんのことでいらいらしていたのです。おばあさんが悪いわけではありません。でも、進人くんは、そんなことを言うおばあさんのことも嫌いだと思いました。
その日は、お母さんにも怒られ、お父さんにも『お兄ちゃんなのに』と叱られ、さんざんでした。進人くんは、弟がいるからとずっと我慢していたわがままを、お母さんに言ってみました。『自分もペットが欲しい』と。お母さんは困った顔で、『もう一匹いるんだからいいじゃない』と言いました。進人くんには、それが自分と弟のことのように聞こえたのです。
弟のほうがかわいいんだ、そう思った進人くんは、夜中にこっそり家を出ました。怖かったので、いつも歩く道を歩いて、公園に出ました。なんとなく、そんな気分だったのです。
公園におばあさんがいるのを見た時、進人くんはハッとしました。月明かりの代わりにほの白い電灯の光を浴び、おばあさんはベンチに座っていました。いつもの黒いショールはありません。でも編み棒は動かしています。そのひざには、黒いかたまりが見えます。近づくと、それはうずくまった小さな黒いうさぎでした。ぴんと耳を立てて丸くなっています。思わず進人くんはベンチに駆け寄りました。
「おばあさん!」
おばあさんは進人くんを見て、にっこり笑ったあと、怖い顔をしました。
「こんな遅くに家を出るなんて危ないよ」
進人くんはまた怒られたので、来なければ良かった、と思いました。そんな進人くんに、おばさんは手招きをして言いました。
「あんたを待ってたんだよ。もっとこっちにおいで。本当は明日会ったときに渡そうと思っていたんだけどね……。もうすぐ出来上がるからね」
近づくと、編み棒の先から出た糸は、黒いうさぎとつながっていました。
「今、足を作っているんだよ」
おばあさんは下を向いたまま、微笑みました。それはまるで、膝の上の黒いうさぎに向かって微笑みかけたように見えました。それは温かい笑顔で、うさぎが生きているようでした。けれども、いくら本物そっくりでも、進人くんにもにせものだとわかります。
「ぼく、本物のほうがいいな」
進人くんがぽつりと言うと、おばあさんは大きく笑いました。
「そりゃそうさ」
そしてうつむき、くるくると編み棒を手で動かしながら、のんびりと話します。
「なんでも本物のほうがいいよ。作り物のうさぎより生きているうさぎ。嘘の兄弟より本物の兄弟。なんでも嘘より、本当のほうがいい。本当のことのほうが、ずっと大事だからね」
ずっと、と、おばあさんはそこのところでうなずきました。
「……人間がうさぎのお兄ちゃんになるのも無理だよ」
ぼんやりとおばあさんの話を聞いていた進人くんは、ハッとしておばあさんの顔を見ました。
「弟だってさ、あんたのお兄ちゃんにはなれないもんねぇ、どんなにがんばっても。うさぎだってね、ちゃんと面倒みてかわいがってくれる人のことしか、心に残らない」
静かに話すおばあさんの手は動き続けて、うさぎのかわいい小さな片足ができてきました。
進人くんは、弟の益人くんとうさぎのことを考えました。かわいがるだけじゃなく、誰かが面倒をみなくてはなりません。益人くんができないとき、それはお母さんがしています。けれども、進人くんはしたことがありません。ただ、遊びたかっただけなのです。
うさぎは進人くんになついていません。だから、仲の良い益人くんとうさぎが、進人くんはうらやましかったのです。
おばあさんの手がゆっくりになっていきます。
「今の自分の居場所はね、今の自分のものしかないんだよ。それが嫌なら、自分で作っていくしかないんだ……」
おばあさんの手の動きが小さくなりました。細かいところを編んでいます。そして、手を止めました。
「あんたは、どこに行くつもりで出てきたんだい? ん?」
首を傾げて見つめられて、進人くんは困ってうつむきました。
おばあさんの手が再び動きます。
「……今どきねぇ、兄弟がいるだけでも幸せなんだよ。困ったことがあったら体で支えあえる。迷惑をかけるのも、かけられるのも、おーんなじ」
ひとりでこっくりこっくりうなずきながら話して、おばあさんは編み棒を置くと、スカートのポケットからハサミを取り出し、糸を切りました。
うさぎが完成したのです。
おばあさんはそれをそっと進人くんに差し出しました。
「ちゃんと弟の面倒をみたり、うさぎの世話を手伝ったり、しっかりしたところをお母さんたちに見せてごらん。きっと、本物のうさぎが二匹になるよ。それまで、これで我慢我慢」
進人くんは、遠くで『進人ーっ』と名前を呼ぶ声がすることに気付きました。お母さんの声です。だんだんと近づいてきます。心配して探しているのでしょう、進人くんにもそれがわかりました。
進人くんはおばあさんからうさぎを受け取りました。
「ありがとう、おばあさん」
お礼を言って、声のするほうに体を向けます。早くお母さんのところに行って、安心させてあげようと進人くんは思ったのです。
後ろで、おばあさんの声が聞こえます。
「うさぎも一匹じゃ寂しい。人間も、ひとりじゃ寂しいんだってことを、忘れちゃいけないよ……」
進人くんが振り向くと、おばあさんが目を細めて微笑んでいました。
進人くんは不思議な気持ちでそれを見ました。おばあさんが、普通のおばあさんに見えたのです。
小さな、小さな、普通のおばあさん。
「おばあちゃん、ありがとう」
もう一度頭を下げて、後ろを気にしながら、進人くんは自分を探しているお母さんのところへ急ぎました。
黒いうさぎのぬいぐるみを抱えて。
冷たい夜の風を受けながら、進人くんは走ります。お母さんのところへ。
お母さんは進人くんがいないことにちゃんと気がついて、さがしてくれました。それが進人くんにとって、とても大事なことだったのです。
お母さんは進人くんを迎えに来たのです。
夜風が冷たくて寒かったけれど、進人くんの体は熱く、寒さと暑さで、頬が真っ赤になりました。
一生懸命に走る進人くんの心の中に、黒いショールをはおっていないおばあさんの姿が浮かびました。
あのショールが、魔法の正体だったのでしょうか。
進人くんには、黒いうさぎが、おばあさんのショールでできたものだとわかったのです。
腕の中のうさぎは、とても温かかったからです。
進人くんは、お母さんとお父さんに迎えられて家に戻りました。
ショールをなくしたおばあさんは、きっとティッシュがたくさん必要になるに違いありません。進人くんはそう思い、明日たくさんティッシュを持っていこうと決めました。
(おわり)
1/1ページ