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ジンクス本編外

最初は電話越しだった「おやすみ」が隣で言い合うようになった。その翌日は「おはよう」と直接伝えられるようになった。
それが週に一度から二、三日に一度になり、いつの間にか余程のことがない限り、毎日になった。
部屋に入った時、「いらっしゃい」から「おかえり」になった。
それだけ一緒にいる時間が増えたのに、いつも触れてくるのはキバナさんの方からで、私からはまだ触れることができない。
さすがに手がぶつかっただけで驚くほど初心ではないけれど、それでも一瞬、心臓が跳ねる。
さり気なく触れて、キスをしたりできるキバナさんが羨ましい。
本当は私だって。
「どーしたんだ、怖い顔して」
暫くの間、ぼうっとソファーに座り込んでいたらしい。お風呂から出たキバナさんが隣に座り、腕を背もたれにかけてスペースをあけてくれた。
頭を脇のあたりに預け、寄りかかる。
柑橘系のいい香りが鼻孔を擽った。
シャンプーと、ボディーソープ、柔軟剤、それから僅かに体臭が混ざった匂い。
いろいろな香りが混ざり合っているのに、全く不快にはならずに独特のハーモニーを奏でている。
この匂いを嗅ぐと、今日も終わりなのだとどこか寂しくなる。
また同じように明日が来るはずなのに、時々、そう思ってしまう。
もう少しこうしていたいけれども、残酷にも時計は日付を変えようとしてる。
また数時間もすれば仕事に行って、帰ってくる。普段と変わらない日常。
手触りが気に入って買ったスウェットも、大好きなエネココアもこの気持ちを拭うことはできない。
「さて、寝るか」
腕が離れていって、キバナさんが立ち上がった。
差し出された手を取って後ろをついていく。
部屋着のスウェット姿で、癖のない漆黒の髪を下ろしたキバナさんにもすっかり見慣れた。
添えるように握られている手の温かさにも慣れた。
けれど、その後ろ姿に抱き着くことには躊躇いがあって未だに出来ない。
後ろから抱きしめてそのまま離したくはないなんて独占欲を抱いてしまうくらい、好きなのに。
スウェットの裾を掴もうと握られている手とは反対の手を伸ばしてみる。
けれどやっぱり出来ないくて、その手を下ろした。
そうこうしているうちにベッドまでついてしまって、布団の中に体を横たえる。
結局今日も、自分からは触れることができなかった。
「ユウリ」
枕に頭をつけて目を閉じる寸前だった。
呼び声にキバナさんの方を向くと、ポンポンとキバナさんは自分の腕を叩いた。
「腕、痺れちゃいますよ?」
「いいから」
おいで、と言われてしまえば拒否することもできない。
シーツの上を滑るように移動して、腕に頭を乗せるとぎゅっと抱きしめられた。
温かくて、いい香りがして、一番落ち着く場所にほうっと息が漏れる。
同時に緊張していた体からも力が抜けていった。
「なんか、あった?」
小さく首を横に振った。
特に何もないのだ。ただ、唐突に寂しさが募っただけで。
その原因にも心当たりがないわけではない。
ホルモンバランスを崩す、月に一度のもののせい。
おそらくそれが、もうすぐやってくる。
ほとんど一緒に暮らしているようなものなのに寂しいなんて思うのは、きっと我儘なだけだ。
休みが合わないのだって、お互いの職業上、仕方のないこと。
予定の時間よりも遅く帰る日だってお互いにある。
本当はこんな風に落ち込んでいるよりも、眠るギリギリまで普通に会話をしていたいのに。
「今度、ユウリの休みに合わせて休みを取ろうと思ってるんだけどさ。何がしたい?」
頭上から聞こえる、いつもよりも柔らかい声音にそっと上を向く。
「いっしょに、いたいです」
「そりゃ、もちろん。…晴れてたらキャンプに行くか?それとも買い物に行く?」
「春物、買いに行きたいです。今年はまだ何も見に行っていないから」
「じゃあそうしよう。ゆっくり寝て、カフェで何か食べて」
青い瞳はどこまでも優しくて、氷の塊のように固まっていた心を少しずつ、溶かしていく。
腕を伸ばして頬に触れてみる。まだ化粧水が残った頬はしっとりとしていて、けれど少し硬い。
それが精いっぱいだった。次々と出てくるプランを聞いているうちにどんどん意識は遠のいて、まるで海の中で揺られているように心地よくなっていく。
まだ眠りたくはなくて必死で意識を繋ぐものの、最後に聞こえたおやすみ、の声に頷くのが精いっぱいだった。


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