その他
※死ネタ
パチン、とスイッチの音が響いた。
いつもとなんら変わりのない自宅のリビングが灯りに照らされる。
滅多に持つことのない黒いバッグを放るように床へ置いて、ソファに座り込むと、ようやく座った、とそんな風に思った。
この一週間、とても慌ただしかった。
一週間前。
いつも通りの朝を迎え、二人で朝食を取って、いってらっしゃいとキスをしてそれぞれ出勤した。
ワイルドエリアで土砂崩れが発生し、巡回中の職員が巻き込まれたらしい、とその日の午後、ダンデの元に入った連絡に息を飲んだ。
すぐさまダンデは冷静に指示を出していた。
その指示に従い、リーグ委員達が部屋を出たり入ったりと慌ただしくなる。
邪魔にならないようにと委員長室を立ち去る最中、前のめりに転びそうになって慌てて壁に手をついた。
何を踏んだのかと足元を見れば、スポーツシューズの丈夫な靴紐が切れていた。
何か嫌な予感を感じた。
けれども慌ただしく動くスタッフの足音に、あまり気に留めている余裕はなかった。
長らく降り続いている雨は、土砂崩れを警戒する必要があると執務室に戻って点けたテレビでもアナウンスしている。
異常気象からなる豪雨は、各地で注意報を出している。
シュートシティでも真夜中から雨が降り続いていた。
どんよりとした分厚い雲は気分すら憂鬱にさせる。
季節的にも長雨が続く時期だとわかってはいても、覚えている限りの記憶ではこんなに強い雨が降り続いたことはなかった。
これ以上外を見ていると余計に気が沈んでいきそうで、まだ積み重なっている書類へ向き合う。
一枚、二枚と読み進めているうちに雨の音は気にならなくなっていた。
書類へ向き合うことおよそ一時間。
執務室のドアがノックもなしに勢いよく開いた。
「ユウリ君…!」
隣の部屋で指揮を執っているはずの、ダンデだった。
その唇は青ざめていて、震えていた。
ムゲンダイナが暴走をした時ですら気丈に戦っていたダンデが、ここまで動揺するほどの自体とは、と次の言葉を待つ短い間に考える。
土砂崩れが他でも起きて民間人も巻き込まれたのだろうか。
もしくは先ほどニュースで警告していた浸水が、ここシュートでも起きたのだろうか。
色々と災害の被害を予想するが、ダンデから次の言葉は出てこない。
まさか、と嫌な予感が再びした。
まさか夫が、キバナが巻き込まれて怪我をしたのではないだろうか。
一番考えたくなかったことが頭を過る。
「キバナが…巻き込まれた、らしい」
鈍器で殴られたような衝撃を感じて、目の前に光が舞う。意識が遠くなる感覚の前兆だ。
口は動くのに、声は出てこなかった。
頭の中は真っ白で、何も考えられない。
「まだ…巻き込まれたとしか報告は上がっていない。今確認中だ。一緒に向かおう」
首を縦に振ることが、こんなにも重い動作だったろうか。
ぐるぐると回る思考の中に、どこか冷静な自分がいた。
気丈に違う可能性を提示するもう一人の自分の声はすぐにかき消される。
「ユウリ君」
がしっと強い力で両腕を掴まれ、その衝撃に頭を上げると黄金色の瞳があった。
「まだ、何も不確かなんだ」
気丈に振る舞っているダンデの瞳は、揺れていた。
促されるまま立ち上がって後をついて行く。
待機していたアーマーガアタクシーに乗り込んで、降り頻る雨粒を眺める。
上空から見た景色はどこもかしこも大小の水溜りが出来ていた。
キルクスの雪山は岩肌が現れ、残っている雪は僅かに光っている。氷が溶けているのだろう。
続いて見えたスパイクタウンはシャッターが降り、土嚢が積み重なっていた。
ナックルシティも同様の景色だった。
見慣れた街並みは姿を変え、商店は閉まり、浸水を防ぐ様に積み重なった土嚢。石畳には雨水が張り、下り坂をまるで川のように流れができている。
朝は、こんな様子ではなかったのに。
目に写る光景に今更ながら災害というものの恐ろしさを感じた。
「大丈夫だ。キバナは、強い男だから」
膝の上で握りしめている拳は震えていた。
返事をする前に、ガタンと大きな音を立てて揺れた。
アーマーガアが着地したのだ。
強い雨風に打たれ、リョウタが出迎えた。
続いてレナとヒトミが雨具を着て出てくる。
どんなに背伸びをして奥を覗いても、キバナの姿はない。
「委員長、チャンピオン…いえ、ユウリ様。…ご報告致します。巻き込まれた職員はキバナ様で…発見時にはすでにっ…!」
噛み締めながら言葉を発していたリョウタは、最後まで告げることはなかった。
嗚咽を漏らしながら涙ぐむ3人に、ただ現実感だけがないように見えた。
背筋が凍る感触、手や膝の震え。周りの喧騒が遠ざかっていく様。
全てが初めてだった。
「キバナは…キバナはどこだ」
ダンデの長い髪は雨に濡れ、雫が肩口を濡らしている。
頬に張り付いた髪の色は何色だったろうか。
二十年以上、上司として友人として共に過ごしていたのに思い出せない。目の前に映るのは、ただモノクロの世界だ。
「あちらに。損傷が激しく、ユウリ様は見ない方がよろしいかと思います。服装や持ち物からキバナ様と特定を…」
リョウタの言葉を遮り、ダンデは奥へと進んでいく。
見慣れた廊下をダンデの後を追う様に進んでいくが、まるで鉛玉を着けて歩いているように一歩一歩が重い。
ダンデがスタジアムのドアを開け放った。
医療班と思わしき人々が担架の周りを囲んでいる。
その担架には毛布が被せられ、左腕だけが見えていた。
遠目でもわかるその褐色の肌。薬指にはめられたプラチナのリング。
走馬灯のように、頭の中で様々な映像が流れ込んだ。
バトル最中の獰猛な目。けれど普段はとても穏やかで優しい青い瞳。
愛していると言った、その声。
もう大きな手で触れてもらうことも、その瞳が開くことも、声も聞くこともできないのだと悟った瞬間、膝から力が抜け落ちてスタジアムの地面に崩れ落ちるように座り込んだ。
ダンデは駆け寄って毛布を捲る。
その大きな背中がわなわなと震え、地面を拳で叩きつけた。
誰の声かわからない嗚咽と、何度も何度も叩きつける地面から伝わってくる振動。
そこで、記憶は途絶えた。
いつの間にか日は進み、気がつけば葬儀の準備は着々と進んでいた。
日常的に行うことはこなしていたらしい。食事も、風呂も、受け答えも。
ただその記憶は何もない。
次の記憶は、火葬が終わって皆でワイルドエリアで散骨していた所から始まる。
遺言の通り、遺骨はワイルドエリアで散骨となった。
あの土砂崩れが起こった後、異常気象は止んだらしい。
目の前に広がるワイルドエリアは夏に近い日差しが照り付けていた。
時折吹く風も生温かく、このままここにいると汗ばんできそうだった。
ダンデが骨壺を抱え、一握りずつさらさらと撒いていく。
日の光に照らされて、砂のように細かく砕かれた骨はきらきらと光りながら風に乗って飛ばされていった。
その様子を見ながらも、ダンデやネズ、他のジムリーダーや友人のように、さようならと思う気持ちには全くなれなかった。
未だ、実感がない。
記憶がないから余計にそう思うのかもしれない。
だから、リビングのソファに座っても、まだキバナが帰ってきていないような、そのうちドアを開ける音がしてただいま、といつものように。
あの大きな体を丸めてヌメラのように笑って、帰ってくるような気がするのだ。
「ユウリ…」
ふわりとキバナのロトムが名前を呼んだ。
キバナの手持ちも自分の手持ちも、記憶を失った後ポケモンセンターに預けていたらしい。
散骨が終わっても世話はできそうになくて今日もそのまま、預けていた。
ただ、リョウタに預けていたキバナのスマホに入っていたロトムだけはユウリに話があると騒いでいたらしい。
「ユウリに、キバナから伝言があるロト」
「…キバナさんは、即死だったって聞いたけど」
「そのもっと、ずっと前に伝言を頼まれてたロト。キバナは…いつもロトムに何かあったときはってリストとこの動画のこと言ってたロト」
目の前まで移動してきたロトムは、スマホを操作してファイルを送信し、動画を再生した。
受け取ったファイルを開くと、家の権利書や契約書などの置き場所などこれからの手続きに必要な物の場所が記載されていた。
顔を上げれば、画面の中には綺麗なグラデーションの海が穏やかに波を立てている。
砂浜から少し離れた場所にキバナの後ろ姿と、大きなコテージのような建物。その奥には南国特有の木が広がっていた。
もう一週間も見ていない、キバナの後ろ姿にツンと鼻の奥が痛くなる。
『ロトム、まだ手を入れていないここを映しておいてくれ』
画面からキバナが消え、ぐるりとコテージの周りをゆっくりと映していく。
再びキバナの傍まで移動したのか、今度は横顔が映った。
『今年の冬にこれたらいいな。ユウリと二人で。ダンデやネズ…ホップ、マリィ、ビート、ルリナ、ソニア、メロンさん、カブさん。みんなでバーベキューしたりするのもいいな。忙しいから全員揃うかわかんないけどさ。いつか子供ができて、休暇にここで遊んだり』
とても穏やかな顔をして語るキバナは、いつかそれが実現した日のことを想像していたのだろう。遠い目をしているのに瞳は輝いていた。
「キバナさんがいなきゃ…意味なんて、ないのに…」
波の流れる音とともに、涙が一滴、頬を静かに流れた。
◇◆◇◆
あれから一年が経った。
半年はまだ彼が帰ってくるような気がして、毎日毎日ソファーでうつらうつらと眠るだけの生活を送った。
不思議なことにチャンピオン業だけは今まで通りこなして、周りにも以前と同じように振る舞うことができた。
皆、目を丸くして驚いて、そのあとは憐れむような視線を向けた。
振る舞うことはできても、彼の名前を聞くことすらできなくて、彼の思い出を誰かと共有することはできなかった。テレビもネットも必要最低限しか使わないし、自ずと人と距離を置くようになった。
さらに半年が経ち、もう帰ってくることはないのだと分かっていながらも、なんとなく帰ってくるんじゃないかとソファーに座っていた。
今日は特に、四肢は重く、指一本動かすことも辛い。
朝から行われたチャンピオンシップスに出場し、例年通り防衛を果たした。
嬉しさや達成感は感じなかった。ただひたすら、会場にいるはずの彼を探して、けれどそれに気づかれないように気を張って過ごした。
凍える体を毛布で包み、ソファーに横になる。
ガンガンと鳴り響くような頭痛とめまいに目を瞑ったものの、浅い眠りしかむさぼることはできない。
今日はいつもよりも頭痛が酷く、目を瞑っていても眠れそうにはなかった。
なんとなく久しぶりにテレビをつけると、賑やかな笑い声が上がる。早口でまくし立てるように喋る司会者の声が堪らなく煩くて、次々とチャンネルを変える。
新しいドラマも全く見ていないから内容がわからない。全く興味を引くものはなく、動画投稿サイトを開いた。
おすすめにはバトル映像ばかりが並んでいる。一番最初の動画を再生すると、それは一昨年のエキシビションマッチの試合映像だった。
テレビ画面いっぱいに映った人物に、長いタイトルを碌に読まずに再生したことを公開する。
爛々と瞳を輝かせ、八重歯を覗かせて挑発的に笑うキバナの顔がアップで映っていた。
どうやら一昨年の準決勝の試合映像だったらしい。相手はマリィだった。
右手はリモコンを持ったまま、いつでも電源を切ることができるように構えている。
リモコンの赤いボタンに指を添えたまま、止めようかと何度も浅く押す。
懐かしい横顔に涙が一滴、頬を伝った。
拭うことも忘れて画面を食い入るように見つめる。
真っ暗な部屋の中、テレビから放たれる明かりがやけにまぶしく感じた。
ジュラルドンがダイマックスをしたタイミングでテーブルの上に置いていたスマホが振動する音に、大げさなほど体が跳ねた。
こんな時間に電話をかけてくる相手などいない。
そもそも、電話が鳴ること自体が珍しくなっていた。
ちらりと視線をスマホの小さな画面に落とすと、非通知と表示されている。
非通知でかけてくる相手にも心当たりなどない。
悪戯電話か迷惑電話かと思いつつも、受話ボタンをタップする。
「…もしもし」
ざあ、っと砂嵐のような音が小さく鳴り響いていた。
「ユウリ?」
「キバナ、さん…?」
その声は、聴きたくて堪らなかったものだった。
にわかに信じられずにキバナの名を呼ぶと、よかった、と聞きなれた声が返ってくる。
「元気に、してるわけないな。ごめんな」
「うん…っ」
ぐっと目頭が熱くなって、勝手に涙が次々と零れ落ちた。
「ごめんな、一人にして。最近はどうだ?」
「今日は、防衛線で。ちゃんと勝ちました」
「凄いな。確か…15回目か?」
「はい」
「偉いな。オレさまがいなくったってユウリはちゃんと生きてる。偉いよ。オレさまが言えた義理じゃないけど、辛かったら周りを頼れよ?」
「キバナさん、帰ってきて」
「…それは無理だな」
「だったら、私もそっちに行きたい」
「それこそ駄目だ。なぁ、ユウリ。こんなこと今言うべきじゃないのはわかってる。でも言わせてくれ。そのために電話したんだ」
「…はい」
「愛してるよ。ずっと。だけど、ユウリはもう忘れてくれ。ちゃんと食べて、眠って、幸せになってくれ」
「…無理だよ。キバナさんがいなきゃ…」
「ユウリ。アローラの別荘に行ったか?」
「私ひとりじゃ、いけない」
「じゃあ誰か誘って行ってくれ。マリィでもホップ、ルリナでもダンデでも。誰でもいい。誰かと一緒に。そこから新しい日が始まるから。…あんまり長くは喋れないんだ。もう切らなきゃならない。いいか、絶対こっちには来るなよ。また、かけるから。スマホだけは絶対に肌身離さず持っていてくれ」
「…やだよ、もっとっ…喋りたい」
「またな、ユウリ」
ざあ、っと鳴っていた砂嵐のような音の代わりにツーツーっと機械音が鳴り響く。
スマホを握りしめたまま、その音をただひたすら聞いていた。
濡れた頬を手の甲で拭って、再びソファに横になる。
ぼんやりと着信履歴の非通知を眺めていて、はたと気が付いた。
テレビから音がしない。
テレビに視線を戻すと、動画が停止されました、再生しますか?とテロップが表示されている。
その表示は、30分以上放置していなければ見ることがない。
今の電話はせいぜい10分程度。
時計を見ると、動画を見始めてから2時間以上が経過していた。
即座に奇妙だと思った。
スマホのロックを解除して、着信履歴を開く。
そこには数日前に業務連絡で通話をした、ダンデの名前しかなかった。
非通知を探しても、それはどこにもない。
確かに、動画を見ていた。眠った記憶などない。
夢だったのならば、どうしてこんなにもはっきりと覚えているのだろうといくつもの疑問が沸く。
会話の内容を始めから思い返す。
彼は、ごめんと謝罪を口にした。そして愛していると。けれども忘れてくれと。幸せになってほしいと。
そして、ロトムが見せてくれた動画の別荘地に誰かと行けと。
もう一度、時刻を確かめる。
まだ日付は変わっていない。
着信履歴を下へスクロールし、マリィをタップする。
数回のコール音の後、もしもし、とマリィの声が聞こえた。
「こんな遅くにごめんね。明日からの休暇、何か予定ある?」
「ないよ?どうしたん、どっか行きたいん?」
「…アローラに。行かなきゃいけないんだけど…一人じゃ行けなくて。ネズさんも一緒に行けないかな」
「ちょっと待ってね」
声が遠くなったかと思いきや、大きな声でマリィがネズを呼ぶ。
アローラに明日ユウリと行きたいから兄貴もついてきて、と強引な内容に変わってしまった伝言に、ネズがいいですよと返したのが聞こえた。
「いいって。明日ね。チケットは?取った?」
「ううん、まだ」
「じゃあ明日のお昼の便、取るから支度しといて」
「うん、ありがとう」
明日空港でね、と言い残してプツリと通話が切れる。
ツーツーと流れる機械音にやはり少し前に実際に聞いたような気がした。
スマホをテーブルに置いてソファから立ち上がる。
頭痛も眩暈も消えた健康的な状態になっていたことに驚きつつも、旅支度を始めた。
◇◇◇
ほとんど眠らないまま支度をし、待ち合わせた空港にアーマーガアタクシーで到着すると、遅いとマリィに文句を言われながら手を引かれて飛行機へ飛び乗った。
マリィは先ほどまで怒っていたはずなのに、ユウリと旅行だとはしゃいだ声を上げている。
ちらりとネズに視線を向けると、ネズの表情はサングラスで見えなかった。
「隈が酷いです。少し寝なさい」
細いけれども、自分よりははるかに大きい手で頭を撫でられる。
はい、と返事をして目を瞑るとゴウゴウと鳴り響くエンジン音がやけに大きな音に感じた。
その音が耳障りだと思ったのも一瞬で、すぐに意識はどこかへ引っ張られるように遠くなっていく。
そんな感覚は久しぶりだった。
次に意識が戻ったのは、着陸のアナウンスが流れたときだった。
数時間、ぐっすりと眠っていたらしい。
飛行機を降りて手続きを済ませ、タクシーに乗るとどっと疲れが沸き起こった。
ホテルに着くまで、後部座席でマリィと観光雑誌を眺める。
見知らぬ土地にほんの少し、憂鬱な気分が和らいだ。
あれが食べたい、ここを見に行きたいというマリィに適当に相槌を打ち、ガラルとは違う街並みにどこか現実感が沸かなかった。
しばらくしてホテルに到着すると、手続きはマリィに任せてネズとソファに座って待つことにした。
「あの家に行くんでしょう」
「ネズさん、知ってたんですか」
「キバナからも相談を受けていましたし。それに、大事なものができると人は不安になるんです。だから万が一のことも聞いていました」
「…そう、だったんですね。私には全然、そういうことは教えてくれなかった」
「あなたに話すのは縁起が悪いと言っていました。そのうち、また今度…そう言っているうちにの出来事だった」
「…はい」
「どうして急に思い立ったのかは後で聞きます。とりあえず荷物を預けて行きましょうか」
足元から視線を上げると、マリィがフロントの方で手を振っていた。
大きな荷物を預けてホテルを後にする。
タクシーに乗り込むと、ネズが行先を告げた。
ゆっくりと動き出した景色に、シートに背を預けてぼんやりと街並みを眺める。
勢いのままに来てしまったことに少し後悔をしていた。
もし、彼が生きていたら。
例えば、彼が先に到着していて、あとからマリィたちと合流するという流れだったら、どんなによかっただろう。
初めて見る別荘にはキバナがいて、ダンデや他の知人たちもいて、みんなで休暇を過ごす。
彼が想像したような、そんな未来だったなら。
涙がこぼれそうになるのを、唇を噛んで必死にこらえる。
ふいに、放り出して手に刺激を感じて体が跳ねる。マリィの小さい手が重なっていた。それがとても温かくてそのまま力を抜く。
おそらく彼女も、すべてを知っているのだ。知っていて、あえて旅行が楽しいのだと言ってくれている。
ぐっと、零れそうになる涙を堪えた。泣いてはいけない。これ以上、この二人に迷惑をかけてはいけないと思った。
タクシーは大通りから外れ、海沿いを走る。
少しだけ開いた窓から潮風が車内に流れ込む。
キラキラと光る水面を見つめていると、不思議と安心した。
タクシーは別荘地が並ぶ道に入り、やがて止まった。
涼しい車内を降りるとジリジリと肌を焼くような太陽に照らされる。
動画で見た建物の中に入ると、そこには何もなく、がらんとしていた。
「…掃除はしているようですね」
見覚えのない払込書の一つはここの清掃業者だったのだろう。
問い合わせるのも億劫で、大した額でもないからそのまま支払っていた。
公共料金はすべてキバナ名義になっていたが、本人が死亡していても支払いさえしていればそのまま継続される。その中の一つだと思っていた。
ネズはあちこちきょろきょろと点検をするように見ながら奥へと進んでいく。
リビングの奥まで進み、レースのカーテンを開けると、エメラルドグリーンの海が一面に広がっていた。
窓を開けて広いバルコニーへ出る。
目の前にどこまでも続く海の色が、彼の瞳を思いださせた。
手すりに腕を乗せ、震える口元を隠す。
どんなに唇を噛んでも一瞬で湧き上がった涙を堪えることはできなかった。
もっと一緒に、いろんなことをしたかった。もっと一緒にいたかった。
後悔ばかりが頭を過る。
次第にそれは疑問へと変わっていく。
どうして、彼が死ななければならなかったのか。
今ほど存在するかも怪しい神を呪ったことはないだろう。
どんな時だって隣にいてくれたのに。
涙で滲む視界が晴れることはない。それは心の中も同じだった。
「…死に意味があるとは思いません。どんな形であれ、それが寿命というものなんでしょう。俺も、あいつがいなくなったのは…寂しいですよ」
ぽん、と頭の上に手が置かれた。ぐいっと涙を拭って、呼吸を整える。
「昨日、キバナさんから電話がかかってきたんです」
いくら整えても、口から出た言葉は震えていた。
到底信じてはもらえない話だろうけれど、ネズなら笑い飛ばしたりはしないだろう。
無茶な頼みに応じてくれたのだ。理由くらいは話さなければいけない。
「非通知でした。しっかり会話の内容も覚えているのに…着信履歴は残ってないんです。電話が切れた後、気が付いたら眠っていたみたいで。眠くはなかったのに。あれは夢だったんでしょうか」
「あいつがここへ来るように言ったんですか?」
頷くと、ネズは視線を海へと向けた。
「あいつがここを買ったあとですかね…ダンデと三人で飲んだ時にとても嬉しそうに教えてくれました。ここで皆で休暇を過ごせたら、どんなに楽しいだろうって。あなたと二人で過ごして、手持ちたちをビーチで遊ばせて。誰の目も気にしなくていい場所でゆっくり過ごすんだって。散々言っていました。…まさかこんな形で来ることになるとは思ってもいなかったですけどね」
ざざ、と波打つ音に耳を傾けていると、こつん、とサンダルの音が響いた。
振り返ると、マリィがペットボトルを片手に少し戸惑っているような表情を浮かべて立っていた。
ぐいっと差し出されたそれを礼を言って受け取る。
キンキンに冷えているそれは、わざわざ買いに行ってくれたのだろう。
「あなたのそれは夢かもしれないし、夢ではないかもしれない。カントーにはお盆と言って、死者が帰ってくる時期があるそうです。ちょうど、夏の今頃だとカブさんが言っていました」
「キバナさんは…誰かと一緒にアローラの別荘へ行けと言いました。そこから、新しい日が始まるからと」
「…来てみてどうですか?まだ何も考えられませんか」
「…いえ。私、ここに住みたい。仕事のこととか都合がつけばですけど…」
最初にこの地に足を踏み入れた時は負の感情でいっぱいだった。
なぜ、どうして。そればかりが頭に浮かんだ。
きっかけは、海の色だった。
エメラルドグリーンの海は彼の瞳の色そっくりで、まるで見守られているような、包まれているような、そんな安心感が少しずつ流れ込み、霧の中にいるような朧げな景色にふいに光が差した。
今とて、ふっきれたわけではない。何年も何十年も、もしかしたら一生、切りをつけられないかもしれない。
それでも、一人あの家にいるよりは、ここにいたいと思った。
「だそうですよ。委員長」
へ?と首を傾げると、建物の影から見覚えのある炎が揺らめいた。
「はは、ばれていたか」
Tシャツにジーンズとラフな格好で頭を掻きながらダンデとリザードンが現れた。
後に続くように見覚えのある顔ばかりが現れる。
ソニア、ルリナ、ホップ。
「よく無事にたどり着きましたね」
「ソニアたちにきつく言われたからな」
「俺が呼びました。あいつの願いだったでしょう。ここで皆で集まるって」
レンタカーを借りたのか、ワゴン車の中から簡易テーブルや食料などが次々と広いバルコニーに設置されていく。
その光景にただ驚いて、何も言葉が出なかった。
「さて、それじゃ一回忌を派手に騒いでやりましょうか」
「…それは失礼にならないか?」
「どうせあの男もその辺で見てたりするんじゃないですかね。だから思いっきり見せつけてやりましょう。それで、悔しがればいいんですよ」
何もないがらんとした別荘に明かりが灯る。
呆気に取られて渡されるがまま、コップを受け取った。
ベンチに腰掛けようと動いた瞬間、背後で人が通った気配がした。
振り向いても誰もいない。そこには夕日に照らされた海が広がるだけだった。
辺りをきょろきょろと見まわしてもやはり人影はない。
「ユウリー!」
ホップが呼ぶ声に足を踏み出すと、僅かな力で背中が押された。
背中に広がったその刺激は、ちょうど彼の手の大きさと同じくらいで、もう一度振り返る。
ふっと体の力が抜けて、自然と口角が上がった。
「…私の最後の我儘です。あなたのことは、忘れません」
小さく呟くと、海風がひときわ強く吹いた。
パチン、とスイッチの音が響いた。
いつもとなんら変わりのない自宅のリビングが灯りに照らされる。
滅多に持つことのない黒いバッグを放るように床へ置いて、ソファに座り込むと、ようやく座った、とそんな風に思った。
この一週間、とても慌ただしかった。
一週間前。
いつも通りの朝を迎え、二人で朝食を取って、いってらっしゃいとキスをしてそれぞれ出勤した。
ワイルドエリアで土砂崩れが発生し、巡回中の職員が巻き込まれたらしい、とその日の午後、ダンデの元に入った連絡に息を飲んだ。
すぐさまダンデは冷静に指示を出していた。
その指示に従い、リーグ委員達が部屋を出たり入ったりと慌ただしくなる。
邪魔にならないようにと委員長室を立ち去る最中、前のめりに転びそうになって慌てて壁に手をついた。
何を踏んだのかと足元を見れば、スポーツシューズの丈夫な靴紐が切れていた。
何か嫌な予感を感じた。
けれども慌ただしく動くスタッフの足音に、あまり気に留めている余裕はなかった。
長らく降り続いている雨は、土砂崩れを警戒する必要があると執務室に戻って点けたテレビでもアナウンスしている。
異常気象からなる豪雨は、各地で注意報を出している。
シュートシティでも真夜中から雨が降り続いていた。
どんよりとした分厚い雲は気分すら憂鬱にさせる。
季節的にも長雨が続く時期だとわかってはいても、覚えている限りの記憶ではこんなに強い雨が降り続いたことはなかった。
これ以上外を見ていると余計に気が沈んでいきそうで、まだ積み重なっている書類へ向き合う。
一枚、二枚と読み進めているうちに雨の音は気にならなくなっていた。
書類へ向き合うことおよそ一時間。
執務室のドアがノックもなしに勢いよく開いた。
「ユウリ君…!」
隣の部屋で指揮を執っているはずの、ダンデだった。
その唇は青ざめていて、震えていた。
ムゲンダイナが暴走をした時ですら気丈に戦っていたダンデが、ここまで動揺するほどの自体とは、と次の言葉を待つ短い間に考える。
土砂崩れが他でも起きて民間人も巻き込まれたのだろうか。
もしくは先ほどニュースで警告していた浸水が、ここシュートでも起きたのだろうか。
色々と災害の被害を予想するが、ダンデから次の言葉は出てこない。
まさか、と嫌な予感が再びした。
まさか夫が、キバナが巻き込まれて怪我をしたのではないだろうか。
一番考えたくなかったことが頭を過る。
「キバナが…巻き込まれた、らしい」
鈍器で殴られたような衝撃を感じて、目の前に光が舞う。意識が遠くなる感覚の前兆だ。
口は動くのに、声は出てこなかった。
頭の中は真っ白で、何も考えられない。
「まだ…巻き込まれたとしか報告は上がっていない。今確認中だ。一緒に向かおう」
首を縦に振ることが、こんなにも重い動作だったろうか。
ぐるぐると回る思考の中に、どこか冷静な自分がいた。
気丈に違う可能性を提示するもう一人の自分の声はすぐにかき消される。
「ユウリ君」
がしっと強い力で両腕を掴まれ、その衝撃に頭を上げると黄金色の瞳があった。
「まだ、何も不確かなんだ」
気丈に振る舞っているダンデの瞳は、揺れていた。
促されるまま立ち上がって後をついて行く。
待機していたアーマーガアタクシーに乗り込んで、降り頻る雨粒を眺める。
上空から見た景色はどこもかしこも大小の水溜りが出来ていた。
キルクスの雪山は岩肌が現れ、残っている雪は僅かに光っている。氷が溶けているのだろう。
続いて見えたスパイクタウンはシャッターが降り、土嚢が積み重なっていた。
ナックルシティも同様の景色だった。
見慣れた街並みは姿を変え、商店は閉まり、浸水を防ぐ様に積み重なった土嚢。石畳には雨水が張り、下り坂をまるで川のように流れができている。
朝は、こんな様子ではなかったのに。
目に写る光景に今更ながら災害というものの恐ろしさを感じた。
「大丈夫だ。キバナは、強い男だから」
膝の上で握りしめている拳は震えていた。
返事をする前に、ガタンと大きな音を立てて揺れた。
アーマーガアが着地したのだ。
強い雨風に打たれ、リョウタが出迎えた。
続いてレナとヒトミが雨具を着て出てくる。
どんなに背伸びをして奥を覗いても、キバナの姿はない。
「委員長、チャンピオン…いえ、ユウリ様。…ご報告致します。巻き込まれた職員はキバナ様で…発見時にはすでにっ…!」
噛み締めながら言葉を発していたリョウタは、最後まで告げることはなかった。
嗚咽を漏らしながら涙ぐむ3人に、ただ現実感だけがないように見えた。
背筋が凍る感触、手や膝の震え。周りの喧騒が遠ざかっていく様。
全てが初めてだった。
「キバナは…キバナはどこだ」
ダンデの長い髪は雨に濡れ、雫が肩口を濡らしている。
頬に張り付いた髪の色は何色だったろうか。
二十年以上、上司として友人として共に過ごしていたのに思い出せない。目の前に映るのは、ただモノクロの世界だ。
「あちらに。損傷が激しく、ユウリ様は見ない方がよろしいかと思います。服装や持ち物からキバナ様と特定を…」
リョウタの言葉を遮り、ダンデは奥へと進んでいく。
見慣れた廊下をダンデの後を追う様に進んでいくが、まるで鉛玉を着けて歩いているように一歩一歩が重い。
ダンデがスタジアムのドアを開け放った。
医療班と思わしき人々が担架の周りを囲んでいる。
その担架には毛布が被せられ、左腕だけが見えていた。
遠目でもわかるその褐色の肌。薬指にはめられたプラチナのリング。
走馬灯のように、頭の中で様々な映像が流れ込んだ。
バトル最中の獰猛な目。けれど普段はとても穏やかで優しい青い瞳。
愛していると言った、その声。
もう大きな手で触れてもらうことも、その瞳が開くことも、声も聞くこともできないのだと悟った瞬間、膝から力が抜け落ちてスタジアムの地面に崩れ落ちるように座り込んだ。
ダンデは駆け寄って毛布を捲る。
その大きな背中がわなわなと震え、地面を拳で叩きつけた。
誰の声かわからない嗚咽と、何度も何度も叩きつける地面から伝わってくる振動。
そこで、記憶は途絶えた。
いつの間にか日は進み、気がつけば葬儀の準備は着々と進んでいた。
日常的に行うことはこなしていたらしい。食事も、風呂も、受け答えも。
ただその記憶は何もない。
次の記憶は、火葬が終わって皆でワイルドエリアで散骨していた所から始まる。
遺言の通り、遺骨はワイルドエリアで散骨となった。
あの土砂崩れが起こった後、異常気象は止んだらしい。
目の前に広がるワイルドエリアは夏に近い日差しが照り付けていた。
時折吹く風も生温かく、このままここにいると汗ばんできそうだった。
ダンデが骨壺を抱え、一握りずつさらさらと撒いていく。
日の光に照らされて、砂のように細かく砕かれた骨はきらきらと光りながら風に乗って飛ばされていった。
その様子を見ながらも、ダンデやネズ、他のジムリーダーや友人のように、さようならと思う気持ちには全くなれなかった。
未だ、実感がない。
記憶がないから余計にそう思うのかもしれない。
だから、リビングのソファに座っても、まだキバナが帰ってきていないような、そのうちドアを開ける音がしてただいま、といつものように。
あの大きな体を丸めてヌメラのように笑って、帰ってくるような気がするのだ。
「ユウリ…」
ふわりとキバナのロトムが名前を呼んだ。
キバナの手持ちも自分の手持ちも、記憶を失った後ポケモンセンターに預けていたらしい。
散骨が終わっても世話はできそうになくて今日もそのまま、預けていた。
ただ、リョウタに預けていたキバナのスマホに入っていたロトムだけはユウリに話があると騒いでいたらしい。
「ユウリに、キバナから伝言があるロト」
「…キバナさんは、即死だったって聞いたけど」
「そのもっと、ずっと前に伝言を頼まれてたロト。キバナは…いつもロトムに何かあったときはってリストとこの動画のこと言ってたロト」
目の前まで移動してきたロトムは、スマホを操作してファイルを送信し、動画を再生した。
受け取ったファイルを開くと、家の権利書や契約書などの置き場所などこれからの手続きに必要な物の場所が記載されていた。
顔を上げれば、画面の中には綺麗なグラデーションの海が穏やかに波を立てている。
砂浜から少し離れた場所にキバナの後ろ姿と、大きなコテージのような建物。その奥には南国特有の木が広がっていた。
もう一週間も見ていない、キバナの後ろ姿にツンと鼻の奥が痛くなる。
『ロトム、まだ手を入れていないここを映しておいてくれ』
画面からキバナが消え、ぐるりとコテージの周りをゆっくりと映していく。
再びキバナの傍まで移動したのか、今度は横顔が映った。
『今年の冬にこれたらいいな。ユウリと二人で。ダンデやネズ…ホップ、マリィ、ビート、ルリナ、ソニア、メロンさん、カブさん。みんなでバーベキューしたりするのもいいな。忙しいから全員揃うかわかんないけどさ。いつか子供ができて、休暇にここで遊んだり』
とても穏やかな顔をして語るキバナは、いつかそれが実現した日のことを想像していたのだろう。遠い目をしているのに瞳は輝いていた。
「キバナさんがいなきゃ…意味なんて、ないのに…」
波の流れる音とともに、涙が一滴、頬を静かに流れた。
◇◆◇◆
あれから一年が経った。
半年はまだ彼が帰ってくるような気がして、毎日毎日ソファーでうつらうつらと眠るだけの生活を送った。
不思議なことにチャンピオン業だけは今まで通りこなして、周りにも以前と同じように振る舞うことができた。
皆、目を丸くして驚いて、そのあとは憐れむような視線を向けた。
振る舞うことはできても、彼の名前を聞くことすらできなくて、彼の思い出を誰かと共有することはできなかった。テレビもネットも必要最低限しか使わないし、自ずと人と距離を置くようになった。
さらに半年が経ち、もう帰ってくることはないのだと分かっていながらも、なんとなく帰ってくるんじゃないかとソファーに座っていた。
今日は特に、四肢は重く、指一本動かすことも辛い。
朝から行われたチャンピオンシップスに出場し、例年通り防衛を果たした。
嬉しさや達成感は感じなかった。ただひたすら、会場にいるはずの彼を探して、けれどそれに気づかれないように気を張って過ごした。
凍える体を毛布で包み、ソファーに横になる。
ガンガンと鳴り響くような頭痛とめまいに目を瞑ったものの、浅い眠りしかむさぼることはできない。
今日はいつもよりも頭痛が酷く、目を瞑っていても眠れそうにはなかった。
なんとなく久しぶりにテレビをつけると、賑やかな笑い声が上がる。早口でまくし立てるように喋る司会者の声が堪らなく煩くて、次々とチャンネルを変える。
新しいドラマも全く見ていないから内容がわからない。全く興味を引くものはなく、動画投稿サイトを開いた。
おすすめにはバトル映像ばかりが並んでいる。一番最初の動画を再生すると、それは一昨年のエキシビションマッチの試合映像だった。
テレビ画面いっぱいに映った人物に、長いタイトルを碌に読まずに再生したことを公開する。
爛々と瞳を輝かせ、八重歯を覗かせて挑発的に笑うキバナの顔がアップで映っていた。
どうやら一昨年の準決勝の試合映像だったらしい。相手はマリィだった。
右手はリモコンを持ったまま、いつでも電源を切ることができるように構えている。
リモコンの赤いボタンに指を添えたまま、止めようかと何度も浅く押す。
懐かしい横顔に涙が一滴、頬を伝った。
拭うことも忘れて画面を食い入るように見つめる。
真っ暗な部屋の中、テレビから放たれる明かりがやけにまぶしく感じた。
ジュラルドンがダイマックスをしたタイミングでテーブルの上に置いていたスマホが振動する音に、大げさなほど体が跳ねた。
こんな時間に電話をかけてくる相手などいない。
そもそも、電話が鳴ること自体が珍しくなっていた。
ちらりと視線をスマホの小さな画面に落とすと、非通知と表示されている。
非通知でかけてくる相手にも心当たりなどない。
悪戯電話か迷惑電話かと思いつつも、受話ボタンをタップする。
「…もしもし」
ざあ、っと砂嵐のような音が小さく鳴り響いていた。
「ユウリ?」
「キバナ、さん…?」
その声は、聴きたくて堪らなかったものだった。
にわかに信じられずにキバナの名を呼ぶと、よかった、と聞きなれた声が返ってくる。
「元気に、してるわけないな。ごめんな」
「うん…っ」
ぐっと目頭が熱くなって、勝手に涙が次々と零れ落ちた。
「ごめんな、一人にして。最近はどうだ?」
「今日は、防衛線で。ちゃんと勝ちました」
「凄いな。確か…15回目か?」
「はい」
「偉いな。オレさまがいなくったってユウリはちゃんと生きてる。偉いよ。オレさまが言えた義理じゃないけど、辛かったら周りを頼れよ?」
「キバナさん、帰ってきて」
「…それは無理だな」
「だったら、私もそっちに行きたい」
「それこそ駄目だ。なぁ、ユウリ。こんなこと今言うべきじゃないのはわかってる。でも言わせてくれ。そのために電話したんだ」
「…はい」
「愛してるよ。ずっと。だけど、ユウリはもう忘れてくれ。ちゃんと食べて、眠って、幸せになってくれ」
「…無理だよ。キバナさんがいなきゃ…」
「ユウリ。アローラの別荘に行ったか?」
「私ひとりじゃ、いけない」
「じゃあ誰か誘って行ってくれ。マリィでもホップ、ルリナでもダンデでも。誰でもいい。誰かと一緒に。そこから新しい日が始まるから。…あんまり長くは喋れないんだ。もう切らなきゃならない。いいか、絶対こっちには来るなよ。また、かけるから。スマホだけは絶対に肌身離さず持っていてくれ」
「…やだよ、もっとっ…喋りたい」
「またな、ユウリ」
ざあ、っと鳴っていた砂嵐のような音の代わりにツーツーっと機械音が鳴り響く。
スマホを握りしめたまま、その音をただひたすら聞いていた。
濡れた頬を手の甲で拭って、再びソファに横になる。
ぼんやりと着信履歴の非通知を眺めていて、はたと気が付いた。
テレビから音がしない。
テレビに視線を戻すと、動画が停止されました、再生しますか?とテロップが表示されている。
その表示は、30分以上放置していなければ見ることがない。
今の電話はせいぜい10分程度。
時計を見ると、動画を見始めてから2時間以上が経過していた。
即座に奇妙だと思った。
スマホのロックを解除して、着信履歴を開く。
そこには数日前に業務連絡で通話をした、ダンデの名前しかなかった。
非通知を探しても、それはどこにもない。
確かに、動画を見ていた。眠った記憶などない。
夢だったのならば、どうしてこんなにもはっきりと覚えているのだろうといくつもの疑問が沸く。
会話の内容を始めから思い返す。
彼は、ごめんと謝罪を口にした。そして愛していると。けれども忘れてくれと。幸せになってほしいと。
そして、ロトムが見せてくれた動画の別荘地に誰かと行けと。
もう一度、時刻を確かめる。
まだ日付は変わっていない。
着信履歴を下へスクロールし、マリィをタップする。
数回のコール音の後、もしもし、とマリィの声が聞こえた。
「こんな遅くにごめんね。明日からの休暇、何か予定ある?」
「ないよ?どうしたん、どっか行きたいん?」
「…アローラに。行かなきゃいけないんだけど…一人じゃ行けなくて。ネズさんも一緒に行けないかな」
「ちょっと待ってね」
声が遠くなったかと思いきや、大きな声でマリィがネズを呼ぶ。
アローラに明日ユウリと行きたいから兄貴もついてきて、と強引な内容に変わってしまった伝言に、ネズがいいですよと返したのが聞こえた。
「いいって。明日ね。チケットは?取った?」
「ううん、まだ」
「じゃあ明日のお昼の便、取るから支度しといて」
「うん、ありがとう」
明日空港でね、と言い残してプツリと通話が切れる。
ツーツーと流れる機械音にやはり少し前に実際に聞いたような気がした。
スマホをテーブルに置いてソファから立ち上がる。
頭痛も眩暈も消えた健康的な状態になっていたことに驚きつつも、旅支度を始めた。
◇◇◇
ほとんど眠らないまま支度をし、待ち合わせた空港にアーマーガアタクシーで到着すると、遅いとマリィに文句を言われながら手を引かれて飛行機へ飛び乗った。
マリィは先ほどまで怒っていたはずなのに、ユウリと旅行だとはしゃいだ声を上げている。
ちらりとネズに視線を向けると、ネズの表情はサングラスで見えなかった。
「隈が酷いです。少し寝なさい」
細いけれども、自分よりははるかに大きい手で頭を撫でられる。
はい、と返事をして目を瞑るとゴウゴウと鳴り響くエンジン音がやけに大きな音に感じた。
その音が耳障りだと思ったのも一瞬で、すぐに意識はどこかへ引っ張られるように遠くなっていく。
そんな感覚は久しぶりだった。
次に意識が戻ったのは、着陸のアナウンスが流れたときだった。
数時間、ぐっすりと眠っていたらしい。
飛行機を降りて手続きを済ませ、タクシーに乗るとどっと疲れが沸き起こった。
ホテルに着くまで、後部座席でマリィと観光雑誌を眺める。
見知らぬ土地にほんの少し、憂鬱な気分が和らいだ。
あれが食べたい、ここを見に行きたいというマリィに適当に相槌を打ち、ガラルとは違う街並みにどこか現実感が沸かなかった。
しばらくしてホテルに到着すると、手続きはマリィに任せてネズとソファに座って待つことにした。
「あの家に行くんでしょう」
「ネズさん、知ってたんですか」
「キバナからも相談を受けていましたし。それに、大事なものができると人は不安になるんです。だから万が一のことも聞いていました」
「…そう、だったんですね。私には全然、そういうことは教えてくれなかった」
「あなたに話すのは縁起が悪いと言っていました。そのうち、また今度…そう言っているうちにの出来事だった」
「…はい」
「どうして急に思い立ったのかは後で聞きます。とりあえず荷物を預けて行きましょうか」
足元から視線を上げると、マリィがフロントの方で手を振っていた。
大きな荷物を預けてホテルを後にする。
タクシーに乗り込むと、ネズが行先を告げた。
ゆっくりと動き出した景色に、シートに背を預けてぼんやりと街並みを眺める。
勢いのままに来てしまったことに少し後悔をしていた。
もし、彼が生きていたら。
例えば、彼が先に到着していて、あとからマリィたちと合流するという流れだったら、どんなによかっただろう。
初めて見る別荘にはキバナがいて、ダンデや他の知人たちもいて、みんなで休暇を過ごす。
彼が想像したような、そんな未来だったなら。
涙がこぼれそうになるのを、唇を噛んで必死にこらえる。
ふいに、放り出して手に刺激を感じて体が跳ねる。マリィの小さい手が重なっていた。それがとても温かくてそのまま力を抜く。
おそらく彼女も、すべてを知っているのだ。知っていて、あえて旅行が楽しいのだと言ってくれている。
ぐっと、零れそうになる涙を堪えた。泣いてはいけない。これ以上、この二人に迷惑をかけてはいけないと思った。
タクシーは大通りから外れ、海沿いを走る。
少しだけ開いた窓から潮風が車内に流れ込む。
キラキラと光る水面を見つめていると、不思議と安心した。
タクシーは別荘地が並ぶ道に入り、やがて止まった。
涼しい車内を降りるとジリジリと肌を焼くような太陽に照らされる。
動画で見た建物の中に入ると、そこには何もなく、がらんとしていた。
「…掃除はしているようですね」
見覚えのない払込書の一つはここの清掃業者だったのだろう。
問い合わせるのも億劫で、大した額でもないからそのまま支払っていた。
公共料金はすべてキバナ名義になっていたが、本人が死亡していても支払いさえしていればそのまま継続される。その中の一つだと思っていた。
ネズはあちこちきょろきょろと点検をするように見ながら奥へと進んでいく。
リビングの奥まで進み、レースのカーテンを開けると、エメラルドグリーンの海が一面に広がっていた。
窓を開けて広いバルコニーへ出る。
目の前にどこまでも続く海の色が、彼の瞳を思いださせた。
手すりに腕を乗せ、震える口元を隠す。
どんなに唇を噛んでも一瞬で湧き上がった涙を堪えることはできなかった。
もっと一緒に、いろんなことをしたかった。もっと一緒にいたかった。
後悔ばかりが頭を過る。
次第にそれは疑問へと変わっていく。
どうして、彼が死ななければならなかったのか。
今ほど存在するかも怪しい神を呪ったことはないだろう。
どんな時だって隣にいてくれたのに。
涙で滲む視界が晴れることはない。それは心の中も同じだった。
「…死に意味があるとは思いません。どんな形であれ、それが寿命というものなんでしょう。俺も、あいつがいなくなったのは…寂しいですよ」
ぽん、と頭の上に手が置かれた。ぐいっと涙を拭って、呼吸を整える。
「昨日、キバナさんから電話がかかってきたんです」
いくら整えても、口から出た言葉は震えていた。
到底信じてはもらえない話だろうけれど、ネズなら笑い飛ばしたりはしないだろう。
無茶な頼みに応じてくれたのだ。理由くらいは話さなければいけない。
「非通知でした。しっかり会話の内容も覚えているのに…着信履歴は残ってないんです。電話が切れた後、気が付いたら眠っていたみたいで。眠くはなかったのに。あれは夢だったんでしょうか」
「あいつがここへ来るように言ったんですか?」
頷くと、ネズは視線を海へと向けた。
「あいつがここを買ったあとですかね…ダンデと三人で飲んだ時にとても嬉しそうに教えてくれました。ここで皆で休暇を過ごせたら、どんなに楽しいだろうって。あなたと二人で過ごして、手持ちたちをビーチで遊ばせて。誰の目も気にしなくていい場所でゆっくり過ごすんだって。散々言っていました。…まさかこんな形で来ることになるとは思ってもいなかったですけどね」
ざざ、と波打つ音に耳を傾けていると、こつん、とサンダルの音が響いた。
振り返ると、マリィがペットボトルを片手に少し戸惑っているような表情を浮かべて立っていた。
ぐいっと差し出されたそれを礼を言って受け取る。
キンキンに冷えているそれは、わざわざ買いに行ってくれたのだろう。
「あなたのそれは夢かもしれないし、夢ではないかもしれない。カントーにはお盆と言って、死者が帰ってくる時期があるそうです。ちょうど、夏の今頃だとカブさんが言っていました」
「キバナさんは…誰かと一緒にアローラの別荘へ行けと言いました。そこから、新しい日が始まるからと」
「…来てみてどうですか?まだ何も考えられませんか」
「…いえ。私、ここに住みたい。仕事のこととか都合がつけばですけど…」
最初にこの地に足を踏み入れた時は負の感情でいっぱいだった。
なぜ、どうして。そればかりが頭に浮かんだ。
きっかけは、海の色だった。
エメラルドグリーンの海は彼の瞳の色そっくりで、まるで見守られているような、包まれているような、そんな安心感が少しずつ流れ込み、霧の中にいるような朧げな景色にふいに光が差した。
今とて、ふっきれたわけではない。何年も何十年も、もしかしたら一生、切りをつけられないかもしれない。
それでも、一人あの家にいるよりは、ここにいたいと思った。
「だそうですよ。委員長」
へ?と首を傾げると、建物の影から見覚えのある炎が揺らめいた。
「はは、ばれていたか」
Tシャツにジーンズとラフな格好で頭を掻きながらダンデとリザードンが現れた。
後に続くように見覚えのある顔ばかりが現れる。
ソニア、ルリナ、ホップ。
「よく無事にたどり着きましたね」
「ソニアたちにきつく言われたからな」
「俺が呼びました。あいつの願いだったでしょう。ここで皆で集まるって」
レンタカーを借りたのか、ワゴン車の中から簡易テーブルや食料などが次々と広いバルコニーに設置されていく。
その光景にただ驚いて、何も言葉が出なかった。
「さて、それじゃ一回忌を派手に騒いでやりましょうか」
「…それは失礼にならないか?」
「どうせあの男もその辺で見てたりするんじゃないですかね。だから思いっきり見せつけてやりましょう。それで、悔しがればいいんですよ」
何もないがらんとした別荘に明かりが灯る。
呆気に取られて渡されるがまま、コップを受け取った。
ベンチに腰掛けようと動いた瞬間、背後で人が通った気配がした。
振り向いても誰もいない。そこには夕日に照らされた海が広がるだけだった。
辺りをきょろきょろと見まわしてもやはり人影はない。
「ユウリー!」
ホップが呼ぶ声に足を踏み出すと、僅かな力で背中が押された。
背中に広がったその刺激は、ちょうど彼の手の大きさと同じくらいで、もう一度振り返る。
ふっと体の力が抜けて、自然と口角が上がった。
「…私の最後の我儘です。あなたのことは、忘れません」
小さく呟くと、海風がひときわ強く吹いた。