その他
突然の雷鳴にびくりと体が震えた。
同時に照明が点滅し、電気が消える。停電だ。
外を見ても、曇ってはいるが雷が鳴るような天気には見えない。
ふと、気になったのは、部屋の真上で音がしたということだった。
一つの可能性を思いついて、真っ暗闇の中をスマホロトムの照明だけで進み、ゴム手袋をはめる。電化製品のコンセントを抜き、身支度を始めた。
もう後は就寝だけのつもりだった。そんな中起こった突然の停電に、スマホロトムやノートパソコン、タブレット類をまだ充電していなくてよかったと心の底から思った。
とりあえず、今日中の復旧は難しいだろうしホテルにでも泊まろうと家を出ようとしたとき、インターホンが鳴った。
ドアスコープを覗くと、ライチュウを抱えた男性が立っている。
ドアチェーンがしっかりと繋がっていることを確認してから開けると、男性は勢いよく頭を下げた。
なんでも、手持ちのポケモンたちが遊んでいたときに、新入りのライチュウの機嫌を損ねて放電してしまったらしい。
ライチュウは保護施設から引き取ったばかりだったらしい。
自分の家の電気が消えたことから、近隣に確認しては謝っているようだ。
保障云々は個人間で決めるわけにはいかず、とりあえずのところ、ホテルへ泊まることになった。
そして、一週間後の今日。
急遽用意してもらった仮住まいのマンションに着いて、ようやく一息ついた。家電の大半は壊れてしまい、無事だったのは情報機器などその時コンセントに差していなかったものばかり。
仮住まいは家具家電一式が付いていて、生活に困ることはなさそうだった。
セキュリティレベルは落ちるがオートロックもついているし、部屋の鍵もカードキーに変えてもらった。
ポケモンの技で部屋や設備を壊してしまう、というのは珍しいことではない。何か怯えた拍子に、または今回のようにまだトレーナーと生活することに慣れていなかったりといろいろな要因がある。
被害に遭った以上、仕方がないでは済まないが、理由については理解ができる。それ相応の保証さえしてもらえば何も文句を言う気はなかった。
用意してもらったマンションは古く、お世辞にも綺麗とも広いとも言えない。玄関ドアを開ければすぐ右手はキッチン。一畳ほどのスペースがあって、左手はトイレとお風呂場と洗濯機置き場。トイレとお風呂が一緒ではないだけ、まだましかもしれないが、手洗い場はお風呂場と一緒になっている。
荷物の中から真新しいケトルを取り出し、キッチンのコンセントに繋ぐ。
お湯が沸くまでぼんやりと待っていると、真横の小窓から見える外廊下に誰かが通って行ったような気配がした。
擦りガラスになっているため、はっきりとは見えない。けれどなんとなく髪の長いの女性が通ったような気がした。
先ほど挨拶周りをしたときはまだ不在の部屋が多かった。
もしかしたらその中の誰かが帰ってきたのかもしれない。
時刻は夕方六時。まだ少し早いだろうと挨拶周りは後回しにし、夕飯を作り始めた。
薄暗い外廊下は、陽が落ちると照明が点灯した。
足元を照らすだけの照明は薄暗いようで、窓からは微かに灯りが室内に入り込む。
引っ越したばかりで本格的な夕飯を作る気はなく、結局は袋ラーメンを作った。
不思議なことに、お湯を沸かしている間とラーメンが出来上がるまで待っている間の二回、黒髪の女性が廊下を通ったような気がした。
なんとなくだが、廊下を行ったり来たりしているような、そんなイメージだ。
そういえば足音が聞こえなかったという事実に気が付いて、悪寒が走った。
今まで、人ならざる者、いわゆる幽霊といわれる存在に出会ったことはない。そういう経験も含めて、だ。
至極、普通に生活をしてきた。
だからこそだろう。今までとは違う経験に恐怖を感じた。
そそくさとキッチンを離れ、ローテーブルにラーメンを置いてテレビをつける。無音でいることに耐えられなかった。できれば今すぐに誰かに泊まりに来てほしいくらいだ。掻き込むように夕飯を終え、スマホを手に取る。
一番最初に電話をかけようと思ったのは恋人であるキバナだ。
今回の一件も、キバナはナックルシティの自分の家に泊まればいいと言った。なんならこのまま同棲してしまおうとも提案してきた。
最初はそれでもいいのかもしれないと思ったのだ。
けれど現実問題、ナックルシティからシュートシティは毎日通うにはいささか遠い。
部屋の復旧が終わるまでは一か月弱。復旧が終わればまた元通り住むことはできるのだ。
踏み切れなかったもう一つの理由は、関係を公にしていないこともある。お互いが知名度が高いため、これ以上の面倒事は避けたかった。
ちらりとキッチンの窓に視線を向ける。
何もいないでほしいという願いで向けたそこには、すりガラス越しに夜闇が広がっていた。
ほっとしたのもつかの間で、白い影が通り過ぎる。
最初の印象は誰かが通ったかもしれないというくらいだった。
二度目は確実に黒髪の女性と認識した。
そして三度目は白い影。なのに、その陰は黒髪の女性と断言できるのだから不思議なものだ。
だんだんと、廊下を行き来する頻度が高くなってきたように感じる。
それとも見ていない間にずっと廊下をぐるぐると動き回っているのだろうか。
確認するのも恐ろしくて、窓から視線を外す。
もしも幽霊がゴーストタイプだとしたら、相性的に有利なのは同じゴーストとあくタイプ。
ロトムがゴーストと電気の複合だから、万が一のときはすぐキバナに連絡をするように伝えた。
ボールホルダーからハイパーボールを放つ。
ちらりと横目で見ただけで、すぐにふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いたのは最近進化したばかりのブラッキーだ。
イーブイの時はあんなに懐いていたのに、進化した途端、そっけなくなってしまった。
少し寂しいような気もしなくはないが、甘えたいときは甘えてくるので嫌われたわけではないようだ。
ブラッキーは室内を見回して、ほかにポケモンが出ていないことを確認すると、お尻を体にくっつけてきた。
相変わらずそっぽを向いているけど、これでも甘えている方だ。
影はまだ、廊下をうろうろとしている。
それでも、ポケモンがそばにいてくれるだけで少し心強かった。
手に持っていたスマホをテーブルの上に置く。
キバナに連絡をするのはもう少し様子を見た方がいいかもしれない。
突然、引っ越したばかりの部屋の廊下に幽霊がいるみたいなんです、なんて言ったところで、冗談かなにかだと思われるだろう。
自分でもまだうまく説明できないのだ。
それに、掻き込んだラーメンのせいで変に腹が膨れ、疲労もあったせいかもうだいぶ眠気が襲ってきていた。
ブラッキーを抱えて小さいソファーに寝転ぶと、あっという間に意識が遠ざかった。
翌朝、目が覚めてからも幾度となく外を確認した。
けれど、太陽光のせいなのか白い影はまだ一度も確認していない。
よかった、あれは気のせいだったのだと胸を撫でおろして部屋を出、エレベーターに向かっていると、横を誰かが通り過ぎたような気がした。
振り返ってみるも、そこには誰もいない。
そもそも、こんな狭い廊下ですれ違ったのならばすぐに気が付くはずだ。
じめじめと蒸し暑いはずなのに、むき出しの腕に鳥肌が立った。
エレベーターが上がってくるまでを待つこともできず、階段を一気に駆け降りる。
荒い息を落ち着かせるために外に出て立ち止まり、今しがた降りてきたばかりの廊下を見る。
やはりそこには何もなかった。
職場についてもそのことを誰にも話すこともなく、その日の業務を終えた。
キバナとも何度かメッセージのやり取りはしたが、当たり障りのない日常会話の中にそんな確証も何もないことを相談するのは憚られた。
そうこうしているうちに、また例の廊下にたどり着く。
エレベーターのような密室は怖くて、結局階段を使った。
一瞬立ち止まったものの、ここを進まねば部屋へは帰れない。
肩にかけたバッグの紐をぎゅっと握って、走り出す。
もう片手にはカードキーを用意し、すぐさま開けて入った。
照明を付けてリビングのソファーに座り込む。
廊下に目を向ければ、白い影が一定の間隔で通り過ぎていく。
恐怖心に蓋をして観察をしていると、その陰は時間にしておよそ2,3分の間に廊下を何度も回っているのだ。
けれどもそれだけで、中に入ってくるような気配はない。
得体の知れないものへの恐怖はあるが、今のところ被害はない。
向こうも様子を伺っているのかもしれないと思い、今夜もブラッキーに付き添ってもらう。
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いているのに、ゆるりとしっぽが揺れている様子に思わず笑い声がこぼれた。
*
それから4日後。特に被害はなく、もうあまり気にならなくなっていた。
その日、夜から激しい雨風が吹いていた。
窓を叩きつける雨の音と吹き付ける暴風に眠りを妨げられていた。
せめて他の音で気を紛らわそうとテレビをつけたままソファーで眠ってしまい、数時間が経過したころ、ふと目を覚ました。エアコンをつけていても部屋には湿度が多く、若干汗ばんでいた。備え付けのエアコンが古いためか、喉も痛い。
何かを飲もうとリビングから出ると、キッチンの小窓に視線が行く。
さすがにこんな暴風雨の日はいないのか、と安堵したのもつかの間。
狭い玄関の隅に、白い靄のかかった何かがある。
リビングから漏れる灯りだけでもわかるほどの濃度で、なんとなく人の形のようにも見える。ただの白い靄だというのに、なぜかはっきりと、黒髪の女性だと思った。
あまり視線を合わせないように冷蔵庫の扉を開け、ペットボトルを手に取る。開けっ放しだった扉をぴったりと閉め、ブラッキーを抱いた。
ブラッキーが反応しないということは、悪いものではないのかもしれない。
いや、もしかしたらブラッキーには見えていない可能性もある。楽観視はできなかった。
一度冴えてしまった脳に眠気はこない。スマホを手に取って、キバナに電話をかける。
数回のコール音のあと、低く掠れた声が聞こえてきた。
「夜遅くにごめんなさい」
「うん、大丈夫。どうかしたか?」
「明日…泊まりに行ってもいいですか?」
「いいよ。夕飯はどうする?それともオレがそっちに行こうか?」
「いえ、私がそっちに行きます。夕飯はお任せします」
普段であれば、どちらかの家に泊まるときは前後の予定でもっと会話が弾む。
けれど、今日はとてもそんな気分にはならなかった。
いつこちらの部屋に入ってくるともわからない。
音もなく外から中へ侵入したのだ。ドアや壁など無意味なのだろう。
ここで一晩、一人で過ごすことさえ苦痛なのだ。
「うん、じゃあ何が食べたいか決めといて。あー…あとさ、ユウリ。テレビの音、大きくないか?」
「…え?テレビなんてつけてないですよ?」
「ずいぶん近くで親子の声が聞こえ…いや、ユウリ、そのマンションの場所、どこだっけ」
「バトルタワーの、北側の古いマンションです。家具付きだったので、いくつかの候補の中からここを選んだんですけど。…何かありました?」
「何か、って言ったってことは、異変があるんだな?」
「…あります」
電話越しでは何がどうキバナに聞こえているのかわからない。
静まり返った部屋のはずなのに、何かの声が聞こえているのだろうか。
ぞくりと背筋が凍り付くような悪寒に襲われる。
確認したのは女性だけのはずだ。子供の姿も声も、見ていない。
となると、ここには一体どれだけの数の人ならざる者がいるのか。
「今から行くから。もう少しだけ頑張れ。電話は絶対に切るなよ」
ふりゃ、とフライゴンの声が聞こえた。続いて雨の音と、声が聞こえなくなるくらいの暴風。
こんな日に、空を飛ぶなんて自殺行為にも近い。普段であれば来なくていいと言えただろう。
けれど、スピーカーに切り替えたキバナのスマホから拾った様々な声に悪寒が止まらなかった。
整列をかけ、敬礼と発する男の低い声。
子供たちのはしゃぐ声。
ぶつぶつと合間に聞こえる女性の声。
耳を手で覆っても、それらは脳に直接響くように聞こえてくる。
頭を抱えるように覆って、じりじりと窓際に寄る。
後ろ手で窓のカギを開け、ほんの少し開けようとした瞬間、確実に開けたはずのカギが再びロックされた。
何度開けても、その都度閉まる。
それまで丸まって眠っていたブラッキーが起き上がり、唸り声をあげた。
頭上に向かって、ブラッキーがあくのはどうを放った。
ぎゃ、っと悲鳴を上げて、何かが寝室へと続く壁をすり抜ける。
脳に直接響く様々な声はまだやまない。
どのくらい時間が経ったのかもわからず、目を閉じるとだんだんと意識が遠のいていく。
最後の力を振り絞って、窓のカギを開けると今度は閉まらなかった。
どんどん大きくなる声に、もう意識を保っているのは限界だった。
そんな中、様々な声に交じって美しい音色が聞こえた。
その音だけに意識を向けると、やがてその音がはっきりと聞こえてくる。
フライゴンの羽根音だと認識した瞬間、がらりと勢いよく窓が開いた。
ぽたぽたとキバナの衣服から雨水がしたたり落ちる。
「ブラッキー、かみつけ」
主人からではない指示にブラッキーは一瞬だけこちらに視線を向けた。
訳も分からず、とりあえず頷くとブラッキーは空中に向かってかみついた。
獲物を捕らえて振り回す。空を噛んでいるのだと思ったその矢先、正体が露わになった。
ハイパーボールが真横を通り、紫色の体に当たる。
床に落ちたハイパーボールはしばらく暴れ、やがて静かになった。
「…ゲンガー?」
「ああ。物理的な悪戯はこいつのせいだな。ただ、この声はこいつじゃなかったみたいだ」
まだ脳は現状の処理に追い付いていなかった。
混乱したまま、キバナのいう通りボールホルダーを下げ、貴重品だけを持ってフライゴンに跨る。
頬に打ち付ける雨も風も冷たかった。
けれど、背中に感じる体温と先ほどまでの悪寒に比べればだいぶそれらがましに思えた。
何度も風に流されそうになりながら、ナックルシティのキバナの家に到着すると、頭から塩を振られ、すぐさま風呂場へ押し込まれた。
ずぶ濡れになった服を脱ぎ、少し迷った末に洗濯機に放り込む。
勝手知ったる恋人の部屋。棚から入浴剤を一つ取り出して、湯舟に入れた。
シャワーで軽く雨やほこりを流して浸かると、体の力が抜けていくようだった。
思えばここ数日、あの白い影ばかりを気にしてゆっくりと過ごせていなかったように思う。
目を閉じて少し温めの湯に体を泳がせていると、ガラリと扉が開いてキバナが入ってきた。
後ろから抱きすくめられるように一緒に湯に浸かり、浮かんだ疑問を問いかける。
「なんで、何か起こったってわかったんですか?」
「あそこな、立地が悪すぎるんだ。裏手に墓地、東に川。ちょうどあのマンションが通り道になってるらしい。オレがまだ十代のころ、まあ…あの辺でいろいろ起きてな。お祓いもしたし、年数も経って皆忘れかけてるんだろうけど、有名な話かな」
「てっきり、ゲンガーの仕業かと思ってました。キバナさんが捕まえた後も声は聞こえ続けてたってことは…やっぱり本物なんですかね」
「たぶん、な。オレも初めての経験だった。とにかくあそこから出ることだけ考えてた」
「ありがとう、ございます。すっごく怖くて、あの部屋にいたくなくて。ちょっと遠くてもここに泊まればよかったって後悔ばっかりしてました」
「残してきた荷物は後日取りに行くとして…とりあえず明日は体調不良ってことで有給な。オレも休みだし。ゆっくり寝よう。んで…今日のことは忘れようぜ」
「はい」
今日の経験をすぐに忘れることは無理だろう。もし部屋が復旧したとしても、もう一人で夜を過ごすことはしばらく無理だと思った。
ここ数日の記憶を頭の隅に無理やり置き、もう一度目を閉じる。
温かいこの巣に、今はまだ覆われていたかった。
同時に照明が点滅し、電気が消える。停電だ。
外を見ても、曇ってはいるが雷が鳴るような天気には見えない。
ふと、気になったのは、部屋の真上で音がしたということだった。
一つの可能性を思いついて、真っ暗闇の中をスマホロトムの照明だけで進み、ゴム手袋をはめる。電化製品のコンセントを抜き、身支度を始めた。
もう後は就寝だけのつもりだった。そんな中起こった突然の停電に、スマホロトムやノートパソコン、タブレット類をまだ充電していなくてよかったと心の底から思った。
とりあえず、今日中の復旧は難しいだろうしホテルにでも泊まろうと家を出ようとしたとき、インターホンが鳴った。
ドアスコープを覗くと、ライチュウを抱えた男性が立っている。
ドアチェーンがしっかりと繋がっていることを確認してから開けると、男性は勢いよく頭を下げた。
なんでも、手持ちのポケモンたちが遊んでいたときに、新入りのライチュウの機嫌を損ねて放電してしまったらしい。
ライチュウは保護施設から引き取ったばかりだったらしい。
自分の家の電気が消えたことから、近隣に確認しては謝っているようだ。
保障云々は個人間で決めるわけにはいかず、とりあえずのところ、ホテルへ泊まることになった。
そして、一週間後の今日。
急遽用意してもらった仮住まいのマンションに着いて、ようやく一息ついた。家電の大半は壊れてしまい、無事だったのは情報機器などその時コンセントに差していなかったものばかり。
仮住まいは家具家電一式が付いていて、生活に困ることはなさそうだった。
セキュリティレベルは落ちるがオートロックもついているし、部屋の鍵もカードキーに変えてもらった。
ポケモンの技で部屋や設備を壊してしまう、というのは珍しいことではない。何か怯えた拍子に、または今回のようにまだトレーナーと生活することに慣れていなかったりといろいろな要因がある。
被害に遭った以上、仕方がないでは済まないが、理由については理解ができる。それ相応の保証さえしてもらえば何も文句を言う気はなかった。
用意してもらったマンションは古く、お世辞にも綺麗とも広いとも言えない。玄関ドアを開ければすぐ右手はキッチン。一畳ほどのスペースがあって、左手はトイレとお風呂場と洗濯機置き場。トイレとお風呂が一緒ではないだけ、まだましかもしれないが、手洗い場はお風呂場と一緒になっている。
荷物の中から真新しいケトルを取り出し、キッチンのコンセントに繋ぐ。
お湯が沸くまでぼんやりと待っていると、真横の小窓から見える外廊下に誰かが通って行ったような気配がした。
擦りガラスになっているため、はっきりとは見えない。けれどなんとなく髪の長いの女性が通ったような気がした。
先ほど挨拶周りをしたときはまだ不在の部屋が多かった。
もしかしたらその中の誰かが帰ってきたのかもしれない。
時刻は夕方六時。まだ少し早いだろうと挨拶周りは後回しにし、夕飯を作り始めた。
薄暗い外廊下は、陽が落ちると照明が点灯した。
足元を照らすだけの照明は薄暗いようで、窓からは微かに灯りが室内に入り込む。
引っ越したばかりで本格的な夕飯を作る気はなく、結局は袋ラーメンを作った。
不思議なことに、お湯を沸かしている間とラーメンが出来上がるまで待っている間の二回、黒髪の女性が廊下を通ったような気がした。
なんとなくだが、廊下を行ったり来たりしているような、そんなイメージだ。
そういえば足音が聞こえなかったという事実に気が付いて、悪寒が走った。
今まで、人ならざる者、いわゆる幽霊といわれる存在に出会ったことはない。そういう経験も含めて、だ。
至極、普通に生活をしてきた。
だからこそだろう。今までとは違う経験に恐怖を感じた。
そそくさとキッチンを離れ、ローテーブルにラーメンを置いてテレビをつける。無音でいることに耐えられなかった。できれば今すぐに誰かに泊まりに来てほしいくらいだ。掻き込むように夕飯を終え、スマホを手に取る。
一番最初に電話をかけようと思ったのは恋人であるキバナだ。
今回の一件も、キバナはナックルシティの自分の家に泊まればいいと言った。なんならこのまま同棲してしまおうとも提案してきた。
最初はそれでもいいのかもしれないと思ったのだ。
けれど現実問題、ナックルシティからシュートシティは毎日通うにはいささか遠い。
部屋の復旧が終わるまでは一か月弱。復旧が終わればまた元通り住むことはできるのだ。
踏み切れなかったもう一つの理由は、関係を公にしていないこともある。お互いが知名度が高いため、これ以上の面倒事は避けたかった。
ちらりとキッチンの窓に視線を向ける。
何もいないでほしいという願いで向けたそこには、すりガラス越しに夜闇が広がっていた。
ほっとしたのもつかの間で、白い影が通り過ぎる。
最初の印象は誰かが通ったかもしれないというくらいだった。
二度目は確実に黒髪の女性と認識した。
そして三度目は白い影。なのに、その陰は黒髪の女性と断言できるのだから不思議なものだ。
だんだんと、廊下を行き来する頻度が高くなってきたように感じる。
それとも見ていない間にずっと廊下をぐるぐると動き回っているのだろうか。
確認するのも恐ろしくて、窓から視線を外す。
もしも幽霊がゴーストタイプだとしたら、相性的に有利なのは同じゴーストとあくタイプ。
ロトムがゴーストと電気の複合だから、万が一のときはすぐキバナに連絡をするように伝えた。
ボールホルダーからハイパーボールを放つ。
ちらりと横目で見ただけで、すぐにふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いたのは最近進化したばかりのブラッキーだ。
イーブイの時はあんなに懐いていたのに、進化した途端、そっけなくなってしまった。
少し寂しいような気もしなくはないが、甘えたいときは甘えてくるので嫌われたわけではないようだ。
ブラッキーは室内を見回して、ほかにポケモンが出ていないことを確認すると、お尻を体にくっつけてきた。
相変わらずそっぽを向いているけど、これでも甘えている方だ。
影はまだ、廊下をうろうろとしている。
それでも、ポケモンがそばにいてくれるだけで少し心強かった。
手に持っていたスマホをテーブルの上に置く。
キバナに連絡をするのはもう少し様子を見た方がいいかもしれない。
突然、引っ越したばかりの部屋の廊下に幽霊がいるみたいなんです、なんて言ったところで、冗談かなにかだと思われるだろう。
自分でもまだうまく説明できないのだ。
それに、掻き込んだラーメンのせいで変に腹が膨れ、疲労もあったせいかもうだいぶ眠気が襲ってきていた。
ブラッキーを抱えて小さいソファーに寝転ぶと、あっという間に意識が遠ざかった。
翌朝、目が覚めてからも幾度となく外を確認した。
けれど、太陽光のせいなのか白い影はまだ一度も確認していない。
よかった、あれは気のせいだったのだと胸を撫でおろして部屋を出、エレベーターに向かっていると、横を誰かが通り過ぎたような気がした。
振り返ってみるも、そこには誰もいない。
そもそも、こんな狭い廊下ですれ違ったのならばすぐに気が付くはずだ。
じめじめと蒸し暑いはずなのに、むき出しの腕に鳥肌が立った。
エレベーターが上がってくるまでを待つこともできず、階段を一気に駆け降りる。
荒い息を落ち着かせるために外に出て立ち止まり、今しがた降りてきたばかりの廊下を見る。
やはりそこには何もなかった。
職場についてもそのことを誰にも話すこともなく、その日の業務を終えた。
キバナとも何度かメッセージのやり取りはしたが、当たり障りのない日常会話の中にそんな確証も何もないことを相談するのは憚られた。
そうこうしているうちに、また例の廊下にたどり着く。
エレベーターのような密室は怖くて、結局階段を使った。
一瞬立ち止まったものの、ここを進まねば部屋へは帰れない。
肩にかけたバッグの紐をぎゅっと握って、走り出す。
もう片手にはカードキーを用意し、すぐさま開けて入った。
照明を付けてリビングのソファーに座り込む。
廊下に目を向ければ、白い影が一定の間隔で通り過ぎていく。
恐怖心に蓋をして観察をしていると、その陰は時間にしておよそ2,3分の間に廊下を何度も回っているのだ。
けれどもそれだけで、中に入ってくるような気配はない。
得体の知れないものへの恐怖はあるが、今のところ被害はない。
向こうも様子を伺っているのかもしれないと思い、今夜もブラッキーに付き添ってもらう。
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いているのに、ゆるりとしっぽが揺れている様子に思わず笑い声がこぼれた。
*
それから4日後。特に被害はなく、もうあまり気にならなくなっていた。
その日、夜から激しい雨風が吹いていた。
窓を叩きつける雨の音と吹き付ける暴風に眠りを妨げられていた。
せめて他の音で気を紛らわそうとテレビをつけたままソファーで眠ってしまい、数時間が経過したころ、ふと目を覚ました。エアコンをつけていても部屋には湿度が多く、若干汗ばんでいた。備え付けのエアコンが古いためか、喉も痛い。
何かを飲もうとリビングから出ると、キッチンの小窓に視線が行く。
さすがにこんな暴風雨の日はいないのか、と安堵したのもつかの間。
狭い玄関の隅に、白い靄のかかった何かがある。
リビングから漏れる灯りだけでもわかるほどの濃度で、なんとなく人の形のようにも見える。ただの白い靄だというのに、なぜかはっきりと、黒髪の女性だと思った。
あまり視線を合わせないように冷蔵庫の扉を開け、ペットボトルを手に取る。開けっ放しだった扉をぴったりと閉め、ブラッキーを抱いた。
ブラッキーが反応しないということは、悪いものではないのかもしれない。
いや、もしかしたらブラッキーには見えていない可能性もある。楽観視はできなかった。
一度冴えてしまった脳に眠気はこない。スマホを手に取って、キバナに電話をかける。
数回のコール音のあと、低く掠れた声が聞こえてきた。
「夜遅くにごめんなさい」
「うん、大丈夫。どうかしたか?」
「明日…泊まりに行ってもいいですか?」
「いいよ。夕飯はどうする?それともオレがそっちに行こうか?」
「いえ、私がそっちに行きます。夕飯はお任せします」
普段であれば、どちらかの家に泊まるときは前後の予定でもっと会話が弾む。
けれど、今日はとてもそんな気分にはならなかった。
いつこちらの部屋に入ってくるともわからない。
音もなく外から中へ侵入したのだ。ドアや壁など無意味なのだろう。
ここで一晩、一人で過ごすことさえ苦痛なのだ。
「うん、じゃあ何が食べたいか決めといて。あー…あとさ、ユウリ。テレビの音、大きくないか?」
「…え?テレビなんてつけてないですよ?」
「ずいぶん近くで親子の声が聞こえ…いや、ユウリ、そのマンションの場所、どこだっけ」
「バトルタワーの、北側の古いマンションです。家具付きだったので、いくつかの候補の中からここを選んだんですけど。…何かありました?」
「何か、って言ったってことは、異変があるんだな?」
「…あります」
電話越しでは何がどうキバナに聞こえているのかわからない。
静まり返った部屋のはずなのに、何かの声が聞こえているのだろうか。
ぞくりと背筋が凍り付くような悪寒に襲われる。
確認したのは女性だけのはずだ。子供の姿も声も、見ていない。
となると、ここには一体どれだけの数の人ならざる者がいるのか。
「今から行くから。もう少しだけ頑張れ。電話は絶対に切るなよ」
ふりゃ、とフライゴンの声が聞こえた。続いて雨の音と、声が聞こえなくなるくらいの暴風。
こんな日に、空を飛ぶなんて自殺行為にも近い。普段であれば来なくていいと言えただろう。
けれど、スピーカーに切り替えたキバナのスマホから拾った様々な声に悪寒が止まらなかった。
整列をかけ、敬礼と発する男の低い声。
子供たちのはしゃぐ声。
ぶつぶつと合間に聞こえる女性の声。
耳を手で覆っても、それらは脳に直接響くように聞こえてくる。
頭を抱えるように覆って、じりじりと窓際に寄る。
後ろ手で窓のカギを開け、ほんの少し開けようとした瞬間、確実に開けたはずのカギが再びロックされた。
何度開けても、その都度閉まる。
それまで丸まって眠っていたブラッキーが起き上がり、唸り声をあげた。
頭上に向かって、ブラッキーがあくのはどうを放った。
ぎゃ、っと悲鳴を上げて、何かが寝室へと続く壁をすり抜ける。
脳に直接響く様々な声はまだやまない。
どのくらい時間が経ったのかもわからず、目を閉じるとだんだんと意識が遠のいていく。
最後の力を振り絞って、窓のカギを開けると今度は閉まらなかった。
どんどん大きくなる声に、もう意識を保っているのは限界だった。
そんな中、様々な声に交じって美しい音色が聞こえた。
その音だけに意識を向けると、やがてその音がはっきりと聞こえてくる。
フライゴンの羽根音だと認識した瞬間、がらりと勢いよく窓が開いた。
ぽたぽたとキバナの衣服から雨水がしたたり落ちる。
「ブラッキー、かみつけ」
主人からではない指示にブラッキーは一瞬だけこちらに視線を向けた。
訳も分からず、とりあえず頷くとブラッキーは空中に向かってかみついた。
獲物を捕らえて振り回す。空を噛んでいるのだと思ったその矢先、正体が露わになった。
ハイパーボールが真横を通り、紫色の体に当たる。
床に落ちたハイパーボールはしばらく暴れ、やがて静かになった。
「…ゲンガー?」
「ああ。物理的な悪戯はこいつのせいだな。ただ、この声はこいつじゃなかったみたいだ」
まだ脳は現状の処理に追い付いていなかった。
混乱したまま、キバナのいう通りボールホルダーを下げ、貴重品だけを持ってフライゴンに跨る。
頬に打ち付ける雨も風も冷たかった。
けれど、背中に感じる体温と先ほどまでの悪寒に比べればだいぶそれらがましに思えた。
何度も風に流されそうになりながら、ナックルシティのキバナの家に到着すると、頭から塩を振られ、すぐさま風呂場へ押し込まれた。
ずぶ濡れになった服を脱ぎ、少し迷った末に洗濯機に放り込む。
勝手知ったる恋人の部屋。棚から入浴剤を一つ取り出して、湯舟に入れた。
シャワーで軽く雨やほこりを流して浸かると、体の力が抜けていくようだった。
思えばここ数日、あの白い影ばかりを気にしてゆっくりと過ごせていなかったように思う。
目を閉じて少し温めの湯に体を泳がせていると、ガラリと扉が開いてキバナが入ってきた。
後ろから抱きすくめられるように一緒に湯に浸かり、浮かんだ疑問を問いかける。
「なんで、何か起こったってわかったんですか?」
「あそこな、立地が悪すぎるんだ。裏手に墓地、東に川。ちょうどあのマンションが通り道になってるらしい。オレがまだ十代のころ、まあ…あの辺でいろいろ起きてな。お祓いもしたし、年数も経って皆忘れかけてるんだろうけど、有名な話かな」
「てっきり、ゲンガーの仕業かと思ってました。キバナさんが捕まえた後も声は聞こえ続けてたってことは…やっぱり本物なんですかね」
「たぶん、な。オレも初めての経験だった。とにかくあそこから出ることだけ考えてた」
「ありがとう、ございます。すっごく怖くて、あの部屋にいたくなくて。ちょっと遠くてもここに泊まればよかったって後悔ばっかりしてました」
「残してきた荷物は後日取りに行くとして…とりあえず明日は体調不良ってことで有給な。オレも休みだし。ゆっくり寝よう。んで…今日のことは忘れようぜ」
「はい」
今日の経験をすぐに忘れることは無理だろう。もし部屋が復旧したとしても、もう一人で夜を過ごすことはしばらく無理だと思った。
ここ数日の記憶を頭の隅に無理やり置き、もう一度目を閉じる。
温かいこの巣に、今はまだ覆われていたかった。