ジンクス本編外
年末の慌ただしさに数日間帰宅時間がいつもより大幅に、下手をすれば日付が変わってしばらくしてから帰る日が続いていた。
体力には自信があるが流石にメンタルが少し危うくなってきて、デスクに積み重なる書類を投げ出して帰路についた。
昼の賑わいとは打って変わって人の影もない静まり返った街の石畳を大股で歩いて重苦しい空を見上げる。
一粒の雪が頬に落ちてきた瞬間、震え上がるような寒さを感じて身震いをした。
次々と空から落ちてくる白いものに体だけではなく心までが凍てつくような孤独感が襲ってくる。
ー少しでもいいから、話がしたい
家に帰ればユウリはすでに眠っていて、起きればもう姿はない。
機械越しの会話は癒しにはなるものの余計に寂しさが募った。
こんな忙しさが永遠に続くわけではないのになぁと自嘲的に笑って、吐いた息が白く揺蕩う様を眺める。
早く帰りたいのにやっぱり寝ているんだろうなと思うと歩が緩やかになった。
そんなティーンのような感情が恥ずかしくもあり、情けなくもなる。
ユウリだって寂しいだろうにそんな素振りを見せないあたりチャンピオンとして仮面を被ることに慣れてしまったのか。
たまには我儘を言ってほしいのに、そんなことを言わない彼女はもしかしたらもう以前のような熱は冷めてしまっているのではないかと思うと、家の付近で足が止まった。
お互いのポケモンに大型が多く、手狭になって半年ほど前に購入した一軒家。
静かな住宅地の角にある我が家にはまだ明かりが灯っていた。
窓から見えるゆらゆらと揺れるユウリと、先日進化したパルスワンが抱き合っていた。
耳を澄ませば微かに聞こえるゆったりとした音楽。
ユウリの唇が小さく動いている。パルスワンは二足歩行のたどたどしい足取りでユウリの肩に手を置いて楽しそうに踊っていた。
パルスワンの鼻にキスをしてまたユウリの歌声が聞こえてくる。
その光景に何故か目が離せなくて曲が終わるまでの間立ち止まっていた。
その場になぜ自分がいないのかがわからなくて奇妙な悔しさが沸き上がる。
責任のある立場にいれば時にはプライベートを犠牲にしなければならないこともある。それは重々わかっていた。自分の時間が削られるのは一向にかまわない。けれどもそこにユウリを巻き込んでいいものなのか。
次の曲が始まった。ユウリは再びパルスワンと踊りだす。
けれどもユウリの歌声はなく、ただゆらゆらと揺れている。
僅かに見えたユウリの横顔は無表情だった。
その表情を見た瞬間、勝手に足が動き出す。
真夜中だというのに乱暴にドアを開ける。盛大に閉まる扉の音を気にしている余裕はなかった。
その音に反応したパルスワンが駆け寄ってくる。
続いて見えた彼女を思いきり抱き締めた。
「キバナさん?」
見なくても驚いているだろうことは予想できた。彷徨っていたユウリの両手が背中に回る。
「おかえりなさい」
「パルスワンと踊ってるのを見て」
「見られてたんですか?恥ずかしい…パルスワン、進化してからたまに一緒に踊ってくれるんですよ」
ふふっと笑い声が上がる。その笑い声はなぜか笑っているようで笑っていないように聞こえる。
「なんでオレがここにいないんだろうって」
「…お疲れさまでした。せっかく少し早めに帰れたんですから、今日はもう休みましょう?」
顔を上げれば、両頬に小さな手が添えられた。
どこまでも優しい瞳に迷いも疑いもない。
いっそ、責めてほしかった。例えば私と仕事、どっちが大事なの?なんてよく聞く台詞でも。
そうすればユウリの考えていることがわかるのに。
「少しでいい。踊らないか?」
膝を軽く曲げて背骨を丸めてユウリの首元に鼻を寄せる。
曲が変わって、ピアノの音が流れた。
綺麗な音色のはずなのに、その曲にどこか寂しさが漂う。
女性の歌声が聞こえて耳を澄ませ、先ほどパルスワンと踊っていたようにただゆらゆらと体を揺らす。
何か言って、と女性が歌う。
それに続く言葉の数々は、まるで今の自分を代弁しているようだった。
「ユウリは、何か言いたいことあるか?」
思わず口から出てしまった女々しい言葉にユウリが一瞬息を飲んだのを感じた。
「キバナさんは、ナックルを守る人です。それに絶対ここに帰ってきて来てくれるの、わかってますから」
特にないですよ、と言葉は続いた。
長年、傍にいればその言葉が嘘だとわかる。
「ごめんな」
すっかり口癖のようになってしまった台詞。この言葉以外、かける言葉がなかった。
ピアノの音色が止んで揺らしていた体を持ち上げる。
チャコールの瞳にまっすぐ見つめられて思わず視線を逸らす。
そこに幼き日の、守らなければと思った少女はいなかった。
「ごめん、はなしですよ」
成長したユウリは、いつの間にか強くなっていた。そんなユウリとは逆に、誰にも見せることのなかった弱さを見せるようになってしまったのはきっと、安堵できる場所ができたから。
一瞬でも疑ってしまった自分を恥じて、それを隠すように唇を合わせる。
それくらいしかできることを思いつかなかった。
アコースティックギターが音色を奏で始めた。再び体を揺らす。
優しく語り掛けるような男性の歌声に、その歌詞に一つずつ小さく頷きながら、小さい背中を抱きしめた。
◇◇◇
本来なら慌ただしい年末。
大掃除に買い出し、料理の準備。どれも時間と体力を要するものでへとへとになった去年を思い出す。
けれどまだ越してきて数か月の家は定期的な掃除で十分綺麗だし、あとは買い出しと何か作り置きをして置くくらいで十分だろう。
仕事納めをして、皆によいお年を、と伝えて家路についた夕刻。
煌びやかなシュートシティからタクシーで飛び、上空から見たナックルシティジムは表こそ照明は消えていたものの、いくつかの部屋ではまだ明かりが灯っていた。
今夜は少し早く帰宅するだろうか。遅くても顔を会わせて一言二言でも話をしたい。
もしかしたら食べるかも、食べないようだったら明日のお昼ご飯にしたらいい。そう言い訳めいたように考えながら作り、少し時間が経ってラップをかけ、更に冷蔵庫の中へとしまわれた。
賑やかな年末の特番を見る気にはなれなくて、けれど何も音がないのはなんだか寂しくて適当に音楽をかける。
軽快な音楽よりも少し落ち着きのある曲を、とロトムに頼んで流してもらったラジオは、懐かしい曲から聞いたことのない曲まで様々に選曲している。
「パルスワン、踊ってくれる?」
女性の歌声が響く。外国の言葉で歌われる歌詞の意味を全てはわからない。なんとなく単語を拾って、一見軽快なテンポの曲が実は暗い曲なのだと気が付く。
骨ばったパルスワンの肘が鎖骨に当たるのを避けるように脇に手を添えてゆらゆらと揺れるだけのダンスを踊る。
先日進化したばかりのパルスワンがよたよたと覚束ない足取りで左右に動いて、はっはっと舌を出して時々頬をペロリと舐められた。
黒く濡れた鼻にそっとキスをして、聞きなれた音程に沿って囁くように歌詞をなぞっていく。
もの悲しいような名残を残して曲が終わり、数秒間を開けてコントラバスの力強い音色と心地の良い男性の歌声が始まる。
キラキラとした笑顔を見せるパルスワンの首に鼻を寄せて再びゆらゆらと揺れる。
囁くような音色に耳を澄ませていると、口角がだんだん下がっていくのを感じた。
部屋も暖かいし、パルスワンの体温も心地よい。なのに、なぜか隙間風が吹き込むような冷気が体内を巡る。
その正体を知っていても、それを認めるわけにはいかない。
寂しいなんて、言ってはいけない。
紛らわすようにぎゅっとパルスワンを抱きしめる。
苦しそうに少しもがいて、パルスワンはするりと下を抜けて玄関に走っていった。
その瞬間、ガチャっとドアが開いて、バンっと派手な音を出して閉まる。
何事かと顔を出すと、そのまま抱きしめられた。
視界は薄い金色で満たされて、それがキバナだと理解するまでに少し時間がかかったが、少し様子の違う彼の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめる。
「おかえりなさい」
「パルスワンと踊ってるのを見て」
「見られてたんですか?恥ずかしい…パルスワン、進化してからたまに一緒に踊ってくれるんですよ」
隙間風が夏の海風に変わる。温かいけれども爽やかで穏やかな風。その風を二人で感じた夏の日を思い出す。少し前のことなのに、もう何年もこのままのような不思議な感覚に陥った。
「なんでオレがここにいないんだろうって」
「…お疲れさまでした。せっかく少し早めに帰れたんですから、今日はもう休みましょう?」
その声があまりにも冷え切っていて、顔を上げて頬に手を添えた。
いつもは綺麗に澄んだ水色の瞳がどこか曇っていて、どんな言葉をかけていいかわからなくなる。
その瞳を隠すかのようにキバナは首筋に鼻を寄せた。
曲が変わって、ピアノの音が流れ始めた。
綺麗な音色のはずなのに、その曲にもどこか寂しさが漂う。
女性の歌声が聞こえて耳を澄ませ、先ほどパルスワンと踊っていたようにただゆらゆらと体を揺らす。
何か言って、と女性が歌う。
「ユウリは、何か言いたいことあるか?」
ぽつりと独り言のように言われたセリフはやはりいつもとは違う。
「キバナさんは、ナックルを守る人です。それに絶対ここに帰ってきて来てくれるの、わかってますから」
どう答えるべきが一瞬迷って、結局今キバナが言ってほしいだろうことを言葉を紡いだ。
だって、本当のことは言えないから。
寂しいとか辛いとか、一緒にご飯を食べたかったとか、お休みなさいもおはようも言えないとか。
そんなことを言ってこれ以上困らせたくはない。
大丈夫、あと数日。
「ごめんな」
最近すっかり口癖のようになった言葉と共に、体温が去っていった。
「ごめん、はなしですよ」
大丈夫、と心の中で繰り返して精いっぱいの笑顔を作る。
それくらいしかできることを思いつかなかった。
アコースティックギターが音色を奏で始めて再び体を揺らす。
優しく語り掛けるような男性の歌声を聞きながら、もう少しだけこの体温を感じていたくて背中に腕を回した。
体力には自信があるが流石にメンタルが少し危うくなってきて、デスクに積み重なる書類を投げ出して帰路についた。
昼の賑わいとは打って変わって人の影もない静まり返った街の石畳を大股で歩いて重苦しい空を見上げる。
一粒の雪が頬に落ちてきた瞬間、震え上がるような寒さを感じて身震いをした。
次々と空から落ちてくる白いものに体だけではなく心までが凍てつくような孤独感が襲ってくる。
ー少しでもいいから、話がしたい
家に帰ればユウリはすでに眠っていて、起きればもう姿はない。
機械越しの会話は癒しにはなるものの余計に寂しさが募った。
こんな忙しさが永遠に続くわけではないのになぁと自嘲的に笑って、吐いた息が白く揺蕩う様を眺める。
早く帰りたいのにやっぱり寝ているんだろうなと思うと歩が緩やかになった。
そんなティーンのような感情が恥ずかしくもあり、情けなくもなる。
ユウリだって寂しいだろうにそんな素振りを見せないあたりチャンピオンとして仮面を被ることに慣れてしまったのか。
たまには我儘を言ってほしいのに、そんなことを言わない彼女はもしかしたらもう以前のような熱は冷めてしまっているのではないかと思うと、家の付近で足が止まった。
お互いのポケモンに大型が多く、手狭になって半年ほど前に購入した一軒家。
静かな住宅地の角にある我が家にはまだ明かりが灯っていた。
窓から見えるゆらゆらと揺れるユウリと、先日進化したパルスワンが抱き合っていた。
耳を澄ませば微かに聞こえるゆったりとした音楽。
ユウリの唇が小さく動いている。パルスワンは二足歩行のたどたどしい足取りでユウリの肩に手を置いて楽しそうに踊っていた。
パルスワンの鼻にキスをしてまたユウリの歌声が聞こえてくる。
その光景に何故か目が離せなくて曲が終わるまでの間立ち止まっていた。
その場になぜ自分がいないのかがわからなくて奇妙な悔しさが沸き上がる。
責任のある立場にいれば時にはプライベートを犠牲にしなければならないこともある。それは重々わかっていた。自分の時間が削られるのは一向にかまわない。けれどもそこにユウリを巻き込んでいいものなのか。
次の曲が始まった。ユウリは再びパルスワンと踊りだす。
けれどもユウリの歌声はなく、ただゆらゆらと揺れている。
僅かに見えたユウリの横顔は無表情だった。
その表情を見た瞬間、勝手に足が動き出す。
真夜中だというのに乱暴にドアを開ける。盛大に閉まる扉の音を気にしている余裕はなかった。
その音に反応したパルスワンが駆け寄ってくる。
続いて見えた彼女を思いきり抱き締めた。
「キバナさん?」
見なくても驚いているだろうことは予想できた。彷徨っていたユウリの両手が背中に回る。
「おかえりなさい」
「パルスワンと踊ってるのを見て」
「見られてたんですか?恥ずかしい…パルスワン、進化してからたまに一緒に踊ってくれるんですよ」
ふふっと笑い声が上がる。その笑い声はなぜか笑っているようで笑っていないように聞こえる。
「なんでオレがここにいないんだろうって」
「…お疲れさまでした。せっかく少し早めに帰れたんですから、今日はもう休みましょう?」
顔を上げれば、両頬に小さな手が添えられた。
どこまでも優しい瞳に迷いも疑いもない。
いっそ、責めてほしかった。例えば私と仕事、どっちが大事なの?なんてよく聞く台詞でも。
そうすればユウリの考えていることがわかるのに。
「少しでいい。踊らないか?」
膝を軽く曲げて背骨を丸めてユウリの首元に鼻を寄せる。
曲が変わって、ピアノの音が流れた。
綺麗な音色のはずなのに、その曲にどこか寂しさが漂う。
女性の歌声が聞こえて耳を澄ませ、先ほどパルスワンと踊っていたようにただゆらゆらと体を揺らす。
何か言って、と女性が歌う。
それに続く言葉の数々は、まるで今の自分を代弁しているようだった。
「ユウリは、何か言いたいことあるか?」
思わず口から出てしまった女々しい言葉にユウリが一瞬息を飲んだのを感じた。
「キバナさんは、ナックルを守る人です。それに絶対ここに帰ってきて来てくれるの、わかってますから」
特にないですよ、と言葉は続いた。
長年、傍にいればその言葉が嘘だとわかる。
「ごめんな」
すっかり口癖のようになってしまった台詞。この言葉以外、かける言葉がなかった。
ピアノの音色が止んで揺らしていた体を持ち上げる。
チャコールの瞳にまっすぐ見つめられて思わず視線を逸らす。
そこに幼き日の、守らなければと思った少女はいなかった。
「ごめん、はなしですよ」
成長したユウリは、いつの間にか強くなっていた。そんなユウリとは逆に、誰にも見せることのなかった弱さを見せるようになってしまったのはきっと、安堵できる場所ができたから。
一瞬でも疑ってしまった自分を恥じて、それを隠すように唇を合わせる。
それくらいしかできることを思いつかなかった。
アコースティックギターが音色を奏で始めた。再び体を揺らす。
優しく語り掛けるような男性の歌声に、その歌詞に一つずつ小さく頷きながら、小さい背中を抱きしめた。
◇◇◇
本来なら慌ただしい年末。
大掃除に買い出し、料理の準備。どれも時間と体力を要するものでへとへとになった去年を思い出す。
けれどまだ越してきて数か月の家は定期的な掃除で十分綺麗だし、あとは買い出しと何か作り置きをして置くくらいで十分だろう。
仕事納めをして、皆によいお年を、と伝えて家路についた夕刻。
煌びやかなシュートシティからタクシーで飛び、上空から見たナックルシティジムは表こそ照明は消えていたものの、いくつかの部屋ではまだ明かりが灯っていた。
今夜は少し早く帰宅するだろうか。遅くても顔を会わせて一言二言でも話をしたい。
もしかしたら食べるかも、食べないようだったら明日のお昼ご飯にしたらいい。そう言い訳めいたように考えながら作り、少し時間が経ってラップをかけ、更に冷蔵庫の中へとしまわれた。
賑やかな年末の特番を見る気にはなれなくて、けれど何も音がないのはなんだか寂しくて適当に音楽をかける。
軽快な音楽よりも少し落ち着きのある曲を、とロトムに頼んで流してもらったラジオは、懐かしい曲から聞いたことのない曲まで様々に選曲している。
「パルスワン、踊ってくれる?」
女性の歌声が響く。外国の言葉で歌われる歌詞の意味を全てはわからない。なんとなく単語を拾って、一見軽快なテンポの曲が実は暗い曲なのだと気が付く。
骨ばったパルスワンの肘が鎖骨に当たるのを避けるように脇に手を添えてゆらゆらと揺れるだけのダンスを踊る。
先日進化したばかりのパルスワンがよたよたと覚束ない足取りで左右に動いて、はっはっと舌を出して時々頬をペロリと舐められた。
黒く濡れた鼻にそっとキスをして、聞きなれた音程に沿って囁くように歌詞をなぞっていく。
もの悲しいような名残を残して曲が終わり、数秒間を開けてコントラバスの力強い音色と心地の良い男性の歌声が始まる。
キラキラとした笑顔を見せるパルスワンの首に鼻を寄せて再びゆらゆらと揺れる。
囁くような音色に耳を澄ませていると、口角がだんだん下がっていくのを感じた。
部屋も暖かいし、パルスワンの体温も心地よい。なのに、なぜか隙間風が吹き込むような冷気が体内を巡る。
その正体を知っていても、それを認めるわけにはいかない。
寂しいなんて、言ってはいけない。
紛らわすようにぎゅっとパルスワンを抱きしめる。
苦しそうに少しもがいて、パルスワンはするりと下を抜けて玄関に走っていった。
その瞬間、ガチャっとドアが開いて、バンっと派手な音を出して閉まる。
何事かと顔を出すと、そのまま抱きしめられた。
視界は薄い金色で満たされて、それがキバナだと理解するまでに少し時間がかかったが、少し様子の違う彼の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめる。
「おかえりなさい」
「パルスワンと踊ってるのを見て」
「見られてたんですか?恥ずかしい…パルスワン、進化してからたまに一緒に踊ってくれるんですよ」
隙間風が夏の海風に変わる。温かいけれども爽やかで穏やかな風。その風を二人で感じた夏の日を思い出す。少し前のことなのに、もう何年もこのままのような不思議な感覚に陥った。
「なんでオレがここにいないんだろうって」
「…お疲れさまでした。せっかく少し早めに帰れたんですから、今日はもう休みましょう?」
その声があまりにも冷え切っていて、顔を上げて頬に手を添えた。
いつもは綺麗に澄んだ水色の瞳がどこか曇っていて、どんな言葉をかけていいかわからなくなる。
その瞳を隠すかのようにキバナは首筋に鼻を寄せた。
曲が変わって、ピアノの音が流れ始めた。
綺麗な音色のはずなのに、その曲にもどこか寂しさが漂う。
女性の歌声が聞こえて耳を澄ませ、先ほどパルスワンと踊っていたようにただゆらゆらと体を揺らす。
何か言って、と女性が歌う。
「ユウリは、何か言いたいことあるか?」
ぽつりと独り言のように言われたセリフはやはりいつもとは違う。
「キバナさんは、ナックルを守る人です。それに絶対ここに帰ってきて来てくれるの、わかってますから」
どう答えるべきが一瞬迷って、結局今キバナが言ってほしいだろうことを言葉を紡いだ。
だって、本当のことは言えないから。
寂しいとか辛いとか、一緒にご飯を食べたかったとか、お休みなさいもおはようも言えないとか。
そんなことを言ってこれ以上困らせたくはない。
大丈夫、あと数日。
「ごめんな」
最近すっかり口癖のようになった言葉と共に、体温が去っていった。
「ごめん、はなしですよ」
大丈夫、と心の中で繰り返して精いっぱいの笑顔を作る。
それくらいしかできることを思いつかなかった。
アコースティックギターが音色を奏で始めて再び体を揺らす。
優しく語り掛けるような男性の歌声を聞きながら、もう少しだけこの体温を感じていたくて背中に腕を回した。