番外・はじめての日

 ——レノに、さわってほしい。
 カインがその想いを募らせ始めたのは、恋人となってから少し過ぎた頃のことだった。季節は初冬。遠い山の頭はうっすらと白い雪帽子を被っている。
 冬を迎え、街の方にある住処の方へ移動してきたレノックスとカインは、今は薪ストーブの前に置いたソファで寄り添い、暖を取っていた。窓の向こうでは月明かりに照らされてしんしんと雪が降り、とても静かで、穏やかな夜。
 レノックスが今読んでいるのは、知り合いの羊飼いから教えてもらった羊の飼育に関する本らしい。生き物のことだから常に勉強なんだと、以前レノックスは零していた。確かにその通りだとは思うのだが、真面目だなとも素直に思う。真剣に本を読み込んでいるレノックスの横顔をこっそりと伺って、やはり、彼のことが好きだと実感する。
 以前の自分なら何が書かれているんだとかこれはどういうことだとか、しつこいくらいに話しかけていたかもしれないが、今は違う。静かに本を読むレノックスに寄り添って、何も言わず、ただ彼が隣にいてくれているのだと思う。そんな時間が、カインは好きだ。
 以前のように戻るには、まだ道のりは長そうだ。気持ちとしては戻りたいと思っているし、以前のような振る舞いができるように意識しようとしても難しい。何か大きな蓋を被せられてしまったようで、願いに身も心も追いつけていないのだ。肉付きは良くなってきたとはいえ、筋肉は鍛えなければなかなか戻らない。自分で見ても、やはりまだ華奢な印象を受ける。
 時間をかけて治していくしかないものとは理解している。だが、少し近道をしたいのもまた事実だ。フィガロは笑って言っていた。魔法使いが心に従うままに使えば、魔法は強くなる。それと同じで、カインが負った心の傷も、心が望むものに従えば、治りは早くなるものだよ。だからカインは、もう少しわがままになってもいいんじゃないかな。
(……俺が、今、したいこと……)
 考えながら、カインは少し両膝を擦り合わせる。恋人になってからは触れ合うスキンシップも増えた。キスもそうだし、ハグしてくれとねだるのにも慣れてきたところだ。だが、レノックスのそれは少し優しすぎるところもある。寄り添うだけで幸せだからと、それ以上の事をしてこようとはしない。まるでこれ以上触れ合ったら、割れ物みたいにカインが壊れてしまうかのようだ。
 ページをめくる、骨張った大きな手に目を向ける。少し武骨なその手で、触れられたい。頭や頬を撫でられるのも好きだ。けれど、もっと深いところまで、触れてほしい——。
(どうやったら、自然に誘えるかな……?)
 薪ストーブの中で、オレンジ色の炎が揺れている。その柔らかい光に照らされたレノックスの頬。耳の淵や、髪の毛先。自分に触れて欲しいと願うのと同時に、彼に触れたいと、強く願う。
「……どうした?」
 ふとレノックスの視線がこちらに向いて、カインの心臓はどくんと跳ねた。本にしおりを挟みながら、レノックスはこちらに身体を向けてくれる。
「ぁ、……ぇ、と……」
「……ベッドまで運ぼうか? 眠くなってきたんだろう」
 少し早いが、もう床に就いてもおかしくはない時間だ。カインが眠くなってきて動けず、運んでもらいたくて視線を向けて来たのだと解釈したらしい。
「ぁ、っち、ちが……」
「違う? じゃあ、どうしたんだ?」
「あぅ……」
 なんでもないわけではない。けれど、触れて欲しいなんて真っ直ぐに告げていいのだろうか。ぐるぐるとカインの中で思考が渦巻く。
「……ぁ、の……」
「……うん」
 なおも言葉に迷うカインを見てか、レノックスはカインの頭に手を伸ばした。ゆっくりと頭を撫でてくれる。嬉しいけれど、もっと、先に。
「……れ、のは……。おれと、えっち……したい……?」
 そう尋ねた声は震えていた。頭を撫でてくれていた手が止まって、レノックスはぱちぱちと瞬きをする。——間違えてしまった。
「ぁ、あっ、ご、ごめっ……」
「カイン、謝らなくていい。ええと……その。少し、驚いてしまって」
「ぁ……」
 レノックスの声色は優しく、少なくとも気分を害したわけではないとは分かる。けれど視線を合わせるのが怖くなって、思わずカインはうつむいてしまった。
「……カインの中で、考えてくれていたんだな? 俺とお前が、その……恋人として、触れ合うことも」
「……ぅ、ん……」
 こくりと小さく頷く。握りしめた両の拳が汗ばんできて、なんだか、涙が込み上げてくる。
 レノックスは、なかなか答えをくれなかった。彼の中で考えているだけとは分かっていても、沈黙が怖かった。もしレノックスに受け入れてもらえなかったら、今のカインは本当に居場所を失ってしまうから。
 しばらくしたあとに、レノックスは一言、ぽつりと告げた。
「……すまない」
「……ぁ……」
 頭が真っ白になる、とは、まさにこのことを言うのだろう。血の気が引いて、目の前が遠くなっていくような感覚。込み上げた涙さえも零れなくなって——そんなカインの身体を、レノックスは強く抱き寄せた。
「すまなかった、カイン。お前の気持ちに、気づいてやれなくて」
「……ぇ……?」
「おまえを大切に思っているから……俺がそんなふうに触れたら、おまえが壊れてしまいそうだと思ったんだ。カインが望んでくれるなら……俺も、おまえとそんなふうに、愛し合いたい」
 レノックスの体温は、あたたかかった。とくとくと血が巡ってきて、一度引いた涙がまた込み上げてくる。——レノックスに愛されている。彼は自分を愛してくれているのだ。
「……っれ、の……っ」
「……カイン。おまえが好きだよ。誰よりも、何よりも」
 カインを抱きしめたまま、レノックスはゆっくりと頭を撫でてくれる。大切な宝物をいとおしむように、優しく。
 このままずっと、彼の腕に抱かれていたい。けれどカインは顔を上げて、レノックスと見つめ合った。カインの頬に伝う涙を、レノックスは指先で拭ってくれる。
「……レノ……」
 小さく名を呼んだ唇に、唇が重なった。ついばむような触れ合うキスを何度かして、それから、食むような深いキスを交わす。いつも唇を触れ合わせるだけの優しいものばかりしていたから、こういう深いキスは初めてだった。
「……カイン、ベッド、行こうな」
「ぅ、ん……」
 唇が離れて、間近でそう言われてしまえば、頷かないわけがない。レノックスがソファから立ち上がり、それに続こうと腰を浮かせたカインを、レノックスは軽々と持ち上げた。
「カイン、いっぱい甘えてくれ。おまえのわがままなら、全部叶えてやるから」
「ぁ……、ん、うん……っ」
 カインが控えめにレノックスの首元に腕を回して抱きつくと、レノックスはそれでいいと言うように微笑みで返してくれる。ベッド周りは薪ストーブから離れて少し肌寒くなるけれど、これから温めあうのだからきっとちょうどいい。世界で一番大好きな人が、世界で一番自分を好きでいてくれている。そう心から実感出来るほどに愛し合えるなら、むしろ少し暑いくらいだ。


 朝日が差し込んできている。
 カインが目を覚ますと、すぐに頭上から「おはよう」と柔らかい声が降ってきた。レノックス。カインがこの世界で、いちばんに愛している人。
「……おは、よ……レノ……」
掠れた声でそう返事すると、レノックスはいつものように頭を撫でてくれる。自分は口下手だから代わりに行動で気持ちを示すようにしたい、と魔法舎に居た頃彼は言っていたが、それは今も変わらない。こうしていつも頭を撫でてくれるのもそうだし、昨夜の交わりでもそうだった。まだ毛布に包まれた身体には、レノックスの噛み跡やキスマークが大量に刻まれている。甘く蕩けるような快楽で、レノックスからの愛情で、この身の芯までたっぷりと満たされて。そのうえ目が覚めて真っ先にレノックスと触れ合えるなんて、きっとこの世で自分ほど幸せな者はいないだろう。
「動けそうか?」
「ん……へいき……」
「ならよかった。……まずは服を着ないとな。朝ごはんも作らないと」
「んー……」
 温かい布団の中で迎える冬の朝は心地よいものだ。人と素肌を触れ合わせる温もりも、大好きな人と触れ合っていられる幸せも。
「……もうちょっと、だけ……」
 甘えん坊なカインのおねだりは、全部叶えてやると約束してくれたから。レノックスは仕方ないなと眉尻を下げて、カインをもう一度抱き直した。

 日が高くなり始め、名残惜しく思いつつも服を着て食事をとった。最近は寒いから日中でも薪ストーブは焚いたままだ。外に出なくても済むように食材や日用品はできるだけまとめ買いをするため、今日も一日ずっと二人でいられる。
 昨日の本の続きを読み進めるレノックスに、カインはぴったりと寄り添う。それだけでいい。そばにいて、触れ合ってくれるだけで、自分はこんなにも満たされるのだから。
 こんな日々がずっと続いていけばいい。一日ずつ、一日ずつ、レノックスに愛されているのだと実感して、愛しているのだと返事をしていく。それをずっと繰り返して、いつか、永遠に近い年月になっていけば、いい。
 二人きりの世界は今日も続く。こんなふうに穏やかな形をして、ゆっくりと進む。
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