ジンクス本編外
「今日は良く晴れてるな」
どんよりとした重苦しい雲が流れ去り、青空が広がっている。まだ時折吹く風は冷たいものの、日差しは柔らかく降り注いでいる。ようやく冬の終わりが訪れたのだと感じられる日だ。
「そうですね。昨日までの寒さが嘘みたい」
ベンチに腰掛け、二人でホットコーヒーを飲みながら広場の中央で遊んでいる子供とポケモンたちを眺めていた。
一緒に買い物に出ると、よくこの公園のベンチで寒い日は温かい飲み物を、夏はソフトクリームを食べたりした。ナックルシティの住民は、私服で歩いていると大抵は話しかけてこない。たまに観光客に声をかけられるくらいだ。
けれど、今日は違った。
私服にも関らず、今日は皆がおめでとうと声をかけてくれる。
原因は昨夜配信した動画の内容だ。
ユウリと付き合って二年が経った昨日、オレ達は結婚を前提に付き合っていると発表した。
付き合い始めた当初は、あれやこれやと周りから詮索されるのが嫌で、二人で黙っていようと決めていた。そのうちきちんとプロポーズをして、籍を入れるまで世間には公表せずにいるのだろうと思っていた。
道で手を繋いだり、明らかにデートとわかるようなことはできないけれど、そもそも趣味がキャンプやバトルが多いせいか、オレたちが付き合っているということを隠しているのはあまり苦ではなかった。
食事や買い物程度であれば付き合う前から二人で行っていたし、オレ達にとってもガラルの人達にとっても特に珍しい光景ではなかったはずだ。
実際、ユウリが二十歳になるまではスキャンダルの的になるのはオレだけで、ユウリに被害はなかった。
ガラルの成人は十八歳とされているが、実際は二十歳にならなければ酒も煙草も吸えない。大人の仲間入りをしてから二年間は社会勉強中と言われているようなものだ。未成年の時よりも広がる世界の中で、自分のモラルが試される。良し悪しを自分で考え、責任を取れるようになったのだと実感するための期間だ。
その期間が終わった二か月前。ユウリが二十歳の誕生日を迎えると、やはり下世話な記事が出回るようになった。
雑誌ならば事前にリーグ側で止めることができただろう。各社の記者たちもそれがわかっているのか、最近はネット記事になることが増えた。これは事前に止めることは不可能だ。挙句、記事が削除されたとしてもどこかにその情報が残ってしまう。これもすべてを消すことは不可能だ。
こちら側の対策としては一貫して否認し、気丈に振舞うこと。そして極力ネタになるような行動は慎むこと。とはいえ、ユウリはプライベートでもガラル中を飛び回っているし、同期に会いに行くこともある。ホップやビート、他の男性ジムリーダーたちとも付き合いは長いのだから、二人きりになることもある。それをネタに記事を書かれたところで、オレもユウリもただの同僚、もしくは友達なのに、と笑うことができた。
ところが、あろうことかダンデと交際していると記事になったのだ。
ユウリが二十歳になって経った二か月の間に、各社がゴシップ合戦を繰り広げた挙句のネタだった。ユウリから説明を聞かなくても、それがただ二人で夕食を食べただけだということは容易く想像できた。
けれど、実際に二人きりでロンド・ロゼでディナーをしている写真を見たときは、ユウリが誰と付き合っているのかを知らない人たちにはデート中だと言われても仕方がないとも思えた。
ただ、その写真にオレが抱いた感情は、なぜダンデとは記事になってオレとは記事にならないのかということだった。
兄妹に間違われるほど、幼いころから一緒にいた。誰にとっても珍しい光景ではないから話題にならないのだということも理解していた。逆に今までそれを逆手に取ってマスコミやファンの目を逸らし、ユウリとの関係を隠していたのだから、作戦は成功というべきだろう。
オレがくだらない嫉妬をしている間に、話題はどんどん尾ひれをつけてネット中を賑わせ、ユウリは疲弊していった。
上司と食事をしただけでネタにされ、いくらユウリが否定したところであることないこと書かれるのだ。その苛立ちや疲労はよくわかる。対策としては誰にも会わず、仕事が終わればまっすぐ自宅へ帰ること。そのくらいしかない。デメリットといえばオレもユウリと暫くは二人で会うことができなくなるけれど、と電話越しに伝えると、ユウリは震えた声でそれは耐えられないと言って通話を切った。何度かけなおしても一向に繋がらず、お呼びしましたが、と無機質な声のアナウンスを何度か聞いたところでベランダの窓がまるで台風でも来たかのような突風に揺れた。割れたり外れていないかと確認しに行くと、そこにはユウリが僅かな荷物を持って手持ちのアーマーガアと並んで立っていた。
薄着のユウリを部屋の中に入れ、ブランケットを羽織らせると冷たいフローリングにぺたりと崩れ落ちるように座り込んだ。俯いて表情は見えなかったが、肩の震えは寒さのせいではないことがすぐにわかった。やがて涙を噛みしめるかのように声を押し殺しながら、普段通りの生活がしたいと訴えたユウリに、オレはもう一つの案を提案した。
オレたちの関係を公表してしまえば、何も書かれずに済む、と。ユウリはその提案に、俯いていた顔を上げて本当にいいのかとオレに問うた。
公表することは嬉しいけれど、今度はオレの身を案じたらしい。自身からオレに照準が移ることでプライベートのみならずジムリーダーとしての業務にも支障が出るのではないかと。
ユウリ自身が今まさにそんな目にあっているというのに、それでもまだ他人の心配をしている。自分を一番に考えられないのはユウリの良いところでもあり、悪いところでもある。
オレはユウリの問いに、何の問題もないと答えた。
目を丸くしたまま座り込んでいるユウリをソファに座らせ、ホットココアを作りながら、未成年のうちから付き合っていただとか、以前に噂になった誰それと何股をかけていただとか、そんな内容で記事が新たに捏造されるのだろうなと頭を過った。
それが、昨夜の動画配信だ。
本当はきちんとデートプランを考えて、ユウリが好みそうな場所でのプロポーズも考え始めていたところだったのに、そういったものは全部飛ばしてリーグ委員会に報告と許可をもらい、公表した。
プロポーズ計画を台無しにしてくれた三流雑誌記者たちに恨みにも似た想いを込めて、あえて皮肉を隠さずに関係を公表した結果、件のネット記事のコメント欄はさらに荒れることとなった。やがてそれはオレとユウリのSNSに移動し、通知が鳴りやまず、ロトムはスマホから逃走。その後スマホはフリーズし、何度再起動しても同じ現象をループするようになった。
使い物にならなくなったスマホの電源を落とし、心配そうに眉根を寄せているユウリを何とか眠らせ、今日は自然に起きるまでそっとしておいた。
本当は今日もユウリを外に出す気はなかったが、ユウリ自ら気分転換に散歩にでも行きたいと言ったものだから、人の少ない近場の公園を選んだ。おそらく、スマホで情報を得られない分、実際に人々の反応を確かめたかったのかもしれない。
ぼんやりと手元のカップを眺めていた視線をユウリに向けると、噴水の向こう側を眺めているようだった。
そこには老夫婦が手を繋ぎ、まだ葉もついていない木を見上げて何やら会話をしているようだった。
「ねぇ、キバナさん」
「どうした?」
ユウリは手元のカップの中身をくるくると回し、しばらく弄んだ。やがて、唇が言葉を紡ごうと動くものの、声が発せられることはなく唇を閉ざす。何度かそれを繰り返した後、きゅっと唇が一文字に結ばれ、視線は再び老夫婦に向けられた。
「私ね、あの夫婦みたいになりたいです。いつまでも……歳を取っても。だから、昨日キバナさんが決断してくれたのは本当に嬉しかったんです」
「……うん」
オレはそんなに立派な男じゃないと思わず口から出そうになった言葉を必死に飲み込んだ。
本当は、ただの嫉妬からの勢いだ。
「今日も、私の我儘に付き合ってくれてありがとうございます。家にいた方がいいのは分かっていたけれど……二人で外に出てみたかったんです。スマホが使えないから、みんなどんな反応するのかなって。ずっと、私はキバナさんの妹みたいに思われていたから」
デートとも言えない、ただの近所への散歩。それだけで、ナックルシティの人々がお祝いモードに入っているのがわかった。当然、その中にはオレらの関係に発表前から気づいていた人もいただろうし、良く思っていない人もいるはずだ。
けれど、公表してしまった以上、それが例え批判だとしても、どんな反応も受け止めなくてはならない。
とはいえ、祝いの言葉であればありがとうで済むが、批判に反応を気にしたり、一々弁明するほどオレもユウリも暇ではない。
「なあ、ユウリ。外野はほっといてデートしよう。せっかく堂々とできるようになったんだからさ。ユウリはどこへ行きたい?」
買い物も食事もキャンプも、数えきれないくらい行った。けれど、恋人らしいことはしていない。お互いに避けていた。
例えば、手を繋いで歩くこと。
例えば、お揃いのアクセサリーを身に着けること。
例えば、裏口からではなく堂々と正面玄関からお互いの部屋を訪ねること。
ユウリだって年頃の女性だ。他にも今まで我慢してきたことはたくさんあるだろう。
「ユウリの好きな食べ物とか、生活パターンとか、ポケモンが大好きなことは知ってる。けど、今までのデートに慣れて……本当にユウリが行きたいところ、したいことがオレには思い浮かばない。だから教えてほしい。まずはそこからだと思ってる」
もう温くなってしまったコーヒーを飲み干して、ユウリの返答を待つ。意外にこういう風に自分の思っていることをさらけ出すのは気恥ずかしくて勇気がいるものなのだなと、三十路に足を踏み入れてから知ることになるとは思わなかった。
きっとユウリもそうなのだろう。
「とりあえず、手を繋いで歩いてみたいです」
「うん」
返事をしながら、ベンチの上に置かれていた左手に手を重ねる。
「それから、何かお揃いのものが欲しいです」
「うん」
偶然、ちらりと見えただけだけれど、こっそりとペアアクセサリーをネットショップで見ていたことがあって、やっぱりこういうのが欲しいんだなと思っていた。
「それだけか?」
「思いつく限りは……キバナさんは?」
「オレも同じだよ」
オレの願いはユウリが笑っていることだ。
だからそのためには何だってしたい。
この子が笑顔で過ごせるなら、それだけで構わない。
とりあえずは、あのまだ葉のついていない木を手を繋いで見に行こう。
その次はジュエリーショップへ行って、何かお揃いのものを買おう。せっかくだからユウリに婚約指輪を選んでもらってもいいかもしれない。
そのあとは、どこかで夕食を食べて、堂々と正面玄関からオレの家へ帰る。
今までのように人の目を気にしなくていい。
「行こうか」
コーヒーカップを手近なごみ箱に捨てて歩き出す。
ユウリの表情もどこかすっきりとしたようだった。
ちょうど老夫婦が立ち止まっていたあたりで上を見上げると、桃色の蕾が一つ、枝についていた。
もうあと数日で咲くだろうそれを見て、春の訪れを感じる。
「もうすぐ春が来ますね」
「ようやく寒さが過ぎるな」
そう言った瞬間、ひゅうっと冷たい風が吹いた。
二人で苦笑いを零し、乱れたユウリの後ろ髪を簡単に整える。
「やっぱりまだまだ寒さが続くのかもしれませんね」
そう言って、ユウリは繋いでいた手をするりと抜き、寄り添うように腕に抱き着いてきた。
あまりにも自然なようだったけれど、その頬は先ほど見つけた蕾のように薄っすらと桃色に染まっていた。
どんよりとした重苦しい雲が流れ去り、青空が広がっている。まだ時折吹く風は冷たいものの、日差しは柔らかく降り注いでいる。ようやく冬の終わりが訪れたのだと感じられる日だ。
「そうですね。昨日までの寒さが嘘みたい」
ベンチに腰掛け、二人でホットコーヒーを飲みながら広場の中央で遊んでいる子供とポケモンたちを眺めていた。
一緒に買い物に出ると、よくこの公園のベンチで寒い日は温かい飲み物を、夏はソフトクリームを食べたりした。ナックルシティの住民は、私服で歩いていると大抵は話しかけてこない。たまに観光客に声をかけられるくらいだ。
けれど、今日は違った。
私服にも関らず、今日は皆がおめでとうと声をかけてくれる。
原因は昨夜配信した動画の内容だ。
ユウリと付き合って二年が経った昨日、オレ達は結婚を前提に付き合っていると発表した。
付き合い始めた当初は、あれやこれやと周りから詮索されるのが嫌で、二人で黙っていようと決めていた。そのうちきちんとプロポーズをして、籍を入れるまで世間には公表せずにいるのだろうと思っていた。
道で手を繋いだり、明らかにデートとわかるようなことはできないけれど、そもそも趣味がキャンプやバトルが多いせいか、オレたちが付き合っているということを隠しているのはあまり苦ではなかった。
食事や買い物程度であれば付き合う前から二人で行っていたし、オレ達にとってもガラルの人達にとっても特に珍しい光景ではなかったはずだ。
実際、ユウリが二十歳になるまではスキャンダルの的になるのはオレだけで、ユウリに被害はなかった。
ガラルの成人は十八歳とされているが、実際は二十歳にならなければ酒も煙草も吸えない。大人の仲間入りをしてから二年間は社会勉強中と言われているようなものだ。未成年の時よりも広がる世界の中で、自分のモラルが試される。良し悪しを自分で考え、責任を取れるようになったのだと実感するための期間だ。
その期間が終わった二か月前。ユウリが二十歳の誕生日を迎えると、やはり下世話な記事が出回るようになった。
雑誌ならば事前にリーグ側で止めることができただろう。各社の記者たちもそれがわかっているのか、最近はネット記事になることが増えた。これは事前に止めることは不可能だ。挙句、記事が削除されたとしてもどこかにその情報が残ってしまう。これもすべてを消すことは不可能だ。
こちら側の対策としては一貫して否認し、気丈に振舞うこと。そして極力ネタになるような行動は慎むこと。とはいえ、ユウリはプライベートでもガラル中を飛び回っているし、同期に会いに行くこともある。ホップやビート、他の男性ジムリーダーたちとも付き合いは長いのだから、二人きりになることもある。それをネタに記事を書かれたところで、オレもユウリもただの同僚、もしくは友達なのに、と笑うことができた。
ところが、あろうことかダンデと交際していると記事になったのだ。
ユウリが二十歳になって経った二か月の間に、各社がゴシップ合戦を繰り広げた挙句のネタだった。ユウリから説明を聞かなくても、それがただ二人で夕食を食べただけだということは容易く想像できた。
けれど、実際に二人きりでロンド・ロゼでディナーをしている写真を見たときは、ユウリが誰と付き合っているのかを知らない人たちにはデート中だと言われても仕方がないとも思えた。
ただ、その写真にオレが抱いた感情は、なぜダンデとは記事になってオレとは記事にならないのかということだった。
兄妹に間違われるほど、幼いころから一緒にいた。誰にとっても珍しい光景ではないから話題にならないのだということも理解していた。逆に今までそれを逆手に取ってマスコミやファンの目を逸らし、ユウリとの関係を隠していたのだから、作戦は成功というべきだろう。
オレがくだらない嫉妬をしている間に、話題はどんどん尾ひれをつけてネット中を賑わせ、ユウリは疲弊していった。
上司と食事をしただけでネタにされ、いくらユウリが否定したところであることないこと書かれるのだ。その苛立ちや疲労はよくわかる。対策としては誰にも会わず、仕事が終わればまっすぐ自宅へ帰ること。そのくらいしかない。デメリットといえばオレもユウリと暫くは二人で会うことができなくなるけれど、と電話越しに伝えると、ユウリは震えた声でそれは耐えられないと言って通話を切った。何度かけなおしても一向に繋がらず、お呼びしましたが、と無機質な声のアナウンスを何度か聞いたところでベランダの窓がまるで台風でも来たかのような突風に揺れた。割れたり外れていないかと確認しに行くと、そこにはユウリが僅かな荷物を持って手持ちのアーマーガアと並んで立っていた。
薄着のユウリを部屋の中に入れ、ブランケットを羽織らせると冷たいフローリングにぺたりと崩れ落ちるように座り込んだ。俯いて表情は見えなかったが、肩の震えは寒さのせいではないことがすぐにわかった。やがて涙を噛みしめるかのように声を押し殺しながら、普段通りの生活がしたいと訴えたユウリに、オレはもう一つの案を提案した。
オレたちの関係を公表してしまえば、何も書かれずに済む、と。ユウリはその提案に、俯いていた顔を上げて本当にいいのかとオレに問うた。
公表することは嬉しいけれど、今度はオレの身を案じたらしい。自身からオレに照準が移ることでプライベートのみならずジムリーダーとしての業務にも支障が出るのではないかと。
ユウリ自身が今まさにそんな目にあっているというのに、それでもまだ他人の心配をしている。自分を一番に考えられないのはユウリの良いところでもあり、悪いところでもある。
オレはユウリの問いに、何の問題もないと答えた。
目を丸くしたまま座り込んでいるユウリをソファに座らせ、ホットココアを作りながら、未成年のうちから付き合っていただとか、以前に噂になった誰それと何股をかけていただとか、そんな内容で記事が新たに捏造されるのだろうなと頭を過った。
それが、昨夜の動画配信だ。
本当はきちんとデートプランを考えて、ユウリが好みそうな場所でのプロポーズも考え始めていたところだったのに、そういったものは全部飛ばしてリーグ委員会に報告と許可をもらい、公表した。
プロポーズ計画を台無しにしてくれた三流雑誌記者たちに恨みにも似た想いを込めて、あえて皮肉を隠さずに関係を公表した結果、件のネット記事のコメント欄はさらに荒れることとなった。やがてそれはオレとユウリのSNSに移動し、通知が鳴りやまず、ロトムはスマホから逃走。その後スマホはフリーズし、何度再起動しても同じ現象をループするようになった。
使い物にならなくなったスマホの電源を落とし、心配そうに眉根を寄せているユウリを何とか眠らせ、今日は自然に起きるまでそっとしておいた。
本当は今日もユウリを外に出す気はなかったが、ユウリ自ら気分転換に散歩にでも行きたいと言ったものだから、人の少ない近場の公園を選んだ。おそらく、スマホで情報を得られない分、実際に人々の反応を確かめたかったのかもしれない。
ぼんやりと手元のカップを眺めていた視線をユウリに向けると、噴水の向こう側を眺めているようだった。
そこには老夫婦が手を繋ぎ、まだ葉もついていない木を見上げて何やら会話をしているようだった。
「ねぇ、キバナさん」
「どうした?」
ユウリは手元のカップの中身をくるくると回し、しばらく弄んだ。やがて、唇が言葉を紡ごうと動くものの、声が発せられることはなく唇を閉ざす。何度かそれを繰り返した後、きゅっと唇が一文字に結ばれ、視線は再び老夫婦に向けられた。
「私ね、あの夫婦みたいになりたいです。いつまでも……歳を取っても。だから、昨日キバナさんが決断してくれたのは本当に嬉しかったんです」
「……うん」
オレはそんなに立派な男じゃないと思わず口から出そうになった言葉を必死に飲み込んだ。
本当は、ただの嫉妬からの勢いだ。
「今日も、私の我儘に付き合ってくれてありがとうございます。家にいた方がいいのは分かっていたけれど……二人で外に出てみたかったんです。スマホが使えないから、みんなどんな反応するのかなって。ずっと、私はキバナさんの妹みたいに思われていたから」
デートとも言えない、ただの近所への散歩。それだけで、ナックルシティの人々がお祝いモードに入っているのがわかった。当然、その中にはオレらの関係に発表前から気づいていた人もいただろうし、良く思っていない人もいるはずだ。
けれど、公表してしまった以上、それが例え批判だとしても、どんな反応も受け止めなくてはならない。
とはいえ、祝いの言葉であればありがとうで済むが、批判に反応を気にしたり、一々弁明するほどオレもユウリも暇ではない。
「なあ、ユウリ。外野はほっといてデートしよう。せっかく堂々とできるようになったんだからさ。ユウリはどこへ行きたい?」
買い物も食事もキャンプも、数えきれないくらい行った。けれど、恋人らしいことはしていない。お互いに避けていた。
例えば、手を繋いで歩くこと。
例えば、お揃いのアクセサリーを身に着けること。
例えば、裏口からではなく堂々と正面玄関からお互いの部屋を訪ねること。
ユウリだって年頃の女性だ。他にも今まで我慢してきたことはたくさんあるだろう。
「ユウリの好きな食べ物とか、生活パターンとか、ポケモンが大好きなことは知ってる。けど、今までのデートに慣れて……本当にユウリが行きたいところ、したいことがオレには思い浮かばない。だから教えてほしい。まずはそこからだと思ってる」
もう温くなってしまったコーヒーを飲み干して、ユウリの返答を待つ。意外にこういう風に自分の思っていることをさらけ出すのは気恥ずかしくて勇気がいるものなのだなと、三十路に足を踏み入れてから知ることになるとは思わなかった。
きっとユウリもそうなのだろう。
「とりあえず、手を繋いで歩いてみたいです」
「うん」
返事をしながら、ベンチの上に置かれていた左手に手を重ねる。
「それから、何かお揃いのものが欲しいです」
「うん」
偶然、ちらりと見えただけだけれど、こっそりとペアアクセサリーをネットショップで見ていたことがあって、やっぱりこういうのが欲しいんだなと思っていた。
「それだけか?」
「思いつく限りは……キバナさんは?」
「オレも同じだよ」
オレの願いはユウリが笑っていることだ。
だからそのためには何だってしたい。
この子が笑顔で過ごせるなら、それだけで構わない。
とりあえずは、あのまだ葉のついていない木を手を繋いで見に行こう。
その次はジュエリーショップへ行って、何かお揃いのものを買おう。せっかくだからユウリに婚約指輪を選んでもらってもいいかもしれない。
そのあとは、どこかで夕食を食べて、堂々と正面玄関からオレの家へ帰る。
今までのように人の目を気にしなくていい。
「行こうか」
コーヒーカップを手近なごみ箱に捨てて歩き出す。
ユウリの表情もどこかすっきりとしたようだった。
ちょうど老夫婦が立ち止まっていたあたりで上を見上げると、桃色の蕾が一つ、枝についていた。
もうあと数日で咲くだろうそれを見て、春の訪れを感じる。
「もうすぐ春が来ますね」
「ようやく寒さが過ぎるな」
そう言った瞬間、ひゅうっと冷たい風が吹いた。
二人で苦笑いを零し、乱れたユウリの後ろ髪を簡単に整える。
「やっぱりまだまだ寒さが続くのかもしれませんね」
そう言って、ユウリは繋いでいた手をするりと抜き、寄り添うように腕に抱き着いてきた。
あまりにも自然なようだったけれど、その頬は先ほど見つけた蕾のように薄っすらと桃色に染まっていた。