その他
#雨の日の記憶
「お久しぶりです、キバナ先生」
雨粒が黒い傘の上を絶え間なく跳ねている。
人影のない倉庫裏でしゃがみ込んでいる男性は、歴史教諭のキバナ先生だ。
私の声が聞こえたのか、彼は傘を上へ僅かに傾けた。澄み切った海のようなエメラルドグリーンの瞳がその隙間から覗く。普段は温かみを感じられる色なのに、雨の日のこの場所にいるときの色はどこか冷たい。
傘の隙間から漏れた煙草の煙が空へとゆらゆら漂い、雨粒に消されていく。その煙には想像していたような匂いはない。記憶に残る葉の焼けるような焦げ臭い匂いとバニラの香りではなかった。何かの果実のような匂いだけれど、そこには人工的な香料が混じっていて妙に甘だるく、どこか彼のイメージにはそぐわない。
「まさか、オマエが教育実習で戻ってくるとはなぁ」
傘を持つのとは反対側に持った、電子タバコらしき黒いスティックを吸い込んでもう一度煙を吐く。
私がここの学生だった頃、彼はまだ普通の煙草を吸っていたはずだ。
そのことを知るのは私だけだったと思いたい。けれどもとても人気のある先生だったから、例え見つかってしまってもいつものように人好きのする笑顔で内緒だと言えば、ファンの生徒は首を縦に振ってしまうだろう。
生徒の中には反抗的な人もいたけれど、それは彼に対する嫉妬のようなものだろう。そんな例外を除き、彼は男女問わず人気者だった。
誰にでも平等で、相談をすれば真剣にアドバイスをくれる。授業もわかりやすくて面白く、退屈なはずの歴史が好きになったという生徒も多かった。
今でも同級生と会って昔話に花が咲くと、必ずキバナ先生の名前が出てくる。
それほど人の記憶の中に残る人物だった。
それは私も一緒で、何年経っても頭の中から彼が消えることはなかった。
◇◆◇◆
「好きです、キバナ先生」
六年前のちょうど今頃の季節。
梅雨時で、肌に張り付くような生温かい風が吹いていた。雨に濡れた草の匂いをなぜか強烈に覚えている。
高校二年生の六月。
彼がこの倉庫裏で煙草を吸っているのを最初に見かけたのは偶然だった。
なんだか気分が晴れなくて、少し気分転換になるかといつもとは違う道を通って帰宅した日のこと。
人通りのない校舎裏を傘を差して歩いていると、雨の匂いに混じって甘いバニラの香りが鼻腔をくすぐった。
地面に跳ねる雨粒ばかり見て歩いていた視線を匂いの方へ向けると、大きな体を無理やり傘に隠すようにしゃがみ込んでいる男性がいた。
傘の隙間から見えた肌が特徴的で、それがキバナ先生だと頭の中で結びついたときは思わず、あ、と一言声が漏れた。
しかし雨音のおかげでその声は本人には届かなかったようだ。
彼は傘から姿を表すことはなく、矢継ぎ早に煙草を吸うと校舎へと戻っていった。
それから、毎日この道を同じ時間に通り、彼の姿を探した。
あのときはまだ、彼に恋愛感情を抱いている自覚はなかった。むしろどこか嫌悪していたと思う。
いつも派手な生徒たちに囲まれ、万人受けする笑顔を張り付かせた若い教師。相談事には真剣に聞いてくれて、アドバイスも的確。怒ることもあるけれど、それは彼自身の怒りではなく純粋に生徒を思っているからこその怒りで、内面も外見すらも欠点がないような人。
そのイメージがなぜか苦手だった。
けれど、その張り付いた笑顔の裏にある、傘の隙間からほんの少し見えた冷ややかなエメラルドグリーンの瞳に、私はなぜか興味を持った。
あれが彼本来の姿なのだとしたら?
『キバナ先生』ではなく、彼個人はどんな人なのだろう。
ふとそう感じて、想像しているうちに彼から目が離せなくなった。
そして、あの雨の日から彼を視線だけで追いかける日が続いた。
『人気者のキバナ先生』の裏にある表情を見つけるたびに少しずつ彼個人に近づいていくような気がして、もっと知りたいと思うようになった。
ああ、彼も普通の人間なんだ。教師とて、一人の人間。
そう思う度になぜか嬉しくなって、次第に挨拶をするだけで、他愛もない会話をするだけで胸が踊った。
そして、ある日それが恋なのだと気がついた。
「ごめんな、生徒とは付き合えねーよ」
制服のスカートをぎゅっと握りしめて、勇気を出して先生に告白をした。
彼が言葉を発するまで僅か数秒だったと思う。けれどその沈黙があまりにも長く感じて恐る恐る視線を彼に向けると、キバナ先生は少し困ったように目を細めていた。
まるでこの重苦しい空気から逃げるように、彼は地面で揉み消した煙草を携帯灰皿に入れ、いつものように私の頭を撫でて去っていった。
頭を鈍器で殴られたような頭痛を感じ、その日はどうやって帰ったのかも覚えていない。泣きはらしたのかすら覚えていない。
ただ、翌日は鉛でも括りつけられたかのような重い体を引きずってなんとか登校したことは覚えている。
なるべく顔を会わさないようにして過ごし、女子生徒に囲まれる彼を見てみないふりをした。
数日経って話しかけられたときは、告白する前と同じように優しく接してくれた。
まるで、私の告白なんてなかったことのように。けれど、それで良かった。
生徒とは付き合えない。ということは、生徒じゃなければ付き合えるのかもしれない。
まだ時期ではなかっただけの話なのだ。
そう、自分の気持ちに区切りをつけて卒業までの残りの期間は勉学に当てた。
時々理性では抑えられない恋心が漏れ出し、何も手につかなくなるときもあった。卑屈になり、何もかもが無駄なのだと決めつけて鬱々と過ごした日もある。
どちらかといえば、勉学に明け暮れるというよりも恋に悩んでいた期間のほうが多かったかもしれない。
学校でも暗い顔をしていたのか、キバナ先生は私によく顔色が悪い、心配だと声をかけてくれるようになった。
勉強に行き詰っているからだと嘘をつくと、特別だと言って、歴史だけではなく他の教科も見てもらったこともある。
がんばれよ、と励ましてくれる大きな手に触れられるだけでいつも心臓が煩くなった。
恋か勉学か。
そのどちらかにしか打ち込んでいなかった私の高校生活最後の難関である大学受験。
彼が卒業した大学の同じ学部を受け、合格通知を受け取ったときは真っ先に連絡をした。
担任だったからかもしれないけれど、想像以上に喜んでくれて、翌日こっそりと教科準備室でケーキをもらった。
けれど卒業式を終えていたから、その日が彼に会える最後の日だった。
「キバナ先生。私、やっぱり好きです」
「……大学に行って、四年間学んで来い。勉強だけじゃない。人を見てこい。いろんな人がいるから。四年後もまだ同じ気持ちだったらもう一度来てくれよ。そのときは、ちゃんと答える」
また少し困ったように目を細めて頭を撫でられた。
「……はい。四年後また来ますね。そのときは先生としてじゃない答えを待ってます」
冷たくなったカフェオレを飲み干してパイプ椅子から立ち上がり、立ち止まることも振り返ることもなく教科準備室のドアを開ける。
本当に、ここで過ごすのが今日で最後なのだと思うと目頭が熱くなった。ひたすらにこみ上げるものをこらえ、ドアを閉めるときに見た彼は、書棚に背を預けて少しだけ開けた窓に向かって煙草の煙を吐き出していた。
ここに四年後、また来ようと決意して、最後に涙を噛みしめて笑って挨拶をした。
いつもはまたな、とか気を付けて帰れよ、としか言わなかったキバナ先生は、その日初めてさようならと口にした。
◇◆◇◆
「やっぱりここにいましたね」
「まーた見つかったか」
「それ、美味しいんですか?」
「吸ってみるか?」
ずいっと差し出された黒いスティックに、一瞬躊躇って口をつける。
真似をしてすーっと吸い込むとメンソールと林檎の香りがしたが、直後に咽てしまった。
「ふふっ……ははっ……!」
ゲホゲホと咽ていると笑い声が聞こえてきて、涙目で睨みつける。
それでも変わらず、彼は笑っていた。
「どうだ?」
「なんか……喉の奥がスースーしました」
間接キスだと浮かれたのも束の間で、呼吸を戻すのに必死だった。
「今日で教育実習も最後か。悪いな送別会行けなくて」
「先生とお酒、飲みたかったなぁ」
「オマエが大学卒業してからならいつでも付き合ってやるよ」
「……先生、四年前のこと、覚えてますか?」
「……覚えてるよ。けどまだ四年経ってないだろ」
「もうあと少しですよ。……ねぇ先生。私、やっぱり忘れられませんでした。勉強も頑張ったし、人とも積極的に関わっていろんな人と知り合いました。けれども、やっぱり先生が好きです」
エメラルドグリーンの瞳を見つめて、視線は外さない。
慣れない環境と人見知りも相まって、おどおどとしていた一年生のころに最初に教えてくれたことだ。
そんなに下ばかり見てないで、笑って、上を見ろ。そうすれば、今の世界よりもっと楽しいはずだ、と。
そのとおりだった。前を向いて、時には上を向けば、下ばかり見ていたころの暗い世界とは違う、とても眩い景色が広がっていた。
多分彼は、狭い世界で生きる生徒たちに学校だけじゃない世界を知ってほしかったのだろう。
だから彼は、四年なんて長い期間を設けた。それだけの時間があれば、私にも違う出会いがあると思ったのだ。
でも。
あなたを諦められなくてごめんなさい。それでもあなたがずっと好きでした。
言葉には出来ずとも、どうか汲み取ってほしいなんて私の我儘だ。
ぱたぱたとお互いの傘に僅かな雨が降り注ぎ、弾く音が響いている。
どのくらいそうしていたかわからないほどの時間が経過して、最初に視線を逸らしたのはキバナ先生だった。
うーんと唸って頬を掻いている。それでも視線を逸らさずにいると、ふいに笑った。
「ホント、人の気も知らないで。オマエが卒業するまで待とうと思ってたんだが」
今、何と言ったのだろう。
てっきり今度こそ振られるのだろうと覚悟をしていた。
だってこんなこと、この人は慣れているだろうから。
大人になるにつれて、段々と理解した。教師と生徒が付き合うことにどれだけのリスクがあるのか。
私が先生を好きになることはたいして問題はない。大人に憧れる気持ちを恋心だと錯覚するのはよくあることだと言われるだけだろう。でも私とキバナ先生の立場は違う。教師が例えば、特定の人物を贔屓しているとか、誰かと付き合っているなんて噂でもあれば、事実に関係なく罪を問われるのは大人だ。
学校という狭い世界において、恋愛問題はご法度。相手が未成年なのだから、それも仕方がないことだ。
私はそんなことは望んでいなかった。そんな事になるならば、我慢をすればいいだけだと言い聞かせ続けてきた。
だからこそ、告白をする日に今日を選んだ。
たとえ今までの私の想いが水の泡となっても、教師ではない彼の想いが聞ければ悔いはないと思った。
だから四年、待った。
その間ほとんど連絡をしたこともない。
たまに大学の帰り道だと自分に言い訳をして学校の近くを通ってみたり、休日に行きそうな所へ行ってみたものの、一度だけ、見かけることができたくらいだった。
彼から好意を感じたことも正直なかったのだ。彼は担任として、当たり前のことしかしていないはず。彼は誰のことも特別扱いしていなかったように思う。
だからこそ、彼の言葉の意味をまるで理解できなかった。
「ほら、ぽかんと口開けてるな。スマホ出せ」
慌ててスーツの後ろポケットからスマホを出すと、見覚えのない電話番号からの着信にバイブレーションが鳴っている。
「これ、って……?」
「オマエが知ってるのは仕事用。これがプライベートの番号。誰にも教えるなよ?」
思い切り首を縦に振ると、四年前に比べてだいぶ伸びた髪がグロスに張り付いた。
払い除けようと手を伸ばした瞬間、褐色の肌が視界に飛び込んできて髪が耳にかかる。
触れられたのだと気づくまでに時間がかかって、次第に頬が熱くなっていく。
恐る恐る見上げると、彼はそれまで見た事のない優しい表情をしていた。
聞きたいことは沢山あるのに言葉にならない。
「私で、いいんですか?」
最大の疑問をどうにか言葉にすると、添えられていた大きな手が耳から頬へと流れて去って行く。
「今日の二十二時。電話するから」
また後でな、と彼は踵を返し、校舎に戻っていった。
胸の前でぎゅっとスマホを握りしめ、夕日に照らされて光った彼のピアスに思わず目を細めた。
その光に誘われて夢の中に入ったかのように頭の中がふわふわとしていて、それからのことはほとんど覚えていない。
他の実習生や教師たちと送別会に行き、当たり障りのない会話の合間に何度も腕時計で時刻を確認した。
誰とどんな会話をして、どんな料理が出たのかなんて記憶に留めておけなかった。
二次会に向かうという彼らにはついていかず、電車に飛び乗った。最寄りの駅についてからは脇腹が痛くなるのも構わずに一目散に走り続けた。
荒い息のまま暗い部屋のドアを開け、スマホの電源ボタンを押す。
時刻は二十一時半。まだあと少しなら時間がある。
間に合ったことに対する安堵感に一瞬だけ息をついた。けれどせっかく間に合ったのならば、お風呂に入ってメイクをし直して、お気に入りのワンピースに着替えたい。その時間を逆算しつつ、急いで体を動かす。
こんなにも焦ったことはなかった。頭の中で次のことを考えながら忙しなく動くなんて、滅多にないことだ。
何度も時計を確認してあと何分、と考えながらお風呂を済ませ、薄くメイクをした。
最後にクローゼットの前に立ち、お気に入りのワンピースを取り出す。
露出は少な目で模様もレースもない、シンプルなピンクのふんわりとしたワンピース。腰に小さなリボンベルトがついていて、シルエットを自由に変えられる。
どこにでもある普通のデザインのこのワンピースは、夏のアイテムの一つとして五年も前に購入したものだ
。
そのワンピースがお気に入りとなったのは、初めてこれを着た日にある。
受験勉強の息抜きにとガラル歴史展へ行った日だった。
とても暑くて、会場について冷たいものでも飲もうと併設カフェで休憩をしていた。
頼んだアイスティーが来るまでの間、ぼんやりと会場の様子を見ていると、奥のほうにとても目立つ人を見つけた。
背が高く、褐色の肌と漆黒の髪。
帽子と眼鏡で普段の印象とは全く違うけれど、それはキバナ先生だった。
真剣な表情で物販を見ている彼に、話しかける勇気はなかった。
パンフレットをわざと高い位置に開いて顔を隠し、端から少しだけ覗いて彼の様子を伺っていると、先生、と呼ぶ複数の女性の声が聞こえた。
普段からキバナ先生の周りにいる女子生徒たちだった。
羨ましい、そんな風に思ってしまって、そんな自分が恥ずかしくなった。
行動一つも起こせない自分と、どうにか彼に振り向いてもらおうと積極的になる女子生徒との違いを思い知らされた気がした。
改めてワンピースを手に取って汚れや虫食いがないかを確認する。
もしかしたらこのワンピースが『お気に入り』というには少し表現が違うかもしれない。
どちらかと言えば『勝負服』。
私が初めて味わった感情を思い出せるように、自分を戒めるアイテムの一つだ。
しばらく着ていなかったけれど、今日こそ着るに相応しいだろう。
ずっと憧れていたキバナ先生の隣に立つ権利を得た日だ。
彼はどんな人なのだろう。
やはり面倒見が良くて優しい人なのだろうか。今更酷い人だとは思わないけれど、私はまだ、『キバナ先生』しか知らない。
そのことが凄くもどかしいと感じた。
後ろ手にワンピースのファスナーを閉め、パン、と両頬を軽く叩く。
ドクドクと鳴り響く心臓を落ち着けるために目を閉じて、深呼吸をする。
再び目を開いた瞬間、電話が鳴った。
◇◆◇◆
今日も雨が降っている。
ざあざあと降り続く雨ではなく、しとしとと降ったり止んだりをここ数日、繰り返していた。
傘に当たる雨音は軽い。
行き交う人々は、何日も続く雨にうんざりしているのか、どこか浮かない顔をしている。
時計を見ると、もう約束の時間から三十分が経過していた。少し早めに付いていたから、待っている時間としては四十五分くらいだろうか。
湿っぽい香りにつられて思い出したのは、二年前の出来事だった。
私とキバナさんが付き合い始めた日。
ようやく、先生と生徒という関係を終わらせられた日。
あの日、緊張のあまり画面の前でフリーズしていた私をキバナさんは笑った。
そんなに笑わなくても、と言い返すと、彼は悪い、といいながらもお腹を押さえていた。
彼と付き合う前の思い出は、ほとんどが雨の日のことだ。
私か、キバナさん。どちらかが雨女で雨男なのかもしれない。
屋根から降り注ぐ雨水や、コンクリートの上で跳ねる雨粒と小さな水溜り、湿った匂い。
以前は鬱陶しいと感じていたものも、今は嫌いではない。
「ユウリ!」
呼び声に地面から顔を上げると、キバナさんが走っていた。
「遅れて悪い。会議が長引いた」
「大丈夫です。むしろ何も手伝わずに出てきてしまってすみません」
「新任のうちはそんなもんさ。来年からは、まあ忙しくなるだろうな……それより、暇だったろ」
「いいえ。雨が降ってるのをぼうっと見てたら、付き合った日のことを思い出しちゃって」
「もう二年も前なんだな。なぁ……今更なんだが、なんでオレだったんだ?」
「うーん……最初はただ、興味が湧いた、ですかね。キバナさんはなぜ私だったんです?」
「それもユウリと同じなんだよな。なんか視界にいるんだ。意識してないのに。見てると面白くてさ。嫌ってるのか好かれてるのかわからなくて興味が湧いた」
「意外と恋って、そんな単純なことから始まるのかもしれませんね。ただ、色んな所に偶然が重なっていって、その選択が道を分かつ、みたいな」
「恋だけじゃなくて、なんでもそうかも知れないな。自分の選択次第でその先が決まる。その善悪はその時代を生きる人には誰にもわからない」
「だから歴史がある、でしょ?」
「……言うようになったな」
ふふ、っと小さく笑って悔しそうな彼を見る。
年上なのに、意外に子供っぽい。何かに夢中になると、そのことで頭がいっぱいになって、話かけても聞いていなかったり、生返事をしたり。
一緒に働くようになってわかったことも多い。
エメラルドグリーンの瞳に熱がないときは、ただ体調があまり良くないときや考え事をしているときだ。
甘い物が好きで、辛い物も好き。
煙草はだいぶ前に辞めていて、けれども吸う習慣だけは辞められなくてニコチンの入っていない煙だけをこっそり吸っている。
綺麗好きだけれど部屋を片付ける時間がなかなか取れないこと。
面倒見がいいのも、人に優しいのも『先生』だからではなく、彼の長所だったこと。
人気者のキバナ先生も、やっぱり完璧な人なんかではなく、普通の人だった。
「行きましょうか。今日は何食べますか?」
「ユウリは? 何食べたい?」
「そうですねぇ……ちょっと肌寒いですし、スパイスたっぷりのカレーとかどうですか?」
「お、いいな。そうするか」
「じゃあ買い物をして帰りましょうか」
一本の傘に入り、彼の腕に手を置いて他愛ない会話をしながら進んでいく。
もう堂々と腕を組んで歩いていても、何も気にする必要はない。
「そういえば、結婚式の招待客リストができたので後で見てくださいね」
再来月、私は彼と夫婦になる。
「お久しぶりです、キバナ先生」
雨粒が黒い傘の上を絶え間なく跳ねている。
人影のない倉庫裏でしゃがみ込んでいる男性は、歴史教諭のキバナ先生だ。
私の声が聞こえたのか、彼は傘を上へ僅かに傾けた。澄み切った海のようなエメラルドグリーンの瞳がその隙間から覗く。普段は温かみを感じられる色なのに、雨の日のこの場所にいるときの色はどこか冷たい。
傘の隙間から漏れた煙草の煙が空へとゆらゆら漂い、雨粒に消されていく。その煙には想像していたような匂いはない。記憶に残る葉の焼けるような焦げ臭い匂いとバニラの香りではなかった。何かの果実のような匂いだけれど、そこには人工的な香料が混じっていて妙に甘だるく、どこか彼のイメージにはそぐわない。
「まさか、オマエが教育実習で戻ってくるとはなぁ」
傘を持つのとは反対側に持った、電子タバコらしき黒いスティックを吸い込んでもう一度煙を吐く。
私がここの学生だった頃、彼はまだ普通の煙草を吸っていたはずだ。
そのことを知るのは私だけだったと思いたい。けれどもとても人気のある先生だったから、例え見つかってしまってもいつものように人好きのする笑顔で内緒だと言えば、ファンの生徒は首を縦に振ってしまうだろう。
生徒の中には反抗的な人もいたけれど、それは彼に対する嫉妬のようなものだろう。そんな例外を除き、彼は男女問わず人気者だった。
誰にでも平等で、相談をすれば真剣にアドバイスをくれる。授業もわかりやすくて面白く、退屈なはずの歴史が好きになったという生徒も多かった。
今でも同級生と会って昔話に花が咲くと、必ずキバナ先生の名前が出てくる。
それほど人の記憶の中に残る人物だった。
それは私も一緒で、何年経っても頭の中から彼が消えることはなかった。
◇◆◇◆
「好きです、キバナ先生」
六年前のちょうど今頃の季節。
梅雨時で、肌に張り付くような生温かい風が吹いていた。雨に濡れた草の匂いをなぜか強烈に覚えている。
高校二年生の六月。
彼がこの倉庫裏で煙草を吸っているのを最初に見かけたのは偶然だった。
なんだか気分が晴れなくて、少し気分転換になるかといつもとは違う道を通って帰宅した日のこと。
人通りのない校舎裏を傘を差して歩いていると、雨の匂いに混じって甘いバニラの香りが鼻腔をくすぐった。
地面に跳ねる雨粒ばかり見て歩いていた視線を匂いの方へ向けると、大きな体を無理やり傘に隠すようにしゃがみ込んでいる男性がいた。
傘の隙間から見えた肌が特徴的で、それがキバナ先生だと頭の中で結びついたときは思わず、あ、と一言声が漏れた。
しかし雨音のおかげでその声は本人には届かなかったようだ。
彼は傘から姿を表すことはなく、矢継ぎ早に煙草を吸うと校舎へと戻っていった。
それから、毎日この道を同じ時間に通り、彼の姿を探した。
あのときはまだ、彼に恋愛感情を抱いている自覚はなかった。むしろどこか嫌悪していたと思う。
いつも派手な生徒たちに囲まれ、万人受けする笑顔を張り付かせた若い教師。相談事には真剣に聞いてくれて、アドバイスも的確。怒ることもあるけれど、それは彼自身の怒りではなく純粋に生徒を思っているからこその怒りで、内面も外見すらも欠点がないような人。
そのイメージがなぜか苦手だった。
けれど、その張り付いた笑顔の裏にある、傘の隙間からほんの少し見えた冷ややかなエメラルドグリーンの瞳に、私はなぜか興味を持った。
あれが彼本来の姿なのだとしたら?
『キバナ先生』ではなく、彼個人はどんな人なのだろう。
ふとそう感じて、想像しているうちに彼から目が離せなくなった。
そして、あの雨の日から彼を視線だけで追いかける日が続いた。
『人気者のキバナ先生』の裏にある表情を見つけるたびに少しずつ彼個人に近づいていくような気がして、もっと知りたいと思うようになった。
ああ、彼も普通の人間なんだ。教師とて、一人の人間。
そう思う度になぜか嬉しくなって、次第に挨拶をするだけで、他愛もない会話をするだけで胸が踊った。
そして、ある日それが恋なのだと気がついた。
「ごめんな、生徒とは付き合えねーよ」
制服のスカートをぎゅっと握りしめて、勇気を出して先生に告白をした。
彼が言葉を発するまで僅か数秒だったと思う。けれどその沈黙があまりにも長く感じて恐る恐る視線を彼に向けると、キバナ先生は少し困ったように目を細めていた。
まるでこの重苦しい空気から逃げるように、彼は地面で揉み消した煙草を携帯灰皿に入れ、いつものように私の頭を撫でて去っていった。
頭を鈍器で殴られたような頭痛を感じ、その日はどうやって帰ったのかも覚えていない。泣きはらしたのかすら覚えていない。
ただ、翌日は鉛でも括りつけられたかのような重い体を引きずってなんとか登校したことは覚えている。
なるべく顔を会わさないようにして過ごし、女子生徒に囲まれる彼を見てみないふりをした。
数日経って話しかけられたときは、告白する前と同じように優しく接してくれた。
まるで、私の告白なんてなかったことのように。けれど、それで良かった。
生徒とは付き合えない。ということは、生徒じゃなければ付き合えるのかもしれない。
まだ時期ではなかっただけの話なのだ。
そう、自分の気持ちに区切りをつけて卒業までの残りの期間は勉学に当てた。
時々理性では抑えられない恋心が漏れ出し、何も手につかなくなるときもあった。卑屈になり、何もかもが無駄なのだと決めつけて鬱々と過ごした日もある。
どちらかといえば、勉学に明け暮れるというよりも恋に悩んでいた期間のほうが多かったかもしれない。
学校でも暗い顔をしていたのか、キバナ先生は私によく顔色が悪い、心配だと声をかけてくれるようになった。
勉強に行き詰っているからだと嘘をつくと、特別だと言って、歴史だけではなく他の教科も見てもらったこともある。
がんばれよ、と励ましてくれる大きな手に触れられるだけでいつも心臓が煩くなった。
恋か勉学か。
そのどちらかにしか打ち込んでいなかった私の高校生活最後の難関である大学受験。
彼が卒業した大学の同じ学部を受け、合格通知を受け取ったときは真っ先に連絡をした。
担任だったからかもしれないけれど、想像以上に喜んでくれて、翌日こっそりと教科準備室でケーキをもらった。
けれど卒業式を終えていたから、その日が彼に会える最後の日だった。
「キバナ先生。私、やっぱり好きです」
「……大学に行って、四年間学んで来い。勉強だけじゃない。人を見てこい。いろんな人がいるから。四年後もまだ同じ気持ちだったらもう一度来てくれよ。そのときは、ちゃんと答える」
また少し困ったように目を細めて頭を撫でられた。
「……はい。四年後また来ますね。そのときは先生としてじゃない答えを待ってます」
冷たくなったカフェオレを飲み干してパイプ椅子から立ち上がり、立ち止まることも振り返ることもなく教科準備室のドアを開ける。
本当に、ここで過ごすのが今日で最後なのだと思うと目頭が熱くなった。ひたすらにこみ上げるものをこらえ、ドアを閉めるときに見た彼は、書棚に背を預けて少しだけ開けた窓に向かって煙草の煙を吐き出していた。
ここに四年後、また来ようと決意して、最後に涙を噛みしめて笑って挨拶をした。
いつもはまたな、とか気を付けて帰れよ、としか言わなかったキバナ先生は、その日初めてさようならと口にした。
◇◆◇◆
「やっぱりここにいましたね」
「まーた見つかったか」
「それ、美味しいんですか?」
「吸ってみるか?」
ずいっと差し出された黒いスティックに、一瞬躊躇って口をつける。
真似をしてすーっと吸い込むとメンソールと林檎の香りがしたが、直後に咽てしまった。
「ふふっ……ははっ……!」
ゲホゲホと咽ていると笑い声が聞こえてきて、涙目で睨みつける。
それでも変わらず、彼は笑っていた。
「どうだ?」
「なんか……喉の奥がスースーしました」
間接キスだと浮かれたのも束の間で、呼吸を戻すのに必死だった。
「今日で教育実習も最後か。悪いな送別会行けなくて」
「先生とお酒、飲みたかったなぁ」
「オマエが大学卒業してからならいつでも付き合ってやるよ」
「……先生、四年前のこと、覚えてますか?」
「……覚えてるよ。けどまだ四年経ってないだろ」
「もうあと少しですよ。……ねぇ先生。私、やっぱり忘れられませんでした。勉強も頑張ったし、人とも積極的に関わっていろんな人と知り合いました。けれども、やっぱり先生が好きです」
エメラルドグリーンの瞳を見つめて、視線は外さない。
慣れない環境と人見知りも相まって、おどおどとしていた一年生のころに最初に教えてくれたことだ。
そんなに下ばかり見てないで、笑って、上を見ろ。そうすれば、今の世界よりもっと楽しいはずだ、と。
そのとおりだった。前を向いて、時には上を向けば、下ばかり見ていたころの暗い世界とは違う、とても眩い景色が広がっていた。
多分彼は、狭い世界で生きる生徒たちに学校だけじゃない世界を知ってほしかったのだろう。
だから彼は、四年なんて長い期間を設けた。それだけの時間があれば、私にも違う出会いがあると思ったのだ。
でも。
あなたを諦められなくてごめんなさい。それでもあなたがずっと好きでした。
言葉には出来ずとも、どうか汲み取ってほしいなんて私の我儘だ。
ぱたぱたとお互いの傘に僅かな雨が降り注ぎ、弾く音が響いている。
どのくらいそうしていたかわからないほどの時間が経過して、最初に視線を逸らしたのはキバナ先生だった。
うーんと唸って頬を掻いている。それでも視線を逸らさずにいると、ふいに笑った。
「ホント、人の気も知らないで。オマエが卒業するまで待とうと思ってたんだが」
今、何と言ったのだろう。
てっきり今度こそ振られるのだろうと覚悟をしていた。
だってこんなこと、この人は慣れているだろうから。
大人になるにつれて、段々と理解した。教師と生徒が付き合うことにどれだけのリスクがあるのか。
私が先生を好きになることはたいして問題はない。大人に憧れる気持ちを恋心だと錯覚するのはよくあることだと言われるだけだろう。でも私とキバナ先生の立場は違う。教師が例えば、特定の人物を贔屓しているとか、誰かと付き合っているなんて噂でもあれば、事実に関係なく罪を問われるのは大人だ。
学校という狭い世界において、恋愛問題はご法度。相手が未成年なのだから、それも仕方がないことだ。
私はそんなことは望んでいなかった。そんな事になるならば、我慢をすればいいだけだと言い聞かせ続けてきた。
だからこそ、告白をする日に今日を選んだ。
たとえ今までの私の想いが水の泡となっても、教師ではない彼の想いが聞ければ悔いはないと思った。
だから四年、待った。
その間ほとんど連絡をしたこともない。
たまに大学の帰り道だと自分に言い訳をして学校の近くを通ってみたり、休日に行きそうな所へ行ってみたものの、一度だけ、見かけることができたくらいだった。
彼から好意を感じたことも正直なかったのだ。彼は担任として、当たり前のことしかしていないはず。彼は誰のことも特別扱いしていなかったように思う。
だからこそ、彼の言葉の意味をまるで理解できなかった。
「ほら、ぽかんと口開けてるな。スマホ出せ」
慌ててスーツの後ろポケットからスマホを出すと、見覚えのない電話番号からの着信にバイブレーションが鳴っている。
「これ、って……?」
「オマエが知ってるのは仕事用。これがプライベートの番号。誰にも教えるなよ?」
思い切り首を縦に振ると、四年前に比べてだいぶ伸びた髪がグロスに張り付いた。
払い除けようと手を伸ばした瞬間、褐色の肌が視界に飛び込んできて髪が耳にかかる。
触れられたのだと気づくまでに時間がかかって、次第に頬が熱くなっていく。
恐る恐る見上げると、彼はそれまで見た事のない優しい表情をしていた。
聞きたいことは沢山あるのに言葉にならない。
「私で、いいんですか?」
最大の疑問をどうにか言葉にすると、添えられていた大きな手が耳から頬へと流れて去って行く。
「今日の二十二時。電話するから」
また後でな、と彼は踵を返し、校舎に戻っていった。
胸の前でぎゅっとスマホを握りしめ、夕日に照らされて光った彼のピアスに思わず目を細めた。
その光に誘われて夢の中に入ったかのように頭の中がふわふわとしていて、それからのことはほとんど覚えていない。
他の実習生や教師たちと送別会に行き、当たり障りのない会話の合間に何度も腕時計で時刻を確認した。
誰とどんな会話をして、どんな料理が出たのかなんて記憶に留めておけなかった。
二次会に向かうという彼らにはついていかず、電車に飛び乗った。最寄りの駅についてからは脇腹が痛くなるのも構わずに一目散に走り続けた。
荒い息のまま暗い部屋のドアを開け、スマホの電源ボタンを押す。
時刻は二十一時半。まだあと少しなら時間がある。
間に合ったことに対する安堵感に一瞬だけ息をついた。けれどせっかく間に合ったのならば、お風呂に入ってメイクをし直して、お気に入りのワンピースに着替えたい。その時間を逆算しつつ、急いで体を動かす。
こんなにも焦ったことはなかった。頭の中で次のことを考えながら忙しなく動くなんて、滅多にないことだ。
何度も時計を確認してあと何分、と考えながらお風呂を済ませ、薄くメイクをした。
最後にクローゼットの前に立ち、お気に入りのワンピースを取り出す。
露出は少な目で模様もレースもない、シンプルなピンクのふんわりとしたワンピース。腰に小さなリボンベルトがついていて、シルエットを自由に変えられる。
どこにでもある普通のデザインのこのワンピースは、夏のアイテムの一つとして五年も前に購入したものだ
。
そのワンピースがお気に入りとなったのは、初めてこれを着た日にある。
受験勉強の息抜きにとガラル歴史展へ行った日だった。
とても暑くて、会場について冷たいものでも飲もうと併設カフェで休憩をしていた。
頼んだアイスティーが来るまでの間、ぼんやりと会場の様子を見ていると、奥のほうにとても目立つ人を見つけた。
背が高く、褐色の肌と漆黒の髪。
帽子と眼鏡で普段の印象とは全く違うけれど、それはキバナ先生だった。
真剣な表情で物販を見ている彼に、話しかける勇気はなかった。
パンフレットをわざと高い位置に開いて顔を隠し、端から少しだけ覗いて彼の様子を伺っていると、先生、と呼ぶ複数の女性の声が聞こえた。
普段からキバナ先生の周りにいる女子生徒たちだった。
羨ましい、そんな風に思ってしまって、そんな自分が恥ずかしくなった。
行動一つも起こせない自分と、どうにか彼に振り向いてもらおうと積極的になる女子生徒との違いを思い知らされた気がした。
改めてワンピースを手に取って汚れや虫食いがないかを確認する。
もしかしたらこのワンピースが『お気に入り』というには少し表現が違うかもしれない。
どちらかと言えば『勝負服』。
私が初めて味わった感情を思い出せるように、自分を戒めるアイテムの一つだ。
しばらく着ていなかったけれど、今日こそ着るに相応しいだろう。
ずっと憧れていたキバナ先生の隣に立つ権利を得た日だ。
彼はどんな人なのだろう。
やはり面倒見が良くて優しい人なのだろうか。今更酷い人だとは思わないけれど、私はまだ、『キバナ先生』しか知らない。
そのことが凄くもどかしいと感じた。
後ろ手にワンピースのファスナーを閉め、パン、と両頬を軽く叩く。
ドクドクと鳴り響く心臓を落ち着けるために目を閉じて、深呼吸をする。
再び目を開いた瞬間、電話が鳴った。
◇◆◇◆
今日も雨が降っている。
ざあざあと降り続く雨ではなく、しとしとと降ったり止んだりをここ数日、繰り返していた。
傘に当たる雨音は軽い。
行き交う人々は、何日も続く雨にうんざりしているのか、どこか浮かない顔をしている。
時計を見ると、もう約束の時間から三十分が経過していた。少し早めに付いていたから、待っている時間としては四十五分くらいだろうか。
湿っぽい香りにつられて思い出したのは、二年前の出来事だった。
私とキバナさんが付き合い始めた日。
ようやく、先生と生徒という関係を終わらせられた日。
あの日、緊張のあまり画面の前でフリーズしていた私をキバナさんは笑った。
そんなに笑わなくても、と言い返すと、彼は悪い、といいながらもお腹を押さえていた。
彼と付き合う前の思い出は、ほとんどが雨の日のことだ。
私か、キバナさん。どちらかが雨女で雨男なのかもしれない。
屋根から降り注ぐ雨水や、コンクリートの上で跳ねる雨粒と小さな水溜り、湿った匂い。
以前は鬱陶しいと感じていたものも、今は嫌いではない。
「ユウリ!」
呼び声に地面から顔を上げると、キバナさんが走っていた。
「遅れて悪い。会議が長引いた」
「大丈夫です。むしろ何も手伝わずに出てきてしまってすみません」
「新任のうちはそんなもんさ。来年からは、まあ忙しくなるだろうな……それより、暇だったろ」
「いいえ。雨が降ってるのをぼうっと見てたら、付き合った日のことを思い出しちゃって」
「もう二年も前なんだな。なぁ……今更なんだが、なんでオレだったんだ?」
「うーん……最初はただ、興味が湧いた、ですかね。キバナさんはなぜ私だったんです?」
「それもユウリと同じなんだよな。なんか視界にいるんだ。意識してないのに。見てると面白くてさ。嫌ってるのか好かれてるのかわからなくて興味が湧いた」
「意外と恋って、そんな単純なことから始まるのかもしれませんね。ただ、色んな所に偶然が重なっていって、その選択が道を分かつ、みたいな」
「恋だけじゃなくて、なんでもそうかも知れないな。自分の選択次第でその先が決まる。その善悪はその時代を生きる人には誰にもわからない」
「だから歴史がある、でしょ?」
「……言うようになったな」
ふふ、っと小さく笑って悔しそうな彼を見る。
年上なのに、意外に子供っぽい。何かに夢中になると、そのことで頭がいっぱいになって、話かけても聞いていなかったり、生返事をしたり。
一緒に働くようになってわかったことも多い。
エメラルドグリーンの瞳に熱がないときは、ただ体調があまり良くないときや考え事をしているときだ。
甘い物が好きで、辛い物も好き。
煙草はだいぶ前に辞めていて、けれども吸う習慣だけは辞められなくてニコチンの入っていない煙だけをこっそり吸っている。
綺麗好きだけれど部屋を片付ける時間がなかなか取れないこと。
面倒見がいいのも、人に優しいのも『先生』だからではなく、彼の長所だったこと。
人気者のキバナ先生も、やっぱり完璧な人なんかではなく、普通の人だった。
「行きましょうか。今日は何食べますか?」
「ユウリは? 何食べたい?」
「そうですねぇ……ちょっと肌寒いですし、スパイスたっぷりのカレーとかどうですか?」
「お、いいな。そうするか」
「じゃあ買い物をして帰りましょうか」
一本の傘に入り、彼の腕に手を置いて他愛ない会話をしながら進んでいく。
もう堂々と腕を組んで歩いていても、何も気にする必要はない。
「そういえば、結婚式の招待客リストができたので後で見てくださいね」
再来月、私は彼と夫婦になる。
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