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その他

寂れた地下鉄に揺られながら、もうどれだけの時間を過ごしたかわからない。
座席の肘掛に用意された簡易な灰皿は溢れるほどに吸い殻がねじ込まれ、とうとう向かいの座席の灰皿に煙草を揉み消した。
タールもニコチンも多いこの煙草を、もう一箱開けた。おかげで胃が締め付けられるように痛いし、肺も悲鳴を上げている。車内も真っ白だ。
アーマガアタクシーや電車、他の交通網が出来て、この地下鉄はもうすぐ貨物のみとなるらしい。
昔から一人になりたいときはいつも、深夜に乗って何周もした。
見えるのは無機質なコンクリート、人気のないホーム。薄暗く、陰気な空気。
初めて負けた夜も、痛む体を引きずってここに座っていた。
オーナーに就任した夜も、あいつを初めて抱いた夜も。
誰も乗ってこない最後尾は考え事をするにはちょうど良かった。
速度が下がる。耳障りな音を立ててホームへと止まって、乗客を一人乗せた。
女はつかつかと迷いのない足取りで進むと、向かい合った座席へと座って煙草に火を点けた。
女らしく細い煙草を吸えばいいものの、同じ銘柄を吸う。バニラの香りと葉が焼ける匂い。
「なんでお前がここにいるんだ」
「私の勝手でしょう」
「もう仕事以外では会わないと俺は言った」
追ってくるならもっと可愛らしく息を切らすだとか、泣いていた跡があるとかあればいいものの、この女は誰に似たのか強くて、捻くれている。
地下鉄が動き出す。ホームを離れれば一面コンクリートの壁だ。広告も何もない、ただの闇。
こいつといると、いつもこの闇の中にいるようだった。
顔を合わせればバトルかセックスのどちらかで、ゆったりと食事を楽しんだり買い物をしたこともない。
何が気に入ったのかいつも後ろにいる。
幼いころは無邪気に笑うガキだった。世の理不尽さも過酷さも知らない無垢な子供だった。
飲む酒はどぎつい酒ばかりだし、きつい煙草を好んで吸う、現チャンピオンユウリ。
女らしさの欠片もない、女。俺の前では。
「俺なんか禄でもない男よりもっと、いい奴がいるだろう」
「いい加減認めたらどう?」
「何をだ」
脈絡のない会話に嫌気がさしてため息をつく。
胸ポケットから煙草を取り出すと、それは空箱だった。
すっと目の前に差し出される同じ箱から飛び出た一本を咥えて火を点ける。
二人分の煙で車内は更に白くなった。
赤い口紅のついた煙草を揉み消してユウリは立ち上がった。
このまま去ってくれることを願ってガラス越しにその様子を伺っていると、あろうことか俺の膝を跨いで上に乗ってきた。
頬に手を添えられて、いい加減にしろと怒鳴るつもりだった。
勝気な顔をしたユウリは、笑んでいた。
茶色い瞳は俺を捕えて離さない。
あの日の情景がそのままここで再現されたかのような気がした。
15年前の、チャンピオンシップ。俺が肩書を失った日。
あの時もこいつは笑んでいた。
「いい加減、認めて。私を愛しているって」
「冗談も程ほどにしろ。俺は誰も、愛さない」
「いいえ。あなたは自分にも嘘をついているだけ」
頬に添えられていた手が唇の上を滑るように撫で、ゆっくりと口紅が斑に落ちた唇を押し付けてきた。
小さな舌先で唇を突かれ、ほんの少しの隙間に割り込んでくる。
探すように舌先をなぞって絡めようとするものだから、後頭部を押さえこんで望み通り絡めてやるとくぐもった声を上げる。
こいつのこんな表情を見れるのは、俺だけだと妙な優越感が沸き起こってこいつの声と重なる。
『愛していると認めて』
潮時はとうに過ぎていたのだ。引くのが遅すぎた。
なぜだ?
なぜ、離れられなかった。
「もう、手遅れ。あなたは私を愛しているし、私もあなたを愛している。あなたの枷になっているのは何?」
ああ、思い出した。
沢山の奴に言われたんだ。最近お前に似てきたと。それが良い意味ではないことなんて、俺が一番よく知っている。
だから、会わないと伝えたのだ。
「普通の恋人らしくできないこと?それとも、私よりもバトルを愛していること?」
そのどちらもだと肯定できなくて、フィルターのぎりぎりまで燃えた煙草を最後に一口吸い込む。
腹を括れと脳内で声が騒ぎ始めた。
鬩ぎ立てるように紡がれる言葉に最後の抵抗をする。
「俺は、」
認めない、と続くはずだった言葉は声にならなかった。
強気に笑っていたユウリは表情を歪ませ、目に涙を溜めていた。
涙なんて、最初に抱いた夜以外、見た事がない。
どんなにバッシングを受けようと、危険に巻き込まれようと、酷い怪我をしようとも。
こいつは、一切泣かなかった。
「俺は、お前を大事にすることはできない」
地下鉄の騒音の中にひゅっと息を飲む音が聞こえた気がした。
「ポケモンと、経営が俺にとっては一番だ。家に帰れない日も多い。結婚をする気も、ない」
「それでも、いい」
なんだ、女らしい顔、できるんじゃねぇか。
そう言ってやろうと思ったのに、言葉が声に出ない。エンターテイナーと言われた俺が。
この女には、負けっぱなしなのだ。
この関係は間違っている。最初から警鐘は鳴りっぱなしだった。
それでもその泥沼にはまった馬鹿な男と馬鹿な女。
愛なんてそんな綺麗なものではない。
互いに互いを貪って、深みにはまったこの関係の名前は。
さしずめ狂気。
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