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ジンクス本編外

「Trick or treat!」
インターホンのチャイムにドアを開けると、眼下に飛び込んできたのは深い紫色のとんがり帽子。
見上げる瞳は黄金色。
帽子と同色の、ハイネックのヒラヒラとしたドレスを身に纏った可愛らしい童顔の女性が籠を手に本日数え切れないほど聞いた台詞を口にした。
「お菓子をくれないとイタズラしちゃいますよ?」
首を傾げてから籠を前に差し出し、お菓子をねだる。
「おかえり、可愛らしいムウマージ」
散々SNSで見た姿だが、実物はもっと可愛らしい。
疲労が吹き飛んでしまうようだった。
「ただいま、人気者の格好良い吸血鬼さん」
見えないマントを翻し、低く傅いたオレにふふっと小さく声を立ててユウリは笑った。
「今年も盛況だったな」
「ナックルも賑わってたみたいですね」
毎年、ハロウィンにはジムリーダー及びジムスタッフ、リーグスタッフは仮装をして子供達にお菓子を配ってた。
ナックルシティではリョウタ達と吸血鬼の仮装を、シュートシティではユウリとリーグスタッフがゴーストタイプのポケモンの仮装で子供たちを出迎えた。
子供たちには楽しいハロウィン。
しかし主催側は前年の反省点や安全性、通常業務の前倒し処理と、度重なる打ち合わせ。
事前準備と事後処理に分刻みで行動した結果、お祭りを楽しむ余裕はなかった。
半同棲状態にも関わらず、ユウリと顔を合わせたのも一週間ぶりである。
「キバナさんの…吸血鬼、もう一度見てみたかったなぁ」
残念そうに漏らすその声は少し掠れていた。
メイクで隠している目の下の隈が一週間の激務を物語っている。
「もう一度?」
「昔、私がジムチャレンジしてた頃、キバナさん吸血鬼の仮装でしたよ」
膝下まであるヒールブーツを脱いで露になった足は、小指の付け根、甲、踵と真っ赤になっている。履きなれない靴で散々歩いたり走ったりしたのだろう。
直に踏みしめると痛いのか、どこか足取りが鈍い。
ひょいっと片腕に抱きかかえれば、一週間前より少し軽くなったような気もした。
今は少女というよりは女性。とは言っても小柄なことには変わらない。
お菓子をもらう側だったのに、今ではお菓子を配る側に回ってしまったユウリ。
こういう関係になるなんて出会ったころにはこれっぽっちも思っていなかった。
「先に風呂にするか?」
うーん、と少し考える素振りをして、はい、と頷いたユウリをとりあえずリビングのソファに下ろす。
帽子を取って、カラーコンタクトを外したユウリは服装以外、いつものユウリで、なぜかほっとした。
「ほら」
きょとんとした表情で反応したユウリの口に、小さなタルトを一つ。
「…かぼちゃのタルト!」
一口サイズのそれをもぐもぐと咀嚼している。
「いろいろ買ってきた」
ハロウィン用にデコレーションされたタルトの箱を開けて見せればわぁと感嘆の声があがった。
イベントの合間にこっそりと買いに行った苦労が報われた。
「さて、ちょっと名残惜しいけどムウマージでいるのも終わりだな」
首の後ろにあるファスナーを下げて脱がせていけば、いつもの見慣れたスポーツタイプの下着ではなかった。よくはわからないがやはりこういう格好をするときのマナーなのか、はたまた見栄えの問題なのか。
そのまま浴室まで運んで沸かしたての湯に下ろす。
最初の頃こそ一緒に風呂に入るなんて恥ずかしいと言っていた彼女も、浴室ではそういうことはしないという約束を守っていたら今では慣れてくれたようだ。
元々そういった気は全くないわけではなかったが、どちらかと言えばバトルの時についた傷がないかの確認という意味もあった。本人すら気づかないような小さな傷でもすぐに処置をしなければ危険が伴う場合もある。
特に毒タイプのポケモンの技であれば、命に関わるのだ。
ゆっくりと入浴剤を入れて白濁した湯に四肢を伸ばして浸かっている間に手早く自身の髪を洗っていると鼻歌が聞こえてきた。
それは元はロック調のハロウィンの歌。
一曲フルに歌い終わるまで続けるつもりなのかと思いきや、シャワーの流れる音とともにその鼻歌が止まった。
「さっぱりしたぁ!」
どうやら髪を洗っている間にメイクを落としていたらしい。
バスタブの淵に背を預け、白い首筋を全く警戒心なく晒している。
そのうなじに噛みつきたい衝動を堪え、ショートカットに切りそろえられた髪に手をかける。
「キバナさん」
ユウリの泡だらけになった髪に湯をかけていると、突然の呼びかけに一瞬手の動きを止める。
「最近、ここに帰ってくるとなんだか…帰ってきたって思うんですよね」
どちらもお互いの街を離れることはできない身。たかが1時間程度の移動でも、通勤時間を考えれば毎日行き来をするのはなかなかに負担がかかる。一人の時間も必要かと、また忙しい時に負担をかけさせたくなくて今まで口に出さなかった台詞を伝えるべきか。
ざばっと湯舟の湯が流れていく。
二人が浸かれるくらい大きいバスタブは、それでも体が密着する。当然のように胸に背を預けてきたユウリの肌の感触に、体の力が抜けていった。
今日も無事に終わったという安心感とユウリが傍にいる安堵感。
今までで一番、幸福な時。それと自分ばかりが与えられているような少しの罪悪感。
「一緒に…住むか?」
生活感のないまるでホテルに泊まっているかのような部屋だった。
気に入って購入した家具も、一人で住むには広すぎる部屋も、どこか他人の空間のような寒々しい空気がいつも纏っていた。
それが今ではユウリの物も増えて、冷蔵庫には食材が増えて。
その一つ一つが嬉しかった。
同時にそれらは彼女が訪れない日には寂しさばかりが募っていく。
もちろんシュートシティの彼女の部屋を訪れることもあるが、やはり緊急事態のことを考えればナックルシティをおいそれとは離れられない。
昔は一週間会わないなんてことはザラにあったのに、今では一日だって彼女の姿を見ないことに耐えられない。
この部屋が二人だけの空間になるなんて、夢のようだけれども。
「今まで通り、いつ来てもいいよ」
彼女も、自分の望みだけで返事ができない立場になってしまったのだと思った。
悲しいような、嬉しいような。幸いにも返事を急がないだけの余裕は持っているつもりだ。
「ほら、体洗って飯食うぞ」
ユウリが出た分、広くなったバスタブに寄りかかる。
泡の切れ目から見える腕の火傷の痕。足に残る薄い切り傷。
いつだって心配なのだ。だからこそ、一日の始まりと終わりくらいは顔を会わせたい。言葉を交わしたい。
たったそれだけのことにも片付けなければならない問題があるのだと気づいてしまった。
「ねぇ、キバナさん」
突然の呼びかけに顔を上げればブラウンの瞳がまっすぐに向けられていた。
「いつになるかわからないけど、ここに越してきてもいいんですか?」
少しだけ不安そうに揺らいで、けれども明確にその意思を持った瞳に同じ思いなのだと安堵した。
返事の代わりにガシガシと濡れた頭を撫でるとユウリの表情が緩む。
そう、今はこれでいい。これだけで十分だ。




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