変わりゆく世界と、未来
カインに羊飼いの仕事を少しずつ手伝わせるようになったのは、カインの療養のためでもあった。一日中ぼうっとして何もしないでいるのは、かえって心に毒になることもある。元々活動的な性格だったカインならなおのことだ。今はカインによく懐いている羊と、もう数匹くらいの羊をブラッシングしてやるくらいしか任せていないが、そのうちできることを増やしていければいい、とフィガロは言っていた。
それと同時に別の意図もあるように思えたのだが、レノックスには上手く言葉に表せなかった。外に出て日に当たっている時間が長くなったからか、なんとなくカインにも活力が戻ってきたような気がする。自分の心情が上手く表せなくとも、カインの心が良くなるならそれでいいかと一先ず片付けておいていた。
そんなレノックスの元にファウストが訪問してきたのは、カインと暮らし始めてから六ヶ月目のある日のことだった。
「用事があって近くに寄ったから、君のところにも顔を出しておこうと思ってな。君の方は元気そうで何よりだ」
ダイニングテーブルで向かいの席に座ったファウストは、賢者の魔法使いとして再会したばかりの頃よりもずっと明るい表情をしている。装いも白や淡い色のものが多く、落ち着きながらも上品な華やかさがあった。
「ファウスト様も、お元気そうで何よりです。そちらでの暮らしはいかがですか」
「……平穏極まりないよ。退屈なくらいだな」
ファウストが穏やかな笑みを浮かべるので、彼の今の暮らしが確かに良いものであることは伺える。彼がどこか落ち着ける居場所を見つけ、こんな風に安らいだ日々を送れることを、レノックスも従者として数百年願い続けていたのだ。それは何よりの吉報だった。
「それで……カインの方は、どうなんだ?」
ファウストはそう訪ねながら、寝室のドアの方へ目を向ける。今日は疲れてしまったのか、昼時だがカインは眠っていた。
「……魔法舎にいた時と比べればまだまだ、ですが……最近は動けるようにはなってきました。俺の仕事も少しずつ手伝わせていて」
「そうなのか。……なら、良かったと言えば良いのかな。君のそばで健やかに過ごせているなら」
ファウストもここに連れて来る前の壊れてしまったカインのことを良く知っている。いつ自らで命を絶ってもおかしくないと言われていた頃に比べれば、今のカインはずいぶん良くなったほうなのだ。
「……これは単なる疑問なんだが、君はいつまでカインと一緒に暮らすつもりなんだ? そのうち中央の国に返すつもりなのか?」
「……カインの心の傷が癒えるまでは、そばに居るつもりです。そのうち、カインが戻りたいと言ったなら戻らせますが……カインがもし……」
「もし?」
「……いえ……すみません、なんと言えばいいのか……」
「……ああ……いや、僕こそすまないな。ゆっくり言葉を選んでいい」
「ありがとうございます……」
急かしているわけではないと暗に伝えたいのか、ファウストはティーカップの茶を啜る。ファウストがそのカップを皿に置くと、レノックスは静かに口を開いた。
「……分からないんです。俺が、カインに向けている気持ちが」
「……どういうことだ?」
口火を切ると、言葉は自然と溢れ出てきた。
「俺は……心の傷が癒えるまで、カインのそばに居るつもりです。義務感……ではなくて。もしファウスト様が今のカインと同じ立場だったら、俺は従者として、いつまでもお側にいるつもりでいたと思うんです。それが従者としての、俺の役目ですから。……ですが、カインは違います。ただの友人に過ぎないけれど……それでも、俺はカインのそばに居てやりたいんです。数十年でも、数百年でも、傷が癒えて、元のように笑える日が来るまで。……つまり俺は、自分の人生を数百年分、カインに捧げてもいいと思っているんです。そんな相手に抱いている思いが、ただの友人、なのだろうかと……」
レノックスの独白に近いそれを聞いたファウストはしばらく答えを考えていたが、飲みかけの茶が冷めないうちに答えを返した。
「……君はカインのそばに、居てやりたい、ではないんじゃないか。君がカインのそばに、居たいんだ」
「……俺が」
「もしも僕が今のカインと同じ立場だったら、君は従者の役目や義務として、僕のそばにいた。でもカインは君の主君ではないから、そういう義務や使命がない。なのにそばに居たいと思う。……この考え方だと確かに噛み合わない。だが、今のカインの立場が僕だった場合の君の献身を、主君への敬愛……と定義してみよう。このときの君の原動力は敬愛。愛の形のひとつだ。それなら、今のカインに向けての献身も……たくさんある愛の形のどれかに当たるんじゃないか。友愛か、親愛か、それとも……。形は今は聞かないでおくけれど、君はカインを愛しているから、君が、カインのそばに居たいと思えるんだ」
「……愛して、……」
「もしカインがこれからもここで過ごしたいと言うなら、受け入れたい。君が言いかけたのはそういうことだろう? あくまでカインの選択を尊重する、という形だが……カインがいつか中央に帰るのと、ずっとここで暮らすのと。どちらがいいかと言われたら、君は後者を選ぶ気がするな」
「……仰る通りです」
「カインは君にとっても、他の魔法使いにとっても良い仲間だった。そんな彼が心を壊していたら誰だって心配するし、僕も心配した。……でも、カインを連れて行くとまで言い出したのは君だけだ。その時点で、他の魔法使いがカインに向けている好意……愛と、君がカインに向けている愛は、違うものだったように思える。誰かと一緒に暮らすというのも、それなりに覚悟がいることだ」
羊飼いの仕事を少し任せ始めたのも、フィガロの助言あってのこととはいえ、レノックスがカインのそばに居たいという無意識な思いがそうさせたのではないかとファウストは言った。生活を共にし、少しずつ仕事を手伝ってもらうところから始まって、やがてパートナーとして深く寄り添い合う関係になるのは世の常だ。カインの心の療養のためという理由をつけて、フィガロは二人がそうなっていくのを期待していたのではないだろうか。
「……君はいつも周囲の幸せばかり願っていたが、僕も含めて、周囲の皆は、君にも幸せになって欲しいと思っている。君がもし一生を寄り添ってもいいと思える相手と約束を交わせたなら、それはとても喜ばしいことだ。その相手がカインであれば……僕は何も不満はないよ」
「ファウスト様……」
「……こんな話をした後で悪いが、現実的な話もしよう」
穏やかな笑みからファウストは少し表情を引き締めた。
「この大陸は、少なくともあと数十年くらいは大きな争いや厄災のようなものと無縁になるだろう。魔法科学の発展もあるし、これからは火器の時代が来ると僕は思う。そうすると……カインのような騎士という職業は、不要なものになっていくはずだ」
「ぇ……」
「銃という飛び道具は強い。今よりも発射時間が短縮される技術ができれば、それから火薬の材料が安定供給できるようになれば……おそらく銃が戦争の中心的な武器となる。剣はせいぜい護身用か、剣舞のような娯楽としてしか使われなくなるんじゃないか。そうすると……カインが心を治しきれたとして、その頃にはたぶん、騎士という立場はなくなっている。カインは行く宛を無くしてしまうだろうから……そういう意味でも、君がそばに居てくれると言うなら僕は安心できるな。カインの身の上、という話では」
「……なるほど……」
レノックスにそのような視点は持ち合わせていなかった。流石はかつて革命軍を率いた英雄である。先見の明があるのも、革命戦争の時にファウストが英雄足り得た要素だったのだろう。
「とにかく……いつか君が心に決めた相手と約束を交わして、身を落ち着けられること。カインが、壊れた心を癒せる居場所があること。そのどちらも満たせるのだから……君とカインが寄り添い合うのが一番いいと思う。……と、僕が言うと命令のように聞こえてしまうか?」
「……いえ、大丈夫です。これからは俺自身の人生を生きると、決めましたから。……それに、ファウスト様。先程のお話から思うに……昔のファウスト様と俺のような、主君と従者という関係もまた、いつか不要なものになるのでしょうか」
「そうだな。少なくとも僕はそう考えている。王政というのも無くなるかもしれない。実際、賢者の世界はそうだったようだしな」
「……それなら、俺は。そんな新しい、移りゆく時代のほうに合わせて生きていきたいと思います。今はまだ難しいかもしれませんが……」
「ああ。そう言うならまず、僕に敬語を使うのをやめるところから始めないと」
「……まだ難しいですね」
ファウストがくすりと笑ったのと同時に、寝室の方から物音がした。カインが目を覚ましたのかもしれない。
「カイン」
レノックスは反射的に席を立ち、寝室のドアへ駆け寄る。ドアがゆっくりと開いてカインが顔を見せると、レノ、とそのまま抱きついてきた。
「カイン。よく眠れたか?」
「うん……いい夢を見たんだ。レノの夢だった……」
「そうか、それは良かった。……その、カイン。すまないが、今ファウスト様が来ていてな……」
「ファウスト……?」
久方ぶりに聞いた気がするその名前に、カインはレノックスの胸元に埋めていた顔を上げる。そして椅子に座ったファウストの姿を認めると、久しぶり、と微笑むのだった。——なおもレノックスのことを抱きしめたまま。
「……随分と仲睦まじいようじゃないか」
からかうような声色のファウストに、思わずレノックスは頬を染めた。
レノとずっと一緒がいい。
それは時間が経つうちに、カインの主たる願いになっていった。
『カイン、おはよう』
そう言ってレノックスは、毎朝目が覚めた自分の額にキスをしてくれる。身体を起こしたらハグをしてくれて、満足したら朝食をとる。いつも食事はレノックスが作ってくれるが、自分はその隣で彼のお手伝いをするのだ。そのあとは羊たちを散歩に連れて行ってお世話をして、午後や夕方に仕事がなかったら、一緒に街に買い物へ行ったり、家で二人きりで過ごしたりして。中央の国で暮らしていた頃に比べたら随分穏やかで、静かな暮らしだけれども。カインの世界にレノックスが居てくれればそれでいい。他に誰も、何もいらない。二人で同じベッドに入って、レノックスの大きな体躯に包まれるように抱きしめられながら眠りにつく。そうやって一日が終わって、また朝を迎えて——それがいつまでも続いて欲しい。
カインの望みは、今もほとんど叶ってしまっている。カインがふと抱きついても受け入れてくれるし、いつも食事はレノックスが作ってくれる。羊の世話の手伝いも少しずつしているし、最近は一緒に街の方へ行く日も出来た。少し違うのは——毎朝額にキスをしてくれるほど、レノックスとそのような関係に踏み込んではいないという点だろうか。
毎朝目覚めのしるしのようにキスをするなら、きっと、望めばいつだってキスができる。ハグだってただ抱きしめるだけでは終わらず、服の下まで手を伸ばされるようになるかもしれない。夜になったら互いを想いあっているのを確かめるように、裸になって、身体を重ねる。
カインは、レノックスとそういう関係になりたい。レノックスが好きだから。大好きだから。ずっと一緒に、いたいから。
けれど——これも所詮は一時のまやかしなのだろうか。心を病んだが故の勘違いに過ぎないのだろうか。一生を誓ってもいい想いなのだろうか。分からない。心を壊してしまった自分には。
——主にそんな内容の、カインの少しちぐはぐでたどたどしい話に、フィガロは静かに耳を傾けていた。
今日は天気も良く、調子も良さそうなので、フィガロの診療所の方へカインが直接赴くことになった。もちろんレノックスも付き添いで来たのだが、今は街の方で何かしているだろう。診察室はカインとフィガロの二人きりだった。
「れのが……、レノが、好きなんだ。一緒にいたい……ずっと、一緒がいい。でも、変なのかな。俺は……今の俺じゃ、ダメなのかな……」
カインはぽろぽろと溢れる涙を袖で拭う。今のカインは南の国らしい、生成色でゆったりしたシルエットのシャツを着ているが、そこから覗く肉付きは以前よりもずっと良くなっている。レノックスの仕事を手伝い始めた甲斐があったのか、筋肉も薄くだが戻ってきているように見えた。
「……ごめ、ごめん、フィガロ、」
「大丈夫だよ。患者さんの話をよく聞くのも、お医者さんの仕事だから。話してくれてありがとう。少し落ち着いてから話そうね」
しゃくり上げているカインが少し落ち着くまで、フィガロはゆっくりと背中を撫でてやる。カインがまともに呼吸ができるようになってきたのを確かめると、フィガロはそっと口を開いた。
「カインの話を聞いた感じだと……俺はむしろ、ちょっと安心できたよ」
「へ……?」
「カイン。今君が泣いちゃう理由はなんだろう? レノと一緒にいられなくなるのが怖い? 今の自分がレノに嫌われることが怖い? レノが……居なくなるのが怖い?」
カインはこくりと縦に頷いた。レノ、と掠れた声で、ここには居ない彼の名を呼ぶ。
「——君が南の国に来たのは、心を壊したからだ。目の前でアーサーが石になって、自暴自棄になって。でも……それはもう、カインが泣く理由にはならない。君が受けた、主君を喪ったという心の傷は、もうちゃんと治り始めてるんだ」
「……ぁ……」
「最近の寝つきはどう? 悪夢の頻度はどうかな?」
「……さい、きんは……寝つきは、いい。夢もあんまり……アーサーの、あの時の夢は……。たまに……レノがいなくなる夢は見る、けど……」
「……けど?」
「俺がそういう夢を見て、目が覚めると……レノも起きてくれる、から。大丈夫って、そばにいるって、抱きしめてくれるから……。あれは夢なんだって、ちゃんと分かるから、落ち着けるんだ」
「……うん、それなら安心だね。続けていれば、そのうちレノがいなくなる夢も見なくなると思うよ。薬は夢見の方に効く薬を出しておこうかな」
「ありがとう……」
さらさらとカルテに筆を走らせ、それからフィガロはあらためてカインに向き合った。
「少しお喋りになるけど……カインはレノと一緒にいたい、って、レノの方には言ってる?」
「ぇ……あ、いや……。レノに言ったら、悪いと思って……」
「……うーん。じゃあレノの方は言ってないかな。ずっと一緒にいてくれー、とか、まぁそこまで直球じゃなくても、カインがいてほしいな、カインがいると助かるなーみたいな話は? されてない?」
「……されてない……」
一体何を聞いているんだと不思議そうな顔をしているカインを見る限り、こりゃダメだとフィガロは内心ため息をついた。レノックスはカインの心の傷が治るまで数百年かかろうと、それまで一緒にいる覚悟はできている。カインの方も幼いながらも、ずっと一緒にいたい、触れ合いたいという強い好意を持っている。思いあっているのは確かなのに、本人達はなんだかすれ違っている様子だ。
「……カインには、レノックスがどんな奴なのかっていうところから話をしないといけないかなぁ」
「……?」
「レノが革命戦争のときにファウストの従者だった話は聞いてるよね。でも実際従者として仕えてた期間はそう長くないんだよ。一年とか二年とか、そのくらいかな? 魔法使いの寿命は長い。これから自分も数百年は生きるかもしれないのに、若い頃に出会って、たった数年一緒にいただけの相手のために、レノは四百年旅をしたんだ。従者としての役目を、義理を果たすためにね。自分の決めた心には真っ直ぐに従う。それが数百年以上かかっても、その役目を果たす前に、自分の寿命が尽きる可能性があっても……。まぁ、ファウストがいい感じに落ち着いたから、レノも晴れてお役御免になれたんだけどね」
「レノ……」
「そういう人だからさ。一度心に決めた相手は絶対に見捨てない。いきなりカインの元から居なくなったりするような男じゃないよ、レノは」
「……でも……」
「……レノには悪いかもだけど、こっそり教えちゃおうかな。レノは、カインと一緒にいる。君が元の笑顔に戻れるまで、数百年、数千年かかったって、そばにいる。その覚悟はもうできてるって……俺に伝えてくれたよ」
「……ッ、」
「ファウストとも色々話したみたいでね。レノがファウストを四百年もの間探せたのは、主君への敬愛ゆえだった。それと同じように、レノが自分の人生を数百年分かけてもいいと思ってるカインに向けている"愛"は……いったい、どういう形の"愛"なんだろうね?」
「……フィ、ガロ。あの、……からかいじゃ、嘘じゃ、ないんだよな……?」
カインの目は縋りつくように潤んでいる。
「あはは、俺は嘘つかないよ。南の優しいお医者さんだもの。……だからカイン。レノと一緒にいたいんだって気持ちは、レノにも分かるように伝えてごらん。それはちゃんと伝わるし、レノは応えてくれるから。レノに抱きしめられて、本当に心から幸せだと思えるなら……カインがレノを好きだって気持ちは、勘違いなんかじゃないよ」
フィガロの言葉を聞いて、カインは一粒だけ涙をこぼれさせた。ありがとう、と呟いた声色は、少し明るい。微かに、かつての魔法舎で暮らしていた頃の彼の面影を思い出させるような。
「それじゃあ薬の用意をするから、外で待っててね。そろそろレノも戻ってくると思うよ」
フィガロの促しにカインは頷き、診察室を出ていった。もともと中央の国の魔法使いでも特に人付き合いが好きだった彼のことだから、互いに助け合いながら暮らす南の性質にも合いやすいのかもしれない。南の国の気候に合わせたゆるい服装は、不思議と今のカインにはよく似合っていた。
『レノと一緒にいたいんだって気持ちは、レノにも分かるように伝えてごらん。……レノは応えてくれるから』
フィガロのそんなアドバイスが、何度も頭の中を反芻する。
薬を受け取り、診療所を出ると、ちょうどカインを迎えに来たレノックスと会えた。どうだった、と訊ねてくる彼の質問に答える前に、カインはレノックスの懐に身を寄せる。
「カイン?」
「……えへへ。レノ。レノ……。……俺、まだ前みたいに、たくさん話せないけど……。頑張るから、な。レノ……」
「……。……ああ。俺もそばに居る」
カインの言葉の意味はよく分からなかったようだが、レノックスはそっと腰を抱き寄せてくれた。頭を撫でられると安心する。受け入れてもらえているのだと、実感出来る。
心を壊してしまった影響なのか、今のカインは話すのにも少し体力が要る。たどたどしいのもそのせいで、前のように思ったことはすぐ言えるという状態ではない。でも、だからこそ。代わりにこうして、行動で伝えていきたいのだ。
レノ。俺はレノが大好きだ。ずっと一緒にいてほしい。
そう、まだ、言葉にして約束はできない想いを。
それと同時に別の意図もあるように思えたのだが、レノックスには上手く言葉に表せなかった。外に出て日に当たっている時間が長くなったからか、なんとなくカインにも活力が戻ってきたような気がする。自分の心情が上手く表せなくとも、カインの心が良くなるならそれでいいかと一先ず片付けておいていた。
そんなレノックスの元にファウストが訪問してきたのは、カインと暮らし始めてから六ヶ月目のある日のことだった。
「用事があって近くに寄ったから、君のところにも顔を出しておこうと思ってな。君の方は元気そうで何よりだ」
ダイニングテーブルで向かいの席に座ったファウストは、賢者の魔法使いとして再会したばかりの頃よりもずっと明るい表情をしている。装いも白や淡い色のものが多く、落ち着きながらも上品な華やかさがあった。
「ファウスト様も、お元気そうで何よりです。そちらでの暮らしはいかがですか」
「……平穏極まりないよ。退屈なくらいだな」
ファウストが穏やかな笑みを浮かべるので、彼の今の暮らしが確かに良いものであることは伺える。彼がどこか落ち着ける居場所を見つけ、こんな風に安らいだ日々を送れることを、レノックスも従者として数百年願い続けていたのだ。それは何よりの吉報だった。
「それで……カインの方は、どうなんだ?」
ファウストはそう訪ねながら、寝室のドアの方へ目を向ける。今日は疲れてしまったのか、昼時だがカインは眠っていた。
「……魔法舎にいた時と比べればまだまだ、ですが……最近は動けるようにはなってきました。俺の仕事も少しずつ手伝わせていて」
「そうなのか。……なら、良かったと言えば良いのかな。君のそばで健やかに過ごせているなら」
ファウストもここに連れて来る前の壊れてしまったカインのことを良く知っている。いつ自らで命を絶ってもおかしくないと言われていた頃に比べれば、今のカインはずいぶん良くなったほうなのだ。
「……これは単なる疑問なんだが、君はいつまでカインと一緒に暮らすつもりなんだ? そのうち中央の国に返すつもりなのか?」
「……カインの心の傷が癒えるまでは、そばに居るつもりです。そのうち、カインが戻りたいと言ったなら戻らせますが……カインがもし……」
「もし?」
「……いえ……すみません、なんと言えばいいのか……」
「……ああ……いや、僕こそすまないな。ゆっくり言葉を選んでいい」
「ありがとうございます……」
急かしているわけではないと暗に伝えたいのか、ファウストはティーカップの茶を啜る。ファウストがそのカップを皿に置くと、レノックスは静かに口を開いた。
「……分からないんです。俺が、カインに向けている気持ちが」
「……どういうことだ?」
口火を切ると、言葉は自然と溢れ出てきた。
「俺は……心の傷が癒えるまで、カインのそばに居るつもりです。義務感……ではなくて。もしファウスト様が今のカインと同じ立場だったら、俺は従者として、いつまでもお側にいるつもりでいたと思うんです。それが従者としての、俺の役目ですから。……ですが、カインは違います。ただの友人に過ぎないけれど……それでも、俺はカインのそばに居てやりたいんです。数十年でも、数百年でも、傷が癒えて、元のように笑える日が来るまで。……つまり俺は、自分の人生を数百年分、カインに捧げてもいいと思っているんです。そんな相手に抱いている思いが、ただの友人、なのだろうかと……」
レノックスの独白に近いそれを聞いたファウストはしばらく答えを考えていたが、飲みかけの茶が冷めないうちに答えを返した。
「……君はカインのそばに、居てやりたい、ではないんじゃないか。君がカインのそばに、居たいんだ」
「……俺が」
「もしも僕が今のカインと同じ立場だったら、君は従者の役目や義務として、僕のそばにいた。でもカインは君の主君ではないから、そういう義務や使命がない。なのにそばに居たいと思う。……この考え方だと確かに噛み合わない。だが、今のカインの立場が僕だった場合の君の献身を、主君への敬愛……と定義してみよう。このときの君の原動力は敬愛。愛の形のひとつだ。それなら、今のカインに向けての献身も……たくさんある愛の形のどれかに当たるんじゃないか。友愛か、親愛か、それとも……。形は今は聞かないでおくけれど、君はカインを愛しているから、君が、カインのそばに居たいと思えるんだ」
「……愛して、……」
「もしカインがこれからもここで過ごしたいと言うなら、受け入れたい。君が言いかけたのはそういうことだろう? あくまでカインの選択を尊重する、という形だが……カインがいつか中央に帰るのと、ずっとここで暮らすのと。どちらがいいかと言われたら、君は後者を選ぶ気がするな」
「……仰る通りです」
「カインは君にとっても、他の魔法使いにとっても良い仲間だった。そんな彼が心を壊していたら誰だって心配するし、僕も心配した。……でも、カインを連れて行くとまで言い出したのは君だけだ。その時点で、他の魔法使いがカインに向けている好意……愛と、君がカインに向けている愛は、違うものだったように思える。誰かと一緒に暮らすというのも、それなりに覚悟がいることだ」
羊飼いの仕事を少し任せ始めたのも、フィガロの助言あってのこととはいえ、レノックスがカインのそばに居たいという無意識な思いがそうさせたのではないかとファウストは言った。生活を共にし、少しずつ仕事を手伝ってもらうところから始まって、やがてパートナーとして深く寄り添い合う関係になるのは世の常だ。カインの心の療養のためという理由をつけて、フィガロは二人がそうなっていくのを期待していたのではないだろうか。
「……君はいつも周囲の幸せばかり願っていたが、僕も含めて、周囲の皆は、君にも幸せになって欲しいと思っている。君がもし一生を寄り添ってもいいと思える相手と約束を交わせたなら、それはとても喜ばしいことだ。その相手がカインであれば……僕は何も不満はないよ」
「ファウスト様……」
「……こんな話をした後で悪いが、現実的な話もしよう」
穏やかな笑みからファウストは少し表情を引き締めた。
「この大陸は、少なくともあと数十年くらいは大きな争いや厄災のようなものと無縁になるだろう。魔法科学の発展もあるし、これからは火器の時代が来ると僕は思う。そうすると……カインのような騎士という職業は、不要なものになっていくはずだ」
「ぇ……」
「銃という飛び道具は強い。今よりも発射時間が短縮される技術ができれば、それから火薬の材料が安定供給できるようになれば……おそらく銃が戦争の中心的な武器となる。剣はせいぜい護身用か、剣舞のような娯楽としてしか使われなくなるんじゃないか。そうすると……カインが心を治しきれたとして、その頃にはたぶん、騎士という立場はなくなっている。カインは行く宛を無くしてしまうだろうから……そういう意味でも、君がそばに居てくれると言うなら僕は安心できるな。カインの身の上、という話では」
「……なるほど……」
レノックスにそのような視点は持ち合わせていなかった。流石はかつて革命軍を率いた英雄である。先見の明があるのも、革命戦争の時にファウストが英雄足り得た要素だったのだろう。
「とにかく……いつか君が心に決めた相手と約束を交わして、身を落ち着けられること。カインが、壊れた心を癒せる居場所があること。そのどちらも満たせるのだから……君とカインが寄り添い合うのが一番いいと思う。……と、僕が言うと命令のように聞こえてしまうか?」
「……いえ、大丈夫です。これからは俺自身の人生を生きると、決めましたから。……それに、ファウスト様。先程のお話から思うに……昔のファウスト様と俺のような、主君と従者という関係もまた、いつか不要なものになるのでしょうか」
「そうだな。少なくとも僕はそう考えている。王政というのも無くなるかもしれない。実際、賢者の世界はそうだったようだしな」
「……それなら、俺は。そんな新しい、移りゆく時代のほうに合わせて生きていきたいと思います。今はまだ難しいかもしれませんが……」
「ああ。そう言うならまず、僕に敬語を使うのをやめるところから始めないと」
「……まだ難しいですね」
ファウストがくすりと笑ったのと同時に、寝室の方から物音がした。カインが目を覚ましたのかもしれない。
「カイン」
レノックスは反射的に席を立ち、寝室のドアへ駆け寄る。ドアがゆっくりと開いてカインが顔を見せると、レノ、とそのまま抱きついてきた。
「カイン。よく眠れたか?」
「うん……いい夢を見たんだ。レノの夢だった……」
「そうか、それは良かった。……その、カイン。すまないが、今ファウスト様が来ていてな……」
「ファウスト……?」
久方ぶりに聞いた気がするその名前に、カインはレノックスの胸元に埋めていた顔を上げる。そして椅子に座ったファウストの姿を認めると、久しぶり、と微笑むのだった。——なおもレノックスのことを抱きしめたまま。
「……随分と仲睦まじいようじゃないか」
からかうような声色のファウストに、思わずレノックスは頬を染めた。
レノとずっと一緒がいい。
それは時間が経つうちに、カインの主たる願いになっていった。
『カイン、おはよう』
そう言ってレノックスは、毎朝目が覚めた自分の額にキスをしてくれる。身体を起こしたらハグをしてくれて、満足したら朝食をとる。いつも食事はレノックスが作ってくれるが、自分はその隣で彼のお手伝いをするのだ。そのあとは羊たちを散歩に連れて行ってお世話をして、午後や夕方に仕事がなかったら、一緒に街に買い物へ行ったり、家で二人きりで過ごしたりして。中央の国で暮らしていた頃に比べたら随分穏やかで、静かな暮らしだけれども。カインの世界にレノックスが居てくれればそれでいい。他に誰も、何もいらない。二人で同じベッドに入って、レノックスの大きな体躯に包まれるように抱きしめられながら眠りにつく。そうやって一日が終わって、また朝を迎えて——それがいつまでも続いて欲しい。
カインの望みは、今もほとんど叶ってしまっている。カインがふと抱きついても受け入れてくれるし、いつも食事はレノックスが作ってくれる。羊の世話の手伝いも少しずつしているし、最近は一緒に街の方へ行く日も出来た。少し違うのは——毎朝額にキスをしてくれるほど、レノックスとそのような関係に踏み込んではいないという点だろうか。
毎朝目覚めのしるしのようにキスをするなら、きっと、望めばいつだってキスができる。ハグだってただ抱きしめるだけでは終わらず、服の下まで手を伸ばされるようになるかもしれない。夜になったら互いを想いあっているのを確かめるように、裸になって、身体を重ねる。
カインは、レノックスとそういう関係になりたい。レノックスが好きだから。大好きだから。ずっと一緒に、いたいから。
けれど——これも所詮は一時のまやかしなのだろうか。心を病んだが故の勘違いに過ぎないのだろうか。一生を誓ってもいい想いなのだろうか。分からない。心を壊してしまった自分には。
——主にそんな内容の、カインの少しちぐはぐでたどたどしい話に、フィガロは静かに耳を傾けていた。
今日は天気も良く、調子も良さそうなので、フィガロの診療所の方へカインが直接赴くことになった。もちろんレノックスも付き添いで来たのだが、今は街の方で何かしているだろう。診察室はカインとフィガロの二人きりだった。
「れのが……、レノが、好きなんだ。一緒にいたい……ずっと、一緒がいい。でも、変なのかな。俺は……今の俺じゃ、ダメなのかな……」
カインはぽろぽろと溢れる涙を袖で拭う。今のカインは南の国らしい、生成色でゆったりしたシルエットのシャツを着ているが、そこから覗く肉付きは以前よりもずっと良くなっている。レノックスの仕事を手伝い始めた甲斐があったのか、筋肉も薄くだが戻ってきているように見えた。
「……ごめ、ごめん、フィガロ、」
「大丈夫だよ。患者さんの話をよく聞くのも、お医者さんの仕事だから。話してくれてありがとう。少し落ち着いてから話そうね」
しゃくり上げているカインが少し落ち着くまで、フィガロはゆっくりと背中を撫でてやる。カインがまともに呼吸ができるようになってきたのを確かめると、フィガロはそっと口を開いた。
「カインの話を聞いた感じだと……俺はむしろ、ちょっと安心できたよ」
「へ……?」
「カイン。今君が泣いちゃう理由はなんだろう? レノと一緒にいられなくなるのが怖い? 今の自分がレノに嫌われることが怖い? レノが……居なくなるのが怖い?」
カインはこくりと縦に頷いた。レノ、と掠れた声で、ここには居ない彼の名を呼ぶ。
「——君が南の国に来たのは、心を壊したからだ。目の前でアーサーが石になって、自暴自棄になって。でも……それはもう、カインが泣く理由にはならない。君が受けた、主君を喪ったという心の傷は、もうちゃんと治り始めてるんだ」
「……ぁ……」
「最近の寝つきはどう? 悪夢の頻度はどうかな?」
「……さい、きんは……寝つきは、いい。夢もあんまり……アーサーの、あの時の夢は……。たまに……レノがいなくなる夢は見る、けど……」
「……けど?」
「俺がそういう夢を見て、目が覚めると……レノも起きてくれる、から。大丈夫って、そばにいるって、抱きしめてくれるから……。あれは夢なんだって、ちゃんと分かるから、落ち着けるんだ」
「……うん、それなら安心だね。続けていれば、そのうちレノがいなくなる夢も見なくなると思うよ。薬は夢見の方に効く薬を出しておこうかな」
「ありがとう……」
さらさらとカルテに筆を走らせ、それからフィガロはあらためてカインに向き合った。
「少しお喋りになるけど……カインはレノと一緒にいたい、って、レノの方には言ってる?」
「ぇ……あ、いや……。レノに言ったら、悪いと思って……」
「……うーん。じゃあレノの方は言ってないかな。ずっと一緒にいてくれー、とか、まぁそこまで直球じゃなくても、カインがいてほしいな、カインがいると助かるなーみたいな話は? されてない?」
「……されてない……」
一体何を聞いているんだと不思議そうな顔をしているカインを見る限り、こりゃダメだとフィガロは内心ため息をついた。レノックスはカインの心の傷が治るまで数百年かかろうと、それまで一緒にいる覚悟はできている。カインの方も幼いながらも、ずっと一緒にいたい、触れ合いたいという強い好意を持っている。思いあっているのは確かなのに、本人達はなんだかすれ違っている様子だ。
「……カインには、レノックスがどんな奴なのかっていうところから話をしないといけないかなぁ」
「……?」
「レノが革命戦争のときにファウストの従者だった話は聞いてるよね。でも実際従者として仕えてた期間はそう長くないんだよ。一年とか二年とか、そのくらいかな? 魔法使いの寿命は長い。これから自分も数百年は生きるかもしれないのに、若い頃に出会って、たった数年一緒にいただけの相手のために、レノは四百年旅をしたんだ。従者としての役目を、義理を果たすためにね。自分の決めた心には真っ直ぐに従う。それが数百年以上かかっても、その役目を果たす前に、自分の寿命が尽きる可能性があっても……。まぁ、ファウストがいい感じに落ち着いたから、レノも晴れてお役御免になれたんだけどね」
「レノ……」
「そういう人だからさ。一度心に決めた相手は絶対に見捨てない。いきなりカインの元から居なくなったりするような男じゃないよ、レノは」
「……でも……」
「……レノには悪いかもだけど、こっそり教えちゃおうかな。レノは、カインと一緒にいる。君が元の笑顔に戻れるまで、数百年、数千年かかったって、そばにいる。その覚悟はもうできてるって……俺に伝えてくれたよ」
「……ッ、」
「ファウストとも色々話したみたいでね。レノがファウストを四百年もの間探せたのは、主君への敬愛ゆえだった。それと同じように、レノが自分の人生を数百年分かけてもいいと思ってるカインに向けている"愛"は……いったい、どういう形の"愛"なんだろうね?」
「……フィ、ガロ。あの、……からかいじゃ、嘘じゃ、ないんだよな……?」
カインの目は縋りつくように潤んでいる。
「あはは、俺は嘘つかないよ。南の優しいお医者さんだもの。……だからカイン。レノと一緒にいたいんだって気持ちは、レノにも分かるように伝えてごらん。それはちゃんと伝わるし、レノは応えてくれるから。レノに抱きしめられて、本当に心から幸せだと思えるなら……カインがレノを好きだって気持ちは、勘違いなんかじゃないよ」
フィガロの言葉を聞いて、カインは一粒だけ涙をこぼれさせた。ありがとう、と呟いた声色は、少し明るい。微かに、かつての魔法舎で暮らしていた頃の彼の面影を思い出させるような。
「それじゃあ薬の用意をするから、外で待っててね。そろそろレノも戻ってくると思うよ」
フィガロの促しにカインは頷き、診察室を出ていった。もともと中央の国の魔法使いでも特に人付き合いが好きだった彼のことだから、互いに助け合いながら暮らす南の性質にも合いやすいのかもしれない。南の国の気候に合わせたゆるい服装は、不思議と今のカインにはよく似合っていた。
『レノと一緒にいたいんだって気持ちは、レノにも分かるように伝えてごらん。……レノは応えてくれるから』
フィガロのそんなアドバイスが、何度も頭の中を反芻する。
薬を受け取り、診療所を出ると、ちょうどカインを迎えに来たレノックスと会えた。どうだった、と訊ねてくる彼の質問に答える前に、カインはレノックスの懐に身を寄せる。
「カイン?」
「……えへへ。レノ。レノ……。……俺、まだ前みたいに、たくさん話せないけど……。頑張るから、な。レノ……」
「……。……ああ。俺もそばに居る」
カインの言葉の意味はよく分からなかったようだが、レノックスはそっと腰を抱き寄せてくれた。頭を撫でられると安心する。受け入れてもらえているのだと、実感出来る。
心を壊してしまった影響なのか、今のカインは話すのにも少し体力が要る。たどたどしいのもそのせいで、前のように思ったことはすぐ言えるという状態ではない。でも、だからこそ。代わりにこうして、行動で伝えていきたいのだ。
レノ。俺はレノが大好きだ。ずっと一緒にいてほしい。
そう、まだ、言葉にして約束はできない想いを。
