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ジンクス

急浮上した意識に任せて目を開くと、映った景色は灰色の石が並んでいた。
横の暖炉からはパチパチと音を立てて薪木が燃えている。
まだ怠さの残る体を起こして辺りを見回すと、見慣れた室内に首を傾げた。
夢にしてははっきりと記憶に残っている。体温や、ボールの重量も。
きっと待っている間にラグの上で眠ってしまったのだろう。
思い出すと、頬が熱くなった。都合のいい夢だった、そう自身言い聞かせるとまたちくちくと胸が痛む。
この胸の痛みをいつか慣れなければならない。ただ傍にいるだけで満足だと思い込めば、余計に傷んだ。
長いこと眠っていたのだろう。窓の外は真っ暗になっていた。
広い執務室を見渡してもキバナの姿はない。
キバナのモンスターボールは机に置かれたままで、きっと起きるまで待っていてくれたのだろう。
主のいない部屋は居心地が悪く、毛布を畳んだり、カバンの中身を整理をして手持ち無沙汰な状況を紛らわす。
いつの間にかシュートシティのポケモンセンターに預けたほかの手持ちたちと一緒にインテレオンのボールもテーブルの上に置かれてた。
ボールの中を覗き込むと、ちらりとインテレオンが視線を合わせた。どうやらマヒも取れ、回復してるようだ。
「ごめんね、インテレオン」
囁くように相棒に謝る。自分の危機感のなさが相棒に傷を追わせてしまった。大事な相棒なのに。
そっとボールを撫で回すと、ボールがカタカタと揺れた。ボールの外に勝手に出ることを強く禁じていたが、それでも外に出たいのだろう。インテレオンの珍しい行動にどうしようかと悩んでいると、ギーっと扉の開く鈍い音がした。
「お、起きたか」
まだウェア姿のキバナの髪はいつもより無造作に結われ、黒縁の眼鏡をかけている。その右手には書類がいくつかあって、呑気に寝ている間に仕事をしていたようだった。
「おはよう…ございます?」
「もう21時すぎだけどな。腹減ってないか?」
意識を失う前のキバナは怒っていて更には呆れて果てていたようだったが、今はもう怒ってはいないのだろうか。様子をうかがう限り、いつものキバナのように感じる。
「あの…キバナさん。ご迷惑おかけしました。助けてもらった挙げ句に執務室で寝てしまうなんて」
「もうオレさましか残ってないし、いいって。それより飯、どこかで食うか?うちにカレー残ってるけど」
「キバナさんのカレー、がいいです」
「もう遅いから今日はナックルシティのホテルに部屋取っといたから後で届けてやるよ」
キバナは手に持っていた書類をしまい、ボールとカバンを下げるとごく自然に手を握られた。
突然触れられて思わずビクッと体が跳ねる。
「そんなにびっくりしなくてもいいじゃねぇか」
苦笑いを零して、キバナの手が離れていく。
「あ、その…ごめんなさい」
「さっきから謝ってばっかだな、オマエ」
再び頭をポンポンと叩かれる。
彼の後ろを今日はいつもよりほんの少し距離を開けて歩いていく。
まだ夢の記憶が頭にこびりついていてなんだか恥ずかしかった。
「キバナさん、インテレオンとほかの子たち、ありがとうございました」
「リョウタが今日はシュートシティに行ってたからな。ついでに取って来てもらった。今度で礼言っとけよ?…じゃあオマエは先ホテルへ行っとけ」
大きく頷いてキバナと別れる。ジムの外は冷え込んだ空気広がっていた。
ここからホテルまでは目と鼻の先だというのになんだか急に寂しさが募る。
どうしてこんなに胸がざわつくのだろう。
もしかしたら、疲れているのかもしれない。
だから、うまく脳が機能しないのだ。
フロントで鍵を受け取ってエレベーターに乗り込んで部屋へと入る。
冷え切ったホテルの室内に暖房を入れ、乾いたとはいえどこか湿った匂いのする服を脱いで、シャワコックを捻る。
急いで洗い、キャンプ用に持っていたお気に入りのモコモコとしたパーカーに着替えた。
一緒に買いに行ったマリィにはもっと可愛らしいものにしたら、と言われてしまったが、ディスプレイされているイーブイ柄やワンパチ柄よりもシンプルな紺色のものを選んだ。
イーブイやワンパチ柄が嫌だったわけではない。
あの時は、この紺色のパーカーしか目に入らなかった。
もうその頃にはキバナへの想いが恋だと自覚していて、初めての感情に一杯いっぱいだった。
彼を好きだと気づいたきっかけはなんだったろう。
記憶を手繰り寄せていると、インターホンが鳴った。
ドアスコープから覗いて確認してからドアを開ける。これも幼いころに散々言われたことだ。
「カレー、持ってきたぞ」
目の前に差し出された紙袋からは食欲を擽るいい匂いがしている。
「ありがとうございます、キバナさん!」
受け取った紙袋からカレーの入ったプラスチック容器を出し、備え付けの小さなテーブルに並べていく。
カレーにサラダ、保温マグにペットボトルの飲料。
キバナは簡単にダウンジャケットの雪を払うとハンガーに干し、向かい合うように座った。
黒いⅤネックセーターに薄い水色のジーンズ、足元は細見のブーツ。何度か私服姿は見ているものの、やはり見惚れてしまう。
一瞬だけ彼と視線が合って、慌てて逸らして容器の蓋を開ける。
「美味しそう!」
いただきます、と手を合わせてプラスチックのスプーンで掬う。元から調合してあるカレールーではなく、スパイスを混ぜて作るキバナのカレーはいつも少しだけ味が違って、それもまた楽しみだった。
今回のカレーは辛さも程よく、惜しげもなくふんだんに使われたきのみの風味が混ざり合ってどこかさっぱりとした味わいだった。アクセントにパリッと焼かれたヴルストは来る前に焼いてくれたのだろう。
美味しくて、掬う手が止まらなかった。
夢中になって食べていると、きゅっとマグの蓋を開ける音がした。
差し出されたスープを一口飲むと口の中の辛さが少し和らいだ。
「辛いけど美味しいです。スープがさっぱりコンソメ味なのも、カレーとよく合ってて」
「いっつもよく食べるよなぁ。作り甲斐がある」
「カレーは得意ですけど、キバナさんのようには作れないんですよね。やっぱり市販のルーじゃダメなのかなぁ」
ピリピリと舌先の痺れる感覚を紛らわすようにゆっくりとコンソメスープを飲んでいく。
温かく流れ込んでくる液体は体の芯から温めてくれるようで自然と体の緊張も解れていく。
「ユウリ。さっきは寝ちまってたから渡しそびれたが…改めてコイツ、受け取ってくれるか?」
差し出されたのはモンスターボールだった。ボールの中にいるカジッチュが愛らしい視線を真っすぐに向け、ぴょこぴょこと葉を揺らしている。
「あの…え…?」
保温マグを持ったまま、体が動かなくなった。
あれは、夢だったはずだ。
妙にリアルな夢のはず。
「オマエ、夢だと思ってたのか?オレさまの一世一代の告白を?」
冗談めかして余裕そうな表情のキバナとモンスターボールを見比べる。
ああ、やっぱり大人の男の人だ、なんて感じながら頭の中は何を考えたらいいのかわからないくらいに混乱していた。
バトル中はどんな場面になろうともあらゆる手を考えられるのに、どうしてこんな時に役に立たないのか。
あの腕の中の体温も、優し気な言葉も、何もかもが現実に起きたことだとしたら、どんなに幸せなことだろう。
保温マグを置いて手の甲を抓ってみる。何度も、捻じる方向を変えてみても、痛覚は確かに感じた。
長く、少し手荒れをしていてカサついた指が捻っていた手に重なった。
「まだ、夢だと思うか?」
首を横に振る。この温かさは本物だと確信できた。
「大切に育てます。キバナさんのポケモンみたいに強く」
カジッチュの入ったボールを受け取ると、重なっていた手に指が絡みついた。
「好きだ、ユウリ」
俯いた彼は、顔は見ないでくれ、とらしくない消え入りそうな声で呟いた。
繋がれているのは指だけだというのに、まるで全身が捕らえられたかのように体は動かない。
俯いた彼の漆黒の髪から少しだけ見えた耳はほのかに赤く染まっていた。
「キバナさんは…こんな子供の私のどこがいいんですか?」
綺麗な女性など選り取り見取りだろうに。いくら成人の歳とは言え、キバナからすればまだまだ子供だろうに。
どうして。
「子供…そうだよなぁ、10も下なんだもんなぁ」
溜息を呟くかのように吐き出す。
室内は暖房の音しか聞こえない。温風を吐き出すその音がかえって耳障りでだった。
時間にして、数秒。その短い沈黙が永遠のように感じた。
「でもな、オレは、オマエの強さが好きなんだ。バトルしてる時の真剣な顔も、ポケモンたちと遊んでる顔も。一生懸命頑張ってる姿も。10も下なのにチャンピオンなんて重荷を背負って、周りの重圧引き受けて。守ってやりたいと思った。…いくらオマエとあいつらが強くても心は、インテレオンたちは守れねぇだろ」
美しい澄んだ青いの瞳に見つめられる。まるで海の中にいるような、そんな穏やかな色だ。
この人のこの目に見つめられたら。
すごく、安心するのだ。
まだ年端もいかない少女だったころ。バトルをすればするほどに怖くなった。
チャンピオンとして負けてはいけない。周りの期待に答えなければいけない。
わけのわからないまま仕事をこなし、メディアに露出され、街を歩けば声を掛けられる。
どこにでも誰かの目がある。
『好き』を貫いた結果はけして楽しいものではなかった。
弱音を吐きたくとも誰に話したらいいのか。嫌味にはならないだろうか。
一人ずっと部屋に籠って泣いていたい日もあった。
でもそれを周りは許さない。
そんな険しい道を選んだ幼少の自分を恨んだは日は数知れない。
ジムチャレンジなんてしなければ、ただポケモンが好きなだけの少女で別の道もあったのかもしれないと嘆いた日々。
そんな時をキバナは知っていたのだ。いつだって彼は傍にいた。彼もまたこの道に進んだ者にしかわからない経験をはるかに多く積んでいる。
頼ってはいけないと思っていた。キバナとて、ダンデがチャンピオンであることを望んでいたはずだから。
それでもいつだって、落ち込んでいる日は近くにいてくれた。
「ずっと守られていますよ、キバナさんに。…だって初めて会った日も助けてくれたじゃないですか。いつだって落ち込んでいるときは連絡くれたじゃないですか。8年もずっと」
初めて会った日からずっと憧れていたのだ。最後の門を守る、強く美しくドラゴンに。
何度バトルで勝っても、足りなかった。
どれだけ一緒に過ごしても、足りなかった。それどころかその隣に立ちたいと思ってしまった。
守ってほしいわけではない。そんなに弱いつもりはない。
ただ、どうしても気落ちした時は、傍にいてほしい。
「いつだって笑顔でいることを求められて、いつの間にか張り付いていたそれを外せるのはキバナさんの前だけでした。だから…ついつい甘えていましたけど」
自分の気持ちを伝えることがこんなにも怖いことだったのか。
思い浮かぶ言葉を一言一言ゆっくり選びながら発する。
小刻みに震える手を、言葉の先を促すように大きな手が包み込んでさすっている。
「だけど、キバナさんがファンの女性と一緒にいるのをみて、私じゃ釣り合わないなって」
「だから避けてたんだな?」
小さく頷いて、俯いた。あの様子は今もはっきりと思い出せる。腕に巻き付けられていた細い腕も、服の上からでもわかる豊満な胸も、ミニスカートから伸びた白くて細い足も。
「前はバトル以外もキャンプに行ったり飯食いに行ったりしてたのに、最近はオレの連絡も取らない日もあったよな?」
「SNSに…書かれていたんです。チャンピオンはいつもキバナさんとばかりいる。キバナさんはチャンピオンだけ特別扱いしているって。今日は一緒にキャンプをしてた、昨日は…って全て見ず知らずの人に勝手に騒がれて…迷惑だよなぁって」
けれども、迷惑だとわかっていても、このタイミングを逃せばもうずっとこのままの関係なのかと、自分は一人のままなのかと恐怖を感じた。だから、どうせ迷惑がられるのなら告白して玉砕したほうがマシだとあの時は思ったのだ。
「迷惑なんてんなこと、思うわけねぇだろ」
優しくさすられていた手が強く握られた。手を握ったままキバナは立ち上がり、腕が上へと持ち上げられる。
つられて立ち上がると、ぐいっと引っ張られて胸に飛び込むような形になった。
「急に来なくなったから、好きな奴でもできたのかとか変な奴に付きまとわれてないかとか。そんなことばっかり考えてたら仕事も手につかねぇし」
大の男がみっともねぇ、と呼吸をするのさえ辛くなる程強く抱きしめたかと思うと突然その腕が離れていく。
言葉が頭に入ってこないほど心臓がばくばくと動いていたのに、離れていってしまうのが寂しくて顔を上げると、キバナはずっと手の中にあったモンスターボールを取り合げてテーブルの上に置く。
呆気に取られていると突然視界が宙に浮いた。背中に当たった感触は柔らかくて、ベッドに押し倒されたのだと悟る。
「外野なんてほっときゃいいんだよ」
彼のの吐息に心臓は今までにないくらい強く、早く鼓動する。
ためらう様に一瞬止まって、それでも距離はどんどん縮まっていく。
目を閉じると、唇に何かが触れた。
少し硬くてカサカサしている、肌。それが彼の唇なのだとそれだけはわかった。
優しく啄むようなキス。
恐る恐る目を開けると、青い瞳の中にはっきりと自分が写っている。
それがわかるほど、人と距離を縮めるのは初めてだった。
少しだけ見つめあってまたそっと触れるだけのキスをする。
「顔隠すなよ」
彼とキスをしているのだと、状況を理解すると、とたんに恥ずかしくなって両腕で顔を隠した。
「無理です」
「オレだけ見っともねぇ姿、晒してんじゃん」
少しだけ腕をずらしてちらりとみると、キバナの顔もほんの少し赤い気がした。
「キス一つで赤くなるなんて、ガキみたいじゃねぇか」
彼も一緒なのだと思うとほんの少し安心する。けれども恥ずかしさが消えてなくなるわけではない。
「心臓が口から出そうです」
どうしようもなく脈打つ心臓はとても煩くて、少しでも落ちつけようと腕で顔を隠したままぎゅっと拳を握る。
「…一人称、オレなんですね」
「身内ではオレの方が多いかも。ユウリの前では初めてだっけか」
顔を隠したままでいると、隣にごろんと彼は寝ころんだ。
「一人称が違うキバナさん、新鮮で。…私服姿も」
「それ以外変わんねぇだろ」
笑いながら、彼は指先で髪をくるくると弄んでいる。
しばらくそうしていたかと思うと、彼は立ち上がった。
「…帰っちゃうんですか?」
「オレさまが帰るのが寂しいか?」
揶揄うようににやりと八重歯を見せて笑う。
ようやく治まりかけていた心臓が、再び脈打つ。
「寂しいですけど…心臓が持ちません」
枕を手繰り寄せて顔を埋める。これ以上揶揄われては本当に心臓が止まりそうだ。
ハンガーからダウンジャケットを取る音が聞こえた。その音に、帰ってしまうのだと感じて、何か引き留められるようなことがないかと必死で考える。
「あの、明日お時間ありますか」
「どこに行きたいんだ?」
「誕生日に、ダンデさん主催の誕生会兼成人祝いのパーティーがありまして。その服をキバナさんに、選んでほしいんです」
「じゃあ明日はデートしよう」
「…デート?」
「ブティックと、他に行きたいところも考えとけよ」
ベッドに座って枕を抱えていると、腰を曲げて触れるだけのキスを額に一つ、落とした。
「おやすみ」
ひらひらと手を振ってパタンとドアが閉まる。
「…おやすみなさい」
けして広くはない部屋が急にがらんと広くなったように感じた。
だが、込み上げてきたのは寂しさではなく、どちらかといえば羞恥心。それから、期待。
「また明日」
テーブルに置かれたボールを手に取り、そっと呟くと、カジッチュがボールの中で一度だけ跳ねた。
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