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お題会第11回「涙」

カチ、と時計の針が重なった音に視線を上げる。
ちょうど、日付が変わった。
伏せていたスマホの画面を確認する。メッセージアプリを開いて、未読の通知には目もくれず、目的の人物をタップする。
何度確認してもメッセージも着信もなかった。
ダイニングテーブルいっぱいに広がった料理は手も付けられず冷めきっている。
サラダのキュウリは乾燥で縮んでいるし、ステーキは焼いたときはとても美味しそうだったのに今では硬くなってしまった。
シャンパンクーラーの中の氷はすっかり溶けて常温の水になり、小さなホールケーキはクリームが溶け始め、せっかくのデコレーションが崩れていた。
それらをすべて、キッチンのごみ箱へ乱雑に捨てていく。
皿だけは軽く濯いで食洗器に入れ、スイッチを押した。
大き目のバッグを背負い、カーディガンを羽織ってリビングの照明を落とす。
玄関でブーツを履き、スマホで一言だけメッセージを打った。
『さようなら』
使うことが当たり前になっていた合鍵で施錠し、一瞬だけこの鍵をどうしようかと悩む。
まだ私物は残っているし、彼にも出ていくことは伝えていなかった。
結局、合鍵をバッグの内ポケットにしまってボールホルダーからリザードンを呼び出す。
「リザードン、ワイルドエリアまで行って」
逞しい背に跨ってマンションを離れる。
半同棲のような状態で過ごした二年間。
彼の部屋にほとんど住んでいたのに、一緒に過ごした時間はとても短かった。
楽しかった日もある。けれども、一人でいつ帰ってくるのだろうかと待った時間の方が長かった。
寂しかった。辛かった。もうそんな思い出しか残っていない。
今日、そんな中途半端な生活に終止符を打った。


明日から暦は春へと変わるのに、まだ朝晩は冷え込む。
今日はいっそう寒さが厳しいようだ。
悴む手を湯気の立ち上るエネココアで温める。
後ろで丸まっているリザードンに背を預け、暖かな火の前に当たっていてもやはり寒さで体が小刻みに震えていた。
カタカタと震える指先でスマホを持ち、何度も確認する。
着信もなく、メッセージアプリにも既読はついていない。
スマホを見る余裕すらないのかもしれない。よくあることだ。
いくら大事なことがあっても、彼は使用のスマホはいつも放っている。
付き合う前から分かっていたことだった。
彼にとって一番ではないことくらい、最初から分かっていた。
それを承知で付き合ったのだから、一切の文句は言わずにいた。
けれども、誕生日くらいは一緒にいてほしかったのだ。去年も一昨年も、その前も誕生日は一緒に過ごしたのだから。
だから当然のように今年も料理を準備し、ケーキを用意した。
「皮肉だよね。自分の誕生日に自分の料理とケーキを用意して待ってるなんてさ…」
リザードンの頭を撫でながらぽつりと零れた本音に、リザードンは瞳を泳がせた。
どう答えていいのかわからないのだろう。
震える体を両腕で抱きしめ、少しだけ火に近づく。
パチっと音を立てて崩れた枝が火の粉を上げ、ブーツに一点の焦げ跡を作った。
感情が消えてしまったように何も思わなかった。
少し見上げれば夜空にはたくさんの星が光を放っているというのに、それを綺麗だと思うこともなかった。
ただぼんやりと星を見る。
遠くに大型のポケモンと小さな人影が見えて、視線で追いかける。
くるくると美しい弧を描いて、ワイルドエリアをゆっくりと飛び回る姿を眺めていると、月明かりに反射した赤い光がまっすぐに近づいてきた。
程なくしてささやきのような穏やかな音色が聞こえ、緑色の胴体が着地した。
「こんなところで何してるんだ?」
するりと降りてきた長身のトレーナーはキバナだった。
「キバナさん」
「ダンデはどーした?また迷子か?」
その名にひくりと体が震える。今は思い出したくもない人物の名前だ。
「おい、まさか…ずっと一人で過ごしてたのか?だって、オマエ、昨日は…」
どちらとも答えずに視線を逸らすと、言葉が止んでふいに頭に重みを感じた。ゆっくりとあやすように撫でる手は大きく、温かかった。
鼻がツンとして目尻が熱くなる。
「まだ直接言ってなかったな。誕生日おめでとう」
その言葉が決定打だった。
必死で堪えていた涙が頬を伝う。
静かに、とめどなく流れる涙を気づかれまいと膝を抱えて顔を隠す。
彼と違って聡い人だから、とっくに気づかれているのかもしれない。
おめでとうと、彼の声で一番に聞きたかった。決して嫌なわけではないけれど、女々しく未練がましい思いをどうしても抱いてしまう。
隣に腰を下ろし、いつまでも撫でる手はとても優しかった。
「寒いだろ。ダンデから連絡が入るまでジムに来るか?」
小さく首を横に振った。
「誕生日プレゼントも渡したいんだけどな」
待っているわけではないけれど、迷惑をかけるわけにもいかない。それすらお見通しだったのか、キバナはさらに言葉を続けた。
ちらりと視線を上げると困ったようにキバナは笑っていた。
ここで凍えていることも、もしかしたらワイルドエリアを管轄する立場からすれば迷惑なのかもしれない。
「お邪魔しても、いいですか?」
「大歓迎だ」
すぐさまキバナは火を消し、バッグを持ち上げる。
「フライゴンに乗るか?」
リザードンに乗っていこうと思っていたが、遅い時間に飛行をさせてしまい、疲れたのか微睡んでいた。体は比べ物にならないくらい大きくなったというのに、その姿はまるでヒトカゲの頃から変わっていない。そんな様子を見ていると、今から飛行を頼むのはなんだか可哀そうだった。
「お願いします」
フライゴンは元気にひと声鳴き、こちらに背を向けた。
リザードンとは違う乗り心地に若干の不安を抱きながらしっかりとハーネスを掴む。背後に乗り込んだキバナが腰に腕を回して固定されると、フライゴンはゆっくりと高度を上げた。
先ほど視線で追っていた時よりもゆったりとした速度でフライゴンはナックルシティジムへ向かっていく。
日中は賑わいを見せるナックルシティは、閑散としていてどこか寂し気だ。
シュートシティのように煌びやかなネオンはなく、シンと静まり返っている。
外壁を回り込んでジムの正面へとフライゴンは進み、静かに高度を下げて着地した。
ジムはもう灯りが落とされているのだと思いきや、キバナの執務室へと続く廊下はまだ灯りが灯されていた。
通された執務室も同様で、暖房が効いていて暖かい。
久しぶりに訪れたキバナの執務室は懐かしくて、なぜか安心した。
「もう遅いからエネココアな」
コートを脱いで所在なさ気に立ちすくんでいるとマグカップを差し出された。
もう子供ではないのに、と思うものの、いつまでたってもコーヒーは飲めない。甘くミルクたっぷりのコーヒーなら飲めるがどちらかといえば紅茶やココアを好む。
一度だけ、見栄を張ってブラックコーヒーをもらったことがある。案の定、飲めなくてミルクとシュガーを差し出された。
昔のことを、覚えていてくれたのだろうか。
もう一つのマグカップにはブラックコーヒーだろう。真っ黒な液体が湯気を上げていた。
「ありがとうございます」
「んで、なんでこんな寒い日にあそこにいたんだ?」
ずず、っとコーヒーを啜る音が聞こえる。
エネココアに浮かぶ小さなマシュマロをぼんやりと眺めながら、どう伝えるべきか思考を巡らせた。
言い訳はいくつも浮かぶがどれもしっくりとはこない。
「別れようと、思って…飛び出してきました」
以前から借りていた自分の部屋はまだシュートシティにある。生活に必要最低限の物も残っているし、帰ろうかとも思った。
けれどあの部屋は、ダンデの部屋と同じくらい孤独なのだ。
もう自分の部屋だとは思えないほど寒々しい。
だったらせめて今日くらいは好きな場所で過ごそうとあの丘へ向かったのだ。
「理由、聞いてもいいか?」
その問いには首を横に振った。
信頼していないとか、そういう問題ではない。
ただ、まだ気持ちに整理がついていない。そしてそのことを伝えてしまえばキバナはダンデに話すだろう。
それが嫌なのだ。自分たちの問題に巻き込んではいけない。
「そっか。まあ…なんとなく想像はつくよ。今日はオレさま、夜通し仕事だからここにいるか?」
「お邪魔じゃないですか?」
「ユウリだったら大歓迎だ。いつでも」
向けられた青い瞳は知っているようで知らない瞳だった。
とても優し気な、同情とも違う色。
本心なのだと思い込むことにして差し出された毛布を受け取る。
「好きにしてくれていいよ。眠れないならその辺の本読んでてもいいし」
沢山の書籍が並んだ重厚な書棚に視線を向ける。
本を読むことが大好きだったのに、もうしばらく何も読んでいないことに気がついた。
ポケモン学に関する本から始まり、ビジネス書や図鑑、文学までもが並んでいる。
いくつか気になるタイトルを見つけたが、まだ読書ができるような精神状態ではなかった。
テーブルの上に置いたスマホを手に取って時刻を確認するふりをして通知を確認する。
画面にはなにも表示がなかった。
やっぱり、という思いと同時に寂しさが募る。
結局忘れられていたのだと思うと目頭が熱くなった。
零れ落ちそうな涙を唇を噛んで必死に堪える。
敏いキバナに気づかれないよう、ソファーに横になって目を閉じた。
口元を隠すように引き上げた毛布は、とても懐かしい香りがした。



◇◇◇
何日かぶりに家へ帰ると、玄関を始め部屋中の照明が消えていた。
普段ならば玄関廊下の照明がついていて、リビングもダウンライトが部屋を照らしている。
暗いのは寝室だけだ。
けれども今日はどこもかしこも真っ暗で、壁を伝いながら照明のスイッチを探して一つずつつけていく。
綺麗に片付いた部屋はいつも通りだ。
けれどもどこか違和感がある。
そっと寝室のドアを開けてみると、いつもそこにいるはずのユウリの姿がなかった。
まっ平なベッドを見て慌ててスマホを確認する。
自宅へ帰るときはいつもメッセージがあるのだ。
『今日は自宅へ帰ります』
そんな文面があると思っていた。
久しぶりに点灯した個人用のスマホの画面にはやはりユウリからのメッセージを受信したと通知がある。
アプリを起動して開いてみると、そこには予想とは違った五文字。
『さようなら』
手の平からするりとスマホが落ち、フローリングに落ちた。
床に転がったスマホをそのままに、勢いに任せてクローゼットを開ける。
女性物の服が並び、ほっと胸を撫でおろしたのもつかの間で、いつも床に置かれていた彼女の背には大きすぎるリュックが消えていた。
引き出しを片っ端から開けていき、あるものと無いものを比べていく。
季節外れの服やアクセサリーなどの貴重品は残っている。
逆に無い物は、ポケモンたちの物、スマホの充電器やキャンプ用品。
まるで旅行にでも行くかのような物ばかりだ。
さようならと言いつつ、大事にしていたアクセサリーはここにある。まるで数日もすれば戻ってくるかのような気がした。
アクセサリーボックスに収納されたそれの一つを手に取る。
一つずつ見ていくと、所々、不自然に間隔が空いている。抜き取られたようにぽっかりと空いているのだ。残っているものを改めて確認すると、それらはどれも以前プレゼントしたものばかりだった。
本気なのだと悟った。だから彼女は、プレゼントしたものを置いていったのだ。
焦燥感と苛立ちが混ざって、唐突に疲労感が襲った。
ふらふらとキッチンまで行って冷蔵庫のドアを開ける。
空っぽに近い冷蔵庫の奥で限界にまで冷やされた缶コーヒーを取ってプルタブを引く。
シンクに寄りかかって一気に飲み干すと、コーヒーとは違う、甘ったるい臭いがどこからか漂った。
普段はこんなに臭うことはない。ユウリはいつも、ビニール袋に入れて厳重に縛ってから捨てていた。
もちろんごみ捨ても定期的に行っていてゴミが溜まることはない。
臭いの元を辿るとそれは生ごみ用のダストボックスからのようで、足でペダルを踏んで蓋を開ける。
そこには無残にも形の崩れたケーキと、沢山の料理がそのまま捨てられていた。
小ぶりな割に、沢山盛られていたであろうフルーツの数々。そして、隅に転がっているまだ封の切られていない蝋燭を見つけて、昨日がユウリの誕生日だったのだとようやく思い出した。
どうしてそんな大事なことをすっかり忘れていたのかと自身を責めたところで現状は何も変わらない。
たとえ道に迷って待ち合わせに遅れても、仕事で記念日を先延ばしや前倒しにしても怒らなかったユウリ。
その彼女が別れを告げるほど怒るのも無理はない。
いや、怒りよりも呆れたのだろう。
汚れた靴下のままフローリングの上を歩いて落としたスマホを拾い上げる。
いつの日か、一緒にいれたGPSアプリをタップする。
迷ったときにお互いの位置がわかるから便利らしいと彼女が入れてくれたものだ。
結局使うことはなく、初期設定をしたとき以来起動していなかったそれを起動した。
地図の上に赤く光る点の周囲を拡大する。
ようやく地名が読めるほどになった地図が示す先は、ナックルシティジムだった。
どうしてキバナのところに。
沸々と収まりかけていた怒りが沸いて、感情のままに電話帳からキバナの名前をタップした。
数回の機械音の後によく知った男の声がした。
「キバナ、どうしてそこにユウリがいるんだ」
「よぉ、ダンデ。よくわかったな」
呑気な声を上げるキバナに余計に苛立ちが募る。
互いに言葉を発さずに無言のまま数秒間。どうやらキバナは何も話す気がないようだった。
「もう一度聞く。どうしてそこにユウリがいるんだ」
はぁ、と盛大なため息が機械越しに伝わった。
「ワイルドエリアにいたユウリを見つけた。寒そうに体を縮めて、一人で、寂しそうに。…オマエ、昨日が何の日だったか知らないわけじゃないだろ?」
その一言一言がまるで鋭利なナイフのように降りかかる。
ぐさぐさと遠慮なく突き刺さるその言葉に、喉がぐぅっと鳴った。
「忙しくて、すっかり忘れていたんだ。今日が何日なのか散々文字で見たし、書いたのに」
「今日が初めてじゃないだろうな。決定打が今日のことだった、ってだけだ」
突き刺さったナイフは容赦なくその傷口を抉る。
どう取り繕ったってそのどれもがただの言い訳でしかない。
「ユウリに会わせてくれ」
「オレさまが捕まえてるわけじゃない。好きにしたらいい。ただ今は眠ってるから日が昇ってからにしてやれよ」
その言葉を最後にツーツーと無機質な音が流れた。
どうにもならない歯がゆさに頭を搔きむしる。
会ったところで謝ることしかできない。謝ったところで許してはもらえないだろう。
ユウリの覚悟は十二分に伝わった。
彼女が成人してから二年。一緒に過ごした時間は短かったけれど、それでもその時間はどれも至福だった。
冷蔵庫を開ければ夕食が用意されていて、彼女が起きていれば温めてくれる。たまの休みはバトルをして、ポケモンたちとゆっくり過ごす。
休日なんて暇なだけだと思っていたのに。食べ物にも興味がなかったというのに。
彼女が美味しいと言えば美味しいのだと思った。強い彼女とバトルをするのが楽しかった。
夜遅くに帰って灯りが灯っていることが嬉しいことなのだと、今更ながらに気が付いた。
人は慣れてしまえばその有難みを忘れる。
それに甘えて疎かにした結果がこれだ。
失って初めて、その大切さに気が付いたのだ。

◇◇◇
寝返りを打った拍子に違和感を覚えた。
キバナの執務室のソファで毛布を被って涙を堪えた所までは覚えている。なのになぜ見覚えのない部屋の、柔らかいベッドで眠っているのだろう。
半身を起こして部屋を見渡すと、扉の横にナックルジムのユニフォームが吊るされていた。
キバナの自室だろうかと一瞬頭を過ったが、移動した覚えは全くない。
ベッドから立ち上がり、服を直してドアノブに手をかける。
眩しいほどの光が目に飛び込んできたその先は、キバナの執務室だった。
「おはよ。よく眠れたか?」
「あ、はい。おはようございます。ありがとうございました」
「ソファーだと体痛くなるだろうから、仮眠室のベッドに移動させた。勝手なことしてごめんな」
どうやら気を使わせてしまったようだ。涙が収まって少し落ち着いたら帰ろうと思っていたのに、ぐっすりと眠ってしまった。
「あのな、ユウリ。昨夜ダンデから電話があった。おそらくもうすぐここに来る」
力の抜けていた体が一瞬にして膠着した。
まだ、会いたくはない。
「ダンデがオマエに何をしたか、オレさまは想像することしかできない。まあでも、あいつの性格を考えればある程度はわかるんだ。悪気があってやったわけじゃないんだろう。別れる決意をしたんなら、オレさまは止めない。でもまだ悩んでいるんならこれだけは言わせてほしい。今回のことで反省したとしてもまた同じことを繰り返すかもしれない。オマエはこの先も、来年も、再来年も…もしかしたら五年先。その時も同じ事をされて許せるか?」
ぐさりと言葉が刺さった。
やはり敏い人だ。まだ迷っているのを気づかれていたのだろう。
「私、は…」
走馬灯のように頭の中に映像が流れ込んでくる。
告白をしたとき、顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうに頷いてくれたこと。
食事は手早く消化に良いものばかり好んでいた彼が、初めて作った料理を美味しそうに食べてくれたこと。
初めてもらったプレゼントのアクセサリーは、実はもう持っていたものだったこと。
今まで忘れていたことばかりだった。
けれど、そんな楽しかった記憶さえ、あの部屋で過ごした孤独な思いに掻き消されていく。
「私…」
寂しかったとは言いたくなかった。
覚悟していたことだ。それに耐えきれなくなったなんて、人にはけして、言えない。言ってはいけない。
「オマエの人生だ。我儘になったって誰も文句言わねぇよ」
ポンポンと頭を撫でられて、人の温かさにまた鼻の奥が熱くなる。
久しぶりだった。
甘えてはいけないと必死で涙を堪える。
どんなに寂しくても泣くことはなかった。ましてや人前でなんて一度もない。けれどどうしてか、キバナの前では幼い頃のように戻ってしまう。
一度鼻を啜って唇を噛み締めると、ボールホルダーにかけたボールがカタカタと揺れ出した。
リザードンのボールだ。
「来たな。オレさまは巡回に行ってくるよ。二人きりのほうがいいだろ?」
そう言ってボールを放つと、フライゴンに跨ってワイルドエリアの方角へ飛び立っていった。
入れ違いにダンデがバルコニーへ降り立った。
その姿は見たこともないほど見窄らしかった。
オーナー服は皺だらけで、髪もぼさぼさ。
髭も剃っていないのか顎髭は形が崩れているし、目元には色濃い隈がある。
何日も徹夜した後に帰ってきた時すらこんなに酷い有様ではなかった。
「ユウリ」
名前を呼ばれて反射的に顔を上げる。
格好は酷いものなのに、力強く輝く黄金色の瞳は変わらなかった。
「帰ろう」
コツ、っとフローリングに靴音が鳴る。
ゆっくりと一歩ずつ、やがて彼は手を差し出した。
「帰って、話をしよう」
「…行きません。もうあそこは私の帰る場所じゃない」
「昨日はすまなかった。謝って許してもらえるとは思っていない。けれど、償いをさせて欲しい」
どこまでも、自分勝手な人だと思った。
最初はそんな所も好きだった。
導いてくれるようで頼もしく思ったものだ。
「ごめんなさい。もう…」
無理だとは続けられなかった。
黄金色の瞳に見つめられると、いつだって否定の言葉は続かなかった。
たとえはっきりと嫌だと言っても機嫌を損ねたりすることはなかっただろう。
けれども、絶対的な王者の前ではいつも萎縮してしまった。
それはこんな時ですら変わらない。
「そう、か」
伸ばしていた腕がだらんと力なく下がった。
くるりと向けられた背は、もっと大きかったはずなのに、今はとても小さく感じた。
もう少し頑張れば。
そんな風に一瞬思った脳内にキバナの言葉が流れ込んできた。
『オマエはこの先も、来年も、再来年も…もしかしたら五年先。その時も同じ事をされて許せるか?』
どうせならその年月を、有効に使いたい。
違う人なんて現れないかもしれないけれど、それなら一人で有意義に。
もう凍えて過ごすのは、嫌だ。
明確に答えが出ると、少しだけ前向きになれた。
「今日からしばらく、有給を消化させてください。今まで…ありがとうございました」
小さな背に深々とお辞儀をすると、力のない笑い声が響いた。
「お礼を言うのはオレの方だぜ。ありがとう、ユウリ」
コツ、と足音が遠のいていく。
リザードンの羽ばたく音が聞こえて、ようやく顔を上げた。
バルコニーの扉を閉めると急に音が消えた。
静まりかえっているのに、この執務室は温かい。
まるで包み込むような優しさに、今までの人生で一番悲観すべきことを終えた後とは思えないほどに気分はすっきりとしていた。
簡易的なキッチンに立って、インスタントのコーヒーを淹れる。
シュガーだけを入れて、湯気の立ち登る真っ黒な液体に口をつけた。
強烈な苦味と、酸味。シュガーを入れただけではまだ足りなかったようだ。
昔は飲めなかったコーヒーは、今では少し我慢をすれば飲めるようになっていた。
「ただいま」
びくりと体が震えた。
完全に和んでいたが、思えばここはキバナの執務室だ。
当然巡回に出てここに帰ってくる。
「お、コーヒーか。珍しいな」
「キバナさんのも淹れますね」
寒い寒いと溢し、キバナは暖炉の前を陣取った。
今日から三月とはいえ、気候は暦のようにすぐ変わったりはしない。
特にキバナは昔から寒がりだった。
粉をお湯で溶かすだけの簡単なコーヒーを差し出すとキバナはそれを美味いと言って少しずつ飲んでいる。
「その様子だと少しは踏ん切りついたみたいだな」
「色々、ありがとうございます。キバナさんの言葉を思い出して決めました」
「オレさまの?」
「はい。来年も、再来年も…もしかしたら五年先。その時も同じ事をされて許せるか?って。私、もうあんな寒い部屋に帰りたくなかった。どうせ過ごすなら一人でいても楽しく過ごしたい。そう思ったんです」
「…そっか。大丈夫、ユウリなら絶対に幸せになれる。一人じゃないさ。オレさまも、ネズも、マリィだってオマエの周りにはいっぱいいるんだぜ?」
「…はい。暫くお休みをもらったので、マリィちゃんとご飯食べに行こうかな」
「そうだ。そうやって気晴らししたらいいさ。誰も都合が合わなかったらここに来たらいい。オレさまはいつでも大歓迎だ。ところで、今日の予定は何かあるか?朝飯、食いに行かないか?」
食事、と聞いて急に空腹を覚えた。考えてみれば、昨夜味見をしたくらいしか食べていない。
人懐っこい笑顔を浮かべ、キバナが手を差し出してくる。
その手を取ると、垂れていた目じりが更に垂れた。
「久しぶりだなぁ、ユウリと飯食いに行くの」
「そうですね…昔はいっぱいご馳走になりました」
「いいんだよ。よし、今日はあれにしよう。ユウリの好きなサーモンとクリームチーズのベーグルサンド。それから甘いカフェオレだろ?」
「…今日はダージリンティーがいいです」
「なんだよ、拗ねんなって」
「拗ねてないです」
揶揄われて、拗ねたふりをして。
数時間前まではどん底にいたのに、今では憑き物が落ちたかのようにすっきりとしていた。


◇◇◇
ユウリがダンデと別れてから半年が過ぎた。
ユウリは気丈に振舞っていた。
特に最初のころは週末に食事に誘っても突然断られることも多かった。
常に関わりがなくとも、同じ職場というだけで気が張るのだろう。
始めの数回は無理に誘うことはなかった。
けれどもそうして断った日にでさえ、ワイルドエリアにいるのだから心配で仕方がなかった。
管轄をする身として、友人として。
いくら言い訳を述べたところで自分の気持ちには気づいていた。
当の昔に蓋をして、奥底に沈めた想い。
ダンデが好きなのだと顔を赤らめて、見たこともない表情で相談をしてきたのは三年近く前のことだ。
まだユウリは未成年だった。
だから、成人したら告白をするのだと彼女は言った。
平日はバトルタワーに挑み、週末はナックルまでやってきて、その報告を聞く。
キラキラとした瞳でダンデのことを語るユウリを見ていられなくて、少しずつ距離を置いていった。
幼いころから見てきた。最初は妹でもできたかのような気分だった。
今思えば、恋に落ちたのは初めて相談を受けた日かもしれない。
少女だと思っていたのに、いつの間にか女性になっていた。
恋を自覚した日に失恋して、早々に蓋をして記憶の奥底へとしまい込んだ。
やがて付き合うことになったのだと嬉しそうに報告をしてきて、さらに距離を置くようになった。
邪魔をしてはいけない。もう手は離れていった。
異変を感じたのは一年前。月に一度の会議の時だった。
ユウリは浮かない顔をしていて、なのにダンデは平然と会議を進めていく。
喧嘩でもしたのだろう、そう思っていた。
けれど、翌月も、そのまた翌月も。ユウリの表情は晴れなかった。
それとなく周りに聞いてみても、誰も何も知らない。ただ、皆気づいていた。
特に心配そうにしていたのはマリィだ。連絡は取るものの、何も話してくれないのだと彼女は怒っていた。
少し考えてみればわかることだ。
多忙なオーナーで、リーグ委員長のダンデ。
仕事とポケモンのこと以外は二の次。自分の食事さえも疎かにするくらいだとくれば。
手を差し伸べたかった。けれど、差し伸べていいものかわからなかった。
結局、凍える彼女を見つけるまで何もできなかった、不甲斐ない己に腹が立った。
止められなかった償いとして、また良いお兄さんを演じる。
ユウリが必要とすれば、気晴らしに付き合い、話し相手になる。
そこに己の感情は一切持ち込まないと決めた。
はずなのに、どうして今ユウリと一緒に恋愛映画を観ているのだろう。
確か、待ち合わせて食事に行き、ユウリはいつも以上に酒を飲んだ。
腹も膨れてふらふらとする彼女を送っていくと言ってタクシー乗り場に向かう中、突然映画が観たいと言い出した。
ふらつく足取りでチケットを買いに行ったユウリを待っていると、ニコニコと笑顔を浮かべて戻ってきた。
何を観るのか聞きもせず、ポップコーンと飲み物を買って座席に座ること一時間半。
早くも映画はクライマックスだ。
よくある男女のすれ違い。何組かのカップルの恋愛模様を描いたその映画は、全く集中できなかった。
浮気、生活スタイルの変化。お互いの心が読めないことに苛立つカップルたち。
ユウリが経験してきたことと似ているような気がした。
ちらりと彼女を観れば、どうやら集中しているようでポップコーンの器に手を入れたまま視線は画面にある。
どうしてこんな映画を観る気になったのか、甚だ疑問だった。
やがて、あるカップルは結婚し、また別のカップルは別れる。
長いエンドロールが流れ、僅かにいた客は立ち上がっていった。
どうやらユウリは最後まで観るタイプらしい。
よく知らない名前を眺めること数分。ユウリが立ち上がった。
空になった器をゴミ箱へ入れ、振り返った彼女は清々しいといった様子で驚く。
つい最近まで浮かない顔をしていたのに。
「面白かったですねぇ~私もまたあんな風に恋、できるかなぁ」
ネオンが輝くシュートシティの街並みは、週末ということもあってかまだ人通りがある。
広場までやってくると、ユウリはベンチに腰掛けた。
「オレさまじゃ、だめか?」
するりと出ていった言葉に驚いて、慌てて口元を抑える。
目を大きく見開いたユウリと一瞬視線が重なって、すぐに視線を逸らした。
「その…私。キバナさんのことは好きです。ただ、恋愛の意味で好きかって言われると、正直わかりません」
早口で捲し立てた後、でも、と彼女は続けた。
「キバナさんの傍はとても、安心するんです。今はそれでもいいですか…?」
何か返事をしなければ。
そう思っていたのに、言葉よりも先に体が動いた。
ユウリに覆いかぶさるように抱きしめると、彼女は小さく声を上げて笑った。
「好きだよ、ユウリ」
返事の変わりに袖口がきゅっと握られた。
今はまだ、わからなくていい。
その言葉を聞ける日まで、隣にいれさえすれば。



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