お題会第11回「涙」
「間に合わなかったな」
遠くから聞こえる雷鳴とぽつぽつと振り出した雨に急いでキャンプ用具を片付けた所で、時すでに遅し。
どんよりと曇った雲が空を覆い、小雨から本降りになるまでものの数分だった。
なんとかキャンプ用品を片付け終え、ポケモンの技かなにかでできた岩の窪みに避難する。
地面を打ち付ける強い横殴りの雨。時々吹く風が岩陰の中にまで雨水を浸透させる。
少々の雨なら弾くこのパーカーのお陰で上半身は濡れずに済んだ。
けれどもユウリの服は雨水を吸って濡れている。風は降り始める前よりも冷たく、濡れた体を冷やしていく。
コータスを出そうにも、二人で精いっぱいの窪みにはスペースがない。
「ユウリ、着替え持ってるか?」
「確かバッグの中に1セットあったと思います」
「よし、なら家まで走るぞ」
幸い、今日はナックルシティの入り口付近の丘でキャンプをしていた。
普段なら走れば15分ほどの距離。いつまでもここにいるよりはマシだろう。
ぐっしょりと濡れたカーディガンの上からとてもサイズの合わないパーカーを着せ、細い手首を握る。
意を決して窪みを出ると横殴りの雨が素肌に打ち付ける。
冷たい雨に一気に体が冷えていくようだった。
ポケモンたちも姿を潜め、襲われる心配はないようだ。
途中、何度か振り返ってユウリの手を離さないように掴み直し、ぬかるんだ地面に二人そろって足を取られながら走って城門を目指す。
ようやく潜った城門を超えても、雨の強さは変わらなかった。
慌てて商品をしまい込む店の人々を横目に一直線にマンションへと走る。
靴の中まで水浸しで踏み込む度に湿った感触が心地悪い。
きっとユウリの靴も同じように濡れてしまってしばらく乾かないだろう。
坂道を登ってようやく見えてきたマンションまで走り続けてエントランスの扉を開ける。
髪からは雨水がしたたり、ユニフォームは水が張り付いて気持ちが悪かった。
エレベーターへの通路も、エレベーターの中も、廊下も全てが雨水で濡れていた。
同じように雨に降られてずぶ濡れの住人が通ったのだろう。
始終無言のままだったユウリがお邪魔します、と小さく呟いた。
パーカーを被っていても、サイズが大きすぎるせいであまり雨よけの意味はなかったらしい。
ユウリの髪も服も靴も、同じようにずぶ濡れだった。
「すぐそこ、洗面所だから。先にシャワー浴びてこいよ」
「でも、キバナさんの方が濡れてますよ?」
「オレはいいから。服は全部洗濯機に入れておいて」
でも、とまだ遠慮する彼女を洗面所に押しやって、リビングへと向かう。
濡れた体の水滴を軽くふき取って大急ぎでリビングを片付けた。
散らばった書類、開きっぱなしのノートパソコン、出しっぱなしのマグカップ。
乾いた洗濯ものはとりあえず寝室のベッドの上に放る。
男の一人暮らしなんてどこも似たようなものだろうが、それでも少しは小綺麗な状態にしておきたいという悪あがき。
一通り片付けた所で、床の水滴をタオルで拭って廊下へ戻る。
ガタン、と浴室のドアが開く音がした。
「あの、キバナさんいますか?」
「いるよ」
「あの、服が全部濡れてて…何か着るもの貸してもらえますか?」
「探してくる」
ペタペタと素足で歩く音がリビングに響く。
冷たいとか気持ちが悪いとか、そんなのはどうでもよかった。
ユウリの着れる服などあっただろうか。
クローゼットやクリアケースを開いて、漁るように探す。
よくドラマや漫画では彼氏のTシャツを着て、なんてシーンがあったりするが、現実問題手持ちの服では下半身まで隠しきれない。
何か丈の長い服を、と探したところで出てくるものは皆似たような丈だ。
とてもじゃないが隠すことはできない。
とりあえず肌着替わりの新品のTシャツをクリアケースから取り出してそれだけでも持っていこうかと思った矢先、クローゼットに引っかかっていたロングカーディガンが目に入った。
前を紐で結ぶタイプのもので、クリーニングに出して以来ずっと閉まっていたものだ。
それも手に取って洗面所のドアをノックするとほんの僅かに内側から開けられた。
ドアとは反対の方に視線を向けて服を手渡す。
小さな声で礼を言ったユウリがドアを閉めたのを確認して思わず壁に寄りかかってしゃがみこんだ。
冷え切った体は思考までも奪うようだった。
今がどんな状況なのか、頭の整理が追い付かない。
色々と誤算がありすぎて、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
ぼんやりとヌメルゴンかつけた壁のシミを見続けていると、洗面所の扉が開いた。
「あの、ありがとうございます」
グレーのロングカーディガンを羽織った彼女の髪はまだ濡れたままタオルに包んでいるようだ。
そういえばドライヤーの場所を教えていなかったなと思い出して引き出しから取り出して渡す。
「じゃあ、オレ浴びてくるから。リビングでゆっくりしてて」
こくりと頷いた彼女はリビングへと消えていく。
濡れた服を脱いでドラム式の洗濯機を開けると、先ほどまでユウリが来ていた服が入っている。
当然と言えば当然なのだが、一緒に洗濯をすることを躊躇われて、とりあえず、自分のものは洗濯籠の中へと放る。
シャワーコックを捻って熱い湯を頭から浴びると、幾分か思考が戻ってきた。
どうにも、今の状態はまずい。
すれ違ったときに感じた、シャンプーの匂い。
カーディガンから伸びた素足。
どれもこれもが刺激物となっていた。
ユウリと付き合ってまだ一か月。まだ何もしていないし、急ぐつもりもなかった。
なかったけれども。
この状況でどこまで我慢ができるのだろうと甚だ疑問だった。
これは不可抗力だと自分自身に言い聞かせ、浴室を出る。
部屋着に着替えると、ゆったりとした気分になってきて、もはや何もかもがどうでもよくなった。
「あ、すみません。勝手にキッチン使いました」
大急ぎで片付けたテーブルの上にはマグカップが二つ、白い湯気を立てている。
「ああ、ありがと」
ソファーの隅で小さくなっている彼女同様に、スペースはたっぷり余っているのに端に座ってコーヒーを一口啜る。
何とも言えない緊張感の中、会話は弾まない。
「今洗濯回してきたから。乾くまで三時間くらいかかるかも」
時計を見て驚愕する。
時刻は18時を回っていた。
そろそろ日が暮れるからと帰り支度を始めて、雨雲に気づいて大急ぎで片付けたのが16時半。
それから少しの間雨宿りをして、走って家に着いたのが恐らく17時を過ぎた頃。
風呂を済ませて今が18時すぎ。
乾燥が終わるのがだいたい21時で、そこからシュートシティまで帰宅したらもう深夜だ。
雨の止む気配もない。
それどころか窓を叩きつける雨音は先ほどよりも酷くなっているようだし、風も出てきてシンと静まり返った部屋にガタガタと窓を揺らす音が響いている。
「…泊ってく、か?」
大きく見開かれた目と視線が合った。
「オレさまが、ソファーで寝るからさ。帰ったら遅くなるだろ。タクシーも飛べるかわかんないし」
「そう、ですね」
視線を逸らして、昔、フライゴンがまだナックラーだったころに悪戯をして齧ったテーブルの脚を眺める。
ティーンでもあるまいし、何を緊張しているというのか。
今更、同じ空間にいたからとて緊張する仲でもないというのに。
ゴロゴロと地を這うような雷鳴が聞こえ、一筋の光が走った。
瞬間、破裂音のような低くて耳障りな音が響く。
「きゃぁ!」
一瞬、部屋の照明が点滅する。咄嗟にソファから立ち上がると、ユウリは頭を抱え、ガタガタと震えていた。
「かみなり…ダメ、なんです」
最近は笑顔を見せるようになった彼女が、ガタガタと震えるさまに胸を締め付けられる。
「ヌメルゴンのかみなりは平気だよな?」
「ポケモンの技は大丈夫です。でも、苦手で」
今度は距離を縮めて座って、そっと腕を伸ばす。
一瞬体が震えた。
「…いやか?」
抱えた膝に顔を埋めたまま、ユウリは首を横に振った。
次第に力の抜けていく体を支えて安堵を促すように柔く撫でる。
その後も何度か続いた雷鳴に、その度に彼女は体を震わせた。
数十分が経つと雨雲は流れていったのか、窓の外が静かになっていく。
「少しマシになったか」
ようやく顔を上げたユウリの頬には涙の跡があった。
ぐすっと彼女が鼻を啜る。
「子供でもないのに…恥ずかしい」
その頭をわしわしと撫でると今度は楽しそうに悲鳴を上げた。
「腹、空いたろ。確か冷凍庫にピザとパスタと…」
キッチンへ向かうと、ユウリは後ろをついてきた。
冷凍庫の中から何種類かのパスタとピザを取り出して、シンクの前に広げる。
「どれにする?」
前もって来ることがわかっていれば、デリバリーを頼むこともできたのに、と後悔をしたところで現状は変わらない。
今ある食料といったら、冷凍かきのみか、インスタントラーメンくらいだ。
自炊もしようと思えばできるけれど、一人暮らしで多忙な身としては夕飯に労力を割く時間も体力もない。
そこそこ栄養が取れて極端にジャンキーなものでなければいいかと思っている。
「じゃあ、和風醤油で」
「ピザは?どっちにする?」
「んー…マルゲリータ」
そこそこ解凍に時間のかかるそれを電子レンジに入れて、待つこと数分。
どうにも、居心地が悪い。
あれだけ一緒に過ごしていたというのに、今は何をしゃべればいいかもわからない。
ただ無言で解凍されていく様子を眺めるばかりだ。
「あの、キバナさん。今日は、ありがとうございます。お風呂も、服も、ご飯も。それから泊めてもらって」
「仕方ないさ。この雨じゃ、な」
いそいそと二人でテーブルまで温まった料理を運ぶ。
どうやら彼女は落ち着いたようだ。
「なんだか、おうちでこうやって誰かと食べるの、久しぶりだな」
「マリィとか泊りにきたりは?」
「たまに。お互い忙しくてなかなか泊まったりできなくて」
「ごめんな、こんなのしかなくて」
「作ったりはしないんですか?」
「前はしてたけど。一人分作るってなかなか面倒なんだよな」
「じゃあ、今度作りましょうか?」
危うくフォークを落としそうになった。
どうやら彼女はまた来てくれるつもりらしい。
「食べたいな、ユウリの料理」
「何か食べたいものあれば言ってくださいね」
パスタの味も、ピザの味も何も感じなかった。
素直に嬉しい。けれど、頭の片隅にはまだ聞けていない言葉があった。
それを伝えていいものなのだろうか。
どちらにしても、食事中に話す内容ではない。
今日のキャンプの話や、手持ちたちのこと。
彼女の口から紡がれるのは、日常のことよりポケモンたちのことばかりだ。
生粋のポケモンばか。トレーナーなのだから当たり前のことではあるけれど、こうも彼女の生活背景が見えないのもまた、もどかしい。
空になったトレーを片付けて、再び間を開けてソファに腰掛ける。
さて、この思いをどうやって尋ねたらいいだろうかとマグカップの中のコーヒーを揺らして弄ぶ。
一か月前、うっかり告白をして、彼女は受け入れてくれた。
けれどまだそれが友人としての好きなのか、恋なのかはわからないという。
二年の月日がそう簡単に消えるとは思わない。
保留にしなかったのは彼女が心の拠り所を探していたからかもしれない。
それでも全く、構わない。三年前、もう自分の手の中に入ることは一生ないのだと思ったから。
それが、どうしてこうなったのか。いまだによくわからない。
ただ、ダンデが優先順位を誤ったことだけはわかる。
忙しいという言葉は便利だ。
それを理由にしてほかのことを優先させても、それが仕事であれば文句は言えなくなる。
「キバナさん、一つ、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「キバナさんは、いつから…その…私のことを、好きだったんですか?」
「三年前、からだな。オマエがダンデのことを好きだって相談に来た日に自覚して、まぁ失恋したというか」
自分のことを離すというのは意外に恥ずかしいものだ。特にこんなデリケートな話題はいつものように平然と伝えることはできない。
「この一か月、ずっと考えていたんです。本当はお昼に言おうと思ってたんですけど…なかなか言えなくて。私も、キバナさんのことが好き、です」
耳まで真っ赤にして、恥ずかしそうにしているのに、大きな茶色い瞳は明確な意思を持っていた。
「それとも、こんなにすぐ心変わりしちゃって…嫌ですか?」
そんなわけあるかとか、思ったよりも待った期間が短かったな、とか。
色々な想いが頭を巡っては消えいく。
気がつけば、手が重なっていた。小さな白い手は傷の跡が沢山残っている。
とても情けない顔をしているんだろうな、と思った。
本当はもっと計画して、いろいろ用意して、こんな部屋着なんかじゃなくて、もっときちんとした格好でしたかったのだけれども。
こじ開けられた蓋から溢れ出た想いに理性は利かなかった。
柔らかい唇の感触に、これが愛おしいということなのだと思った。
キスが初めてではないけれど、こんなにも特別なものだと思ったことはなかった。
おずおずと伸びてきた手は腕の当たりで止まって、スウェットを握っている。
ただ触れあうだけのキスがこんなにも嬉しいだなんて。
今更、ティーンのような恋をしている。
なんて、恰好の悪い。
それでも、ユウリの前でならそれでもいいと思った。
「ごめん」
ユウリは首を振った。
小さな声で嬉しい、と呟いた彼女は真っ赤に染まっていた。
「…寝室、片付けてくる」
異様に暑いと思った。
まだそんなに暑くなる季節ではない。きっと、雨に打たれたせいだろう。
そう思い込むことにして、ベッドの上に散らかった洗濯物を開きっぱなしだったクローゼットに放り込む。
新しいシーツに取り換えて、ヌメルゴンが汚した時ように買っておいた新品の枕に枕カバーをかけて。
今も暑いくらいだし、毛布一枚で足りるだろうと自分の枕と毛布を片手に戻る。
まだ眠るにはだいぶ早い時間だけれど、今日は早く休んでしまおうと思った。
「キバナさんがベッド使ってください。私はソファーで十分ですから」
「大丈夫だって。ほら、早く横にならないと疲れ取れないぞ」
いや、でも、とまだ何かを言いた気なユウリを寝室へと背中を押す。
「おやすみ」
おやすみなさい、とドアの向こうから聞こえてきて、早々にソファーに寝ころんで毛布を被る。
日中の疲労と緊張で目を閉じると意識が遠くなっていく。
微かに聞こえた雷鳴を気にも留めず、意識は深いところへと沈んでいった。
遠くから聞こえる雷鳴とぽつぽつと振り出した雨に急いでキャンプ用具を片付けた所で、時すでに遅し。
どんよりと曇った雲が空を覆い、小雨から本降りになるまでものの数分だった。
なんとかキャンプ用品を片付け終え、ポケモンの技かなにかでできた岩の窪みに避難する。
地面を打ち付ける強い横殴りの雨。時々吹く風が岩陰の中にまで雨水を浸透させる。
少々の雨なら弾くこのパーカーのお陰で上半身は濡れずに済んだ。
けれどもユウリの服は雨水を吸って濡れている。風は降り始める前よりも冷たく、濡れた体を冷やしていく。
コータスを出そうにも、二人で精いっぱいの窪みにはスペースがない。
「ユウリ、着替え持ってるか?」
「確かバッグの中に1セットあったと思います」
「よし、なら家まで走るぞ」
幸い、今日はナックルシティの入り口付近の丘でキャンプをしていた。
普段なら走れば15分ほどの距離。いつまでもここにいるよりはマシだろう。
ぐっしょりと濡れたカーディガンの上からとてもサイズの合わないパーカーを着せ、細い手首を握る。
意を決して窪みを出ると横殴りの雨が素肌に打ち付ける。
冷たい雨に一気に体が冷えていくようだった。
ポケモンたちも姿を潜め、襲われる心配はないようだ。
途中、何度か振り返ってユウリの手を離さないように掴み直し、ぬかるんだ地面に二人そろって足を取られながら走って城門を目指す。
ようやく潜った城門を超えても、雨の強さは変わらなかった。
慌てて商品をしまい込む店の人々を横目に一直線にマンションへと走る。
靴の中まで水浸しで踏み込む度に湿った感触が心地悪い。
きっとユウリの靴も同じように濡れてしまってしばらく乾かないだろう。
坂道を登ってようやく見えてきたマンションまで走り続けてエントランスの扉を開ける。
髪からは雨水がしたたり、ユニフォームは水が張り付いて気持ちが悪かった。
エレベーターへの通路も、エレベーターの中も、廊下も全てが雨水で濡れていた。
同じように雨に降られてずぶ濡れの住人が通ったのだろう。
始終無言のままだったユウリがお邪魔します、と小さく呟いた。
パーカーを被っていても、サイズが大きすぎるせいであまり雨よけの意味はなかったらしい。
ユウリの髪も服も靴も、同じようにずぶ濡れだった。
「すぐそこ、洗面所だから。先にシャワー浴びてこいよ」
「でも、キバナさんの方が濡れてますよ?」
「オレはいいから。服は全部洗濯機に入れておいて」
でも、とまだ遠慮する彼女を洗面所に押しやって、リビングへと向かう。
濡れた体の水滴を軽くふき取って大急ぎでリビングを片付けた。
散らばった書類、開きっぱなしのノートパソコン、出しっぱなしのマグカップ。
乾いた洗濯ものはとりあえず寝室のベッドの上に放る。
男の一人暮らしなんてどこも似たようなものだろうが、それでも少しは小綺麗な状態にしておきたいという悪あがき。
一通り片付けた所で、床の水滴をタオルで拭って廊下へ戻る。
ガタン、と浴室のドアが開く音がした。
「あの、キバナさんいますか?」
「いるよ」
「あの、服が全部濡れてて…何か着るもの貸してもらえますか?」
「探してくる」
ペタペタと素足で歩く音がリビングに響く。
冷たいとか気持ちが悪いとか、そんなのはどうでもよかった。
ユウリの着れる服などあっただろうか。
クローゼットやクリアケースを開いて、漁るように探す。
よくドラマや漫画では彼氏のTシャツを着て、なんてシーンがあったりするが、現実問題手持ちの服では下半身まで隠しきれない。
何か丈の長い服を、と探したところで出てくるものは皆似たような丈だ。
とてもじゃないが隠すことはできない。
とりあえず肌着替わりの新品のTシャツをクリアケースから取り出してそれだけでも持っていこうかと思った矢先、クローゼットに引っかかっていたロングカーディガンが目に入った。
前を紐で結ぶタイプのもので、クリーニングに出して以来ずっと閉まっていたものだ。
それも手に取って洗面所のドアをノックするとほんの僅かに内側から開けられた。
ドアとは反対の方に視線を向けて服を手渡す。
小さな声で礼を言ったユウリがドアを閉めたのを確認して思わず壁に寄りかかってしゃがみこんだ。
冷え切った体は思考までも奪うようだった。
今がどんな状況なのか、頭の整理が追い付かない。
色々と誤算がありすぎて、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
ぼんやりとヌメルゴンかつけた壁のシミを見続けていると、洗面所の扉が開いた。
「あの、ありがとうございます」
グレーのロングカーディガンを羽織った彼女の髪はまだ濡れたままタオルに包んでいるようだ。
そういえばドライヤーの場所を教えていなかったなと思い出して引き出しから取り出して渡す。
「じゃあ、オレ浴びてくるから。リビングでゆっくりしてて」
こくりと頷いた彼女はリビングへと消えていく。
濡れた服を脱いでドラム式の洗濯機を開けると、先ほどまでユウリが来ていた服が入っている。
当然と言えば当然なのだが、一緒に洗濯をすることを躊躇われて、とりあえず、自分のものは洗濯籠の中へと放る。
シャワーコックを捻って熱い湯を頭から浴びると、幾分か思考が戻ってきた。
どうにも、今の状態はまずい。
すれ違ったときに感じた、シャンプーの匂い。
カーディガンから伸びた素足。
どれもこれもが刺激物となっていた。
ユウリと付き合ってまだ一か月。まだ何もしていないし、急ぐつもりもなかった。
なかったけれども。
この状況でどこまで我慢ができるのだろうと甚だ疑問だった。
これは不可抗力だと自分自身に言い聞かせ、浴室を出る。
部屋着に着替えると、ゆったりとした気分になってきて、もはや何もかもがどうでもよくなった。
「あ、すみません。勝手にキッチン使いました」
大急ぎで片付けたテーブルの上にはマグカップが二つ、白い湯気を立てている。
「ああ、ありがと」
ソファーの隅で小さくなっている彼女同様に、スペースはたっぷり余っているのに端に座ってコーヒーを一口啜る。
何とも言えない緊張感の中、会話は弾まない。
「今洗濯回してきたから。乾くまで三時間くらいかかるかも」
時計を見て驚愕する。
時刻は18時を回っていた。
そろそろ日が暮れるからと帰り支度を始めて、雨雲に気づいて大急ぎで片付けたのが16時半。
それから少しの間雨宿りをして、走って家に着いたのが恐らく17時を過ぎた頃。
風呂を済ませて今が18時すぎ。
乾燥が終わるのがだいたい21時で、そこからシュートシティまで帰宅したらもう深夜だ。
雨の止む気配もない。
それどころか窓を叩きつける雨音は先ほどよりも酷くなっているようだし、風も出てきてシンと静まり返った部屋にガタガタと窓を揺らす音が響いている。
「…泊ってく、か?」
大きく見開かれた目と視線が合った。
「オレさまが、ソファーで寝るからさ。帰ったら遅くなるだろ。タクシーも飛べるかわかんないし」
「そう、ですね」
視線を逸らして、昔、フライゴンがまだナックラーだったころに悪戯をして齧ったテーブルの脚を眺める。
ティーンでもあるまいし、何を緊張しているというのか。
今更、同じ空間にいたからとて緊張する仲でもないというのに。
ゴロゴロと地を這うような雷鳴が聞こえ、一筋の光が走った。
瞬間、破裂音のような低くて耳障りな音が響く。
「きゃぁ!」
一瞬、部屋の照明が点滅する。咄嗟にソファから立ち上がると、ユウリは頭を抱え、ガタガタと震えていた。
「かみなり…ダメ、なんです」
最近は笑顔を見せるようになった彼女が、ガタガタと震えるさまに胸を締め付けられる。
「ヌメルゴンのかみなりは平気だよな?」
「ポケモンの技は大丈夫です。でも、苦手で」
今度は距離を縮めて座って、そっと腕を伸ばす。
一瞬体が震えた。
「…いやか?」
抱えた膝に顔を埋めたまま、ユウリは首を横に振った。
次第に力の抜けていく体を支えて安堵を促すように柔く撫でる。
その後も何度か続いた雷鳴に、その度に彼女は体を震わせた。
数十分が経つと雨雲は流れていったのか、窓の外が静かになっていく。
「少しマシになったか」
ようやく顔を上げたユウリの頬には涙の跡があった。
ぐすっと彼女が鼻を啜る。
「子供でもないのに…恥ずかしい」
その頭をわしわしと撫でると今度は楽しそうに悲鳴を上げた。
「腹、空いたろ。確か冷凍庫にピザとパスタと…」
キッチンへ向かうと、ユウリは後ろをついてきた。
冷凍庫の中から何種類かのパスタとピザを取り出して、シンクの前に広げる。
「どれにする?」
前もって来ることがわかっていれば、デリバリーを頼むこともできたのに、と後悔をしたところで現状は変わらない。
今ある食料といったら、冷凍かきのみか、インスタントラーメンくらいだ。
自炊もしようと思えばできるけれど、一人暮らしで多忙な身としては夕飯に労力を割く時間も体力もない。
そこそこ栄養が取れて極端にジャンキーなものでなければいいかと思っている。
「じゃあ、和風醤油で」
「ピザは?どっちにする?」
「んー…マルゲリータ」
そこそこ解凍に時間のかかるそれを電子レンジに入れて、待つこと数分。
どうにも、居心地が悪い。
あれだけ一緒に過ごしていたというのに、今は何をしゃべればいいかもわからない。
ただ無言で解凍されていく様子を眺めるばかりだ。
「あの、キバナさん。今日は、ありがとうございます。お風呂も、服も、ご飯も。それから泊めてもらって」
「仕方ないさ。この雨じゃ、な」
いそいそと二人でテーブルまで温まった料理を運ぶ。
どうやら彼女は落ち着いたようだ。
「なんだか、おうちでこうやって誰かと食べるの、久しぶりだな」
「マリィとか泊りにきたりは?」
「たまに。お互い忙しくてなかなか泊まったりできなくて」
「ごめんな、こんなのしかなくて」
「作ったりはしないんですか?」
「前はしてたけど。一人分作るってなかなか面倒なんだよな」
「じゃあ、今度作りましょうか?」
危うくフォークを落としそうになった。
どうやら彼女はまた来てくれるつもりらしい。
「食べたいな、ユウリの料理」
「何か食べたいものあれば言ってくださいね」
パスタの味も、ピザの味も何も感じなかった。
素直に嬉しい。けれど、頭の片隅にはまだ聞けていない言葉があった。
それを伝えていいものなのだろうか。
どちらにしても、食事中に話す内容ではない。
今日のキャンプの話や、手持ちたちのこと。
彼女の口から紡がれるのは、日常のことよりポケモンたちのことばかりだ。
生粋のポケモンばか。トレーナーなのだから当たり前のことではあるけれど、こうも彼女の生活背景が見えないのもまた、もどかしい。
空になったトレーを片付けて、再び間を開けてソファに腰掛ける。
さて、この思いをどうやって尋ねたらいいだろうかとマグカップの中のコーヒーを揺らして弄ぶ。
一か月前、うっかり告白をして、彼女は受け入れてくれた。
けれどまだそれが友人としての好きなのか、恋なのかはわからないという。
二年の月日がそう簡単に消えるとは思わない。
保留にしなかったのは彼女が心の拠り所を探していたからかもしれない。
それでも全く、構わない。三年前、もう自分の手の中に入ることは一生ないのだと思ったから。
それが、どうしてこうなったのか。いまだによくわからない。
ただ、ダンデが優先順位を誤ったことだけはわかる。
忙しいという言葉は便利だ。
それを理由にしてほかのことを優先させても、それが仕事であれば文句は言えなくなる。
「キバナさん、一つ、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「キバナさんは、いつから…その…私のことを、好きだったんですか?」
「三年前、からだな。オマエがダンデのことを好きだって相談に来た日に自覚して、まぁ失恋したというか」
自分のことを離すというのは意外に恥ずかしいものだ。特にこんなデリケートな話題はいつものように平然と伝えることはできない。
「この一か月、ずっと考えていたんです。本当はお昼に言おうと思ってたんですけど…なかなか言えなくて。私も、キバナさんのことが好き、です」
耳まで真っ赤にして、恥ずかしそうにしているのに、大きな茶色い瞳は明確な意思を持っていた。
「それとも、こんなにすぐ心変わりしちゃって…嫌ですか?」
そんなわけあるかとか、思ったよりも待った期間が短かったな、とか。
色々な想いが頭を巡っては消えいく。
気がつけば、手が重なっていた。小さな白い手は傷の跡が沢山残っている。
とても情けない顔をしているんだろうな、と思った。
本当はもっと計画して、いろいろ用意して、こんな部屋着なんかじゃなくて、もっときちんとした格好でしたかったのだけれども。
こじ開けられた蓋から溢れ出た想いに理性は利かなかった。
柔らかい唇の感触に、これが愛おしいということなのだと思った。
キスが初めてではないけれど、こんなにも特別なものだと思ったことはなかった。
おずおずと伸びてきた手は腕の当たりで止まって、スウェットを握っている。
ただ触れあうだけのキスがこんなにも嬉しいだなんて。
今更、ティーンのような恋をしている。
なんて、恰好の悪い。
それでも、ユウリの前でならそれでもいいと思った。
「ごめん」
ユウリは首を振った。
小さな声で嬉しい、と呟いた彼女は真っ赤に染まっていた。
「…寝室、片付けてくる」
異様に暑いと思った。
まだそんなに暑くなる季節ではない。きっと、雨に打たれたせいだろう。
そう思い込むことにして、ベッドの上に散らかった洗濯物を開きっぱなしだったクローゼットに放り込む。
新しいシーツに取り換えて、ヌメルゴンが汚した時ように買っておいた新品の枕に枕カバーをかけて。
今も暑いくらいだし、毛布一枚で足りるだろうと自分の枕と毛布を片手に戻る。
まだ眠るにはだいぶ早い時間だけれど、今日は早く休んでしまおうと思った。
「キバナさんがベッド使ってください。私はソファーで十分ですから」
「大丈夫だって。ほら、早く横にならないと疲れ取れないぞ」
いや、でも、とまだ何かを言いた気なユウリを寝室へと背中を押す。
「おやすみ」
おやすみなさい、とドアの向こうから聞こえてきて、早々にソファーに寝ころんで毛布を被る。
日中の疲労と緊張で目を閉じると意識が遠くなっていく。
微かに聞こえた雷鳴を気にも留めず、意識は深いところへと沈んでいった。
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