一年に一度だけ
季節が二度巡り、真夏の照りつける日差しが柔らかくなり始めた頃。
アラームを止めようと目を覚まして、カーテンの隙間から漏れる眩しい光に目を細めたままスマホを手繰り寄せる。
耳障りな電子音を止めて、体を起こそうとタオルケットを捲るその手に違和感を感じた。素足を動かせば、ヒリヒリとした気持ちの悪い感覚。体は重怠く、吐く息は心なしか熱い。そっと額に触れてみる。汗ばんだ手でもわかるほどに額は熱を持っていた。
はあ、と重いため息をつく。
昨日からなんとなく体調が悪かった。精神的にもとても辛かった。ベッドに入っても押し寄せてくる孤独感や絶望感に、なかなか眠ることができなかった。ようやく眠ったのはおそらく明け方に近い深夜だったと思う。
家に薬はあっただろうか。
今にも沈んでしまいそうな意識の中、薬箱の中身を思い浮かべるが、しばらく開けていない箱の中身を詳細まで覚えていない。
上体を起こすと、頭を殴られたかのような衝撃と眩暈に棚まで行くことは早々に諦めて、もう一度ベッドに横たわる。体中が痛くて寝返りを打つことすら辛い。こんなに熱が上がるのも久しぶりだなと思いながらなんとかスマホを手に取る。
小さいころは母が傍にいてくれた。食欲がない時に作ってくれたコンソメスープで柔らかく煮込んだリゾット。ホップもウール-を連れてお見舞いに来てくれたし、眠っているとき以外は一人になることはなかった。
そういえば、ともう一つ思い出す。数年前に熱を出したときのことだ。少し熱っぽいながらも執務室で仕事をしていた時、訪ねてきたキバナさんに気づかれてしまったことがある。あまり食欲はなかったが、薬を飲むためだと一緒にサンドイッチを食べて、風邪薬を飲んで来客用のソファーで横になった。途端、睡魔が襲ってきて虚ろな意識の中で感じたのは、ゆっくりと頭を撫でられる感触。
「キバナさんに……会いたいなぁ……」
思わず零れ落ちた本音にじわりと目頭が熱くなる。少し視線を上げた先には、金属に彫られたドラゴンが見つめている。瞳にはめ込まれたエメラルドグリーンの石に、彼のなんでも見透かしているかのようなエメラルドグリーンの瞳を思い出して、頭からタオルケットをかぶる。軋む体を両腕で抱きしめるように抱え、もう少し寝ていれば良くなるだろうと瞼を閉じた。
ひんやりと冷たいものが額に乗せられた。うっすらと目を開けるものの、滲んでいて視界に映るものを判別できない。見慣れた金色と紺とオレンジのカラーと褐色の肌。まだ夢の中なのだと思った。あまりにも会いたいと思うから都合のいい夢を見ているのだ。
だって。
ガラルにいる彼が、アローラにいるはずがない。
「ユウリ」
とうとう幻聴まで聞こえてきたようだ。もう半年以上、言葉を交わしていないのに彼の声がはっきりと聞こえた。自然と瞼が下がっていく。体中が燃えるように熱かった。それでも額だけは冷たい。不快な痛みが少しだけ和らいだ気がする。
まだ呼び声が聞こえるが、もう目を開けるだけの気力はなかった。
何度も何度も寝苦しさに意識が浮上する。痛みと息苦しさで夢なのか現実なのかは区別がつかない。朦朧とした意識の中、なんとか目を開けると白衣を着た男性が傍に立っていた。 その横には、やっぱり見慣れたカラーのパーカー。幻覚でも幻聴でもなかったのだと確信したものの、朝よりも熱が上がったのだろう。言葉を出すことさえ億劫だった。瞼を閉じたまま二人の会話を聞いていたはずなのに、突如沈んでいくような感覚がして音が消えた。
まるで砂漠の中を歩いているような熱さに目を開けると、ぼんやりと映った天井はゆらゆらと揺れていた。
誰かがいるような生活音に、なんとか体を起こす。
衣擦れの音に振り返ったのは、キバナさんだった。
「起きたか?」
「……なんで?」
ナックルジムのユニフォームを着た彼が傍に座っていて、思わず零れた言葉は掠れていた。
「なんで、って。オマエから珍しく電話が来たから出てみりゃロトムが悲痛な声でユウリが大変だってな。ぐったり倒れてるオマエが画面に映って飛んできたってわけだ」
「鍵は……?じゃなくて、キバナさん仕事……」
少ししゃべるだけで息が上がってしまう。
「鍵はロトムが開けてくれた。電子錠でよかったよ。仕事は、まあ、有給だ。あとで説明するからとりあえず薬飲め。その分だと診察してもらったのも覚えてないんだろ?」
喋るかわりに首を縦に振る。ただ縦に振っただけなのに、その一瞬で視界がぐらりと回った。
手渡されたゼリーをスプーン一口だけ食べて数錠の薬を飲み込む。
喉に何か詰まっているような、変な違和感があった。
「オレさまはこっちの病院、知らないからロトムに調べてもらって往診してもらったんだ。流行り風邪だとさ。とりあえず、着替えた方がいいな。歩けるか?」
汗で湿ったパジャマは不快だった。ゆっくりと足を下ろし、差し出された手につかまって立ち上がる。一歩前に踏み出したところでカクン、と膝が折れた。
「やっぱり無理か。じゃあ風呂、貸してくれるか?こんな暑いと思わなかった。オレさまがシャワー使ってる間にサーナイトに手伝ってもらって着替えとけよ」
「……はい。新しいタオルとか脱衣所にあります。下着は……ないですけど。あと着替えも」
「それは持ってきた。じゃ、着替えたらまた横になれよ」
いつの間にか部屋の隅に転がっていたボストンバッグからタオルやら着替えやらを取り出してキバナさんは脱衣所へと消えていった。
「サーナイト、手伝ってくれる?」
呼びかけるなり、サーナイトはボールから出てきてにっこりと笑んだ。
キッチンでお湯を沸かし、適温になるまでの間に着替えとタオルを用意してくれている。サーナイトはお湯で濡らしたタオルで丁寧に体を拭ってくれ、幾分か気持ち悪さは消えた。
ここまで何もできなくなるとは思わなくて、恥ずかしさと悔しさが渦巻いてくるが、動けない以上、サーナイトに甘えるしかなかった。
最後に新しいパジャマへ着替え、もう一度ベッドに体を横たえると、サーナイトは満足したようにボールの中へと戻っていった。
頭はガンガンと殴られているように痛いし、ほんの少し動いただけでとてつもない疲労感が襲ってくる。薬が効いてくるまでの辛抱だと分かっていても、この体の重さには気が滅入りそうだった。
遠くでシャワーのコックを捻る音が聞こえた。しばらくすると浴室のドアが開き、ラフな服装に着替えたキバナさんが戻ってきた。
冷蔵庫の前やリビングを行ったり来たりするキバナさんを視線で追う。
たいして広くもない部屋でよかったと思いつつ、なぜここにいるのかという疑問が消えない。その理由を考えようにも頭痛が邪魔をして思考はまとまらず、仕方なく瞼を閉じたが、だからと言って眠れるわけではない。今度はぞくぞくとした気が襲ってきた。膝や肘、腰など関節が痛みだし、カタカタと震える度に奥歯が音を立てる。タオルケットを手繰り寄せ、顎まで引き寄せるがそんなものでは足りないほど寒い。なんとか手を伸ばし、ベッドサイドテーブルの上のモンスターボールのスイッチを押すと、サーナイトが出てきた。
「ごめん、毛布持ってきてもらえる?」
こくんと頷いてサーナイトはクローゼットを開けると、奥にしまい込んでいた毛布を持ってきてくれた。
クリーニングのビニール袋を破くのに苦戦していると、キバナさんがサーナイトから毛布を取り、袋を破り、毛布を掛けてくれた。
「寒気か?」
頷くものの、それ以上は何もできない。もはや自分で布団を手繰り寄せることもできないほど体は震えていた。
「サーナイト、戻っていいぞ。あとはオレさまがやるから」
キバナさんの後ろでおろおろとしていたサーナイトは、ほっとしたように表情を崩し、ボールへ戻っていった。
「さて……オレさまもその空いたスペース、使っていいか?寒いだろ」
ぎしっとベッドのスプリングが音を上げ、背中側のマットレスが沈み込む。
家具付きで借りたこの部屋のベッドは、体格のいいアローラの人向けなのかベッドは大きかった。それが孤独感を増す要因でもあっただろう。けれど広々と眠れるのは存外悪いことでない。
「きちんと眠れば明日には少し熱が下がるさ。何かあったら起こせよ。ここ最近ちょっと仕事が忙しくてな……オレさまも疲れてて」
背後からふわっと大きな欠伸が聞こえた。
いつもの私なら、だったら来なくてもいいのに、と悪態をついたかもしれない。けれど今はそんな余裕が微塵もなかった。
ぴったりとくっついた背中は大きく、温かい。寒気に加え、心臓も忙しなく動き出す。こんな状態で眠れるわけがないと思いきや、背中から伝わってくる規則正しい振動に自然と瞼が閉じていく。
ああ、安心するってこういうことだったんだな、と思いながら瞼を完全に閉じると、あれだけ辛かったはずの体の震えさえ気にならなくなっていった。
急に鼻孔を擽った懐かしい香りに瞼を開けると、見慣れた景色の中に違和感を感じた。
キッチンの方に誰かがいた。そして、この懐かしい香りがするものを調理しているようだった。
随分と楽になった体を起こし、ベッドから足を下す。まだ体に倦怠感は残るものの、眩暈や頭痛、悪寒はなくなっていた。
ワンルームのそれほど広くない部屋の片隅に設置された小さなコンロの前で、キバナさんが何かを作っていた。
重怠い体を引きずるようにフローリングに足を擦って歩いて近づくと、キバナさんと目が合った。
「お、起きたか?体調はどうだ?」
脳裏に焼き付いたかのように残っていた懐かしい笑顔に、つんと鼻の奥が痛む。
「少し、体が楽になりました。ありがとうございます」
なら良かった、とキバナさんは小さな片手鍋へ視線を戻した。そろそろと近づいて鍋の中身を見ると、黄金色の液体を吸った米がふっくらと炊き上がっている。
「もう少しでできるから、あっちで待ってな」
ぐつぐつと気泡が現れては消えていくリゾットに、キバナさんはピザ用チーズを乗せ、蓋を閉じた。
そのリゾットの香りは母の作ってくれたものに似ていて、けれど母のリゾットにはチーズは入っていなかった。
どうして体調を崩した時にこのリゾットを食べていたとキバナさんが知っているのかはわからない。もしかしたら定番レシピで、だいたいの家庭で消化器官が弱っているときに食べるのかもしれない。
「これな、ユウリのお母さんから教えてもらったんだ。それに少しだけアレンジ」
ぼうっと鍋を見ていると、頭上から声が降ってきた。
やはり母の、懐かしいリゾットのようだ。
「でもどうして?」
「食べながら説明するよ。熱いからゆっくり、少しでもいいから食べてくれ」
一人では少し余裕があり、二人では少し狭いローソファに座ると、小さなローテーブルに湯気の立ち上る小さな鍋と既に取り分けられた器とスプーンが並べられた。
取り分けられたとはいえ、まだ熱そうなリゾットを溶けたチーズと一緒にスプーンで掬う。
少し息を吹きかけて口へ運ぶとコンソメの優しい味わいにチーズが加わり、新鮮だけど懐かしいと感じた。
母のリゾットより奥深い味わいのような気がするのだが、鼻炎のせいか、そこまでは分からない。
息を吹きかけて少し冷ましては口に運び、気が付けば取り皿は空になっていた。
「美味しい、です」
「そりゃよかった」
おかわりをし、少し冷めるまで待っていると、キバナさんがアイスコーヒーを片手に正面に座った。
「食べながら聞いてくれ。まず、なんでオレさまがここへ来たかってことから説明するな。まず……アローラ時間で今日の早朝。ガラル時間の昼前にユウリのロトムがバトルタワーに電話をしてきたらしい。とても慌てていたらしく、とりあえずユウリのスマホロトムからで、ダンデに繋いでくれということしか聞き取れなかったと最初に電話にでた受付は言っていた。会議中だったダンデに代わり、オリーヴさんに話が通され、オリーヴさんの判断で会議室の電話でダンデが受け取った。ダンデはユウリのスマホロトムだと確認し、スピーカーにして会議室にいたオレらジムリーダーも聞いていた。ロトム曰く、最初はユウリのお母さんに何度かかけたものの繋がらず、なぜかナックルシティジムにもかけたが、リョウタが会議で外出中だと伝えたらしい。そこでダンデ宛に電話をした、ってことだな。で、慌てて支離滅裂なロトムの言葉を拾っていくと、ユウリが起きてこない、苦しそうだ、どうしたらいいかわからないと泣き出した。ダンデは実家に電話し、ダンデのお母さんにユウリのお母さんがどこにいるか聞くと、旅行で今はガラルにいないとのことだった。だからオレらジムリーダーの誰かが行くってことになったんだが……オリーヴさんもバトルタワーの色々な部署の仕事を掛け持ちでやっているから無理だ。ルリナは明日からモデルの撮影で数日留守の予定、マリィ、ビート、オニオン、サイトウ、マクワは明日からジュニアトーナメント、新しいトーナメントで若手ジムリーダーと気軽にバトルができるってのがウリのやつがあってな。そのトーナメントで駆け上がってきた若手たちを若手ジムリーダーが相手するんだ。で、ソニアさんとホップも論文の締め切りがあって無理そうだと。ネズはライブ遠征中だし、正直一番適任だと思ってたメロンさんは、まだ小さい子供たちの世話がある。カブさんもファンからの強い希望もあって今回ジュニアトーナメントに出るしな。となるとオレさまかダンデしかいないんだが、ダンデは論外だ。委員長の仕事もあるし、それ以前に迷ってたどり着けない。でオレさまが来たわけだ」
「……経緯はわかりました。ありがとうございます。それから、ご迷惑おかけしてすみません」
おそらくロトムがナックルシティジムに電話をしたのは、私がうっかりキバナさんに会いたいなんて言ったからかもれない。緊急時には母に連絡するように伝えていたが、もし母に繋がらなかった場合は考えていなかった。だからパニックになり、あちこちに電話をかけてしまったのだろう。
「じゃなくてさ。皆心配して、オレが私が、って凄かったんだぜ?ビートですら憎まれ口叩きながら行くって言ったんだからさ。治ったら連絡してやれよ」
「……すみません」
「ま、具合悪い時に説教なんてしたくないし、この話はとりあえず終わり。ああ、ユウリのお母さんにはさっき連絡取れて、状況を伝えといたよ。そしたらこのレシピを教えてもらった」
「ありがとうございます。
間に合いませんでした!!!!!
アラームを止めようと目を覚まして、カーテンの隙間から漏れる眩しい光に目を細めたままスマホを手繰り寄せる。
耳障りな電子音を止めて、体を起こそうとタオルケットを捲るその手に違和感を感じた。素足を動かせば、ヒリヒリとした気持ちの悪い感覚。体は重怠く、吐く息は心なしか熱い。そっと額に触れてみる。汗ばんだ手でもわかるほどに額は熱を持っていた。
はあ、と重いため息をつく。
昨日からなんとなく体調が悪かった。精神的にもとても辛かった。ベッドに入っても押し寄せてくる孤独感や絶望感に、なかなか眠ることができなかった。ようやく眠ったのはおそらく明け方に近い深夜だったと思う。
家に薬はあっただろうか。
今にも沈んでしまいそうな意識の中、薬箱の中身を思い浮かべるが、しばらく開けていない箱の中身を詳細まで覚えていない。
上体を起こすと、頭を殴られたかのような衝撃と眩暈に棚まで行くことは早々に諦めて、もう一度ベッドに横たわる。体中が痛くて寝返りを打つことすら辛い。こんなに熱が上がるのも久しぶりだなと思いながらなんとかスマホを手に取る。
小さいころは母が傍にいてくれた。食欲がない時に作ってくれたコンソメスープで柔らかく煮込んだリゾット。ホップもウール-を連れてお見舞いに来てくれたし、眠っているとき以外は一人になることはなかった。
そういえば、ともう一つ思い出す。数年前に熱を出したときのことだ。少し熱っぽいながらも執務室で仕事をしていた時、訪ねてきたキバナさんに気づかれてしまったことがある。あまり食欲はなかったが、薬を飲むためだと一緒にサンドイッチを食べて、風邪薬を飲んで来客用のソファーで横になった。途端、睡魔が襲ってきて虚ろな意識の中で感じたのは、ゆっくりと頭を撫でられる感触。
「キバナさんに……会いたいなぁ……」
思わず零れ落ちた本音にじわりと目頭が熱くなる。少し視線を上げた先には、金属に彫られたドラゴンが見つめている。瞳にはめ込まれたエメラルドグリーンの石に、彼のなんでも見透かしているかのようなエメラルドグリーンの瞳を思い出して、頭からタオルケットをかぶる。軋む体を両腕で抱きしめるように抱え、もう少し寝ていれば良くなるだろうと瞼を閉じた。
ひんやりと冷たいものが額に乗せられた。うっすらと目を開けるものの、滲んでいて視界に映るものを判別できない。見慣れた金色と紺とオレンジのカラーと褐色の肌。まだ夢の中なのだと思った。あまりにも会いたいと思うから都合のいい夢を見ているのだ。
だって。
ガラルにいる彼が、アローラにいるはずがない。
「ユウリ」
とうとう幻聴まで聞こえてきたようだ。もう半年以上、言葉を交わしていないのに彼の声がはっきりと聞こえた。自然と瞼が下がっていく。体中が燃えるように熱かった。それでも額だけは冷たい。不快な痛みが少しだけ和らいだ気がする。
まだ呼び声が聞こえるが、もう目を開けるだけの気力はなかった。
何度も何度も寝苦しさに意識が浮上する。痛みと息苦しさで夢なのか現実なのかは区別がつかない。朦朧とした意識の中、なんとか目を開けると白衣を着た男性が傍に立っていた。 その横には、やっぱり見慣れたカラーのパーカー。幻覚でも幻聴でもなかったのだと確信したものの、朝よりも熱が上がったのだろう。言葉を出すことさえ億劫だった。瞼を閉じたまま二人の会話を聞いていたはずなのに、突如沈んでいくような感覚がして音が消えた。
まるで砂漠の中を歩いているような熱さに目を開けると、ぼんやりと映った天井はゆらゆらと揺れていた。
誰かがいるような生活音に、なんとか体を起こす。
衣擦れの音に振り返ったのは、キバナさんだった。
「起きたか?」
「……なんで?」
ナックルジムのユニフォームを着た彼が傍に座っていて、思わず零れた言葉は掠れていた。
「なんで、って。オマエから珍しく電話が来たから出てみりゃロトムが悲痛な声でユウリが大変だってな。ぐったり倒れてるオマエが画面に映って飛んできたってわけだ」
「鍵は……?じゃなくて、キバナさん仕事……」
少ししゃべるだけで息が上がってしまう。
「鍵はロトムが開けてくれた。電子錠でよかったよ。仕事は、まあ、有給だ。あとで説明するからとりあえず薬飲め。その分だと診察してもらったのも覚えてないんだろ?」
喋るかわりに首を縦に振る。ただ縦に振っただけなのに、その一瞬で視界がぐらりと回った。
手渡されたゼリーをスプーン一口だけ食べて数錠の薬を飲み込む。
喉に何か詰まっているような、変な違和感があった。
「オレさまはこっちの病院、知らないからロトムに調べてもらって往診してもらったんだ。流行り風邪だとさ。とりあえず、着替えた方がいいな。歩けるか?」
汗で湿ったパジャマは不快だった。ゆっくりと足を下ろし、差し出された手につかまって立ち上がる。一歩前に踏み出したところでカクン、と膝が折れた。
「やっぱり無理か。じゃあ風呂、貸してくれるか?こんな暑いと思わなかった。オレさまがシャワー使ってる間にサーナイトに手伝ってもらって着替えとけよ」
「……はい。新しいタオルとか脱衣所にあります。下着は……ないですけど。あと着替えも」
「それは持ってきた。じゃ、着替えたらまた横になれよ」
いつの間にか部屋の隅に転がっていたボストンバッグからタオルやら着替えやらを取り出してキバナさんは脱衣所へと消えていった。
「サーナイト、手伝ってくれる?」
呼びかけるなり、サーナイトはボールから出てきてにっこりと笑んだ。
キッチンでお湯を沸かし、適温になるまでの間に着替えとタオルを用意してくれている。サーナイトはお湯で濡らしたタオルで丁寧に体を拭ってくれ、幾分か気持ち悪さは消えた。
ここまで何もできなくなるとは思わなくて、恥ずかしさと悔しさが渦巻いてくるが、動けない以上、サーナイトに甘えるしかなかった。
最後に新しいパジャマへ着替え、もう一度ベッドに体を横たえると、サーナイトは満足したようにボールの中へと戻っていった。
頭はガンガンと殴られているように痛いし、ほんの少し動いただけでとてつもない疲労感が襲ってくる。薬が効いてくるまでの辛抱だと分かっていても、この体の重さには気が滅入りそうだった。
遠くでシャワーのコックを捻る音が聞こえた。しばらくすると浴室のドアが開き、ラフな服装に着替えたキバナさんが戻ってきた。
冷蔵庫の前やリビングを行ったり来たりするキバナさんを視線で追う。
たいして広くもない部屋でよかったと思いつつ、なぜここにいるのかという疑問が消えない。その理由を考えようにも頭痛が邪魔をして思考はまとまらず、仕方なく瞼を閉じたが、だからと言って眠れるわけではない。今度はぞくぞくとした気が襲ってきた。膝や肘、腰など関節が痛みだし、カタカタと震える度に奥歯が音を立てる。タオルケットを手繰り寄せ、顎まで引き寄せるがそんなものでは足りないほど寒い。なんとか手を伸ばし、ベッドサイドテーブルの上のモンスターボールのスイッチを押すと、サーナイトが出てきた。
「ごめん、毛布持ってきてもらえる?」
こくんと頷いてサーナイトはクローゼットを開けると、奥にしまい込んでいた毛布を持ってきてくれた。
クリーニングのビニール袋を破くのに苦戦していると、キバナさんがサーナイトから毛布を取り、袋を破り、毛布を掛けてくれた。
「寒気か?」
頷くものの、それ以上は何もできない。もはや自分で布団を手繰り寄せることもできないほど体は震えていた。
「サーナイト、戻っていいぞ。あとはオレさまがやるから」
キバナさんの後ろでおろおろとしていたサーナイトは、ほっとしたように表情を崩し、ボールへ戻っていった。
「さて……オレさまもその空いたスペース、使っていいか?寒いだろ」
ぎしっとベッドのスプリングが音を上げ、背中側のマットレスが沈み込む。
家具付きで借りたこの部屋のベッドは、体格のいいアローラの人向けなのかベッドは大きかった。それが孤独感を増す要因でもあっただろう。けれど広々と眠れるのは存外悪いことでない。
「きちんと眠れば明日には少し熱が下がるさ。何かあったら起こせよ。ここ最近ちょっと仕事が忙しくてな……オレさまも疲れてて」
背後からふわっと大きな欠伸が聞こえた。
いつもの私なら、だったら来なくてもいいのに、と悪態をついたかもしれない。けれど今はそんな余裕が微塵もなかった。
ぴったりとくっついた背中は大きく、温かい。寒気に加え、心臓も忙しなく動き出す。こんな状態で眠れるわけがないと思いきや、背中から伝わってくる規則正しい振動に自然と瞼が閉じていく。
ああ、安心するってこういうことだったんだな、と思いながら瞼を完全に閉じると、あれだけ辛かったはずの体の震えさえ気にならなくなっていった。
急に鼻孔を擽った懐かしい香りに瞼を開けると、見慣れた景色の中に違和感を感じた。
キッチンの方に誰かがいた。そして、この懐かしい香りがするものを調理しているようだった。
随分と楽になった体を起こし、ベッドから足を下す。まだ体に倦怠感は残るものの、眩暈や頭痛、悪寒はなくなっていた。
ワンルームのそれほど広くない部屋の片隅に設置された小さなコンロの前で、キバナさんが何かを作っていた。
重怠い体を引きずるようにフローリングに足を擦って歩いて近づくと、キバナさんと目が合った。
「お、起きたか?体調はどうだ?」
脳裏に焼き付いたかのように残っていた懐かしい笑顔に、つんと鼻の奥が痛む。
「少し、体が楽になりました。ありがとうございます」
なら良かった、とキバナさんは小さな片手鍋へ視線を戻した。そろそろと近づいて鍋の中身を見ると、黄金色の液体を吸った米がふっくらと炊き上がっている。
「もう少しでできるから、あっちで待ってな」
ぐつぐつと気泡が現れては消えていくリゾットに、キバナさんはピザ用チーズを乗せ、蓋を閉じた。
そのリゾットの香りは母の作ってくれたものに似ていて、けれど母のリゾットにはチーズは入っていなかった。
どうして体調を崩した時にこのリゾットを食べていたとキバナさんが知っているのかはわからない。もしかしたら定番レシピで、だいたいの家庭で消化器官が弱っているときに食べるのかもしれない。
「これな、ユウリのお母さんから教えてもらったんだ。それに少しだけアレンジ」
ぼうっと鍋を見ていると、頭上から声が降ってきた。
やはり母の、懐かしいリゾットのようだ。
「でもどうして?」
「食べながら説明するよ。熱いからゆっくり、少しでもいいから食べてくれ」
一人では少し余裕があり、二人では少し狭いローソファに座ると、小さなローテーブルに湯気の立ち上る小さな鍋と既に取り分けられた器とスプーンが並べられた。
取り分けられたとはいえ、まだ熱そうなリゾットを溶けたチーズと一緒にスプーンで掬う。
少し息を吹きかけて口へ運ぶとコンソメの優しい味わいにチーズが加わり、新鮮だけど懐かしいと感じた。
母のリゾットより奥深い味わいのような気がするのだが、鼻炎のせいか、そこまでは分からない。
息を吹きかけて少し冷ましては口に運び、気が付けば取り皿は空になっていた。
「美味しい、です」
「そりゃよかった」
おかわりをし、少し冷めるまで待っていると、キバナさんがアイスコーヒーを片手に正面に座った。
「食べながら聞いてくれ。まず、なんでオレさまがここへ来たかってことから説明するな。まず……アローラ時間で今日の早朝。ガラル時間の昼前にユウリのロトムがバトルタワーに電話をしてきたらしい。とても慌てていたらしく、とりあえずユウリのスマホロトムからで、ダンデに繋いでくれということしか聞き取れなかったと最初に電話にでた受付は言っていた。会議中だったダンデに代わり、オリーヴさんに話が通され、オリーヴさんの判断で会議室の電話でダンデが受け取った。ダンデはユウリのスマホロトムだと確認し、スピーカーにして会議室にいたオレらジムリーダーも聞いていた。ロトム曰く、最初はユウリのお母さんに何度かかけたものの繋がらず、なぜかナックルシティジムにもかけたが、リョウタが会議で外出中だと伝えたらしい。そこでダンデ宛に電話をした、ってことだな。で、慌てて支離滅裂なロトムの言葉を拾っていくと、ユウリが起きてこない、苦しそうだ、どうしたらいいかわからないと泣き出した。ダンデは実家に電話し、ダンデのお母さんにユウリのお母さんがどこにいるか聞くと、旅行で今はガラルにいないとのことだった。だからオレらジムリーダーの誰かが行くってことになったんだが……オリーヴさんもバトルタワーの色々な部署の仕事を掛け持ちでやっているから無理だ。ルリナは明日からモデルの撮影で数日留守の予定、マリィ、ビート、オニオン、サイトウ、マクワは明日からジュニアトーナメント、新しいトーナメントで若手ジムリーダーと気軽にバトルができるってのがウリのやつがあってな。そのトーナメントで駆け上がってきた若手たちを若手ジムリーダーが相手するんだ。で、ソニアさんとホップも論文の締め切りがあって無理そうだと。ネズはライブ遠征中だし、正直一番適任だと思ってたメロンさんは、まだ小さい子供たちの世話がある。カブさんもファンからの強い希望もあって今回ジュニアトーナメントに出るしな。となるとオレさまかダンデしかいないんだが、ダンデは論外だ。委員長の仕事もあるし、それ以前に迷ってたどり着けない。でオレさまが来たわけだ」
「……経緯はわかりました。ありがとうございます。それから、ご迷惑おかけしてすみません」
おそらくロトムがナックルシティジムに電話をしたのは、私がうっかりキバナさんに会いたいなんて言ったからかもれない。緊急時には母に連絡するように伝えていたが、もし母に繋がらなかった場合は考えていなかった。だからパニックになり、あちこちに電話をかけてしまったのだろう。
「じゃなくてさ。皆心配して、オレが私が、って凄かったんだぜ?ビートですら憎まれ口叩きながら行くって言ったんだからさ。治ったら連絡してやれよ」
「……すみません」
「ま、具合悪い時に説教なんてしたくないし、この話はとりあえず終わり。ああ、ユウリのお母さんにはさっき連絡取れて、状況を伝えといたよ。そしたらこのレシピを教えてもらった」
「ありがとうございます。
間に合いませんでした!!!!!
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