ここから二人で

 オオマガドキーーそれはかつて日ノ本の多くを異界に沈めた大厄災。これを皮切りに鬼ノ府が国の表舞台に現れ、外様をも飲み込んで大規模な生存戦略を取るようになり、九年が経った。今に至ってもその戦況は芳しくなく、何とか戦線を保っている里がある一方で、滅んでいる里があるのもまた事実。今日もモノノフたちは己の里で研鑽を積み、拠点近くの異界の巡回・調査に鬼の討伐に励んでいる。
 そんな中、良い変化と呼べるものもあった。東の最前線たるウタカタの里では、トコヨノオウやイヅチカナタといった他に類を見ない強大な力を持った大型鬼との戦いに見事勝利したことで、鬼の侵攻が小康状態となったのである。それどころか、一部区画の浄化という快挙さえも成し遂げてみせたのだ。
 これには鬼ノ府組織の総本山である霊山上層も非常に注目しており、その年の末に執り行われた会議以降、ウタカタの里には定期的に霊山からの使者が訪れるようになった。浄化された土地の調査に他では未確認の鬼の生態調査、モノノフの育成体制、里全体の環境⋯⋯と、様々な情報を持ち帰り、他の里との違いを比較検討し、人間の生存領域拡大のための計画を打ち立てたいのだろう。
 ウタカタは全面的に彼らの調査に協力しつつ、いつものように日々を送っていた。モノノフが周囲の鬼を倒し、里の人々が生活の基盤を支え、夜が更け朝を迎える。
 その繰り返しを数十、数百と重ねて季節が一つた頃、里にひとつ嬉しい報せが舞い降りた。

 里の勝手方を勤める女性に、新たな命が宿ったのである。


 ◇ ◇ ◇


 物見の合図を受け、ウタカタの里モノノフ本部奥にある門が開かれると、受付嬢の木綿が軽く腰を浮かせてそちらを見やった。明るい笑顔を浮かべた彼女を見て、三人のモノノフも各々表情を柔げる。
「みなさん、おかえりなさい! 安の領域の様子はいかがでしたか?」
「ただいま! ね〜え木綿ちゃん聞いてよお〜」
 まっすぐ木綿の元に向かったかと思えばぐにゃりと受付台にもたれ掛かるように膝を曲げるのは、ウタカタ討伐隊隊長の女モノノフ・白花だ。以前は肩口より少し長かった髪は、今は顎の辺りで短く切りそろえられている。
 思わず笑う木綿の前で、すぐさま白花の体は軽く地面から浮いた。親猫が子猫にするように、首根っこを掴まれる形で白花は受付台から遠ざけられる。そんな風に彼女を扱うのは一人しかいない。
 「ぐえ」と呻く彼女を見るでもなく呆れた表情を浮かべるのは富嶽だ。そして我関せず、とばかりにその後ろから出てくるのは副隊長こと赤銅である。
「邪魔になんだろうが」
「まーぼちぼちってとこすかね。そんで本部からの依頼にあった素材っす。ちょうど集めきったんで」
「ありがとうございます! 報酬をお持ちしますね」
 くるりと背を向け奥の戸棚を探る木綿の後ろ姿を見ながら、白花は不満げに喉元をさすった。
「も〜⋯⋯そんな適当な報告がありますか。標的のツチカヅキとの交戦中にコガネムジナの乱入に遭ったでしょ?」
 じろりと赤銅を横目で睨むも、彼は素知らぬ顔。富嶽もまた何も口を挟まないので、白花はふうとため息をついた。そんな彼らのやりとりにもまた、木綿はくすくすと小さく肩を揺らす。
「面倒は面倒だけどハクになるから美味しい獲物だよな、ムジナ」
「それが言えるのは弓で撃ち落とせるからなんだからね。手甲だとほんっと大変なんだよ?」
「俺は俺でひとりだと火力が足りないから、あんたらがいなきゃ到底無理筋だっての」
 よく口の回るふたりと楽しげに会話を聞く木綿を視界に入れながら、富嶽は豪快にあくびをしながらぐるりと腕を回した。


 白花と赤銅、あずま出身の二人とこなす任務は富嶽にとって過不足ないものが多い。モノノフとしての年数は浅いながらに多くの修羅場をくぐりぬけてきた彼らには、着任した年の時点で熟練のモノノフ向け任務の受注権が解放されている。
 それに対する富嶽はといえば、モノノフとしての経歴も長く、ウタカタで過ごした年月も長くなってきていた。実力も確かな彼の立場は、他のモノノフを指揮したり後進育成の役割も期待されるものとなってきており、練度の低い者たちと異界に出ることも多々ある。そういった場合は彼らの補佐役や指導者的な立ち回りが求められるため、強敵と真っ向から打ち合う機会が必然的に減っているのも確かなのであった。
 そういった事情もあって、下級任務の合間に同程度の実力者たる討伐隊のモノノフらから同行を求められることは、富嶽にとっては願ってもないことで。いつも通りの様子に見えて、実際のところ機嫌はかなり良いのであった。
 当初の予定通りの報酬にコガネムジナの素材、それから依頼達成分の追加報酬。懐が暖かくなった三人は、揃ってモノノフ本部を後にした。
 長い石段を一段一段降りながら、白花が大きく伸びをする。そうして、
「この後さ、三人で一緒に禊行こうよ」
 そう、なんの気負いもなく口にした。⋯⋯ちなみに、これは鬼ノ府の隠れ里全てに共通する決まりに当たるのだが、禊場の利用は性別ごと、とされている。柵をつけるなどして、脱衣場と水場の区分けが出来る場合はそうするが、それほどの広さがない場合にはそれぞれの利用時間を分けることで対応するのが常だ。ウタカタの里は後者にあたる。
 そこで改めて、先程の発言を振り返ってみて欲しい。白花は女、赤銅と富嶽は男である。見た目そのままに。
 赤銅はとっとっと、と一段飛ばしで二人を置いて先に降りながら口を開いた。
「あんたがいるならふつーに生理的にヨコシマな気持ちになるから遠慮しまーす。一人で先に済ませてくるから、お二人さんは後にしてどーぞ」
 言うだけ言って不敵な笑みを浮かべると、そのま軽やかに禊場の方へと消えていった。
 何を言われたのか理解できなかった、とでも言うように白花はしばしきょとんと足を止めていたが、じわじわと眉間に皺が寄っていく。そんな白花を斜め上から見下ろす富嶽の表情もまた、芳しくなくなっていったことには彼女は気づかない。
「⋯⋯最悪だ⋯⋯」
「てめえの無法のが悪い」
 端的な指摘である。
 だが白花も、その程度で自分の希望を引っ込めるような生易しい性格でもないのである。半目の富嶽を振り仰いで、まっすぐ言葉を投げかけるのだ。
「でも断んないから富嶽は優しいよねー」
「⋯⋯諦めてんだ、こっちは」
 両手を軽く上げる降参の姿勢。目を細めて頬を緩めた白花は、鼻歌混じりに石段を跳ね降りていく。お団子食べよう、という誘いを追加してご機嫌に石べりにもたれかかる白花を見やり、富嶽もまた歩き出す。のしのしと自分の速度で、後ろ頭を掻き回しながら。
 ゆっくり追いついた富嶽と並んで歩いていたところで、二人の視線はとある民家へと自然と吸い寄せられていった。物見櫓の昼番担当の男が足早に玄関戸に向かうと、たまたまなのかそんな予感でもしていたのか、中から身重の女性が戸を開ける様子が見える。嬉しそうな女性は慌てたような男性に身体をいたわられながら、家の中へと消えていく。
 それと入れ違いに会釈しながら家を出ていくのはまた別の女性だった。白花が「あっ」と小さく声を漏らす。白花や富嶽の見慣れた、モノノフ本部や異界で会う姿とはまた違った軽装で、けれどそれが誰なのかはすぐに分かる。彼女もまた二人に気づくと、にこりと笑って深くお辞儀した。モノノフであり、医師であり、天文学者をも目指すウタカタきっての才媛、那木である。白花が手を振り、富嶽が軽く腕を上げるのを見て再び微笑むと、那木はそのまま別の方角へ歩いていった。
 那木がここ半年ほどモノノフとしての活動を控えているのは、医者として妊婦の対応にいつでも入れるようにするためだ。無論、彼女以外の医者や実績を持つ産婆などもいるのだが、その数も決して多いわけではない。万が一への備えは必要だ、というお頭を始めとした周囲の意見と、それから那木自身の強い希望もあって、この采配となっている。
 以前より共に任務に出ることの多かった白花や富嶽の前では特に、負担をかけてしまうけれど、と那木は頭を下げていたが、当然のように二人はそれを受け入れた。それほどまでに、那木の瞳の輝きは熱意に満ちていたのだから。
 そんな彼女の背を見送りながら、白花がぽつりと呟く。
「⋯⋯後で本部に行ったら会えるかな」
「どうだかな。今が一番忙しねえだろ」
「うーん、確かにそうかも」
 今度甘いものでも差し入れに行こう、と元気よく宣言して、白花は再び歩き出した。
 里人の多くが利用する食事場に二人。並んで腰かけて、白花は宣言通りの団子を、富嶽は握り飯二つとお新香を注文する。夕餉には早い中途半端な時間ではあるが、客の入りはそれなりだ。畑仕事上がりの男女に出立前の飛脚の男、それから新米モノノフたちの姿。あちこちの卓から聞こえる雑談は気にならない程度にとどまり、ともすれば長居してしまいそうな空間だった。
 ふと、富嶽が白花を見る。彼がそうしたことになにか理由があったわけではない。爪楊枝を取る動作の延長程度のものだ。富嶽の位置ではもちもちと団子を咀嚼する頬の動きくらいしか分からないが、またしてもなんとなく、その視線の先を追いかける。外の景色でもなく、壁に吊るされた品書きでもない。調理場の奥、勝手方の女たちが談笑している声の方角を見ていた。
 ちょうどそんな頃合いだった。
「お待たせしましたー。今行けば先客はいませんよっと」
 清浄な水の気配をうっすら纏った赤銅が、二人の卓へとひょいと顔を出す。白花もぱっと赤銅を見上げて「ありがと」と腰を浮かせる。わずかに湯のみに残っていたらしい茶をくいっと飲み干す白花に続き、富嶽も席を立った。代わりにそこへと腰掛けた赤銅から軽く手を振り見送られ、二人は改めて禊場に向かっていく。
 いつものように、富嶽が先に脱衣所を利用し、水場に移動をしてから白花が続く。滝のあげるしぶきが薄く白煙のように漂う中で、白花は冷たい水に身を浸した。へりに腰掛け、まずは爪先から、ひやりとした温度と体を馴染ませていく。ふくらはぎまで浸したところで、白花は天を仰いだ。
「あ〜〜、生き返る〜〜〜〜」
 時は晩夏。湿気が肌にまとわりつく不快感が徐々に引き始め、夕方から夜にかけては薄着で過ごすと肌寒さを覚え始める頃。夏の盛りには瘴気の浄化や精神統一以外の目的で利用したいする里人も多いのだが、この時期からそういった声が落ち着き始めるのだ。
 先に入っていた富嶽はもう水場の中央付近で身を清めている。
「もう日も短くなりだしてんだ。さっさと浸かっちまえ」
「は〜い」
 間延びした返事ながら、言われた通りにざぶざぶと歩いていく。水底は緩やかなすり鉢状になっているため、中央に行けば行くほど深く沈んでいく。白花は決して背が低い訳では無いが、大柄な富嶽には及ばない。彼よりも手前のところで足を止めて、静かに目を閉じる。
 高所から流れ落ちる水糸は水面を叩き、細かな水滴を周囲に散らせる。この場の空気はしっとりとした水気を含んで、体全体を浸さずとも清浄な気が全身を包んでいく。異界で活動することで体内に溜まった穢れはその水に溶け、体の感覚をどんどん研ぎ澄まされた状態へと高めていくのだ。
 余計なものが削ぎ落とされる感覚。それゆえに、任務の前に禊をすることで、普段以上の能力を発揮するという効能もあるのだという。そしてそれゆえに、この場に身を置くと自身の気持ちや考えが明白になり、飾り立てるものがなくなっていくのだという者もいる。その効果について検証が行われたわけではないが、
「⋯⋯あのさ」
 目を閉じたまま、白花が口を開いた。
「ちょっと聞いてみたいことがあって」
 富嶽もまた、目を閉じている。数刻の間を開けて、「なんだ」と返した。
「ホオズキの里ではさ、長かったんでしょ?」
「まあな」
「そこでは⋯⋯モノノフの女の人で『子供ができた』ーって人も、いた?」
 富嶽はゆっくりと、薄く目を開く。明瞭な視界に映るのは、澄みきった水と岩場、そして緑。
 白花は続ける。
「その後ってどうなるんだろうなーって考えてた。軽めの立ち仕事なら人によっては続けることもあるらしいけど、さすがに任務なんてやってる場合じゃないし、普通に里で安静に過ごすんだろうなっていうのは分かるよ」
 普段の跳ねるような元気さは鳴りを潜め、静かな語り口の白花。富嶽の視線は改めて彼女の表情をとらえ、それに答えるように白花の瞼も持ち上がる。
「子供を産んで⋯⋯母体を休めて⋯⋯その後は? ホオズキの里だとどうしてたの?」
 けれど、白花は軽く顎を持ち上げて、遠くの空を見ている。富嶽は再び視線を彼女から外して、先程より長く沈黙した。
「⋯⋯それほどその手の話は多かったわけじゃねえし、俺も詳しく知ってるわけじゃねえぞ」
「うん」
「俺の知ってる限りじゃそのままモノノフに復帰してるのは見なかったな。ガキの世話そのものは里ん中で手ぇ貸し合ってやってたらしいが」
 富嶽は目を閉じる。瞼の奥に浮かぶのは、今や異界に沈んだ懐かしい里の光景。そのほとんどが現役の仲間たちとのやりとりに、モノノフたちを支える里人たちの姿、それからちびすけーー幼いホオズキの巫女の笑顔。それらの背景となっている景色の一部に、かつてモノノフだった女たちの姿もあった。たまたま彼女らとの関わりはそう深くはなかったために、富嶽の中でその印象はややぼやけている。
 既に彼女らもその子供もいない。けれど、もう鬼の腹の中でもない。
 富嶽はゆっくりと瞬いて、吐息する。
「俺に分かんのはこの程度だ」
「そっか」
 ごめんね、ありがとう、と白花が言う。富嶽はそんな白花の顔をじっと見つめる。
 平素白花という女は、分かりやすい人物だ。嬉しい時には飛び跳ねるように笑い、不満なことがあれば言葉で示し、悲しい時にはがくりと肩を落として、気を抜いている時はとことんのびのびとする。ウタカタの里にいて、否、彼女と数日過ごしたことのある者であれば、その感情の大枠は手に取るようにわかるだろう。富嶽も当然そのうちの一人だ。
 だから今、富嶽は彼女の表情を確かめる。富嶽自身、他者の顔色から何かを読み取ることが特別得意だという自認を持つ訳では無いが、できるかどうかとするかどうかは似ているようで違う。
 それに、重要なのは違和感があるかどうかの見極め。そこさえ掴めれば十分なのである。
 富嶽は白花から視線を外して、ぼそりと呟いた。
「霊山の連中か?」
 その呟きはきちんと白花の耳に届いたらしく、白花は「え?」と驚いたように目を見開いて、それから富嶽へ顔を向けた。二、三度瞬きをする白花へ再度向けられた富嶽の視線は、いかにも物言いたげである。そんな様子に合点がいったのであろう、白花は露骨に困ったように肩を竦めた。
 霊山上層が注目しているのは、実の所ウタカタの里の快挙だけではない。鬼ノ府の開祖、はじまりの鬼討つ鬼。数多のミタマと縁を結ぶ力をもって鬼と戦った人物ーームスヒの君。かの人物の再来とでも言おう力を宿す者がウタカタにいるからだ。その人物こそが白花なのである。
 彼女の持つムスヒの力やモノノフとしての力量、隊長としての手腕など、それらを確かめるべく熱心にはりつく者がいたのは言うまでもないのだが、今問題とすべきはそこではない。霊山直属のモノノフや高官らとの縁組の提案やら、ウタカタで将来の約束をしている者がいるのかどうとか、などと聞いてくる者もいたのである。縁組の打診などは、ウタカタの里のお頭である大和を通して会議時やら手紙やらで行われていたが、ついに本人に直接⋯⋯というところまできていたわけだ。無論、白花はその全てを突っぱねているわけだが。「その気は無い」と。
 しかしながら、今世のムスヒである白花の存在はかなり特殊なものだ。開祖の方のムスヒの君には現状わかっている範囲で直系の子孫はおらず、彼の親戚関係なども明らかにはなっていない。白花の家系から辿るにも、生まれ故郷が異界に沈んでいるために彼女の把握している範囲に留まるだろう。その力の源はどこにあるのか、血で受け継がれるものなのか。たとえその力が遺伝として現れず一代で終わるにしても、丈夫で霊的素養の高い子が産まれてくる可能性は十分に高い。また、特異なモノノフである彼女を伴侶とすることが、この先の地位や発言権などに関わる可能性だってある。
 だから、彼女が何度すげなく断ろうとも次が現れるのだ。直接交渉ができる状況にあたる今、そういった話が増えているのならば、嫌でも考えてしまうのも無理はないーーのだろう。富嶽の呟きは、そう考えてのものだった。
 もちろん身近に身重の女性がいるということもきっかけの一つとして考えることは出来る。しかし、元より白花は自分を成人女性の枠組みに入れるのを避ける傾向にある。こと恋愛の話においては顕著だった。そんな白花自らこの手の話題を持ち出すなんて、異常と言ってもいい。
 しかし。
「あ〜、そういうんじゃないけど⋯⋯まあ、時々は考えちゃうよね。実際、一応は他人事じゃないんだし」
 と白花は言ってみせた。目の色を変えた富嶽を尻目に、ぐぐっと白花は伸びをする。
「今の日ノ本ってさ、お家のためにーとかはそこまで強くないけど、先の世代の頭数もきちんと残していかないと先細りする危険性もあるわけでしょ? だからこう、産むことのできる方の性別としては、貢献した方が良いんだろうなーと思わなくもないというか」
 言葉を区切るのに合わせて、両腕から力を抜いた。それを体の横でぶらぶら揺らす白花を見つめながら、眉間のしわを緩めることなく、短い言葉で富嶽が次を促す。
「で?」
「うん。それとは別に自分が注目されてる自覚もあるわけで」
「やっぱりそうなんじゃねえか」
 富嶽が忌々しげに口元をゆがめた。続けてフン、と鼻を鳴らせば、白花は困ったように眉を下げるも、わずかに口元は緩んでいる。
「結論を急がないの。⋯⋯だけど私は長くモノノフを続けたいからさ、今の話聞いて決心が着きました!」
 ぱん、と両の手のひらを胸の前で大袈裟に合わせる。意を決するように、何かを振り切るように。きりっと眉を上げて笑みを形作った。
「要は、これからも今まで通りってこと。⋯⋯安心した?」
 白花が一歩富嶽へ近づく。首を傾げて、下から顔を覗き込むような仕草に、富嶽はわずかに仰け反った。口を思い切りへの字に曲げてみせても、白花は何処吹く風、であるが。
「おい、なんだその『安心』ってのは」
「ん〜? だって富嶽、私と一緒に戦うの結構嫌いじゃないんでしょ?」
 あらゆる表情筋を緩めたような顔に、期待の眼差し。それを受けた富嶽は一瞬片眉を上げて、それから軽く鼻で笑った。
「生意気抜かせ。そいつはてめえの今後の腕次第だろ?」
「うっ、冗談でもそういうこと言う? ⋯⋯冗談だよね?」
 軽く顎を上げて歯を見せてにやりと笑ってやれば、白花は顔をひきつらせて一歩後ずさった。「でも最近はあんまり倒れてないし、みんなに救援指示出してもないし⋯⋯」と視線を彷徨わせながら必死に言い募っていた白花は、ただニヤニヤ笑うばかりの富嶽にピンとくるものがあったのだろう。ぴたりと動きを止めたかと思えば、不満げに唇を尖らせて彼をじとりと睨んだ。
 でもそれも全て戯れのようなものだ。もういいだのなんだのとぶつくさと文句を言いながらも背を向ける白花は慣れたもので、ざぶざぶと水を割りながら脱衣所の方へ向かっていった。禊を終える順番は先程とは逆で、白花が先に出るのがお決まりになっている。
 富嶽は、白花のその女性としてはがっしりとした体つきの、けれど確かに丸みを帯びた後ろ姿を、普段はそうまじまじと見ることは無い。ただ今は、その背中を見つめて。
「⋯⋯てめえがどっかの男と好い仲になって、ガキができて、産んだとしてだな」
「え?」
 白花が足を止める。水から今にも上がろうという位置で、首だけで富嶽を振り返った。
「その後モノノフに戻りてえってんならそう言やあいい。好きにやれよ」
 二人の距離からは互いの表情の細部を読み取ることは叶わないが、それでも白花からは富嶽の真剣な表情は見て取れたし、富嶽からもまた、白花が真面目に耳を傾けている様子も窺い知ることが出来た。
 白花はしばし呼吸を忘れ、薄く開いた唇は何かを言おうとするかのように動いた。けれどそれは言葉にならないまま、揺れる丸い瞳だけはただ富嶽を見つめている。
 そして富嶽は続けた。
「そのための力ぐらいいくらでも貸してやる。そのことは覚えときな」
 俺の話は終いだ、と。締めの富嶽の言葉に白花は眉を下げて、俯いてしまう。すっかり瘴気が抜けきったはずの体なのに、水を含んだ布がやけに重い。そんなことを感じて、白花はへりについていた手をそっと離した。右足を引き、それを軸にして振り返る。体ごと富嶽へ向き直る。
 小さく深呼吸して、垂れた前髪の隙間から富嶽を覗き見た。
「早く上がっちまえ。風邪ひくぞ」
 訝る富嶽を無視して、口を開く。
「⋯⋯参考までに聞きたいんだけど、富嶽の奥さんが同じようなこと言い出してもそう言える? 言ってあげられるの?」
 けれど白花の目は最後まで富嶽を真っ直ぐ見続けることは出来ずに、ゆらゆらと波打つ水面に徐々に吸い寄せられていって。結局最後に見つめていたのは自分の爪先だった。
 対する富嶽の表情の変化にも当然気づくことはなかった。だから、彼が喉まで出かかった言葉を呑み込んだ様子もまた、見れたはずもない。何かに噛み付く一歩手前、とでも思われそうな様子で開いた口をどうにか噛み締めて、目元にいくつも皺を作りながら、富嶽はしばし瞑目した。
 そうして、ため息をひとつ。
「そいつの決意が堅ぇなら、俺が止めたところで聞かねえだろ」
 白花がおそるおそる顔を上げる。前髪越しではない富嶽へと真っ直ぐ視線を送りながら、続く言葉を待った。その眼差しを受けて、富嶽は至極不服そうな表情を浮かべつつ、吐き捨てる。
「その代わり、これまで以上に厳しい目で見るけどな。無茶しようもんなら許さねえ」
 白花は二、三瞬きをする。その度に、瞳に光が増えていく。富嶽の表情は何度確かめても機嫌の良さそうなものではなかったが、それでも、白花にとっては。
 気づかないうちに強ばっていた体から力が抜けたのか、白花はその場でゆるゆると膝を曲げる。ぱしゃん、と軽い音を立てて水の中にへたりこんだ。そうするとようやく慌てたような富嶽が白花の元へ早足に近づいてくるのが見えて、ますます白花の体は解けていく。
「そう⋯⋯なんだ⋯⋯。そっか⋯⋯」
 涙腺までもがぐにゃぐにゃとし始めたところで、富嶽が白花の目の前までたどり着いた。脇に手を差し込んで、軽々と体を持ち上げる。ざばあ、と水を滴らせながら、白花はふへへへ、と笑った。
「⋯⋯満足したかよ」
「うん!」
「そうかいそうかい、そいつは良かったな」
 目尻にうっすら涙を滲ませながらも満面の笑みを浮かべる白花に、富嶽は珍しく感情の乗らない棒読みで返した。それでも白花は嬉しそうにしていて、そっと水底に降ろされ立たされたあとも、ニコニコと富嶽を見上げる。
「へへ。なんだかすっごく気が楽になった感じ」
 奇妙なものを見るような富嶽の眼差しを間近に受けてもなお変わらない。それどころか、白花の胸はきゅうと縮んで、どきどきと高鳴って、変わり始めた空の色の美しさをより情緒的に感じさせていた。
 きらきらと眩しい景色に目を細めて、こんな言葉が白花の口をついて出る。
「富嶽とだったら私、子供じゃなくなることを怖がる必要なんてないのかもしれないね」
 ただただいっぱいになった胸の内を表す言葉でしか無かったそれは、この場にもう一人いる以上、ただの独り言にはなりようもなくて。
「⋯⋯白花」
「ん?」
「てめえ、俺になら何言ってもいいとか思ってんだろ」
「え、」
 白花が自分の言葉を振り返る間もなく、それは起きていた。まず感じたのは腕の力。後頭部と腰に回された腕が白花の体を引き寄せて、その力に従って前方へとたたらを踏むと、ぽすりと体全体が受け止められる。少し冷たくて、しっとりとして、でもがっしりとした安定感とわずかな柔らかさも感じられる。水に清められたことで普段ほどは感じられないものの、鼻先にある首筋からは、確かに富嶽の匂いがしていた。白花がそのひとつひとつを認識し終わったところで、彼女の体を閉じ込める腕の力が強くなる。自身の濡れた体が、ぴたりと富嶽に張り付いた。
 ーー抱きしめられている。そう、白花はようやく自分の状態を言葉にして受けいれた。小突かれるでも担がれるでもなく、自分の方から抱きつくのでもない。きつく抱きしめられている、と。
 早まる鼓動に急き立てられて浅い呼吸を繰り返す度に、白花は自身の体温の上昇と富嶽の存在を強く感じていた。それが全てで、なんの言葉も出てこない。
 富嶽もまた、難しい顔で唇を引き結んだまま、なかなか言葉を発さなかったが、抱え込んだ白花の頭に自分の顔を寄せてようやく唇を開いた。
「わからねえか? ⋯⋯てめえの何も考えてねえ言葉すら、とっくに与太ですまねえとこまで来てんだよ、俺の方は」
 苛立ちの混じる早口なのに、どこか言葉の響きには甘さが滲んでいて、白花はかっと頬が熱くなるのを感じた。
「⋯⋯ぁ、えっと⋯⋯」
 どうにか絞り出した声は驚く程にか細く、それが白花の羞恥をさらに掻き立てる。どうしたものかとさ迷わせていた自身の両手を、おそるおそる富嶽の装束へと伸ばしたところで、今度は思い切り体を引き剥がされた。
 驚きに目を見開く白花をバツが悪そうに見下ろして、すぐにその脇を通って水辺から上がった。
「富嶽!?」
「わかったらもう二度と男の時間に禊なんざするんじゃねえ」
 一切振り返ることなく先に上がろうとする富嶽を追いかけて、白花も水場を上がった。自分より広い歩幅に負けないように早足で、その背中にぶつかるようにしがみつく。
「ま、待って!」
 普段の白花ならば、両腕を腹の方に回して抱きついていたであろう場面だった。けれど、彼女の手が掴んだのはしっとり濡れた背中側の装束。
 いずれにしても引き剥がすのはさほど難しくはないであろうに、富嶽はそのまま足を止めた。振り返ることもしない。声をかけることもしない。待っている『間』だった。そう白花は感じて、生唾を音を立てて飲み下した。
「⋯⋯あの⋯⋯」
 馬の尾のような後ろ髪を見上げて、俯いて。
「私⋯⋯っ、」
 肩甲骨に額を押し付けて。
 もう一度小さく深呼吸をしてから、意を決したように白花はきりりと表情を引きしめーー視線を右下へとそらす。
「『千烈拳』は欲しくて⋯⋯」
 そう、歯切れ悪くも口火を切った。
「あと、良い素材を拾える確率もあげたいから、秋水とも禊がしたくて⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
 段々としりすぼみになっていく白花の声とは逆に、富嶽の深い深いため息は後半になるほどに大きくなっていった。
 そして富嶽がゆっくりとした動作で振り返る頃には、白花の手は富嶽から離れ、もじもじと胸の前で突き合わされている。今日一番の富嶽の冷ややかな視線に、白花はわざとらしいくらいの笑顔を浮かべ、今日一番の愛嬌で返した。⋯⋯それが無駄な抵抗だとわかっていても、人間にはそうせざるを得ない瞬間がある。後に白花はそう語ったとか、そうじゃないとか。
 富嶽は真顔で両手の握りこぶしをすっと顔の横まで持ち上げたかと思うと、それを白花のこめかみにぴたりとあてがった。「あ」と白花の声が短く上がったが、時すでに遅し。ひねりを加えながら、こめかみにぐりぐりと押し付けられる。
「て、め、え、は、何、も、分、かっ、ちゃ、い、ね、え、な、あ!?」
「いだ、いたたたた、こめかみ、こめかみが割れる⋯⋯っ!」
 べちべちと二の腕を叩いて痛みを訴える白花であったが、富嶽とて当然加減はしている。しばらく意図的に無視を決め込んでいたが、「ごめんなさい」の言葉が出たところで潔く解放した。こめかみをさする白花を半目で睨みながら、舌打ち混じりに富嶽はこう言った。
「素材は出るまで任務に付き合ってやる。それで手打ちにしろ」
「えー⋯⋯」
「手打ちだ」
「はーい⋯⋯⋯⋯」
 白花の返事はどこか渋々、といった体ながら、言質をとったことでひとまず富嶽も納得したのだろう。一度くしゃりと雑に頭を撫でて、少なくとも今日のところはこれ以上追求しないことに決めたらしかった。
 雑に撫でられて乱れた前髪をそのままに、白花は富嶽をじっと見つめ、伺うように問いかけた。
「⋯⋯もしかして、ずっと嫌だったの?」
 何の話か、などと説明するのも問い返すのも野暮だろう。富嶽は居心地悪そうに目元をひきつらせた。溜め息を吐きつつ、ずいと顔を近づける。
「あのな。別に今日は俺がなんでも答えてやるって会じゃねえんだぞ? ちったあ俺にも手番を回せ」
 最後の一言に、白花はびくっと背筋を一瞬伸ばした。けれどすぐにその背中を丸め、自分の手元に視線を逃がす。ははは〜とから笑いを漏らした後、もごもごと「言わなきゃダメ?」などと言うものだから、もう富嶽も引きはしなかった。
「往生際の悪ぃ⋯⋯そろそろ腹ぁくくれ」
「う⋯⋯」
「別に何言おうが今すぐとって食いやしねえよ」
「食っ!?」
 間髪入れずに素っ頓狂な声を上げる白花だったが、すぐに我に返ったようにごほんと咳払いをひとつして。
「⋯⋯う、うん⋯⋯それはその⋯⋯知ってる⋯⋯。信じてるし」
 そんな風に付け加えた。
 黙った富嶽のへの字口が薄く開きかけて、やはり閉じて。右手で目元を覆うとがくりと頭を垂れた。
「⋯⋯唾ぐらいはつけても構わねえか、ってとこまでは来てる」
 富嶽の低く押し殺すような、どこか後ろめたさも匂わせるうめき声に、白花は白花で顔を覆ってうひゃあ〜⋯⋯、と細い声を上げた。そんな風にしている間も、開いた指の隙間から富嶽を見ていたし、胸の鼓動は外へと飛び出したいと言わんばかりにうるさくなっていたのだが。

 どうどうという水音と、カラスの声だけが遠く、二人の背後と頭上を流れて数瞬。蚊の鳴くような声で白花が口にした言葉がなんだったのか。

「ーーおんしらの話は少々長すぎる」
「わあ!」
「んなっ!?」

 それを知る者は二人の他には千歳だけ、なのかもしれない。



  了
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