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ランチボックスシリーズ

「また萎んじゃった…」
つい10分前にオーブンから取り出したスポンジケーキは、色も綺麗なライトブラウンで、膨らみも十分だった。
ようやく完成したと粗熱が取れるまで待っていたのに。
四回目のスポンジケーキも、失敗。
母の手書きのレシピを元に慣れない製菓作りを始めたのが午前中。
キッチンの小窓から差し込む光は、もうだいぶ柔らかい。
タイムリミットだ。
「あら、萎んじゃった?」
「ママ…」
「また作りましょ。今度はママの休みの日にきてね」
「うん…」
昨夜、なんとなく見ていたテレビの番組が切り替わり、手作りスイーツ特集が始まった。
美味しそう、これなら作れるかな、と見ていると、隣でスマホを操作していたキバナがポツリと呟いた。
『オレ、手作りケーキって食べたことないんだよなぁ』
え、と言葉を漏らすと、キバナは少し寂しそうに笑った。
キバナは自分の家庭のことを話さない。
一緒に暮らすようになってから見せてもらったアルバムにも、家族揃って写っている写真はなかった。
疑問には思っていたけれど、キバナが今まで話さなかったのなら機会がなかったか話したくないかのどちらかなのだろう。
実際、ケーキは買ってきたものでも全く問題はない。ただ手作りしなかったからと言って愛情の度合いが変わるわけでもない。
けれど、幼いころに作ってもらった手作りケーキは、素朴だけれど有名店のケーキとはまた違った味わいがある。
それをキバナにも味わってもらいたい。
もう興味は無くなったのか、またスマホを操作しだしたキバナに気づかれないよう、母にメッセージを送った。

翌日、母はレシピ帳を数冊用意して待っていてくれた。
本当はレシピをもらって自宅で作るつもりだった。
母の手書きのレシピ帳をパラパラとめくって、目当てのページにたどり着いて一読。
その中に気になる単語を見つけ、大きなため息をついた。
よくよく考えればすぐにわかることなのだが、ケーキ作りには材料がいる。
食品はすぐに買えるが、器具を一式、買うのはなかなかの出費だ。
いろいろな物で代用することも考えたが、知識と経験がなければその代用品を探すことさえ難しい。
いっそホールケーキを買って帰ろうかと諦めモードに入ると、脳裏に昔見た素朴なケーキが浮かんだ。
今日作りたかった『母のケーキ』。今思い浮かぶケーキは、幼いころに特別な日に焼いてくれたあのケーキだった。
また次の機会にするべきかと気落ちしていると、母からここで作ったらいいと言われ、これでなんとかサプライズができると喜んだのもつかの間。
出来上がったスポンジケーキの形は歪で、全く膨らまなかった。
二回目は色濃く、三回目はやけに固い。
丁度仕事を終えて帰ってきた母に助けを乞い、挑んだ四回目。
上手く焼けたと喜んだのもつかの間、結果は惨敗。
「どうして急にケーキを作ろうと思ったの?」
後片付けを終えて椅子に座ると、紅茶を用意していた母がふいに尋ねた。
「キバナさんが、手作りケーキ食べたことがないって言ったから…」
「あら、意外ね」
二人でティーカップの紅茶を飲み、即席で母が作ってくれたフルーツとホイップクリームたっぷりのトライフルを一口。
少し固かったスポンジケーキはフルーツシロップを吸ってふっくらと口当たりが良くなり、マホイップに出してもらったホイップクリームでなんとか誤魔化されている。
「ケーキ作りは繊細だから。また今度ゆっくり作りましょ」
「ママの次の休みの日、来てもいい?」
もちろん、というように母は優しい笑みを浮かべていた。
「包んであげるから、今日はそのトライフル、帰ったら作りなさい。キバナさん、料理できるんだったら一緒に作ったらいいじゃない」
「うん。…喜んでくれるかなぁ」
「大丈夫よ。きっと喜んでくれるわ。…ほら、お迎えよ」
ウールーの鳴き声に混じって、フライゴンの奏でる美しい音色が聞こえて、慌ててリュックを背負う。
「じゃあ、またね、ママ」
ゴンべの頭を軽く撫で、小さく手を振って玄関ドアをくぐる。
背負ったリュックを一度下ろし、恰好は悪いけれど荷物を前に抱えた。
「おかえりなさい、キバナさん」
ゆっくりとフライゴンが下降し、その背に飛び乗って大きな体に背を預けた。
「ただいま。実家はゆっくりできたか?…中身、何か潰れるようなもんが入ってる?」
「そうですね。これ以上潰れちゃったらショックかも。帰ってからのお楽しみです!」
キバナは首を傾げた。生憎、思い描いていたようなケーキはできなかったけれども、それはまた次回のお楽しみ。
今日のトライフルは、どんな盛り付けにしようかと、冷蔵庫の中のきのみを思い浮かべる。
「ねえ、キバナさん。帰りにスーパー寄ってください」
スーパーでフルーツと、チョコソースとアイスを買って。
二人で一緒に飾り付けるのも、きっと楽しいだろう。
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