ジンクス本編外
「では、これで特集用のインタビューは終わりです。お疲れ様でした」
分厚い木製のテーブルに軽く打ち付けるようにして散らばった書類を片付ける。
最後の仕事が、ドラゴンストームの取材で本当によかったと膨らんだ腹をちらりと見た。
悪阻は治まったものの、体は重怠い。それでも体調不良でこの取材を休みたくはなかった。
ずっと彼を取材してきた。とは言っても独自に調べていただけで、こうして直接話を聞く機会はほとんどなかった。務めている出版社はナックルシティの小さな事務所で、その分、売れ行きのいい下種な記事ばかりを載せる低俗な雑誌だったと今でも思う。
そんな片隅に彼のバトル考察や手持ちポケモンたちの様子を記事にするだけだった。
それを変えたのも、彼だった。いや、彼の妻であるガラルポケモンチャンピオンのユウリだ。
何の縁かは詳しくは知らないが、今のデスクがまだ記者だったころ、ドラゴンストームとチャンピオンの交際発覚記事を出した。しかも本人たちの許可を得て、コメント付きである。偽装か真実かわからない記事を作り上げる毎日に飛び込んできたスクープに、皆喜ぶよりもなぜうちが、と疑心暗鬼だった。
あまりの売れ行きに驚く間に紙面改革が始まり、トップが変わり、落ち着き始めたころには気がつけば、ナックルシティの情報誌へと変わっていた。グルメ情報やワイルドエリア情報、バトル関連の新商品情報。そして女性向けのコーナーまでできていた。
こうして彼から直接話を聞く機会も、もう数えきれないほどこなしてきた。
それも、この記事が出来上がれば終わるのだ。
そう思うと吹っ切ったはずの退職が少し残念に思えた。
「いずれはご結婚されると思っていましたが…おめでとうございます。そしてこうして取材を受けてくださったことも、重ねてお礼申し上げます」
「編集長とはちょっとした縁があって。今回の件も含めてオレ個人のお礼でもありました」
「その件については私は存じ上げないのですが。あの記事がきっかけでうちの社員たちの待遇が大幅に変わったのは事実です。皆、昔とは比べ物にならないくらい生き生きと働いているような気がします。デスクも暇なんてないはずなのに、隙があればワイルドエリアに行っているようですし」
「ダンデみたいだな。あのカメックスは強そうだから一度手合わせしたいんだが…断られてばかりだ」
ふふ、っと笑った彼の表情は昔に比べてだいぶ柔らかくなった。若かった、ということもあるだろうけれど、やはりそれだけではない。自分が結婚して、妊娠までしたことが信じられないように、恋愛は人を変えるのだ。
「今回の取材で私は担当から外れます。後日後任から連絡があると思いますので、ご対応をお願いいたします。それでは…今までありがとうございました」
大きくなった腹を抱えてのお辞儀は思ったよりも圧迫感を覚えた。上体を伸ばした際には腰に僅かな痛みが走る。
もう、昔のように走り回ることはできないのだと仕事をしていると痛感することが増えた。
初めての育児に頼れる人は周囲にはいない。だから退職を選んだ。落ち着いたら今度はフリーランスで書いてもいいし、今は色々な道がある。けれどやっぱり名残惜しいさは残ってしまう。
「ご退職、されるんでしたね。なんだか…残念です。ユウリも同じように言っていました。今度はあの情報誌に育児コーナーができると思っていたのに、だそうですよ」
「育児、コーナーですか…?」
ええ、と一つ返事をして、彼は紅茶を飲んでいる。そういえば頂いた飲み物には口をつけていなかったと思い出してカップを見ると、私のカップに入っていたのは紅茶ではなかった。
妊婦は飲み物にすら気を遣う。あれだけ大好きだった紅茶もコーヒーも飲めないし、あれは食べてはいけないとか、こうしなければいけないとか、そんな情報ばかりがネット上には転がっている。
時には何の検証もしていないデタラメも多い。
今までなんとも思っていなかったことだった。それが頭の中で一本の線に繋がっていく。
次々とアイディアが湧き、コーナーのデザインが脳裏に浮かぶ。
書きたいと思ってしまえば、もう後戻りはできなかった。
「ふふ…いいですね。うちの雑誌は情報誌に生まれ変わったんですからそういうコーナーもアリかもしれません」
「あなたが落ち着いて戻ってこられたときにはうちだって子供ができているかもしれない。ユウリの家族もハロンだから遠いし、信頼できる方が書いた情報なら安心できるとオレも思ってますよ」
「早速、編集長に企画書を持っていきます。あなたのご期待に沿えるよう、頑張ります」
人との繋がりや縁、自分の努力。
それらを捨てるにはまだ早いのかもしれない。
分厚い木製のテーブルに軽く打ち付けるようにして散らばった書類を片付ける。
最後の仕事が、ドラゴンストームの取材で本当によかったと膨らんだ腹をちらりと見た。
悪阻は治まったものの、体は重怠い。それでも体調不良でこの取材を休みたくはなかった。
ずっと彼を取材してきた。とは言っても独自に調べていただけで、こうして直接話を聞く機会はほとんどなかった。務めている出版社はナックルシティの小さな事務所で、その分、売れ行きのいい下種な記事ばかりを載せる低俗な雑誌だったと今でも思う。
そんな片隅に彼のバトル考察や手持ちポケモンたちの様子を記事にするだけだった。
それを変えたのも、彼だった。いや、彼の妻であるガラルポケモンチャンピオンのユウリだ。
何の縁かは詳しくは知らないが、今のデスクがまだ記者だったころ、ドラゴンストームとチャンピオンの交際発覚記事を出した。しかも本人たちの許可を得て、コメント付きである。偽装か真実かわからない記事を作り上げる毎日に飛び込んできたスクープに、皆喜ぶよりもなぜうちが、と疑心暗鬼だった。
あまりの売れ行きに驚く間に紙面改革が始まり、トップが変わり、落ち着き始めたころには気がつけば、ナックルシティの情報誌へと変わっていた。グルメ情報やワイルドエリア情報、バトル関連の新商品情報。そして女性向けのコーナーまでできていた。
こうして彼から直接話を聞く機会も、もう数えきれないほどこなしてきた。
それも、この記事が出来上がれば終わるのだ。
そう思うと吹っ切ったはずの退職が少し残念に思えた。
「いずれはご結婚されると思っていましたが…おめでとうございます。そしてこうして取材を受けてくださったことも、重ねてお礼申し上げます」
「編集長とはちょっとした縁があって。今回の件も含めてオレ個人のお礼でもありました」
「その件については私は存じ上げないのですが。あの記事がきっかけでうちの社員たちの待遇が大幅に変わったのは事実です。皆、昔とは比べ物にならないくらい生き生きと働いているような気がします。デスクも暇なんてないはずなのに、隙があればワイルドエリアに行っているようですし」
「ダンデみたいだな。あのカメックスは強そうだから一度手合わせしたいんだが…断られてばかりだ」
ふふ、っと笑った彼の表情は昔に比べてだいぶ柔らかくなった。若かった、ということもあるだろうけれど、やはりそれだけではない。自分が結婚して、妊娠までしたことが信じられないように、恋愛は人を変えるのだ。
「今回の取材で私は担当から外れます。後日後任から連絡があると思いますので、ご対応をお願いいたします。それでは…今までありがとうございました」
大きくなった腹を抱えてのお辞儀は思ったよりも圧迫感を覚えた。上体を伸ばした際には腰に僅かな痛みが走る。
もう、昔のように走り回ることはできないのだと仕事をしていると痛感することが増えた。
初めての育児に頼れる人は周囲にはいない。だから退職を選んだ。落ち着いたら今度はフリーランスで書いてもいいし、今は色々な道がある。けれどやっぱり名残惜しいさは残ってしまう。
「ご退職、されるんでしたね。なんだか…残念です。ユウリも同じように言っていました。今度はあの情報誌に育児コーナーができると思っていたのに、だそうですよ」
「育児、コーナーですか…?」
ええ、と一つ返事をして、彼は紅茶を飲んでいる。そういえば頂いた飲み物には口をつけていなかったと思い出してカップを見ると、私のカップに入っていたのは紅茶ではなかった。
妊婦は飲み物にすら気を遣う。あれだけ大好きだった紅茶もコーヒーも飲めないし、あれは食べてはいけないとか、こうしなければいけないとか、そんな情報ばかりがネット上には転がっている。
時には何の検証もしていないデタラメも多い。
今までなんとも思っていなかったことだった。それが頭の中で一本の線に繋がっていく。
次々とアイディアが湧き、コーナーのデザインが脳裏に浮かぶ。
書きたいと思ってしまえば、もう後戻りはできなかった。
「ふふ…いいですね。うちの雑誌は情報誌に生まれ変わったんですからそういうコーナーもアリかもしれません」
「あなたが落ち着いて戻ってこられたときにはうちだって子供ができているかもしれない。ユウリの家族もハロンだから遠いし、信頼できる方が書いた情報なら安心できるとオレも思ってますよ」
「早速、編集長に企画書を持っていきます。あなたのご期待に沿えるよう、頑張ります」
人との繋がりや縁、自分の努力。
それらを捨てるにはまだ早いのかもしれない。
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