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ジンクス

夜闇の中、坂道を下る。
一定間隔に設置されている街頭の明かりは頼りなく道を照らしている。
日中は賑やかなナックルシティも、夜更けの住宅街は人がいない。
粉雪で白く染まった道にキバナの足跡だけが一本の道のように残っていく。

ダウンジャケットに両手を突っ込み、白い息を吐きながら頬が緩んでしまわないように引き締める。
けれどいくら引き締めても、ユウリの真っ赤になった顔を思い出すと無駄な抵抗だ。
キス一つでリンゴのように赤くなるユウリ。

ーまだだ。まだ、手に入れたわけじゃない。

そう思っても嬉しいものは嬉しい。
誰かに話たくてたまらなくて、スマホの連絡帳をスクロールしていく。
こんなことを話せる友人は一人しか思い当たらない。



住宅街とは一転して騒々しい繁華街で待機していたアーマーガアタクシーへ乗り込むと友人へ連絡をする。
『奢るから、いつもの場所で』
この一文で長い付き合いの友人には伝わるだろう。
運転手に短く行先を告げて、見慣れた街の光景を眺める。
もう眠っただろうかとホテルを探す。目的の建物の明かりはまだ所々ついていて。けれどもどこがユウリの部屋かまではわからない。
少しずつ離れていくホテルを眺めながら、先ほどの感触を確かめるように唇をなぞる。
小さくて、柔らかい唇の感触。
顔を赤く染めて潤んだ瞳。
触れるだけのキスだけで我慢した自分を誰か褒めてほしかった。



二十分足らずで着いた場所はスパイクタウン。
相変わらず陰鬱とした空気が漂う反面、人々は活気に溢れている。
慣れた足取りで裏路地に入り、ビルの奥へと進む。
どこにでもあるような簡素な扉を開けた先は、モノトーンに統一された内装のバー。
「久しぶりだねぇ、キバナさん。ネズと待ち合わせかい?」
やせ細った初老がワイングラスを丁寧に拭きながらにっこりと声をかける。
「お久しぶりっす。奥の席、借ります」
はいはい、と棚からキバナのキープボトルとグラスを用意する。
サービスのナッツと一緒にウイスキーを一口。
今夜はウイスキーの味がする。ナッツの香ばしい香りも。

ばたんと扉が閉まった音がして見ると、猫背の男がだるそうにこちらへ歩いてくる。
「奢るから来いとはずいぶんと偉そうじゃねぇですか」
「いいじゃねぇかよ、どーせ暇なんだろ?」
「暇じゃねぇですよ」
用意されていた二つ目のグラスに酒を注いでネズは一気に煽る。
「ウォッカじゃねーんだからそんな飲み方するなよ」
「じゃあウォッカをください」
初老の男性がネズの前にウォッカを入れたロンググラス、ライムの小皿を置いて奥へと去っていく。
「んで、なんでそんなに上機嫌で?」
「さすがネズ」
グラス片手に茶化すと呆れたようなため息が返ってくる。
「成り行きで告白した」
「ほう…」
だるそうな目が一瞬、輝く。
「成人するまで手を出さないなんて豪語してたのはどこの誰でしたっけね」
「だから成り行きだっつったろ」
事の顛末を手短に説明していく。
ちびちびとウォッカを飲んだり、ライムをマドラーで潰したり。
傍から見れば真剣に聞いていないのではと疑いたくなる。
「…まぁ、おれは知ってましたけどね。あの子がマリィと話してるの聞いてしまったので」
「言えよ。オレさまがこんなに悩んでたってのに」
「偶然聞こえただけなので。誰にもしゃべる気はなかったですけど」
カラカラと氷をかき回す音が耳障りなほど響く。
「んで、ちゃっかり手を出して上機嫌でここに来たと?」
汚らわしいものでも見るかのような視線が痛い。
「んなわけあるかよ。キスだけで抑えたオレ様を褒めてほしいくらいだ」
「誰も褒めねーですよ」
ライムの果肉だらけになったウォッカを一気に飲み干す。
「ただ、あの子を泣かせたら、お前であろうと容赦はしない」
「それ、どういう意味」
敵対心むき出しの鋭い視線をネズに向ける。
「…おれはマリィと同じように愛でてるだけです」
それ以上でもそれ以下でもない、とあきれ果てたような顔で続けた。
「へぇ…ま、シスコンのオマエが妹と同い年のやつに手出せる訳ないわな」
「毎度毎度、シスコンうるせーですよ」
ノイジーだ、とお決まりの台詞を口にする。

「…オレはどうしたらいい?」
「『プレイボーイ・キバナ』が何言ってるんです?」
じとり、とした目を向けられる。
「…そういえばお前から女の話が出てくることって今までなかったですね」
「みんな…勝手に想像してるだけさ。オレは10代からポケモンのことばかりで…ジムリーダーになって…正直そんなこと考える暇もなかった」
「寄ってくる女は多かったでしょう」
「ああ。でもな、言われたんだ。怖いってな」
「怖い…わからなくもねーですが…あの子はどう思うでしょうね」
沈黙が流れる。
音楽も流れていない店内に氷が溶けて崩れる音が響いた。

プレイボーイだなんだと騒がれてはいたが、実際のキバナと関わりを持った女性はそう多くはない。
心の底から渇望したこともない。
性欲がなかったわけでもはない。
ただ、面倒なだけ。
近年は特に、碌に話したこともない相手とそういった行為をする気にもなれず、かと言って関わるだけの余裕もなかった。
『どうにも思っていないその目が怖い』
いつだったか、顔も名前も記憶にない女に言われた言葉が頭の中で喚く。
必死で上り詰めてきた。ダンデを倒すために。ユウリを守るために。

「どうしたらいいんだって聞いてんだろ。…なんかねーのかよ」
「プライドなんて捨てることじゃねーですか。ただの男と女になってみりゃわかることも」
年齢も立場もプライドも全部捨てて。
「んなことできるか?」
「さあ…それは本人たち次第ですし。保障はできねーですけど」
「ネズの方が経験値は高かった」
ぼそりとつぶやくと同時に思いっきり頭を叩かれる。
「早く帰りやがれ」
中指を立ててだるそうな猫背でドアをくぐる。
去って行った友人の後を追う様にテーブルの上に代金を少し多めに置いてキバナも家路についた。



自宅へ戻ると日付はとうに回っていて、何もする気になれずに真っ暗な室内のソファへ座り込む。
『ただの男と女になってみりゃわかることも』
ネズの言葉が頭の中で反芻する。
「それがムズカシーんだって」
しんと静まり返った部屋にキバナの声が響く。
大切にしたい。それと同時に込み上がってくるどす黒い感情。
こんな感情の名前を知らない。
知らない感情に支配されることがとても不気味で、情けない自分に頭を抱える。
ユウリの前でこんな姿を見せる訳にはいかない。
ソファの背もたれにどさっと体を預けて目を閉じる。

夜明けまであと数時間。
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