一年に一度だけ
ファーストキスを奪われた翌日、飛行機の揺れを鬱陶しく感じながら、あのキスの意味を考え続けた。
たっぷりと2時間ほど悩んでいる間に目的地へ着いてしまい、結局その意味はわからないまま、着陸準備に入ったとのアナウンスに窓の方を見ると、一面に澄んだ海のグラデーションが現れた。エメラルドグリーンからブルーへと続くグラデーションはテレビで見たものより美しく、人工的な光ばかりを見続けていた私に衝撃を与えると同時に、肩書を失い、頼る人もいない私は一人きりでこの地でしばらく生きていかねばならないのだと改めて覚悟を決めた。
その覚悟を抱いて降り立った日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
まずは観光地であるアローラで過ごすことを決め、時々賞金目当てで育成中の子たちとバトルに参加した。
アローラにしか生息しないというポケモンや変異体を捕まえ、バトルに参加し、Z技と呼ばれる大技も体感した。ガラルとは異なる食文化や見知らぬ地に夢中になった。最初こそ寂しさを感じたが、それを振り払う様に歩き回り、バトルをしては倒れるように寝る。毎日その繰り返しだった。そのうち、寂しさもそれほど感じなくなり、今は周りに告げた言い訳通り、アローラの歴史を学ぶため、図書館に通い詰めている。
ガラルでは空席となったチャンピオンの座を巡るトーナメントリーグが行われ、新たなチャンピオンが就任したようだ。新しいチャンピオンはジムリーダーではなく、どうやら駆け上がってきたチャレンジャーだったらしい。それ以来、ガラルのニュースは見ていない。
今同期がどうしているのか、ダンデさんやキバナさんがどうしているのか興味がないわけではなかったが、一度知ってしまえば寂しさが募る。
SNSも辞め、たまにマリィやホップから送られてくるメッセージに元気にしていることと、当たり障りのない返事だけを返した。
アローラでは冬でも半袖で過ごせるくらい暖かく、約束の日まであと数日となった頃、彼からメッセージが届いてもう一年になるのだと感じた。
『どこにいる?』
SNSの投稿とは大違いな、質素な文面に思わず笑みが零れる。
『アローラのメレメレ島です』
画面を開いたまま待っていると、待ち合わせの指定場所が送られてきた。
忘れないでいてくれたことが嬉しかった。
彼の声が、姿を見ることができる。それだけのことで胸が高鳴った。
賑やかなアローラの地を選んでよかったと思う。ここなら彼と会った後も気を紛らわすことがたくさんある。新しいことが、出会いがたくさんある。
だから、大丈夫。
約束の2月27日。
鏡の前で喝を入れ、もう今では歩きなれた道を行く。
指定された待ち合わせ場所はホテルだった。アローラに沢山ある中でも高級な部類に入るそのホテルは、ロビーすら広くて優雅な空間だった。
場違いな感覚を持て余して入口付近のソファーで出入りする人々をぼんやりと眺めていると、一人、背の高い褐色の男性が入ってきた。
一目で彼だとわかった。その瞬間、胸がざわつき始める。
まっすぐとこちらへ歩いてくる彼はモデルのようで、さりげなく手を振る姿さえ様になっている。
「お久しぶりです」
「おう、元気だったか?」
はい、と返事をした私はきちんと笑えているのだろうか。新しい服を買って、無造作に伸びた髪を整えて、慣れないメイクをして今日この日を楽しみにしていたのだ。似合っているだろうか。メイクはおかしくないだろうか。
トレードマークのヘッドバンドを外してサングラスをかけている彼の懐かしい顔を、私はしばらく直視できなかった。
彼に連れられて入ったカジュアルなオープンテラスのレストランはたくさんの人で賑わっていた。
席は薄暗く、仄かなダウンライトと卓上のキャンドルで照らされているだけだ。
海が見えるこの席は、遠くに聞こえる波の音と沈んでいく夕日が堪能できた。
まるでデートみたいだと思って彼をちらりと見れば、彼もまた沈んでいく夕日を眺ていた。
「いいな、アローラ」
「賑やかで楽しいですよ。色々と学ぶことも沢山あって、一年があっという間でした」
「これからどうするんだ?」
「まだ、アローラにいますよ」
そっか、と小さく呟いて彼は運ばれてきた料理を口にした。
食べる合間に彼をちらちらと盗み見る。食事を摂る姿すら絵になる。そう、こんな人が私なんて選ぶはずがない。
だから彼が好きだとかそういう邪な考えはやめて、今日この時を純粋に楽しみたい。
兄のように慕う人として。
それが、私が今日彼と会うにあたって決めたことの一つだ。
不思議と、彼との会話が途切れることはなかった。
以前のように揶揄ってきたり、ガラルのみんなの近況、新しいチャンピオンのこと、アローラで出会ったポケモンの話や、手持ちの子たちのことを話していると、時間はあっという間に過ぎ、それは場所を変えたバーでも続いた。
彼は運ばれてきたウィスキーに口づけ、ショルダーバッグの中から煙草とZippoを出し、一本咥えて火を点けた。
「煙草、吸ってましたっけ」
「オマエらがいる前で吸わなかっただけだ」
ふわっと香ったバニラの香り。時々彼を纏っていた香りだ。甘い香りの正体はこれだったのだと合点がいった。
「一本、ください」
ん、と差し出された箱から一本を抜き取って、火の灯ったZippoに近づける。すっと吸い込むと、苦い中に仄かな甘みが広がった。吐き出した煙からはバニラの香りが漂う。
「どこで覚えたんだよ」
「アローラに来て割と直ぐですね。チャンピオンが煙草吸ってる姿なんて撮られたら、ダンデさんに怒られてましたよ。ダンデさんより怖いのはオリーヴさんか」
彼はカラカラとウィスキーに浸った氷を転がし、小さく笑い声を上げた。
「ほどほどにしとけよ。……酒も煙草も」
「はーい」
盛大に吸った煙を吐きながら返事をすれば、彼はふっと笑った。
「この一年でオマエが変わったのか、それとも元はそういうやつだったのか……なあ、どっちだ?」
「さあ……でも今の方が楽ですよ。色々と」
ジンライムを飲み干して、バーテンダーに同じものを頼む。
手の平が汗ばんでいて気持ちが悪い。緊張と動揺、それからアルコールの影響なのだろうか。
何時間一緒に過ごしても、どんなに会話が弾んでも、彼と二人でいることには慣れなかった。
「もう一本、ください」
煙草を吸っている間だけは、それを名目に黙っていることが許されるような気がして手を出せば箱とZippoも一緒に渡された。
「やるよ」
「Zippoも、いいんですか?」
少しくすんだシルバーのZippoにはドラゴンが彫られた。長年使い込まれたのであろうそれは、擦り傷だらけだった。
「古いもんで悪ぃな」
「いえ、ありがとうございます」
親指でドラゴンの彫刻をなぞって、揺らめく炎を見ながらもう一度煙草に火を点ける。
チリチリと焼けていく煙草を見ながら、沈黙に身を任せた。
「いつでも戻ってきていいんだぞ。みんなお前が帰ってくるのを待ってる」
「まだまだ帰りませんよ」
不意に沈黙を破ったのはキバナさんだった。
あなたへの想いを捨てられるまでは、と言葉の代わりに煙を吐き出す。
だって、今も私は、あなたの隣にいられることを喜んでる。同じ匂いに包まれることを、あなたの物をもらっただけでこんなに喜んでる。
それなのに今ガラルに帰ってあなたにいつでも会えるようになってしまったら。あなたが他の女性とまた夜の街を歩いているのを見たら、私はどうしたらいいの?
「何もチャンピオンに戻れって言うんじゃない、ただ、ユウリを待ってるんだ」
「チャンピオンに疲れただけじゃないんですよ。帰らない理由は」
鋭いあなたのことだから、本当は気づいているんでしょう?私が帰らない理由を、わからないふりをしているだけで。
「昔はなんでも話してくれたのにな」
「……子供でしたからね」
「オマエの意思は固いってわけか。いいぜ。お前がガラルに戻ってくるまで毎年会いに来る」
「いいですよ、ほっといてくれても」
「オレさまが来なきゃオマエは独りぼっちで誕生日過ごすんだぜ?」
日付が変われば誕生日だったなんて、今更思い出した。成人してしまえば一つ年を取るくらい、特に意味のないような気がしていた。
それよりも気にかかるのは、先ほどの言葉だ。
本当に毎年会いに来る気なのだろうか。
「お、0時だな。ユウリ、誕生日おめでとう」
「……ありがとうございます。本当に毎年来る気ですか?」
「ああ。……そうだな、お前が結婚するまで。毎年」
「結婚願望なんて全くないんで、一生独身かもしれませんよ」
「それでもいいさ」
結婚なんてするわけがないのにと内心毒づいて、わかりました、とため息交じりに呟く。
あからさまに嬉しそうに笑った彼に、思わず口角が上がった。
「そろそろお開きにするか。オマエんちまで送ってくよ」
「帰るのが面倒なので、今日は泊まります」
そそくさと伝票を掴んで立ち上がると、ごく自然な動作で即座に伝票を奪われた。そのまま素知らぬ顔で前を歩く彼についていく。どうやら払わせてはもらえないらしい。
会計が終わるのを待ちながら、どうしてこんなことになったんだろうと疑問が沸いた。
予定では夕飯を食べたら帰るつもりだったのだ。バーでお酒まで飲んで、ホテルへ泊まる破目になっている。金銭的な問題は少々贅沢をしても困るわけではないが、そういう問題ではない。
戻ってきた彼にごちそうさまでした、と伝えるとまた頭をぽんぽんとされた。
エレベーターに乗り込んで、ロビーまで降りる。無言を突き通してエレベーターの電子板の数字を眺めながら、あの時のようだなとふと思い出した。
一年前、マンションのエレベーターの中でもこうして無言で数字を見ていた。
結局、あの時から私は何も変わっていないのだろう。
ロビーで部屋をとって、売店で必要なものをカゴに放り込んでいく。色気のない無地の下着やトラベル用コスメを放り込んで、そそくさと会計をすましてキバナさんの元へ戻る途中、入口の傍で腕を組んで待っている彼の長い指先が目に入った。ただ立っているだけの彼を見て、なぜかぞくりと背筋に寒気にも似たようなものが走った。
あの指先で髪を撫でられる感触、繋いだ手の乾燥した肌、温かい唇がフラッシュバックのように脳内に、体内に流れ込んでくる。
火照り始めた体はアルコールを摂取したせいだとそう自分に言い訳をしても違うということはもうわかっていた。
「お待たせしました」
なんとか平静を装って声をかければ、彼は微笑んだ。
そんな顔しないで。余計辛くなるから。一秒でも早く、彼の隣を離れなければ。
幸いにも安い部屋は低階層にあるのか、すぐにエレベーターのドアが開いた。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ。また明日な」
彼の横を早足で通り過ぎる。あまりにもその声が優しくて、振り向くことはできなかった。
チン、とエレベーターの閉まる音がして、廊下を折れたところで駆け足になる。ふかふかな絨毯が足音を消してくれた。
キーに記された部屋のドアを開けて、バタンと閉める。
心臓がバクバクと動いていた。
体中が熱い。脳裏に焼き付いた彼の顔。声。唇の感触。
何度もこの熱に浮かされた。冷水を浴びても治まらないこの熱の逃がし方は一つしかない。
でも今日は。今日だけは、絶対にその方法は使いたくない。だって、同じ建物の中に彼がいるのだから。余計、空しくなるだけだから。
抱いてほしい。
そう伝えたら彼は抱いてくれるだろうか。体だけでもいいなんて最早どうかしているとしか思えなかった。
扉の前に崩れ落ちるように座って暫くすると、鼓動が落ち着きを取り戻しつつあった。目を瞑ったまま深く息を吸って吐く。
備え付けの冷蔵庫にエールが入っていて、プルタブを引いて一気に半分ほど飲んで煙草に火を点けた。
カチ、と金属の擦れ合う小気味のいい音を立てて蓋を閉じ、ドラゴンの彫刻をなぞる。
こんなものまでもらうべきではなかった。違う銘柄を買ってくるべきだった。こんなものでは紛らわせないことなどわかり切っているのに自分を止められない。
二本目の缶を開けようとして、それがエールではなくただのジュースだということに気が付いた。
まだまだ飲み足りない。おそらく夜が明けるまで起きていることになるだろう。それでも買いに行く気力はなく、諦めて甘ったるいジュースのプルタブを引く。
吐き出した煙は、容赦なく彼の匂いを彷彿させた。
冬でもアローラの夜明けは早い。
窓辺に設置された一人掛けのソファーに座って外を眺めていると、エメラルドグリーンの海の向こうから白い光が見え始めた。
海岸には散歩をしている人たちの姿がぽつぽつと目立ってきている。仲良く手を取り合って歩いている老夫婦を見て、ふと、もうやめようと思った。
頭の中で何を?と自問自答を繰り返して、この想いを諦めることを、と答えを出す。
彼の傍を離れて、それでもこの想いはずっと抱えていこう。多くは望まない。どこまで本気かはわからないが、年に一度会えればそれで十分だ。私にはファーストキスと、昨日の思い出と、このZippoがある。無理に忘れようとするから辛いのだ。いずれきちんと折り合いをつけることができるだろう。
それまでは一年に一度会えることを願っていつかくる彼の結婚の報告に備えよう。その時は、私はきちんと笑顔でおめでとうと言えばいいのだ。そう言えるように、私は自分自身を立て直さなければならない。
ようやくアルコールの抜けてきたように思ったが、体はどこか気怠い。それでもなんとか浴室へ向かい、シャワーコックを捻った。
髪にお湯をかけると、ふわっとバニラの香りと乾燥した葉の焦げた独特の匂いが漂う。
どんな些細な事でも思い出すようになってしまった。
どうして私は、素直に好きだと言えないのだろう。
頭に浮かんだ疑問に再び自問自答を開始する。
なんで、の問いに、咄嗟に嫌われたくないのだと浮かんだ。
直接想いを伝えたのちに距離を取られてしまったら。それが怖いのだ。そんなことになるのであれば、ずっとこのままでいたい。今の関係が心地良い。私がどんなに彼を想っていても、彼が妹のように扱ってくれるだけで、もうそれだけでいい。この関係までは捨てたくない。
たまにそっけない態度を取ってしまうかもしれないけれど、それは照れ隠しのようなものだ。
シャワーコックを再び捻って湯を止め、簡単にバスタオルで拭いて浴室に置かれていたバスローブを羽織る。
まだ薄暗かった海は日差しを浴びてキラキラと光っていた。早朝だというのに、海岸には人もいる。アローラを満喫しているのであろうその光景は、一睡もしていない体は眩しすぎた。
開けっ放しだったカーテンを閉めて光を遮と、部屋は途端に薄暗くなった。その薄暗さが妙に落ち着き、綺麗に整えられたままのベッドへこのまま飛び込みたい衝動に駆られてしまう。
特に今日の予定を聞いていなかったなと思い出して、 欲望のままベッドへ寝転ぶ。
朝食にしたってまだ早いのだ。少しくらい寝ていてもいいだろう。
薄いシーツに包まるだけでなんだか安心してしまい、自然と瞼が下がった。
海に浮かんでいるかのような気持のよい感覚の中、安寧を邪魔するかのような電子音が遠くに聞こえた気がした。どこかで聞き覚えのある音に耳を澄ませ、それが部屋のチャイムだと気づいてがばっと起き上がる。
「はい」
慌ててドアまで駆け寄り、はだけきったバスローブを整えてドアの外へと耳を澄ませる。
「ユウリ、オレさまだ。少し入れてくれるか?」
ドアスコープも確認せずに開けると、一瞬彼は目を丸くし、後に苦笑いを零した。
「こら、確認くらいしろ。あとな、服着てこい」
「……はい」
一旦ドアを閉めて昨夜着ていたワンピースを羽織る。きっと、髪も寝ぐせで酷いことになっているだろう。手櫛で簡単に押さえつけて再びドアを開けて招き入れる。彼は小ぶりなボストンバックを手にしていた。
「どうぞ、座ってください」
テーブルの上の空き缶をゴミ箱に放り込みながら言うと、彼は首を振った。
「いや、もう空港行こうと思ってな。朝1の便で帰る。……その前に」
絨毯に何かが落ちる音がして振り返ると、彼は私の真後ろに立っていた。
振り返ると同時に腕を引かれ、バランスを崩した体は彼に支えられた。
「え?」
驚きで思わず声がでてしった。咄嗟に離れようと胸を押すが、びくともしないばかりか余計に抱きすくめられてしまう。寝起きで鈍い動きをしていた心臓が急に跳ねだした。
「……いいか。簡単に男を部屋に入れるな。酒も煙草も程々にしろ。ちゃんと食って、寝ろ」
淡々と告げられる言葉にああ、やっぱりまだ妹扱いなんだな、と思ってしまう。もう子供ではないと反論したくなる。キバナさんだから部屋へ入れたし、普段は酒も煙草もそこまで嗜まない。
「キバナさん、私をいくつだと思ってるんですか」
「みんな心配してるんだ。連絡くらいしてやれ。オマエは一人じゃない。何か困ったことがあったら迷わずオレさまに電話してこい。すぐ来るから。オレさまが嫌ならマリィでもホップでも、誰でもいい」
いいな、と念を押され、思わず頷いた。
妹のようだとしても、いつもこうして私に構う。だから、彼を嫌いになれないのだ。その優しさは残酷で、とても痛い。この痛みを味わい続けるのならば、いっそ振られてしまった方が楽なのではないだろうかと頭を過った。
「キバナさん、あの……」
覚悟なんてしていなかった。口から出た言葉に一瞬の迷いを見せていると、柔らかい何かに口を塞がれた。
目の前に水色の瞳はない。変わりに褐色の肌が視界いっぱいに広がっている。
僅かに震える瞼に、キスをされているのだと鈍い頭がようやく理解した。
時間にして恐らくほんの数秒。その数秒がとても長いものに感じた。
「なんで?」
「……さあな。じゃ、また来年な」
ガシガシと頭を数回撫でられて、大きな手が去って行く。
「……待って!」
暫しの放心状態の末、ようやく口から出た言葉が彼に届くことはなかった。
たっぷりと2時間ほど悩んでいる間に目的地へ着いてしまい、結局その意味はわからないまま、着陸準備に入ったとのアナウンスに窓の方を見ると、一面に澄んだ海のグラデーションが現れた。エメラルドグリーンからブルーへと続くグラデーションはテレビで見たものより美しく、人工的な光ばかりを見続けていた私に衝撃を与えると同時に、肩書を失い、頼る人もいない私は一人きりでこの地でしばらく生きていかねばならないのだと改めて覚悟を決めた。
その覚悟を抱いて降り立った日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
まずは観光地であるアローラで過ごすことを決め、時々賞金目当てで育成中の子たちとバトルに参加した。
アローラにしか生息しないというポケモンや変異体を捕まえ、バトルに参加し、Z技と呼ばれる大技も体感した。ガラルとは異なる食文化や見知らぬ地に夢中になった。最初こそ寂しさを感じたが、それを振り払う様に歩き回り、バトルをしては倒れるように寝る。毎日その繰り返しだった。そのうち、寂しさもそれほど感じなくなり、今は周りに告げた言い訳通り、アローラの歴史を学ぶため、図書館に通い詰めている。
ガラルでは空席となったチャンピオンの座を巡るトーナメントリーグが行われ、新たなチャンピオンが就任したようだ。新しいチャンピオンはジムリーダーではなく、どうやら駆け上がってきたチャレンジャーだったらしい。それ以来、ガラルのニュースは見ていない。
今同期がどうしているのか、ダンデさんやキバナさんがどうしているのか興味がないわけではなかったが、一度知ってしまえば寂しさが募る。
SNSも辞め、たまにマリィやホップから送られてくるメッセージに元気にしていることと、当たり障りのない返事だけを返した。
アローラでは冬でも半袖で過ごせるくらい暖かく、約束の日まであと数日となった頃、彼からメッセージが届いてもう一年になるのだと感じた。
『どこにいる?』
SNSの投稿とは大違いな、質素な文面に思わず笑みが零れる。
『アローラのメレメレ島です』
画面を開いたまま待っていると、待ち合わせの指定場所が送られてきた。
忘れないでいてくれたことが嬉しかった。
彼の声が、姿を見ることができる。それだけのことで胸が高鳴った。
賑やかなアローラの地を選んでよかったと思う。ここなら彼と会った後も気を紛らわすことがたくさんある。新しいことが、出会いがたくさんある。
だから、大丈夫。
約束の2月27日。
鏡の前で喝を入れ、もう今では歩きなれた道を行く。
指定された待ち合わせ場所はホテルだった。アローラに沢山ある中でも高級な部類に入るそのホテルは、ロビーすら広くて優雅な空間だった。
場違いな感覚を持て余して入口付近のソファーで出入りする人々をぼんやりと眺めていると、一人、背の高い褐色の男性が入ってきた。
一目で彼だとわかった。その瞬間、胸がざわつき始める。
まっすぐとこちらへ歩いてくる彼はモデルのようで、さりげなく手を振る姿さえ様になっている。
「お久しぶりです」
「おう、元気だったか?」
はい、と返事をした私はきちんと笑えているのだろうか。新しい服を買って、無造作に伸びた髪を整えて、慣れないメイクをして今日この日を楽しみにしていたのだ。似合っているだろうか。メイクはおかしくないだろうか。
トレードマークのヘッドバンドを外してサングラスをかけている彼の懐かしい顔を、私はしばらく直視できなかった。
彼に連れられて入ったカジュアルなオープンテラスのレストランはたくさんの人で賑わっていた。
席は薄暗く、仄かなダウンライトと卓上のキャンドルで照らされているだけだ。
海が見えるこの席は、遠くに聞こえる波の音と沈んでいく夕日が堪能できた。
まるでデートみたいだと思って彼をちらりと見れば、彼もまた沈んでいく夕日を眺ていた。
「いいな、アローラ」
「賑やかで楽しいですよ。色々と学ぶことも沢山あって、一年があっという間でした」
「これからどうするんだ?」
「まだ、アローラにいますよ」
そっか、と小さく呟いて彼は運ばれてきた料理を口にした。
食べる合間に彼をちらちらと盗み見る。食事を摂る姿すら絵になる。そう、こんな人が私なんて選ぶはずがない。
だから彼が好きだとかそういう邪な考えはやめて、今日この時を純粋に楽しみたい。
兄のように慕う人として。
それが、私が今日彼と会うにあたって決めたことの一つだ。
不思議と、彼との会話が途切れることはなかった。
以前のように揶揄ってきたり、ガラルのみんなの近況、新しいチャンピオンのこと、アローラで出会ったポケモンの話や、手持ちの子たちのことを話していると、時間はあっという間に過ぎ、それは場所を変えたバーでも続いた。
彼は運ばれてきたウィスキーに口づけ、ショルダーバッグの中から煙草とZippoを出し、一本咥えて火を点けた。
「煙草、吸ってましたっけ」
「オマエらがいる前で吸わなかっただけだ」
ふわっと香ったバニラの香り。時々彼を纏っていた香りだ。甘い香りの正体はこれだったのだと合点がいった。
「一本、ください」
ん、と差し出された箱から一本を抜き取って、火の灯ったZippoに近づける。すっと吸い込むと、苦い中に仄かな甘みが広がった。吐き出した煙からはバニラの香りが漂う。
「どこで覚えたんだよ」
「アローラに来て割と直ぐですね。チャンピオンが煙草吸ってる姿なんて撮られたら、ダンデさんに怒られてましたよ。ダンデさんより怖いのはオリーヴさんか」
彼はカラカラとウィスキーに浸った氷を転がし、小さく笑い声を上げた。
「ほどほどにしとけよ。……酒も煙草も」
「はーい」
盛大に吸った煙を吐きながら返事をすれば、彼はふっと笑った。
「この一年でオマエが変わったのか、それとも元はそういうやつだったのか……なあ、どっちだ?」
「さあ……でも今の方が楽ですよ。色々と」
ジンライムを飲み干して、バーテンダーに同じものを頼む。
手の平が汗ばんでいて気持ちが悪い。緊張と動揺、それからアルコールの影響なのだろうか。
何時間一緒に過ごしても、どんなに会話が弾んでも、彼と二人でいることには慣れなかった。
「もう一本、ください」
煙草を吸っている間だけは、それを名目に黙っていることが許されるような気がして手を出せば箱とZippoも一緒に渡された。
「やるよ」
「Zippoも、いいんですか?」
少しくすんだシルバーのZippoにはドラゴンが彫られた。長年使い込まれたのであろうそれは、擦り傷だらけだった。
「古いもんで悪ぃな」
「いえ、ありがとうございます」
親指でドラゴンの彫刻をなぞって、揺らめく炎を見ながらもう一度煙草に火を点ける。
チリチリと焼けていく煙草を見ながら、沈黙に身を任せた。
「いつでも戻ってきていいんだぞ。みんなお前が帰ってくるのを待ってる」
「まだまだ帰りませんよ」
不意に沈黙を破ったのはキバナさんだった。
あなたへの想いを捨てられるまでは、と言葉の代わりに煙を吐き出す。
だって、今も私は、あなたの隣にいられることを喜んでる。同じ匂いに包まれることを、あなたの物をもらっただけでこんなに喜んでる。
それなのに今ガラルに帰ってあなたにいつでも会えるようになってしまったら。あなたが他の女性とまた夜の街を歩いているのを見たら、私はどうしたらいいの?
「何もチャンピオンに戻れって言うんじゃない、ただ、ユウリを待ってるんだ」
「チャンピオンに疲れただけじゃないんですよ。帰らない理由は」
鋭いあなたのことだから、本当は気づいているんでしょう?私が帰らない理由を、わからないふりをしているだけで。
「昔はなんでも話してくれたのにな」
「……子供でしたからね」
「オマエの意思は固いってわけか。いいぜ。お前がガラルに戻ってくるまで毎年会いに来る」
「いいですよ、ほっといてくれても」
「オレさまが来なきゃオマエは独りぼっちで誕生日過ごすんだぜ?」
日付が変われば誕生日だったなんて、今更思い出した。成人してしまえば一つ年を取るくらい、特に意味のないような気がしていた。
それよりも気にかかるのは、先ほどの言葉だ。
本当に毎年会いに来る気なのだろうか。
「お、0時だな。ユウリ、誕生日おめでとう」
「……ありがとうございます。本当に毎年来る気ですか?」
「ああ。……そうだな、お前が結婚するまで。毎年」
「結婚願望なんて全くないんで、一生独身かもしれませんよ」
「それでもいいさ」
結婚なんてするわけがないのにと内心毒づいて、わかりました、とため息交じりに呟く。
あからさまに嬉しそうに笑った彼に、思わず口角が上がった。
「そろそろお開きにするか。オマエんちまで送ってくよ」
「帰るのが面倒なので、今日は泊まります」
そそくさと伝票を掴んで立ち上がると、ごく自然な動作で即座に伝票を奪われた。そのまま素知らぬ顔で前を歩く彼についていく。どうやら払わせてはもらえないらしい。
会計が終わるのを待ちながら、どうしてこんなことになったんだろうと疑問が沸いた。
予定では夕飯を食べたら帰るつもりだったのだ。バーでお酒まで飲んで、ホテルへ泊まる破目になっている。金銭的な問題は少々贅沢をしても困るわけではないが、そういう問題ではない。
戻ってきた彼にごちそうさまでした、と伝えるとまた頭をぽんぽんとされた。
エレベーターに乗り込んで、ロビーまで降りる。無言を突き通してエレベーターの電子板の数字を眺めながら、あの時のようだなとふと思い出した。
一年前、マンションのエレベーターの中でもこうして無言で数字を見ていた。
結局、あの時から私は何も変わっていないのだろう。
ロビーで部屋をとって、売店で必要なものをカゴに放り込んでいく。色気のない無地の下着やトラベル用コスメを放り込んで、そそくさと会計をすましてキバナさんの元へ戻る途中、入口の傍で腕を組んで待っている彼の長い指先が目に入った。ただ立っているだけの彼を見て、なぜかぞくりと背筋に寒気にも似たようなものが走った。
あの指先で髪を撫でられる感触、繋いだ手の乾燥した肌、温かい唇がフラッシュバックのように脳内に、体内に流れ込んでくる。
火照り始めた体はアルコールを摂取したせいだとそう自分に言い訳をしても違うということはもうわかっていた。
「お待たせしました」
なんとか平静を装って声をかければ、彼は微笑んだ。
そんな顔しないで。余計辛くなるから。一秒でも早く、彼の隣を離れなければ。
幸いにも安い部屋は低階層にあるのか、すぐにエレベーターのドアが開いた。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ。また明日な」
彼の横を早足で通り過ぎる。あまりにもその声が優しくて、振り向くことはできなかった。
チン、とエレベーターの閉まる音がして、廊下を折れたところで駆け足になる。ふかふかな絨毯が足音を消してくれた。
キーに記された部屋のドアを開けて、バタンと閉める。
心臓がバクバクと動いていた。
体中が熱い。脳裏に焼き付いた彼の顔。声。唇の感触。
何度もこの熱に浮かされた。冷水を浴びても治まらないこの熱の逃がし方は一つしかない。
でも今日は。今日だけは、絶対にその方法は使いたくない。だって、同じ建物の中に彼がいるのだから。余計、空しくなるだけだから。
抱いてほしい。
そう伝えたら彼は抱いてくれるだろうか。体だけでもいいなんて最早どうかしているとしか思えなかった。
扉の前に崩れ落ちるように座って暫くすると、鼓動が落ち着きを取り戻しつつあった。目を瞑ったまま深く息を吸って吐く。
備え付けの冷蔵庫にエールが入っていて、プルタブを引いて一気に半分ほど飲んで煙草に火を点けた。
カチ、と金属の擦れ合う小気味のいい音を立てて蓋を閉じ、ドラゴンの彫刻をなぞる。
こんなものまでもらうべきではなかった。違う銘柄を買ってくるべきだった。こんなものでは紛らわせないことなどわかり切っているのに自分を止められない。
二本目の缶を開けようとして、それがエールではなくただのジュースだということに気が付いた。
まだまだ飲み足りない。おそらく夜が明けるまで起きていることになるだろう。それでも買いに行く気力はなく、諦めて甘ったるいジュースのプルタブを引く。
吐き出した煙は、容赦なく彼の匂いを彷彿させた。
冬でもアローラの夜明けは早い。
窓辺に設置された一人掛けのソファーに座って外を眺めていると、エメラルドグリーンの海の向こうから白い光が見え始めた。
海岸には散歩をしている人たちの姿がぽつぽつと目立ってきている。仲良く手を取り合って歩いている老夫婦を見て、ふと、もうやめようと思った。
頭の中で何を?と自問自答を繰り返して、この想いを諦めることを、と答えを出す。
彼の傍を離れて、それでもこの想いはずっと抱えていこう。多くは望まない。どこまで本気かはわからないが、年に一度会えればそれで十分だ。私にはファーストキスと、昨日の思い出と、このZippoがある。無理に忘れようとするから辛いのだ。いずれきちんと折り合いをつけることができるだろう。
それまでは一年に一度会えることを願っていつかくる彼の結婚の報告に備えよう。その時は、私はきちんと笑顔でおめでとうと言えばいいのだ。そう言えるように、私は自分自身を立て直さなければならない。
ようやくアルコールの抜けてきたように思ったが、体はどこか気怠い。それでもなんとか浴室へ向かい、シャワーコックを捻った。
髪にお湯をかけると、ふわっとバニラの香りと乾燥した葉の焦げた独特の匂いが漂う。
どんな些細な事でも思い出すようになってしまった。
どうして私は、素直に好きだと言えないのだろう。
頭に浮かんだ疑問に再び自問自答を開始する。
なんで、の問いに、咄嗟に嫌われたくないのだと浮かんだ。
直接想いを伝えたのちに距離を取られてしまったら。それが怖いのだ。そんなことになるのであれば、ずっとこのままでいたい。今の関係が心地良い。私がどんなに彼を想っていても、彼が妹のように扱ってくれるだけで、もうそれだけでいい。この関係までは捨てたくない。
たまにそっけない態度を取ってしまうかもしれないけれど、それは照れ隠しのようなものだ。
シャワーコックを再び捻って湯を止め、簡単にバスタオルで拭いて浴室に置かれていたバスローブを羽織る。
まだ薄暗かった海は日差しを浴びてキラキラと光っていた。早朝だというのに、海岸には人もいる。アローラを満喫しているのであろうその光景は、一睡もしていない体は眩しすぎた。
開けっ放しだったカーテンを閉めて光を遮と、部屋は途端に薄暗くなった。その薄暗さが妙に落ち着き、綺麗に整えられたままのベッドへこのまま飛び込みたい衝動に駆られてしまう。
特に今日の予定を聞いていなかったなと思い出して、 欲望のままベッドへ寝転ぶ。
朝食にしたってまだ早いのだ。少しくらい寝ていてもいいだろう。
薄いシーツに包まるだけでなんだか安心してしまい、自然と瞼が下がった。
海に浮かんでいるかのような気持のよい感覚の中、安寧を邪魔するかのような電子音が遠くに聞こえた気がした。どこかで聞き覚えのある音に耳を澄ませ、それが部屋のチャイムだと気づいてがばっと起き上がる。
「はい」
慌ててドアまで駆け寄り、はだけきったバスローブを整えてドアの外へと耳を澄ませる。
「ユウリ、オレさまだ。少し入れてくれるか?」
ドアスコープも確認せずに開けると、一瞬彼は目を丸くし、後に苦笑いを零した。
「こら、確認くらいしろ。あとな、服着てこい」
「……はい」
一旦ドアを閉めて昨夜着ていたワンピースを羽織る。きっと、髪も寝ぐせで酷いことになっているだろう。手櫛で簡単に押さえつけて再びドアを開けて招き入れる。彼は小ぶりなボストンバックを手にしていた。
「どうぞ、座ってください」
テーブルの上の空き缶をゴミ箱に放り込みながら言うと、彼は首を振った。
「いや、もう空港行こうと思ってな。朝1の便で帰る。……その前に」
絨毯に何かが落ちる音がして振り返ると、彼は私の真後ろに立っていた。
振り返ると同時に腕を引かれ、バランスを崩した体は彼に支えられた。
「え?」
驚きで思わず声がでてしった。咄嗟に離れようと胸を押すが、びくともしないばかりか余計に抱きすくめられてしまう。寝起きで鈍い動きをしていた心臓が急に跳ねだした。
「……いいか。簡単に男を部屋に入れるな。酒も煙草も程々にしろ。ちゃんと食って、寝ろ」
淡々と告げられる言葉にああ、やっぱりまだ妹扱いなんだな、と思ってしまう。もう子供ではないと反論したくなる。キバナさんだから部屋へ入れたし、普段は酒も煙草もそこまで嗜まない。
「キバナさん、私をいくつだと思ってるんですか」
「みんな心配してるんだ。連絡くらいしてやれ。オマエは一人じゃない。何か困ったことがあったら迷わずオレさまに電話してこい。すぐ来るから。オレさまが嫌ならマリィでもホップでも、誰でもいい」
いいな、と念を押され、思わず頷いた。
妹のようだとしても、いつもこうして私に構う。だから、彼を嫌いになれないのだ。その優しさは残酷で、とても痛い。この痛みを味わい続けるのならば、いっそ振られてしまった方が楽なのではないだろうかと頭を過った。
「キバナさん、あの……」
覚悟なんてしていなかった。口から出た言葉に一瞬の迷いを見せていると、柔らかい何かに口を塞がれた。
目の前に水色の瞳はない。変わりに褐色の肌が視界いっぱいに広がっている。
僅かに震える瞼に、キスをされているのだと鈍い頭がようやく理解した。
時間にして恐らくほんの数秒。その数秒がとても長いものに感じた。
「なんで?」
「……さあな。じゃ、また来年な」
ガシガシと頭を数回撫でられて、大きな手が去って行く。
「……待って!」
暫しの放心状態の末、ようやく口から出た言葉が彼に届くことはなかった。