ジンクス本編外
突然喉がむず痒くなって、軽く咳ばらいをする。
けほっと一度咳をしても、ヒリヒリとした感覚が未だ喉に居座っている。
うっすらと目を開けると、カーテンから差し込む光はだいぶ和らいでいて、まるでまだ日の登りきらない冬の朝のようだ。
けれどそれが夕刻の日が沈む前だというのをサイドテーブルのデジタル時計が示していた。
十二月三十一日。
なんとか日付が変わる前にようやく帰宅した。
事務作業が終わったのはずっと前だったが、デスクの上を片付けているうちにあそこも、ここも、と気になって掃除を始めたら気が付いたらもう日付が変わる前だった。簡単にシャワーを済ませて埃を落とし、ベッドに潜り込んだものの、疲れがピークを越してなかなか寝付けなかった。ようやくうとうとと瞼が落ちてきたのが早朝。今のように柔らかい日差しが差し込んできた頃だ。
それからたっぷり半日も寝続けていれば喉も乾燥するだろう。
布団の中で大きく伸びをして、コリをほぐす。パキッと首から小気味のいい音が二度鳴った。
少しすっきりした体を起こしてリビングへと向かうと、ユウリがエプロンを着けてキッチンに立っていた。
「あ、キバナさん」
「…おはよ」
案の定、声は掠れていて思う様に発音できない。そのまま冷蔵庫から水を取り出して、喉を潤す。ひりついていた喉に冷たい水が沁みていった。
「何作ってるんだ?」
「ビーフシチューです。もうすぐできますよ」
鍋を見ると、ゴロゴロとした牛肉と野菜が鍋に詰まっている。
一度匂いを嗅ぐと途端に空腹を覚えた。
チン、っと電子音が鳴ってオーブンを見ると、皿の中でぐつぐつと何かが気泡を上げている。
ミトンを両手にはめたユウリが取り出したのはグラタン皿だった。
ホワイトソースの上にはぎっしりとチーズが散りばめられている。
どちらもユウリお手製のイベント料理だ。けれど今まで大晦日に出たことはない。
「クリスマス用に買っておいた牛肉、冷凍しておいたんです。でも少し買い出ししたら、冷凍庫いっぱいになっちゃって」
照れくさそうに笑うユウリだが、本音はやはりクリスマスを祝いたかったのかもしれない。
どちらにせよ、どちらも美味しそうでスプーンを手にビーフシチューを一口味見という名のつまみ食いをする。
「美味い」
「もう、キバナさん。お行儀悪いですよ」
「いい匂いだったから、つい」
テーブルへグラタン皿を置きに行ったユウリに窘められる。これも、毎年のことだ。
店で食べるシチューとは違ってとても家庭的な味付け。それがまたよかった。高級な物は素材からして上等な物だし、味付けもたくさんのスパイスや食材を煮込んだりと家庭ではできないような手間暇がかかっている。それを着飾って少量を食べる、それもまた特別な日という演出で雰囲気が出るが、周りを気にして食べても実のところ、今でも味を覚えているか、また食べたいと思うかと問われればそうは思わないし、覚えてもいない。
それよりもユウリが作ってくれた物の方が鮮明に覚えている。
自炊はできるが、今まで自分で食べるものにこんなに時間を割いたことはない。だから純粋に凄いと感心するのだ。人のためにほぼ毎日食事を作ることを厭わないユウリを。そして出来上がる料理に。また食べたいと思える料理を作ることがいかに大変なことか、一緒に暮らすようになって改めて思い知った。
初めて一緒にキャンプをしてカレーをユウリに振舞ったと時、彼女は幸せそうな顔をした。まだ今よりもだいぶ幼かった少女は、また食べたいと言った。
次からは、キャンプをする度に作ってと強請られた。今ではもう言われなくても作るし、ユウリも待っている。それが当たり前となった。
普段、ユウリより早く帰れたときは夕飯を作ることもある。けれど簡単な物しか用意できないし、その食材も冷凍庫にカットしたものがストックしてあったり、明らかにユウリよりは楽なのだ。それでも美味しいと食べてくれる。
多分、どんな料理でも二人で食べれたらそれは美味しいのだ。
ぼんやりとそんなことを思いながら綺麗に器に盛られたシーザーサラダをテーブルへ運ぶ。
他愛もない話をして、二人で食べるこの時間がとても幸せな事なのだと改めて思い知った。
「二十三時ころ、ちょっと外行こう」
食べ終えた皿を片付けながらキッチン越しに伝えると、ユウリは食後の紅茶を手に首を傾げた。
「暖かい恰好、しといてくれ」
「どこか出かけるんですか?」
「まだ内緒」
教えてください、とユウリがカップを手に寄って来る。それもはぐらかして答えていると、ユウリのスマホロトムが着信を告げた。
スマホを耳に当て、ユウリがソファーへと移動するのを見届けて、ウォークインクローゼットの扉を開ける。
上の棚から収納ケースを取り出して、その間に挟まれた目当ての物を手に取る。
それをこっそりと、気づかれないように上着の中へ忍ばせた。
◇◇◇
二十三時を少し過ぎて、厚着をしたユウリをフライゴンへ乗せる。
その後ろに乗り込んでしっかりと支えて、相棒の肩を叩いた。
「頼むぞ、フライゴン」
ご機嫌に一声鳴いて、ゆっくりと上昇していく。
目的地までの数十分。
北へ飛び続けるにつれて、どんどん冷え込んでいく。
静まり返った夜の空にはフライゴンの美しい羽音が響いていた。その音色をBGMに見慣れた街並みを見下ろす。普段であれば消えている明かりも、今夜はどこも明かりが灯っている。
目的地に近づくにつれて降下を始めると、開けた場所には人が集まり街の喧騒が聞こえ始めた。やがてフライゴンは目的地へ降りたつ。
「すごい…!」
「メロンさんに教えてもらったんだ」
ユウリの寂しそうな顔を見てから、どうしても連れていきたくてメロンへと連絡を取った。
彼女は大晦日から正月中はイルミネーションが灯っていること、それを見渡せる絶景スポットがあるのだと教えてくれたのだ。
キルクスの街全体が見下ろせる丘はまさに絶景だった。
澄んだ空に瞬く星の数々。そして色とりどりのイルミネーション。
一緒に手を繋いで街を歩きながら見るのはまた来年にしようと決めていた。
今日は誰にも邪魔をされずに過ごしたいのだ。
上着のポケットに手を突っ込んで、小さな箱を掴む。
ユウリはずっとイルミネーションを眺めている。
気づかれないようにそっと深呼吸をした。
けれども緊張は呼吸をすればするほどに増してくる。
「さっき、誰から電話だったんだ?」
「ダンデさんです。新年のタッグバトル、一緒に組まないかって」
ようやくこちらを向いた彼女に飲み物を渡す。 マグボトルの蓋を開けると白い湯気が立ち上った。その湯気は彼女との間に薄いベールをかけたようでほんの少し緊張が和らいだ気がした。
「でも、私キバナさんと一緒に戦いたかったから。断りました!」
そうか、とだけ答えてもう一度深呼吸をする。
口にする言葉を何度も何度も頭の中で唱えて、けれど口から出たのは電話について。本当は電話の相手なんて、誰でもよかったのだ。
「ねぇキバナさん、あれポッチャマとアチャモですよね?」
ユウリは無邪気にイルミネーションの飾りを見て問いかけてくる。目を閉じて、もう何度目かわからない深呼吸をした。冷たい空気を吸い込みすぎて段々と肺が痛くなってくる。
全てを吐き出して、目を開けてユウリの名を呼んだ。
振り返った彼女の前に小箱を差し出す。
初めてだった。傍にいたいと思ったのも、誰かに心の底から感謝をしたのも。通り名や肩書だけではなく、自身を見てくれた人も。情けない姿を見せれたのも。受け入れてくれたのも。
だからただ一緒にいるだけではなく、けじめをつけたいと思った。
「結婚、してくれないか?」
色々考えた台詞は頭から消えていた。
跪いて、深紅の蓋を開けて差し出す。
一緒に暮らすことになった時に渡そうと思って買った指輪は、迷っているうちに半年が過ぎてしまった。
縛り付けることになるとわかっていたからこそ怖かった。彼女の自由を尊重したくてなかなか渡せなかったのだ。
まともに思考が働いている自信はなかった。 もっとスマートな台詞もシチュエーションも考えていたのに、何一つできていないのだ。
こんな時くらい、いつものように恰好をつけて言いたかったのに、と思ったところでもう遅い。
時間は、巻き戻らない。
もしも巻き戻るのなら、クリスマス前に。その頃に戻れたらあんなに恰好の悪い姿を見せずにすんだのに。
数秒の間が数分にも数十分にも感じる。ただひたすらユウリの答えを待つ。
「私で、いいんですか…?」
視線を上げると、ユウリの鼻は寒さで赤くなっていて、大きな目は少し潤んでいる。
「ユウリがいい。相変わらずダンデにもオマエにも勝てないし、これからもこの間みたいに情けない姿を見せると思う。けれど、これからもユウリと一緒にいたいんだ」
細めたヘーゼルアイの瞳から一滴の涙が零れ落ちた。ダイヤモンドとアクアマリンで飾られたプラチナの指輪を箱から取り出してユウリの薬指にはめる。
「キバナさんの瞳と同じ色ですね」
「ユウリの誕生石だから」
さも当たり前のように告げた言葉にユウリは納得したようだ。
けれども本当は、ただの独占欲だ。
ありふれたダイヤモンドの結婚指輪ではなく、アクアマリンを選んだのも彼女が青い瞳を気に入ってくれたから。
ユウリがそれを身に着ける姿を想像して、共に歩んでくれることを選んでくれたと形にしたかった。
「キバナさん、私があなた恋をした日のこと、聞いてもらえますか?」
冷たい風に首元のファーが靡く。
ユウリは逸らすことなく視線を重ねてきた。 まるで射貫くような視線にかなしばりを受けたような、身動き一つ取れなくなる。
「キバナさんのこと、なんでも知っているし力もあるし、カッコいいし、一緒にキャンプに行ったり買い物に行ったり。マリィやホップにお兄さんがいるように、私にもお兄さんができたみたいですっごく嬉しかったんです。チャンピオンになってからもそれは変わらなかった。あなたの夢を奪ったのに、変わらずに接してくれた。…十四歳の時、私は今までのバトルスタイルを変えるように言われてスランプに陥って、少しおかしくなってました。あなたは寄り添ってくれた。最初は、甘えちゃいけないって思いました。私の問題だから。恥ずかしくてちょと避けた時期もあったけど、でもキバナさんはずっと、傍にいてくれた。あの日から私は、ずっとあなたに恋をしてるんですよ」
手をかざして、ユウリは口元に笑みを浮かべた。
キルクスの街からカウントダウンの声が上がる。
5…4…3…2…1…
『Happy New Year!』
跪いたままユウリを抱きしめる。小さくて細い腕が首に回って、ふふっと小さな笑い声が聞こえた。
新しい年の、はじまりだ。
けほっと一度咳をしても、ヒリヒリとした感覚が未だ喉に居座っている。
うっすらと目を開けると、カーテンから差し込む光はだいぶ和らいでいて、まるでまだ日の登りきらない冬の朝のようだ。
けれどそれが夕刻の日が沈む前だというのをサイドテーブルのデジタル時計が示していた。
十二月三十一日。
なんとか日付が変わる前にようやく帰宅した。
事務作業が終わったのはずっと前だったが、デスクの上を片付けているうちにあそこも、ここも、と気になって掃除を始めたら気が付いたらもう日付が変わる前だった。簡単にシャワーを済ませて埃を落とし、ベッドに潜り込んだものの、疲れがピークを越してなかなか寝付けなかった。ようやくうとうとと瞼が落ちてきたのが早朝。今のように柔らかい日差しが差し込んできた頃だ。
それからたっぷり半日も寝続けていれば喉も乾燥するだろう。
布団の中で大きく伸びをして、コリをほぐす。パキッと首から小気味のいい音が二度鳴った。
少しすっきりした体を起こしてリビングへと向かうと、ユウリがエプロンを着けてキッチンに立っていた。
「あ、キバナさん」
「…おはよ」
案の定、声は掠れていて思う様に発音できない。そのまま冷蔵庫から水を取り出して、喉を潤す。ひりついていた喉に冷たい水が沁みていった。
「何作ってるんだ?」
「ビーフシチューです。もうすぐできますよ」
鍋を見ると、ゴロゴロとした牛肉と野菜が鍋に詰まっている。
一度匂いを嗅ぐと途端に空腹を覚えた。
チン、っと電子音が鳴ってオーブンを見ると、皿の中でぐつぐつと何かが気泡を上げている。
ミトンを両手にはめたユウリが取り出したのはグラタン皿だった。
ホワイトソースの上にはぎっしりとチーズが散りばめられている。
どちらもユウリお手製のイベント料理だ。けれど今まで大晦日に出たことはない。
「クリスマス用に買っておいた牛肉、冷凍しておいたんです。でも少し買い出ししたら、冷凍庫いっぱいになっちゃって」
照れくさそうに笑うユウリだが、本音はやはりクリスマスを祝いたかったのかもしれない。
どちらにせよ、どちらも美味しそうでスプーンを手にビーフシチューを一口味見という名のつまみ食いをする。
「美味い」
「もう、キバナさん。お行儀悪いですよ」
「いい匂いだったから、つい」
テーブルへグラタン皿を置きに行ったユウリに窘められる。これも、毎年のことだ。
店で食べるシチューとは違ってとても家庭的な味付け。それがまたよかった。高級な物は素材からして上等な物だし、味付けもたくさんのスパイスや食材を煮込んだりと家庭ではできないような手間暇がかかっている。それを着飾って少量を食べる、それもまた特別な日という演出で雰囲気が出るが、周りを気にして食べても実のところ、今でも味を覚えているか、また食べたいと思うかと問われればそうは思わないし、覚えてもいない。
それよりもユウリが作ってくれた物の方が鮮明に覚えている。
自炊はできるが、今まで自分で食べるものにこんなに時間を割いたことはない。だから純粋に凄いと感心するのだ。人のためにほぼ毎日食事を作ることを厭わないユウリを。そして出来上がる料理に。また食べたいと思える料理を作ることがいかに大変なことか、一緒に暮らすようになって改めて思い知った。
初めて一緒にキャンプをしてカレーをユウリに振舞ったと時、彼女は幸せそうな顔をした。まだ今よりもだいぶ幼かった少女は、また食べたいと言った。
次からは、キャンプをする度に作ってと強請られた。今ではもう言われなくても作るし、ユウリも待っている。それが当たり前となった。
普段、ユウリより早く帰れたときは夕飯を作ることもある。けれど簡単な物しか用意できないし、その食材も冷凍庫にカットしたものがストックしてあったり、明らかにユウリよりは楽なのだ。それでも美味しいと食べてくれる。
多分、どんな料理でも二人で食べれたらそれは美味しいのだ。
ぼんやりとそんなことを思いながら綺麗に器に盛られたシーザーサラダをテーブルへ運ぶ。
他愛もない話をして、二人で食べるこの時間がとても幸せな事なのだと改めて思い知った。
「二十三時ころ、ちょっと外行こう」
食べ終えた皿を片付けながらキッチン越しに伝えると、ユウリは食後の紅茶を手に首を傾げた。
「暖かい恰好、しといてくれ」
「どこか出かけるんですか?」
「まだ内緒」
教えてください、とユウリがカップを手に寄って来る。それもはぐらかして答えていると、ユウリのスマホロトムが着信を告げた。
スマホを耳に当て、ユウリがソファーへと移動するのを見届けて、ウォークインクローゼットの扉を開ける。
上の棚から収納ケースを取り出して、その間に挟まれた目当ての物を手に取る。
それをこっそりと、気づかれないように上着の中へ忍ばせた。
◇◇◇
二十三時を少し過ぎて、厚着をしたユウリをフライゴンへ乗せる。
その後ろに乗り込んでしっかりと支えて、相棒の肩を叩いた。
「頼むぞ、フライゴン」
ご機嫌に一声鳴いて、ゆっくりと上昇していく。
目的地までの数十分。
北へ飛び続けるにつれて、どんどん冷え込んでいく。
静まり返った夜の空にはフライゴンの美しい羽音が響いていた。その音色をBGMに見慣れた街並みを見下ろす。普段であれば消えている明かりも、今夜はどこも明かりが灯っている。
目的地に近づくにつれて降下を始めると、開けた場所には人が集まり街の喧騒が聞こえ始めた。やがてフライゴンは目的地へ降りたつ。
「すごい…!」
「メロンさんに教えてもらったんだ」
ユウリの寂しそうな顔を見てから、どうしても連れていきたくてメロンへと連絡を取った。
彼女は大晦日から正月中はイルミネーションが灯っていること、それを見渡せる絶景スポットがあるのだと教えてくれたのだ。
キルクスの街全体が見下ろせる丘はまさに絶景だった。
澄んだ空に瞬く星の数々。そして色とりどりのイルミネーション。
一緒に手を繋いで街を歩きながら見るのはまた来年にしようと決めていた。
今日は誰にも邪魔をされずに過ごしたいのだ。
上着のポケットに手を突っ込んで、小さな箱を掴む。
ユウリはずっとイルミネーションを眺めている。
気づかれないようにそっと深呼吸をした。
けれども緊張は呼吸をすればするほどに増してくる。
「さっき、誰から電話だったんだ?」
「ダンデさんです。新年のタッグバトル、一緒に組まないかって」
ようやくこちらを向いた彼女に飲み物を渡す。 マグボトルの蓋を開けると白い湯気が立ち上った。その湯気は彼女との間に薄いベールをかけたようでほんの少し緊張が和らいだ気がした。
「でも、私キバナさんと一緒に戦いたかったから。断りました!」
そうか、とだけ答えてもう一度深呼吸をする。
口にする言葉を何度も何度も頭の中で唱えて、けれど口から出たのは電話について。本当は電話の相手なんて、誰でもよかったのだ。
「ねぇキバナさん、あれポッチャマとアチャモですよね?」
ユウリは無邪気にイルミネーションの飾りを見て問いかけてくる。目を閉じて、もう何度目かわからない深呼吸をした。冷たい空気を吸い込みすぎて段々と肺が痛くなってくる。
全てを吐き出して、目を開けてユウリの名を呼んだ。
振り返った彼女の前に小箱を差し出す。
初めてだった。傍にいたいと思ったのも、誰かに心の底から感謝をしたのも。通り名や肩書だけではなく、自身を見てくれた人も。情けない姿を見せれたのも。受け入れてくれたのも。
だからただ一緒にいるだけではなく、けじめをつけたいと思った。
「結婚、してくれないか?」
色々考えた台詞は頭から消えていた。
跪いて、深紅の蓋を開けて差し出す。
一緒に暮らすことになった時に渡そうと思って買った指輪は、迷っているうちに半年が過ぎてしまった。
縛り付けることになるとわかっていたからこそ怖かった。彼女の自由を尊重したくてなかなか渡せなかったのだ。
まともに思考が働いている自信はなかった。 もっとスマートな台詞もシチュエーションも考えていたのに、何一つできていないのだ。
こんな時くらい、いつものように恰好をつけて言いたかったのに、と思ったところでもう遅い。
時間は、巻き戻らない。
もしも巻き戻るのなら、クリスマス前に。その頃に戻れたらあんなに恰好の悪い姿を見せずにすんだのに。
数秒の間が数分にも数十分にも感じる。ただひたすらユウリの答えを待つ。
「私で、いいんですか…?」
視線を上げると、ユウリの鼻は寒さで赤くなっていて、大きな目は少し潤んでいる。
「ユウリがいい。相変わらずダンデにもオマエにも勝てないし、これからもこの間みたいに情けない姿を見せると思う。けれど、これからもユウリと一緒にいたいんだ」
細めたヘーゼルアイの瞳から一滴の涙が零れ落ちた。ダイヤモンドとアクアマリンで飾られたプラチナの指輪を箱から取り出してユウリの薬指にはめる。
「キバナさんの瞳と同じ色ですね」
「ユウリの誕生石だから」
さも当たり前のように告げた言葉にユウリは納得したようだ。
けれども本当は、ただの独占欲だ。
ありふれたダイヤモンドの結婚指輪ではなく、アクアマリンを選んだのも彼女が青い瞳を気に入ってくれたから。
ユウリがそれを身に着ける姿を想像して、共に歩んでくれることを選んでくれたと形にしたかった。
「キバナさん、私があなた恋をした日のこと、聞いてもらえますか?」
冷たい風に首元のファーが靡く。
ユウリは逸らすことなく視線を重ねてきた。 まるで射貫くような視線にかなしばりを受けたような、身動き一つ取れなくなる。
「キバナさんのこと、なんでも知っているし力もあるし、カッコいいし、一緒にキャンプに行ったり買い物に行ったり。マリィやホップにお兄さんがいるように、私にもお兄さんができたみたいですっごく嬉しかったんです。チャンピオンになってからもそれは変わらなかった。あなたの夢を奪ったのに、変わらずに接してくれた。…十四歳の時、私は今までのバトルスタイルを変えるように言われてスランプに陥って、少しおかしくなってました。あなたは寄り添ってくれた。最初は、甘えちゃいけないって思いました。私の問題だから。恥ずかしくてちょと避けた時期もあったけど、でもキバナさんはずっと、傍にいてくれた。あの日から私は、ずっとあなたに恋をしてるんですよ」
手をかざして、ユウリは口元に笑みを浮かべた。
キルクスの街からカウントダウンの声が上がる。
5…4…3…2…1…
『Happy New Year!』
跪いたままユウリを抱きしめる。小さくて細い腕が首に回って、ふふっと小さな笑い声が聞こえた。
新しい年の、はじまりだ。