ep.9
件の森周辺の空気は、のどかな村の風景に反して陰湿な空気が漂っていた。生い茂った森の少し手前までやってくると、森の方から微かに風が吹き付けてくる。湿気た空気はただの湿地帯のそれではなく、何かしらの力が渦巻いているのが肌で分かり、あまり長居はしたくない環境に思えた。レノックスと繋いでいた手も離し、カインは無意識に腰に提げた剣に手をかける。
森の茂みの向こうにじっと目を凝らしながら、怪訝そうにレノックスが呟いた。
「……何の力だ……?」
精霊が怒っているのであれば魔力の弱いカインやレノックスでも察知できるし、他の魔法使いの魔力でも同様だ。だがこの感覚は違う。空気の中に、淀みのようなものを感じる。魔力とも精霊ともつかない不思議な感覚に、心当たりはない。
「ひとまず……行ってみよう。今から戻ってシャイロックたちを探すのも面倒だ。もしこの先に魔法生物がいて俺たちに何かあっても、ミスラなら察知できるだろうし」
「そうだな。俺たちなら、最悪魔法が使えなくなってもなんとかなるから」
頷き合うと、二人は森の奥へとゆっくり進んでいった。生き物の声も、枝が揺れる音も、土や腐葉の匂いもする。だが吹く風はどこか生ぬるく、葉が茂って日があまり差し込まないのか、日向ぼっこまでしていた先程とは一転して森の中は暗がりの中にあった。得体の知れない何かの体内に入り込んでしまったかのような気味の悪さを感じる。
「不気味だな……南にこんなところがあるなんて……」
「ただの未開の地……というわけでもなさそうだ」
気性の激しい精霊であれば会話一つでも空気が震えるものだが、そのような気配はなかった。ますますこの先にあるものが何なのか検討はつかない。そうしてしばらく歩いていると、途端に木々がなくなり、開けた場所に出た。
「……これは……」
——そこにあったのは大きなからくり装置のようなものだった。ボウルをひっくり返したような丸いドーム状のそれに、天文観測のための装置なのか、大きな望遠鏡も備え付けられている。だが長年放置され続けたせいですっかり蔦に覆われ苔むしており、レンズも曇って使い物にはならなそうだ。明らかに最近作られたものではないが、こんなものを昔に作って放置できるような者など、この世に一人しかいないだろう。
「ムルの発明品か? こんなところに置きっぱなしで」
「だろうな……。ムルの気配というのも、これから感じていたのかもしれない」
レノックスがからくり装置に触れてみると、確かに誰かの魔力の名残を感じる。シャイロックであればムルの気配だとも判別できるだろう。
「やっぱりシャイロックたちを探して、ここまで連れてきた方が良さげだな」
「そうだな。道は覚えたし、引き返そう……」
と、踵を返しかけたレノックスの足元に、黒いもやのようなものが見えた。それはレノックスの足首に絡みつくようにうねり、カインがもやに気づいた途端、一瞬で大きな黒い旋風となってレノックスを包んだ。
「レノ……ッ!?」
咄嗟に伸ばしたカインの手を掴み返してくれたはいいものの、そのせいかカインにまで黒い旋風が巻きついてくる。目を開けていられないほどの暴風は、声を上げてもまるで相手に届かない。土煙の中で何故かふと良い香りがして、意識が遠のく。眠るように。
(なんだ、これ。ムルの発明品……だよな……!?)
レノックスの手を離さないように固く握りしめて、カインはそのまま意識を手放した。
気づくと、夜だった。正確に言えば、神殿のような場所に居た。各国で祝祭を執り行った際の太古の神殿によく似ているが、それよりももう少し簡素で素朴な印象を受ける。空気は澄んでいて、空には満点の星空が輝く。
カインとレノックスはその神殿の祭壇に倒れていた。祭壇に捧げられるように、手を繋いだまま。
「……ひとまず、怪我はないか? 痛むようなところは」
「大丈夫だ。それより……ここは何の神殿だろう」
身を起こし、二人は軽く辺りを見渡す。
神殿は果ての見えない海にぽっかりと浮かんでいるかのように、四方は水で囲まれている。床は白い石材で、ひとつひとつに精巧な彫刻が施されているようだ。魔法舎の中庭くらいの広さの床と、それを取り囲むように整然と石造りの柱が水面に立つ。
端の方にはいくつか白い花をつけた低木が生えており、床の石材にも蔦が這っている。何という種類か分からないが、その白い花からか、辺りは花の良い香りでいっぱいに満たされていた。少し甘く優しいその香りは、カインたちがあの旋風に巻き込まれた時に感じた匂いと同じだ。空に眩く輝く星々の光を四方の海は鏡のように映し出し、夢で見るような幻想的な景色を作り出していた。
そして二人が倒れていた祭壇は、柱の囲いから少し飛び出して海の方へ続く形で造られている。頭上にはベルが飾られ、結婚式で鳴らすもののようだ。
森の淀んだ空気から一転したのも相俟って、空気が澄んでいることと、何かしらのエネルギーが満ちているこの空間はとても居心地が良かった。精霊から祝福を受けているような感覚でいっぱいに満たされている。
「精霊に呼ばれた、ってことなのかな……? あんな風に呼ばれることなんてあるのか?」
「俺も初めてだ……聞いたこともない。居心地はいいが、早く元に戻らないと」
「どうやって……?」
「……」
見渡す限り出口のようなものはないし、海の果てにも何も見えない。神殿を取り囲む柱は、二人を閉じ込める鳥籠のようだ。
「出るとしたら、ミスラに空間の扉を開けてもらうとかか? それしかないよな……」
「そうだな……。俺たちは魔力が弱いから、空間移動は難しいし」
「来てくれるのを待つしかないか。大丈夫かな?」
「ここまで何かの力に満ちていれば、飢え死ぬようなことはないと思うが……」
その言葉を聞いて、ふとカインは以前同行した北の祝祭を思い出す。北の魔法使い達は、正式に祝祭を執り行う前に精霊たちに強引に神殿へ引き込まれてしまった。オズの助けがあったからどうにかなったものの、あのまま出られなくなっていたら、感覚を少しずつ奪われ、最後には自我さえも失って消えてしまうところだった、と、スノウとホワイトが話していたのだ。
「……なあ、レノ……」
「なんだ?」
今の神殿は澄んだ心地よい空気で満たされているが、祝祭の音色のようなものはない。もしかすると今の自分たちは、スノウ達が話していた状態なのではなかろうか。
「——つまり俺たちは、このままだと……最終的に消えるということか?」
「断言はできないが……たぶん……」
「……困ったな」
最早困ったでは済まない事態なのだが、そう言うしかできなかった。何せ二人の魔力では、ここでは何の手も打てない。
「シャイロック達が気づいて、なんとか手を打ってくれればいいんだが。それまで、信じて待とう」
「ああ……」
「……大丈夫だ。俺も一緒にいる」
レノックスはそっと微笑み、カインともう少し距離を縮めた。曇った表情の晴れないカインに気を遣ってくれているのだろう。
「ごめん……レノ。やっぱり、シャイロック達を探してから来ればよかった」
「おまえが悪いわけじゃない。気にするな」
「だけど……このままじゃ、俺たち……」
ここであっさりと死ぬような自分たちではないと思いたいが、やはり最悪の想像も浮かんでしまう。このまま少しずつ身体の感覚を奪われて、自分が何者かも分からなくなって、最後には意識、魂さえも取り込まれて消えてなくなる。精霊は、彼らに気に入られれば魔法使いに力を与えてくれる存在だが、嫌われてしまえば想像を絶するような苦痛だって与えられる存在なのだ。気性の穏やかな南の精霊だとしても、中央の魔法使いであるカインには牙を剥く、というのも十分に考えられる。そしてそれは、中央の国で生まれたレノックスも同じだ。
「……カイン」
レノックスはカインの腰に腕を回して、そっと抱き寄せた。
「必ず助けが来る、とは信じているが……。もしおまえの悪い想像通りになったとしても、俺は構わない。カイン、おまえがそばに居てくれるなら」
「……ッ、」
「少しずつ感覚が無くなっていくなら……おまえのことを、感じさせてくれ。体温でも、呼吸でも。おまえがそばにいるということを感じられれば、きっと、消えるのも受け入れられるから」
「……レノ……」
顔を上げたカインは、至近距離でレノックスと視線が合う。こんなに近くで見つめ合うのは初めてで、どきどきと、心臓が締め付けられたように鼓動を速くする。顔が熱くなってきて、つい目を逸らしたくなっても、離さなかった。視覚がなくなったら、彼の顔も見られなくなってしまうから。
「……レノ、あの、な」
声を奪われたら、伝えられなくなってしまうから。上擦った声で、カインは静かに切り出した。
「俺も、……レノのこと、感じたい。いっぱい、触ってほしい……」
「……カイン」
「お、俺の、ぜんぶ……いろんな、ところ。触って、ほしいんだ。このまま消えるのはいやだ……一回くらい、好きな人と、……したいから……」
「……」
「レノ、……レノ、俺、……レノが、好きだ……」
そう言葉にすると、思わず瞳から涙が溢れた。緊張なのか、恥じらいなのか、悲しいのか、よく分からなかったけれど、一度溢れて止まらなくなってしまったカインの涙を、レノックスは頬を撫でるようにして拭ってくれる。
「……俺も、好きだ。カインが、どうしようもなく、愛しい」
カインが静かに目を閉じると、唇に柔らかいものが触れた。これが最初で最後の、彼と交わすキスなのだ。その温もりが離れるのが惜しい。触れ合うだけの優しい口付けを交わしたあとで、心がその先を求めてしまう。
カインはレノックスの身体に腕を伸ばして、強く抱きしめた。レノックスの匂い。体温。鼓動や脈動、呼吸。彼が生きているという証をいっぱいに感じる。そのすべてが、愛おしくてたまらなかった。
何も言わずカインを抱きしめ返してくれるレノックスも、きっと同じ気持ちなのだろう。互いの生を確かめ合って、思わず溢れ出したように「好きだ」と伝え合う。それだけで幸福感でいっぱいになって、魂さえもなくなるその瞬間までこうしていたかった。
「レノ……」
「……うん」
「……大好きだ、レノ。俺、レノに会えて……本当に、よかった……」
「……俺も、カインに出会えてよかった。俺の命の最期に……カインが居てくれるなら、何も後悔は、ない」
「……へへ……」
目を閉じて、ただその消滅の時をじっと待つ。恐ろしくはない。この腕の中に、彼がいれば。
——なので。
「……いつになったら声掛けるんです? もう飽きました」
そんなミスラの声がいきなり耳に届き、二人の意識ははっと引き戻されたのだった。
「ミスラ……ッ?」
目を開くと、そこはあの大きなからくり装置のすぐ側だった。抱き合ったまま、二人はいつの間にか元の場所に戻って来れたらしい。抱きしめ合っていた腕を離して見回すと、ミスラ、シャイロック、ムルの三人がこちらを見ている。ミスラはやはり気だるそうに、シャイロックはくすくすとからかうような妖艶な微笑みで、ムルは二人をそっちのけに後ろのからくり装置を見て。
「みっ……みんな、いつからそこに居たんだ!?」
「さぁ。ふふ。こちらに着いた時には、おふた方が抱き合っているのが見えたもので。邪魔するのも悪いかと思いましてね」
「……なぜ戻れたんだ? もう戻れないものかと思って……その……」
流石のレノックスも羞恥を隠しきれない様子でおずおずと口にする。そんなレノックスのそばにずんずんと歩み寄ったムルは、「これのおかげだね!」と陽気に笑った。後ろのからくり装置を指さして。
「これのおかげ? 逆じゃないか。これのせいで、神殿みたいな場所に閉じ込められて……」
「神殿みたいな場所? ……詳しく聞かせて?」
ムルに経緯や状況を説明すると、ムルはしばし目を閉じて思索しているようだった。しばらくして「なるほど!」と目を開けると、ムルはやはり、からくり装置の方を向いた。
——ムルの話によると、かつて彼の知人に星空に恋をした魔法使いがおり、天文学の分野でムルと深い交流があったそうだ。恋の相手である星空を想うあまり、まだ開拓途中で夜は暗く、星空がよく見えた南の国に巨大な天文観測装置を創り出したものの、道半ばのところで帰らぬ人となってしまった。
あの神殿のような空間は彼と星空が結婚式を挙げるために創り出した空間のはずだが、大いなる厄災の影響からか、それにカインとレノックスが巻き込まれてしまったのではないかとムルは言った。
「だからそこの星空、綺麗ですごく明るいけど、大いなる厄災は無かったでしょ? 大いなる厄災は俺の恋の相手。あははっ、気遣ってくれてる!」
「言われてみれば、大いなる厄災は確かに無かったな……。ベルがあったのも、式を挙げるためだったのか」
「そういうこと! 俺も作るの協力してたし、そのせいで俺の魔力も感じられたのかもね。二人はちゃんと結ばれたから出られたんだと思う!」
「……じゃあ、森の中の変な気配はなんだったんだ?」
「魔法科学装置だからじゃないかな。だいぶ初期に作ったやつだから、変な気配とかするのかも?」
「一先ず、これは封印しておきましょうか。また近づいた誰かが空間に閉じ込められたら困ります」
「はぁ。じゃあさっさと終わらせましょう」
声をかける間もなくミスラが呪文を唱えると、淡い金色の光がからくり装置を覆い、そして解けた。辺りに漂っていた淀んだ空気が晴れていくのが肌で分かる。
「さて、お二人も回収できたことですし、帰りましょうか」
「あれ……依頼の方は? 魔物が出るっていう」
「その話ですか。厄災のせいで凶暴化した、熊みたいなヤツが居ましたよ。俺が倒しておきました」
ミスラが熊と闘った後は守護の魔法をかけておいたので、もうしばらくは作物の被害を受けることはないだろうとシャイロックが付け加える。カインとレノックスが閉じ込められている間に、もう全て片付けられてしまったようだ。
「じゃあ、暗くならないうちに帰ろう。ミスラ、頼んだ!」
「……いいですけど、便利扱いされるとムカつくな……」
ボヤきながらもミスラが出してくれた空間の扉の向こうには、見慣れた魔法舎の広間が広がっている。そちらへ進む前に、カインとレノックスは顔を見合せた。レノックスの空いた片手に、カインの手が触れる。
「……えへへ。いいだろ……?」
「……ああ」
固く手を繋ぎ、二人は空間の扉をくぐる。
賢者の魔法使いという使命が、これから先、二人にどんな運命を与えるのかは誰にも分からない。もしかするとこの恋は、あと数ヶ月で死に別れるような悲劇なのかもしれない。
例えそうだとしても、今はただ、固くこの手を繋いでいる。賢者の魔法使いになったからこそ出会えた、愛おしい彼と、決して離れないように。
森の茂みの向こうにじっと目を凝らしながら、怪訝そうにレノックスが呟いた。
「……何の力だ……?」
精霊が怒っているのであれば魔力の弱いカインやレノックスでも察知できるし、他の魔法使いの魔力でも同様だ。だがこの感覚は違う。空気の中に、淀みのようなものを感じる。魔力とも精霊ともつかない不思議な感覚に、心当たりはない。
「ひとまず……行ってみよう。今から戻ってシャイロックたちを探すのも面倒だ。もしこの先に魔法生物がいて俺たちに何かあっても、ミスラなら察知できるだろうし」
「そうだな。俺たちなら、最悪魔法が使えなくなってもなんとかなるから」
頷き合うと、二人は森の奥へとゆっくり進んでいった。生き物の声も、枝が揺れる音も、土や腐葉の匂いもする。だが吹く風はどこか生ぬるく、葉が茂って日があまり差し込まないのか、日向ぼっこまでしていた先程とは一転して森の中は暗がりの中にあった。得体の知れない何かの体内に入り込んでしまったかのような気味の悪さを感じる。
「不気味だな……南にこんなところがあるなんて……」
「ただの未開の地……というわけでもなさそうだ」
気性の激しい精霊であれば会話一つでも空気が震えるものだが、そのような気配はなかった。ますますこの先にあるものが何なのか検討はつかない。そうしてしばらく歩いていると、途端に木々がなくなり、開けた場所に出た。
「……これは……」
——そこにあったのは大きなからくり装置のようなものだった。ボウルをひっくり返したような丸いドーム状のそれに、天文観測のための装置なのか、大きな望遠鏡も備え付けられている。だが長年放置され続けたせいですっかり蔦に覆われ苔むしており、レンズも曇って使い物にはならなそうだ。明らかに最近作られたものではないが、こんなものを昔に作って放置できるような者など、この世に一人しかいないだろう。
「ムルの発明品か? こんなところに置きっぱなしで」
「だろうな……。ムルの気配というのも、これから感じていたのかもしれない」
レノックスがからくり装置に触れてみると、確かに誰かの魔力の名残を感じる。シャイロックであればムルの気配だとも判別できるだろう。
「やっぱりシャイロックたちを探して、ここまで連れてきた方が良さげだな」
「そうだな。道は覚えたし、引き返そう……」
と、踵を返しかけたレノックスの足元に、黒いもやのようなものが見えた。それはレノックスの足首に絡みつくようにうねり、カインがもやに気づいた途端、一瞬で大きな黒い旋風となってレノックスを包んだ。
「レノ……ッ!?」
咄嗟に伸ばしたカインの手を掴み返してくれたはいいものの、そのせいかカインにまで黒い旋風が巻きついてくる。目を開けていられないほどの暴風は、声を上げてもまるで相手に届かない。土煙の中で何故かふと良い香りがして、意識が遠のく。眠るように。
(なんだ、これ。ムルの発明品……だよな……!?)
レノックスの手を離さないように固く握りしめて、カインはそのまま意識を手放した。
気づくと、夜だった。正確に言えば、神殿のような場所に居た。各国で祝祭を執り行った際の太古の神殿によく似ているが、それよりももう少し簡素で素朴な印象を受ける。空気は澄んでいて、空には満点の星空が輝く。
カインとレノックスはその神殿の祭壇に倒れていた。祭壇に捧げられるように、手を繋いだまま。
「……ひとまず、怪我はないか? 痛むようなところは」
「大丈夫だ。それより……ここは何の神殿だろう」
身を起こし、二人は軽く辺りを見渡す。
神殿は果ての見えない海にぽっかりと浮かんでいるかのように、四方は水で囲まれている。床は白い石材で、ひとつひとつに精巧な彫刻が施されているようだ。魔法舎の中庭くらいの広さの床と、それを取り囲むように整然と石造りの柱が水面に立つ。
端の方にはいくつか白い花をつけた低木が生えており、床の石材にも蔦が這っている。何という種類か分からないが、その白い花からか、辺りは花の良い香りでいっぱいに満たされていた。少し甘く優しいその香りは、カインたちがあの旋風に巻き込まれた時に感じた匂いと同じだ。空に眩く輝く星々の光を四方の海は鏡のように映し出し、夢で見るような幻想的な景色を作り出していた。
そして二人が倒れていた祭壇は、柱の囲いから少し飛び出して海の方へ続く形で造られている。頭上にはベルが飾られ、結婚式で鳴らすもののようだ。
森の淀んだ空気から一転したのも相俟って、空気が澄んでいることと、何かしらのエネルギーが満ちているこの空間はとても居心地が良かった。精霊から祝福を受けているような感覚でいっぱいに満たされている。
「精霊に呼ばれた、ってことなのかな……? あんな風に呼ばれることなんてあるのか?」
「俺も初めてだ……聞いたこともない。居心地はいいが、早く元に戻らないと」
「どうやって……?」
「……」
見渡す限り出口のようなものはないし、海の果てにも何も見えない。神殿を取り囲む柱は、二人を閉じ込める鳥籠のようだ。
「出るとしたら、ミスラに空間の扉を開けてもらうとかか? それしかないよな……」
「そうだな……。俺たちは魔力が弱いから、空間移動は難しいし」
「来てくれるのを待つしかないか。大丈夫かな?」
「ここまで何かの力に満ちていれば、飢え死ぬようなことはないと思うが……」
その言葉を聞いて、ふとカインは以前同行した北の祝祭を思い出す。北の魔法使い達は、正式に祝祭を執り行う前に精霊たちに強引に神殿へ引き込まれてしまった。オズの助けがあったからどうにかなったものの、あのまま出られなくなっていたら、感覚を少しずつ奪われ、最後には自我さえも失って消えてしまうところだった、と、スノウとホワイトが話していたのだ。
「……なあ、レノ……」
「なんだ?」
今の神殿は澄んだ心地よい空気で満たされているが、祝祭の音色のようなものはない。もしかすると今の自分たちは、スノウ達が話していた状態なのではなかろうか。
「——つまり俺たちは、このままだと……最終的に消えるということか?」
「断言はできないが……たぶん……」
「……困ったな」
最早困ったでは済まない事態なのだが、そう言うしかできなかった。何せ二人の魔力では、ここでは何の手も打てない。
「シャイロック達が気づいて、なんとか手を打ってくれればいいんだが。それまで、信じて待とう」
「ああ……」
「……大丈夫だ。俺も一緒にいる」
レノックスはそっと微笑み、カインともう少し距離を縮めた。曇った表情の晴れないカインに気を遣ってくれているのだろう。
「ごめん……レノ。やっぱり、シャイロック達を探してから来ればよかった」
「おまえが悪いわけじゃない。気にするな」
「だけど……このままじゃ、俺たち……」
ここであっさりと死ぬような自分たちではないと思いたいが、やはり最悪の想像も浮かんでしまう。このまま少しずつ身体の感覚を奪われて、自分が何者かも分からなくなって、最後には意識、魂さえも取り込まれて消えてなくなる。精霊は、彼らに気に入られれば魔法使いに力を与えてくれる存在だが、嫌われてしまえば想像を絶するような苦痛だって与えられる存在なのだ。気性の穏やかな南の精霊だとしても、中央の魔法使いであるカインには牙を剥く、というのも十分に考えられる。そしてそれは、中央の国で生まれたレノックスも同じだ。
「……カイン」
レノックスはカインの腰に腕を回して、そっと抱き寄せた。
「必ず助けが来る、とは信じているが……。もしおまえの悪い想像通りになったとしても、俺は構わない。カイン、おまえがそばに居てくれるなら」
「……ッ、」
「少しずつ感覚が無くなっていくなら……おまえのことを、感じさせてくれ。体温でも、呼吸でも。おまえがそばにいるということを感じられれば、きっと、消えるのも受け入れられるから」
「……レノ……」
顔を上げたカインは、至近距離でレノックスと視線が合う。こんなに近くで見つめ合うのは初めてで、どきどきと、心臓が締め付けられたように鼓動を速くする。顔が熱くなってきて、つい目を逸らしたくなっても、離さなかった。視覚がなくなったら、彼の顔も見られなくなってしまうから。
「……レノ、あの、な」
声を奪われたら、伝えられなくなってしまうから。上擦った声で、カインは静かに切り出した。
「俺も、……レノのこと、感じたい。いっぱい、触ってほしい……」
「……カイン」
「お、俺の、ぜんぶ……いろんな、ところ。触って、ほしいんだ。このまま消えるのはいやだ……一回くらい、好きな人と、……したいから……」
「……」
「レノ、……レノ、俺、……レノが、好きだ……」
そう言葉にすると、思わず瞳から涙が溢れた。緊張なのか、恥じらいなのか、悲しいのか、よく分からなかったけれど、一度溢れて止まらなくなってしまったカインの涙を、レノックスは頬を撫でるようにして拭ってくれる。
「……俺も、好きだ。カインが、どうしようもなく、愛しい」
カインが静かに目を閉じると、唇に柔らかいものが触れた。これが最初で最後の、彼と交わすキスなのだ。その温もりが離れるのが惜しい。触れ合うだけの優しい口付けを交わしたあとで、心がその先を求めてしまう。
カインはレノックスの身体に腕を伸ばして、強く抱きしめた。レノックスの匂い。体温。鼓動や脈動、呼吸。彼が生きているという証をいっぱいに感じる。そのすべてが、愛おしくてたまらなかった。
何も言わずカインを抱きしめ返してくれるレノックスも、きっと同じ気持ちなのだろう。互いの生を確かめ合って、思わず溢れ出したように「好きだ」と伝え合う。それだけで幸福感でいっぱいになって、魂さえもなくなるその瞬間までこうしていたかった。
「レノ……」
「……うん」
「……大好きだ、レノ。俺、レノに会えて……本当に、よかった……」
「……俺も、カインに出会えてよかった。俺の命の最期に……カインが居てくれるなら、何も後悔は、ない」
「……へへ……」
目を閉じて、ただその消滅の時をじっと待つ。恐ろしくはない。この腕の中に、彼がいれば。
——なので。
「……いつになったら声掛けるんです? もう飽きました」
そんなミスラの声がいきなり耳に届き、二人の意識ははっと引き戻されたのだった。
「ミスラ……ッ?」
目を開くと、そこはあの大きなからくり装置のすぐ側だった。抱き合ったまま、二人はいつの間にか元の場所に戻って来れたらしい。抱きしめ合っていた腕を離して見回すと、ミスラ、シャイロック、ムルの三人がこちらを見ている。ミスラはやはり気だるそうに、シャイロックはくすくすとからかうような妖艶な微笑みで、ムルは二人をそっちのけに後ろのからくり装置を見て。
「みっ……みんな、いつからそこに居たんだ!?」
「さぁ。ふふ。こちらに着いた時には、おふた方が抱き合っているのが見えたもので。邪魔するのも悪いかと思いましてね」
「……なぜ戻れたんだ? もう戻れないものかと思って……その……」
流石のレノックスも羞恥を隠しきれない様子でおずおずと口にする。そんなレノックスのそばにずんずんと歩み寄ったムルは、「これのおかげだね!」と陽気に笑った。後ろのからくり装置を指さして。
「これのおかげ? 逆じゃないか。これのせいで、神殿みたいな場所に閉じ込められて……」
「神殿みたいな場所? ……詳しく聞かせて?」
ムルに経緯や状況を説明すると、ムルはしばし目を閉じて思索しているようだった。しばらくして「なるほど!」と目を開けると、ムルはやはり、からくり装置の方を向いた。
——ムルの話によると、かつて彼の知人に星空に恋をした魔法使いがおり、天文学の分野でムルと深い交流があったそうだ。恋の相手である星空を想うあまり、まだ開拓途中で夜は暗く、星空がよく見えた南の国に巨大な天文観測装置を創り出したものの、道半ばのところで帰らぬ人となってしまった。
あの神殿のような空間は彼と星空が結婚式を挙げるために創り出した空間のはずだが、大いなる厄災の影響からか、それにカインとレノックスが巻き込まれてしまったのではないかとムルは言った。
「だからそこの星空、綺麗ですごく明るいけど、大いなる厄災は無かったでしょ? 大いなる厄災は俺の恋の相手。あははっ、気遣ってくれてる!」
「言われてみれば、大いなる厄災は確かに無かったな……。ベルがあったのも、式を挙げるためだったのか」
「そういうこと! 俺も作るの協力してたし、そのせいで俺の魔力も感じられたのかもね。二人はちゃんと結ばれたから出られたんだと思う!」
「……じゃあ、森の中の変な気配はなんだったんだ?」
「魔法科学装置だからじゃないかな。だいぶ初期に作ったやつだから、変な気配とかするのかも?」
「一先ず、これは封印しておきましょうか。また近づいた誰かが空間に閉じ込められたら困ります」
「はぁ。じゃあさっさと終わらせましょう」
声をかける間もなくミスラが呪文を唱えると、淡い金色の光がからくり装置を覆い、そして解けた。辺りに漂っていた淀んだ空気が晴れていくのが肌で分かる。
「さて、お二人も回収できたことですし、帰りましょうか」
「あれ……依頼の方は? 魔物が出るっていう」
「その話ですか。厄災のせいで凶暴化した、熊みたいなヤツが居ましたよ。俺が倒しておきました」
ミスラが熊と闘った後は守護の魔法をかけておいたので、もうしばらくは作物の被害を受けることはないだろうとシャイロックが付け加える。カインとレノックスが閉じ込められている間に、もう全て片付けられてしまったようだ。
「じゃあ、暗くならないうちに帰ろう。ミスラ、頼んだ!」
「……いいですけど、便利扱いされるとムカつくな……」
ボヤきながらもミスラが出してくれた空間の扉の向こうには、見慣れた魔法舎の広間が広がっている。そちらへ進む前に、カインとレノックスは顔を見合せた。レノックスの空いた片手に、カインの手が触れる。
「……えへへ。いいだろ……?」
「……ああ」
固く手を繋ぎ、二人は空間の扉をくぐる。
賢者の魔法使いという使命が、これから先、二人にどんな運命を与えるのかは誰にも分からない。もしかするとこの恋は、あと数ヶ月で死に別れるような悲劇なのかもしれない。
例えそうだとしても、今はただ、固くこの手を繋いでいる。賢者の魔法使いになったからこそ出会えた、愛おしい彼と、決して離れないように。
