一年に一度だけ
デスクに置かれていた書類の束を手に取り、さらりと目を通していく。なんてことはない、エレベーター点検に伴う停止時間のお知らせや、館内定期メンテナンスに関するお知らせ。その他今後開催予定のイベント等のスケジュール表など、後で確認すればいいだけのものだ。
それらの書類の下の方に、ファイルに挟められた書類の束があった。パステルブルーのファイルから書類を引き出すと、毎年この時期に届く、チャンピオンを継続するための契約書だった。
思わずため息が漏れた。その書類を片手にデスクチェアに深く腰掛ける。
この書類に、今までは何も考えずにサインしてきた。
自分はチャンピオンであるべきと、十一年務めてきた。
私が勝たなければ、ダンデさんはチャンピオンを続けていたはず。
私が勝たなければ、キバナさんのライバルは変わらなかった。
私が十一年前のあの日、勝利しなければ変わることがなかっただろう多くの人の人生。
だからチャンピオンを続けることが私の責任。
そう思ってこの十一年を生きていた。
毎年、特に規約も確認せずにサインしてきたその契約書の内容を改めて確認したのは成人を迎えた去年のことだった。成人を迎えたことで、規約に変更するべきところがあるかもしれないとダンデさんに言われて、その時書いてあることの意味がわかるようになってから、初めてじっくりと読んだのだ。
最初はガラルにおける『チャンピオン』について。ガラルの憧れの象徴のような存在であるが故、誤解を招く行動は控えること、有事の際は可能な限り他のジムリーダーに協力をすること。チャンピオンシップで敗れた場合は、勝者がチャンピオンとなること。その際はチャンピオンの任を解くこと。
そして、原則的にチャンピオンの任期は一年単位であること。
この契約書の更新と同時に私はまた一年、チャンピオンを努めなければならないということだ。
昨年度の契約書をじっくりと読んでから、ずっと考えていた。
私はこれ以上、チャンピオンを続けられるのだろうか。なぜ私はチャンピオンを続けているのだろう。あと何年、続ければいいのだろうか。私はどうしたいのだろうか、と。
よく考えれば簡単な話だ。私はもう『チャンピオン』の座に何も魅力を見いだせない。
それどころか、ガラルを出て自由になりたいとすら思っている。そうすれば、少しはあの人に関するメディア情報も私の元に届かなくなるだろう。
私はもう、キバナさんに関するニュースを見ることが辛かった。
何気ない会話をすることも、傍にいることも辛いほど、私は彼に恋をしていた。
ジムチャレンジをしていたころに出会った彼は、大人の男性というよりも兄のようだった。マリィがネズさんを頼るように、ホップがダンデさんを尊敬しているように、私もそうした。キバナさんも妹ができたみたいだとその当時色々な人に言っていた。よく宝物庫へ遊びに行き、ガラル史を彼から学んだ。彼はガラル史に興味を持ってくれて嬉しいと様々なことを教えてくれた。ワイルドエリアでキャンプをしているとき、巡回中のキバナさんが寄ってくれることがよくあった。一緒にカレーを作り、食べ、他愛もない話をした。新しい戦術を思いつけば彼の元へ行き、バトルがしたいと言った。忙しいと申し訳なさそうに断られることもあったけれど、それ以外は喜んでバトルをしてくれた。
いつしか私の頭の中は彼のことでいっぱいになった。何か困ったこと、嬉しかったこと、楽しかったことがあれば真っ先に彼に連絡をした。
十六歳のころ、ゴシップ誌に載る記事の全てが嘘ではないと知った。
本当に偶然だった。
仕事が長引いて、いつもより遅くにアーマーガアタクシーで帰宅する途中、私服姿の彼が女性とホテルに入るところを見てしまった。
冷静に今考えれば、それは逢瀬ではなかったかもしれない。会食や、スポンサーの誰かだったのかもしれない。でも、キバナさんと親しげに会話をしている女性に、私は醜くくも嫉妬してしまった。
私があの女性だったらいいのに、と。
タクシーの中で、慌てて頭を振って打ち消した。どうしてそう思ってしまったのかを考えて、私の中でキバナさんはもう私の中では兄のような存在ではないのだと気が付いた。
その日が恋を自覚した日だった。
あれから二年経った今、私から彼に連絡することはなくなっていた。勿論、会議で会えば会話はするし、誘われればご飯も食べに行く。ただ私から連絡をしなくなっただけで、それ以外は何も変わっていない。
そんな変化に気づいているのか気づいていないのかわからないが、年齢を重ねても彼の接し方は私が幼いころと変わらなかった。
そんなくったくなく笑う彼の綺麗な水色の目に映る私は、いつまでも妹だった。
結局、私はチャンピオン継続の契約書にサインができずに提出期限を迎えてしまった。
何度か催促のメールや電話、言付けを貰っていたが、どうにもサインする気にはなれず、忙しいとはぐらかしていたのだ。
今日のどのタイミングで打ち明けるか、一人デスクで悩んでいると、ダンデさんから委員長執務室へ来るよう内線が入った。要件は言わなかったけれど、理由なんてこの書類のことしかない。
思いきり息を吸って、盛大にため息として吐き出す。
ダンデさんの執務室へ向かうまでの短い間に、私は決断しなければならない。
チャンピオンを辞めるのか、続けるのか。
どちらにせよ、生半可な決断はできない。
後戻りのできない決断に、眠れない夜に一人きりの部屋で缶ビールを片手に、窓の外を眺めながら私は毎日悩んだ。
自由になったらどこへ行こうか。通年暖かいアローラは観光客も多くて少し外見を変えれば元ガラルチャンピオンだと分からないだろう。特に贅沢をする気はないし、野良バトルや大会に出れば数年は暮らしていけるはずだ。移住には貯金を少し崩せば大丈夫だろう。母をガラルに残していくのは少し気がかりだが、帰ってこれない場所ではない。辞める理由は、ガラル以外を見てみたい、では駄目だろうか。
それともここに残り、とりあえずあと一年続けてみようか。
今までなんとか過ごしてこれたのだから、あと一年くらい務められるだろう。けれどすぐに、チャンピオンを続けることよりも彼と会わなければならないことの方が苦痛だと思った。
普通の恋ならば、好きな人に会えれば嬉しいし、会話ができたらその日一日幸せな気分でいられるだろう。実際、数年前まではそうだった。
彼に付き合っている人がいるかどうかは分からない。勝手に勘違いをしているだけかもしれないが、彼に聞く勇気を持ち合わせていない。
それでも、まるで彼女をエスコートするかのように体を支えていたあの距離感は短い付き合いではないのだろうと思った。
もし私の早とちりで、キバナさんに彼女がいなかったら。そんな風に自分の都合の良いように考えてみるが、こうして距離を取るようになって数年が経つ。ましてや彼との年齢差は本当に兄妹のようだ。今でも妹だと思っているから昔と変わらずに構ってくるのだろう。
一面ガラス張りのエレベーターから見下ろすシュートシティは、相変わらず騒々しい。たった数年とはいえ田舎に暮らしていた私にとっては、やはりハロンの空気の方が合っていた。どんどん遠くなる街並みから視線をエレベーターの階数表示板に向けるともうすぐダンデさんの執務室だった。
緊張で吐き気がした。どちらを選ぶかなんて、この書類にサインをしていない時点で決まっているのだ。もう腹を括るしかない。
吐き気を飲み込み、目を瞑って深く息を吸ってゆっくりと吐き出す。
覚悟はできた。
「……理由を聞いてもいいだろうか」
怒っているのだと瞬時にそう悟った。
ダンデさんは納得ができないようだ。口調には表れていないものの、黄金色の瞳は私を捕えて離さない。
当然だろう。チャンピオン交代は簡単なものではない。
「そろそろ……普通の人生を送らせていただけないでしょうか。ガラルの以外も見てみたいんです。例えばシンオウ地方の古い伝承にあった幻のポケモンや、各地のバトルスタイル。そういったものを学びたいんです」
何日も考えた言い訳だ。
本当の理由なんて恥ずかしくて言えるはずがない。
男を忘れるためにガラルから逃げたいんです、なんて、そんな理由が到底まかり通らないのは百も承知だ。
「ガラルではできないことだろうか。実際に現地に行って学ぶのはもう少し先にして、まずはスクールに通ってみるのはどうだろう。きっとキバナとソニア、ホップだって協力してくれるはずだ。仕事の方は調整しよう。君はトーナメントと学業に専念する。それでは駄目だろうか?」
するすると出てくる提案に、私はうっかりため息を漏らしそうになった。
辞める口実にした理由とはいえ、学んでみたいのは本当だ。確かに知識を詰め込んでから現地を見て回った方がスムーズだろう。
けれど、それでは駄目なのだ。
「……やはり現地に行って、学びたいんです。座学では私が知りたいことは半分も学べないので」
「ああ、十分君の言いたいことはわかる。だが、せめてあと……」
私はダンデさんの言葉を遮って首を横に振った。
「……わかった。十一年ありがとう」
ダンデさんはくるりと椅子を回して背を向け、何も言わなかった。
「なんであなたがここに?」
マンションへ戻ると、エントランスのソファーに見慣れた人物が座っていた。
オレンジ色のヘッドバンドに独特なデザインのパーカー。褐色の肌に長身の、私が恋をした人だ。
「……話がある」
いつものように表情は柔らかくない。酷く不機嫌だ。何でも見透かすような、鋭く光るエメラルドグリーンの瞳が退路を塞いでいた。彼をここから帰すのは至難の業だろう。
「どうぞ」
エレベーターのボタンを開けて以降、無言のままエレベーターは上へ進んでいく。
狭い密室に二人でいるのは苦痛だった。早く扉が開くことを祈って電子板が数字を変えていく様子をただ眺める。僅か一分程度の時間がとても長く感じた。
柔らかい絨毯の上を私が先頭に立って歩く。後ろから感じる圧は物凄いものだった。バトルの時よりも宇回っているのではないだろうか。
この部屋に住んで二年半、彼を部屋へ上げるのは初めてだった。もちろん彼の部屋へ行ったこともない。彼の執務室以外で二人きりになったことなど、今までなかった。
心臓がドクドクと脈打つ。恋焦がれた人と二人きりにだというのに、その鼓動は甘ったるいものではなかった。
「……チャンピオン辞めるってのは本当か」
ドアが閉まった途端、キバナさんは本題を切り出した。恐らくダンデさんが連絡したのだろう。大方、相談に乗ってやれくれとかなんとか言ったに違いない。やはりあの理由ではやはり納得はしてもらえなかったようだ。
「そろそろ自由にしてください。……疲れました」
「理由も聞いた。まぁ、人によっては納得するだろうな。けどな、オレらがあんな理由、納得すると思うか?」
「そうかもしれませんが、本当のことです。契約書を交わしている以上、辞めるのも自由だと思いますが」
「十一年も頑張ってきたじゃねぇか」
「ダンデさんの記録は更新しました。そろそろ次のチャンピオンに変わってもいいころじゃないですか?」
十一回の防衛は並大抵のことではなかった。そもそもチャレンジャーが上がってこれなかった年もある。十一回のトーナメントのうち、ファイナルバトルの八割はキバナさんと戦った。お互いの思考の裏を読み、相棒たちとその場で戦術を修正していくバトルは本当に楽しかった。
ワイルドエリアでのキャンプも、チャンピオンとしての業務も。
マリィたち同期たちと戦うことも。
どれもが楽しかった。
けれど、そのすべてを捨ててでも逃げたかった。目の前の男から。
いい加減、忘れなければならないのだ。
それには何もかもをリセットして、新しい人生を送りたい。
「オレさまもダンデも、他のみんなも。そんなに頼りないか?」
「……私はあなたたちより弱かったってことです」
「辞めてどうするんだ」
「まだ何も、考えてません。これから計画を立てて、どこか学びたい土地へ行きます」
玄関での押し問答に疲労を覚える。
ただでさえダンデさんに伝えた後なのだ。気力など残っているわけがない。
「……変わったな、オマエ」
そう言った声も表情も、酷く寂しそうに、もしくは呆れているようにも見えた。
辞めると決めてからの一か月はとても慌ただしかった。
仕事の引継ぎは特に大変ではなかったものの、荷物を実家へ送り、行く先を決めねばならなかった。加えて、昼夜問わず様々な人たちからの着信とメッセージでスマホの通知音は鳴りっぱなしだった。増えていく通知一覧をすべて削除し、連絡は全て無視することにした。
世間へチャンピオン引退を発表すると、当然マスコミも騒がしくなり、その度に「まだ見ぬ地を旅し、知識と経験を積みたい」と答えた。
何度かエントランスで待ち伏せしていた彼も、ここ一週間は姿を見せていない。明日にはガラルを立つということを、彼が知らないはずがない。連絡すら無いということは、とうとう見放されたなと不在着信とメッセージの山をスクロールしながら思う。
それでいい。忘れてしまいたいのだから。
着信履歴を下へスクロールしていくと、二か月前に彼からの履歴が残っていた。
規則的に削除を繰り返していた指が躊躇った。
最後にもう一度だけ彼の声が聞きたいなんて我儘もいいところだ。
去ると決めたのに。
諦めるって決めたのに。
もう一度だけ、いつものように名前を呼んでほしいと思ってしまった。
キバナさん。
声を出さずに名前を呼ぶと、一気に視界が滲んだ。ぽたぽたと画面に水たまりを作り、濡らしていく。水たまりはやがて画面の上を滑り、床へ零れた。
彼が好きだ。どうしようもなく。
伝えてしまいたい。
潔く振られて、楽になって心機一転、知り合いのいない地で過ごす。
それもまた選択肢の一つだろう。
けれど、失恋の傷は致命傷にもなりそうな予感がしていた。
この気持ちすら失ったら、私は生きてはいけないと思った。
ぐすっと一度鼻を啜って、パーカーの袖で涙を拭う。頬を軽く叩いて気を引き締め直し、忘れているものがないか部屋を渡り歩く。
残っているのは寝袋と、ボストンバックとモンスターボールに入った手持ちの子たちだけだ。
あとは全部処分してしまった。
がらんとした部屋で一人、壁に背を預けて天上を仰ぐ。暖色系のダウンライトですら眩しく感じて、照明を落とした。
カーテンが取り払われた部屋は、シュートシティの人工的な明かりが入り込み、真っ暗なはずの部屋でもとても明るく感じた。
なんとなく、最後に見ておきたくて、窓を開け放つ。眼前に広がるシュートシティは、いつも通りだった。
真夜中でも明かりが消えることのない街は、夜になればしんと静まるハロンタウンとは大違いだった。
悠々と聳え立つバトルタワーの中では、ダンデさんがまだ働いているかもしれない。最後の挨拶に伺ったとき、またバトルをしよう、とダンデさんは軽く肩を叩いて言った。さようならとは言われなかった。
新しい旅を楽しんで、と誰もがそう言ってくれた。もう反対する人はいなかった。
シンク下に残っていた買い置きのぬるい缶ビール片手にをぼんやりとに街並みを眺めていると、緑色の巨体が遠くの方でマンションを横切った。
あれはフライゴンだ。瞬時に彼が来たことを悟る。
はあ、と大きくため息が漏れた。
ここまで追いかけてくるくせに、私に捕まってはくれないのだ。
数分もしないうちにインターホンが鳴り、エントランスのドアを開けて彼を招き入れる。
再び鳴ったインターホンに玄関ドアを開けると、無言で差し出された手にはココアの缶があった。
コーヒーが飲めなかった私のためにいつも買ってくれていたココアだ。
「泣くくらいだったら……行かなきゃいいじゃねぇか」
コーヒーを飲みながら、がらんとした玄関を見渡して彼が言った。
「泣いてませんよ」
「目真っ赤にして言っても説得力ねぇよ」
彼が頭に二度、ぽんぽんと手を置く。子供のころは嬉しかったそのスキンシップが、今はなんて残酷なものなんだろう。
「なぁ、来年の2月27日。会おうぜ」
「……なんでその日に?」
「オマエの誕生日くらい、祝わせてくれよ」
「どこにいるかわかりませんよ」
「会いに行く。どこでも」
約一年後の誕生日。
その日に一度会うだけなら構わないだろうか。
来年こそはきちんと諦められているだろうか。
しばしの沈黙の末、私は頷いた。
「がんばれよ」
そう言った彼の顔は、とても優しい見慣れたものだった。
最後に声が聞けた。顔を見ることができた。
それだけで十分だ。
「ユウリ」
名前を呼ばれて上を見上げると、厚くて温かい感触が唇を覆った。
至近距離に飛び込んできた彼の長い睫毛は、小刻みに震えていた。
この行為が何かなんて知らないほど、子どもではない。ただ理由だけは、どんなに脳をフル回転させてもわからなかった。
なんでこのタイミングでキスなんかするの。
私はあなたを諦めるためにここを去るのに。
「なんで……」
「餞別」
今度は少し寂しそうに笑った彼の背を、ただ見ていることしかできなかった。
そして、ファーストキスを奪われた翌日、私はガラルを去った。
それらの書類の下の方に、ファイルに挟められた書類の束があった。パステルブルーのファイルから書類を引き出すと、毎年この時期に届く、チャンピオンを継続するための契約書だった。
思わずため息が漏れた。その書類を片手にデスクチェアに深く腰掛ける。
この書類に、今までは何も考えずにサインしてきた。
自分はチャンピオンであるべきと、十一年務めてきた。
私が勝たなければ、ダンデさんはチャンピオンを続けていたはず。
私が勝たなければ、キバナさんのライバルは変わらなかった。
私が十一年前のあの日、勝利しなければ変わることがなかっただろう多くの人の人生。
だからチャンピオンを続けることが私の責任。
そう思ってこの十一年を生きていた。
毎年、特に規約も確認せずにサインしてきたその契約書の内容を改めて確認したのは成人を迎えた去年のことだった。成人を迎えたことで、規約に変更するべきところがあるかもしれないとダンデさんに言われて、その時書いてあることの意味がわかるようになってから、初めてじっくりと読んだのだ。
最初はガラルにおける『チャンピオン』について。ガラルの憧れの象徴のような存在であるが故、誤解を招く行動は控えること、有事の際は可能な限り他のジムリーダーに協力をすること。チャンピオンシップで敗れた場合は、勝者がチャンピオンとなること。その際はチャンピオンの任を解くこと。
そして、原則的にチャンピオンの任期は一年単位であること。
この契約書の更新と同時に私はまた一年、チャンピオンを努めなければならないということだ。
昨年度の契約書をじっくりと読んでから、ずっと考えていた。
私はこれ以上、チャンピオンを続けられるのだろうか。なぜ私はチャンピオンを続けているのだろう。あと何年、続ければいいのだろうか。私はどうしたいのだろうか、と。
よく考えれば簡単な話だ。私はもう『チャンピオン』の座に何も魅力を見いだせない。
それどころか、ガラルを出て自由になりたいとすら思っている。そうすれば、少しはあの人に関するメディア情報も私の元に届かなくなるだろう。
私はもう、キバナさんに関するニュースを見ることが辛かった。
何気ない会話をすることも、傍にいることも辛いほど、私は彼に恋をしていた。
ジムチャレンジをしていたころに出会った彼は、大人の男性というよりも兄のようだった。マリィがネズさんを頼るように、ホップがダンデさんを尊敬しているように、私もそうした。キバナさんも妹ができたみたいだとその当時色々な人に言っていた。よく宝物庫へ遊びに行き、ガラル史を彼から学んだ。彼はガラル史に興味を持ってくれて嬉しいと様々なことを教えてくれた。ワイルドエリアでキャンプをしているとき、巡回中のキバナさんが寄ってくれることがよくあった。一緒にカレーを作り、食べ、他愛もない話をした。新しい戦術を思いつけば彼の元へ行き、バトルがしたいと言った。忙しいと申し訳なさそうに断られることもあったけれど、それ以外は喜んでバトルをしてくれた。
いつしか私の頭の中は彼のことでいっぱいになった。何か困ったこと、嬉しかったこと、楽しかったことがあれば真っ先に彼に連絡をした。
十六歳のころ、ゴシップ誌に載る記事の全てが嘘ではないと知った。
本当に偶然だった。
仕事が長引いて、いつもより遅くにアーマーガアタクシーで帰宅する途中、私服姿の彼が女性とホテルに入るところを見てしまった。
冷静に今考えれば、それは逢瀬ではなかったかもしれない。会食や、スポンサーの誰かだったのかもしれない。でも、キバナさんと親しげに会話をしている女性に、私は醜くくも嫉妬してしまった。
私があの女性だったらいいのに、と。
タクシーの中で、慌てて頭を振って打ち消した。どうしてそう思ってしまったのかを考えて、私の中でキバナさんはもう私の中では兄のような存在ではないのだと気が付いた。
その日が恋を自覚した日だった。
あれから二年経った今、私から彼に連絡することはなくなっていた。勿論、会議で会えば会話はするし、誘われればご飯も食べに行く。ただ私から連絡をしなくなっただけで、それ以外は何も変わっていない。
そんな変化に気づいているのか気づいていないのかわからないが、年齢を重ねても彼の接し方は私が幼いころと変わらなかった。
そんなくったくなく笑う彼の綺麗な水色の目に映る私は、いつまでも妹だった。
結局、私はチャンピオン継続の契約書にサインができずに提出期限を迎えてしまった。
何度か催促のメールや電話、言付けを貰っていたが、どうにもサインする気にはなれず、忙しいとはぐらかしていたのだ。
今日のどのタイミングで打ち明けるか、一人デスクで悩んでいると、ダンデさんから委員長執務室へ来るよう内線が入った。要件は言わなかったけれど、理由なんてこの書類のことしかない。
思いきり息を吸って、盛大にため息として吐き出す。
ダンデさんの執務室へ向かうまでの短い間に、私は決断しなければならない。
チャンピオンを辞めるのか、続けるのか。
どちらにせよ、生半可な決断はできない。
後戻りのできない決断に、眠れない夜に一人きりの部屋で缶ビールを片手に、窓の外を眺めながら私は毎日悩んだ。
自由になったらどこへ行こうか。通年暖かいアローラは観光客も多くて少し外見を変えれば元ガラルチャンピオンだと分からないだろう。特に贅沢をする気はないし、野良バトルや大会に出れば数年は暮らしていけるはずだ。移住には貯金を少し崩せば大丈夫だろう。母をガラルに残していくのは少し気がかりだが、帰ってこれない場所ではない。辞める理由は、ガラル以外を見てみたい、では駄目だろうか。
それともここに残り、とりあえずあと一年続けてみようか。
今までなんとか過ごしてこれたのだから、あと一年くらい務められるだろう。けれどすぐに、チャンピオンを続けることよりも彼と会わなければならないことの方が苦痛だと思った。
普通の恋ならば、好きな人に会えれば嬉しいし、会話ができたらその日一日幸せな気分でいられるだろう。実際、数年前まではそうだった。
彼に付き合っている人がいるかどうかは分からない。勝手に勘違いをしているだけかもしれないが、彼に聞く勇気を持ち合わせていない。
それでも、まるで彼女をエスコートするかのように体を支えていたあの距離感は短い付き合いではないのだろうと思った。
もし私の早とちりで、キバナさんに彼女がいなかったら。そんな風に自分の都合の良いように考えてみるが、こうして距離を取るようになって数年が経つ。ましてや彼との年齢差は本当に兄妹のようだ。今でも妹だと思っているから昔と変わらずに構ってくるのだろう。
一面ガラス張りのエレベーターから見下ろすシュートシティは、相変わらず騒々しい。たった数年とはいえ田舎に暮らしていた私にとっては、やはりハロンの空気の方が合っていた。どんどん遠くなる街並みから視線をエレベーターの階数表示板に向けるともうすぐダンデさんの執務室だった。
緊張で吐き気がした。どちらを選ぶかなんて、この書類にサインをしていない時点で決まっているのだ。もう腹を括るしかない。
吐き気を飲み込み、目を瞑って深く息を吸ってゆっくりと吐き出す。
覚悟はできた。
「……理由を聞いてもいいだろうか」
怒っているのだと瞬時にそう悟った。
ダンデさんは納得ができないようだ。口調には表れていないものの、黄金色の瞳は私を捕えて離さない。
当然だろう。チャンピオン交代は簡単なものではない。
「そろそろ……普通の人生を送らせていただけないでしょうか。ガラルの以外も見てみたいんです。例えばシンオウ地方の古い伝承にあった幻のポケモンや、各地のバトルスタイル。そういったものを学びたいんです」
何日も考えた言い訳だ。
本当の理由なんて恥ずかしくて言えるはずがない。
男を忘れるためにガラルから逃げたいんです、なんて、そんな理由が到底まかり通らないのは百も承知だ。
「ガラルではできないことだろうか。実際に現地に行って学ぶのはもう少し先にして、まずはスクールに通ってみるのはどうだろう。きっとキバナとソニア、ホップだって協力してくれるはずだ。仕事の方は調整しよう。君はトーナメントと学業に専念する。それでは駄目だろうか?」
するすると出てくる提案に、私はうっかりため息を漏らしそうになった。
辞める口実にした理由とはいえ、学んでみたいのは本当だ。確かに知識を詰め込んでから現地を見て回った方がスムーズだろう。
けれど、それでは駄目なのだ。
「……やはり現地に行って、学びたいんです。座学では私が知りたいことは半分も学べないので」
「ああ、十分君の言いたいことはわかる。だが、せめてあと……」
私はダンデさんの言葉を遮って首を横に振った。
「……わかった。十一年ありがとう」
ダンデさんはくるりと椅子を回して背を向け、何も言わなかった。
「なんであなたがここに?」
マンションへ戻ると、エントランスのソファーに見慣れた人物が座っていた。
オレンジ色のヘッドバンドに独特なデザインのパーカー。褐色の肌に長身の、私が恋をした人だ。
「……話がある」
いつものように表情は柔らかくない。酷く不機嫌だ。何でも見透かすような、鋭く光るエメラルドグリーンの瞳が退路を塞いでいた。彼をここから帰すのは至難の業だろう。
「どうぞ」
エレベーターのボタンを開けて以降、無言のままエレベーターは上へ進んでいく。
狭い密室に二人でいるのは苦痛だった。早く扉が開くことを祈って電子板が数字を変えていく様子をただ眺める。僅か一分程度の時間がとても長く感じた。
柔らかい絨毯の上を私が先頭に立って歩く。後ろから感じる圧は物凄いものだった。バトルの時よりも宇回っているのではないだろうか。
この部屋に住んで二年半、彼を部屋へ上げるのは初めてだった。もちろん彼の部屋へ行ったこともない。彼の執務室以外で二人きりになったことなど、今までなかった。
心臓がドクドクと脈打つ。恋焦がれた人と二人きりにだというのに、その鼓動は甘ったるいものではなかった。
「……チャンピオン辞めるってのは本当か」
ドアが閉まった途端、キバナさんは本題を切り出した。恐らくダンデさんが連絡したのだろう。大方、相談に乗ってやれくれとかなんとか言ったに違いない。やはりあの理由ではやはり納得はしてもらえなかったようだ。
「そろそろ自由にしてください。……疲れました」
「理由も聞いた。まぁ、人によっては納得するだろうな。けどな、オレらがあんな理由、納得すると思うか?」
「そうかもしれませんが、本当のことです。契約書を交わしている以上、辞めるのも自由だと思いますが」
「十一年も頑張ってきたじゃねぇか」
「ダンデさんの記録は更新しました。そろそろ次のチャンピオンに変わってもいいころじゃないですか?」
十一回の防衛は並大抵のことではなかった。そもそもチャレンジャーが上がってこれなかった年もある。十一回のトーナメントのうち、ファイナルバトルの八割はキバナさんと戦った。お互いの思考の裏を読み、相棒たちとその場で戦術を修正していくバトルは本当に楽しかった。
ワイルドエリアでのキャンプも、チャンピオンとしての業務も。
マリィたち同期たちと戦うことも。
どれもが楽しかった。
けれど、そのすべてを捨ててでも逃げたかった。目の前の男から。
いい加減、忘れなければならないのだ。
それには何もかもをリセットして、新しい人生を送りたい。
「オレさまもダンデも、他のみんなも。そんなに頼りないか?」
「……私はあなたたちより弱かったってことです」
「辞めてどうするんだ」
「まだ何も、考えてません。これから計画を立てて、どこか学びたい土地へ行きます」
玄関での押し問答に疲労を覚える。
ただでさえダンデさんに伝えた後なのだ。気力など残っているわけがない。
「……変わったな、オマエ」
そう言った声も表情も、酷く寂しそうに、もしくは呆れているようにも見えた。
辞めると決めてからの一か月はとても慌ただしかった。
仕事の引継ぎは特に大変ではなかったものの、荷物を実家へ送り、行く先を決めねばならなかった。加えて、昼夜問わず様々な人たちからの着信とメッセージでスマホの通知音は鳴りっぱなしだった。増えていく通知一覧をすべて削除し、連絡は全て無視することにした。
世間へチャンピオン引退を発表すると、当然マスコミも騒がしくなり、その度に「まだ見ぬ地を旅し、知識と経験を積みたい」と答えた。
何度かエントランスで待ち伏せしていた彼も、ここ一週間は姿を見せていない。明日にはガラルを立つということを、彼が知らないはずがない。連絡すら無いということは、とうとう見放されたなと不在着信とメッセージの山をスクロールしながら思う。
それでいい。忘れてしまいたいのだから。
着信履歴を下へスクロールしていくと、二か月前に彼からの履歴が残っていた。
規則的に削除を繰り返していた指が躊躇った。
最後にもう一度だけ彼の声が聞きたいなんて我儘もいいところだ。
去ると決めたのに。
諦めるって決めたのに。
もう一度だけ、いつものように名前を呼んでほしいと思ってしまった。
キバナさん。
声を出さずに名前を呼ぶと、一気に視界が滲んだ。ぽたぽたと画面に水たまりを作り、濡らしていく。水たまりはやがて画面の上を滑り、床へ零れた。
彼が好きだ。どうしようもなく。
伝えてしまいたい。
潔く振られて、楽になって心機一転、知り合いのいない地で過ごす。
それもまた選択肢の一つだろう。
けれど、失恋の傷は致命傷にもなりそうな予感がしていた。
この気持ちすら失ったら、私は生きてはいけないと思った。
ぐすっと一度鼻を啜って、パーカーの袖で涙を拭う。頬を軽く叩いて気を引き締め直し、忘れているものがないか部屋を渡り歩く。
残っているのは寝袋と、ボストンバックとモンスターボールに入った手持ちの子たちだけだ。
あとは全部処分してしまった。
がらんとした部屋で一人、壁に背を預けて天上を仰ぐ。暖色系のダウンライトですら眩しく感じて、照明を落とした。
カーテンが取り払われた部屋は、シュートシティの人工的な明かりが入り込み、真っ暗なはずの部屋でもとても明るく感じた。
なんとなく、最後に見ておきたくて、窓を開け放つ。眼前に広がるシュートシティは、いつも通りだった。
真夜中でも明かりが消えることのない街は、夜になればしんと静まるハロンタウンとは大違いだった。
悠々と聳え立つバトルタワーの中では、ダンデさんがまだ働いているかもしれない。最後の挨拶に伺ったとき、またバトルをしよう、とダンデさんは軽く肩を叩いて言った。さようならとは言われなかった。
新しい旅を楽しんで、と誰もがそう言ってくれた。もう反対する人はいなかった。
シンク下に残っていた買い置きのぬるい缶ビール片手にをぼんやりとに街並みを眺めていると、緑色の巨体が遠くの方でマンションを横切った。
あれはフライゴンだ。瞬時に彼が来たことを悟る。
はあ、と大きくため息が漏れた。
ここまで追いかけてくるくせに、私に捕まってはくれないのだ。
数分もしないうちにインターホンが鳴り、エントランスのドアを開けて彼を招き入れる。
再び鳴ったインターホンに玄関ドアを開けると、無言で差し出された手にはココアの缶があった。
コーヒーが飲めなかった私のためにいつも買ってくれていたココアだ。
「泣くくらいだったら……行かなきゃいいじゃねぇか」
コーヒーを飲みながら、がらんとした玄関を見渡して彼が言った。
「泣いてませんよ」
「目真っ赤にして言っても説得力ねぇよ」
彼が頭に二度、ぽんぽんと手を置く。子供のころは嬉しかったそのスキンシップが、今はなんて残酷なものなんだろう。
「なぁ、来年の2月27日。会おうぜ」
「……なんでその日に?」
「オマエの誕生日くらい、祝わせてくれよ」
「どこにいるかわかりませんよ」
「会いに行く。どこでも」
約一年後の誕生日。
その日に一度会うだけなら構わないだろうか。
来年こそはきちんと諦められているだろうか。
しばしの沈黙の末、私は頷いた。
「がんばれよ」
そう言った彼の顔は、とても優しい見慣れたものだった。
最後に声が聞けた。顔を見ることができた。
それだけで十分だ。
「ユウリ」
名前を呼ばれて上を見上げると、厚くて温かい感触が唇を覆った。
至近距離に飛び込んできた彼の長い睫毛は、小刻みに震えていた。
この行為が何かなんて知らないほど、子どもではない。ただ理由だけは、どんなに脳をフル回転させてもわからなかった。
なんでこのタイミングでキスなんかするの。
私はあなたを諦めるためにここを去るのに。
「なんで……」
「餞別」
今度は少し寂しそうに笑った彼の背を、ただ見ていることしかできなかった。
そして、ファーストキスを奪われた翌日、私はガラルを去った。
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