月を食む
煌々と明るく、丸い月が昇る。
「私はそれが怖かったんだよね」
布団の中から顔だけを覗かせて、窓の隙間から差し込む明かりに目を細めて、白花は密やかな声で呟いた。
白花という女は、ウタカタの里のモノノフのひとりである。霊山より派遣され着任から一年あたり。それながら、『ムスヒの君』再来を思わせる八百万のミタマを宿す力によって見る見るうちに頭角を現し、今やウタカタ討伐隊の長を任されるほどとなった。
それほどの才を持つ身としては意外なことではあるが、彼女は鬼内でなく外様の、それもあずまの国の出身であった。――あずまの、生き残りであった。
あの頃は、と。女は語る。
「大型から小型まで色んな鬼に溢れかえって、もう夢中で逃げた。昼も夜もなくて⋯⋯そう、瘴気が溢れ出したばかりで異界化まではしてなかったんだけど、まず真っ先に空が綺麗に見えなくなって。ずうっと同じ色をしてた。明けることも更けることもなくなっちゃって」
疲れれば休み、動けるようになれば走る。身を隠して包み込んでくれる物陰だけを、親しく思ったのだと。
だから。
「⋯⋯だからどうにかそこを抜け出して、人の世界にたどり着いてからも、夜が明るいときは落ち着かなかったんだぁ⋯⋯あんなに綺麗なのにね」
ごろりと寝返りを打って、長く長く息を吐いた。それはまるで大きな荷物をおろした時のように。やっと言えた、という声なき声を、その場にいた『男』も恐らく感じ取っている。
板間が小さく軋む。衣擦れの音。白花が再び月明かりの方へと顔を出すと、大きな手のひらが伸ばされた。薄らと顔貌がわかる。いや、見えなくとも白花にはわかっている。富嶽の指は白花の前髪をちょいとかき分けて、汗の滲む額にしっとりと添えられた。
「⋯⋯上がっちゃいなさそうだな」
体温を確かめると、そっと離れていく手のひら。へへへと笑いながら、白花は顔の下半分を掛け布団に埋めた。
枕元の木桶の水は、人の体温よりも未だ冷たい。その中で泳いでいた手ぬぐいをいま一度すくい上げ、きつく絞ってやると、富嶽はそれを白花の額に乗せた。一瞬ぎゅっと瞑られた目がほっと弛緩する様を眺めながら、富嶽はただ何も言わず腕を組んでいた。
ただ、じっと白花を見ていた。
「ありがとね、こんな時間に様子見に来てくれて。あと話聞いてくれて。いつも朝早いのにさ」
「そうだな」
照れくさいのか遠慮しているのか、微熱によって様々な動作が緩慢になっている中、気持ち早口で白花はまくし立てた。肯定しながらも動く気配のない富嶽の様子を伺いながら、口をもごもごさせている。
「てめえがまず早く寝ろ」
「うん、でも⋯⋯」
「なんだよ」
「朝も昼もずっと寝てるから⋯⋯」
「そうか」
「⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
板間が大きく軋む。身動ぎの音。富嶽の位置がずれた。――月を遮るように。そうして薄明かりに縁取られた富嶽の前半身は影となって、その影の中に白花はいた。見下ろす眼差しと見上げる眼差しは少しも途切れることなく、夜の静寂に横たわっている。軒下の虫の声も、すぐ側を流れる清水のせせらぎも、今ここにあってはひどく遠い。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯その⋯⋯」
消え入りそうな声は白花の唇から。
「悪いよ⋯⋯」
そっと逸れた視線にどれほどの意味があっただろうか。いくらもしないうちに富嶽の体温と匂いが近づいて、降ってくる吐息を肌で感じる。反射的に見開かれた白花の目に飛び込んできたのは、覆いかぶさらんとするほどの近さで自身を見下ろす富嶽の姿。
明るさも暗さも恐怖も安堵も、それら全てが、ただ至近にある男の存在を超えない。そう直感して、白花は呼吸を忘れた。
先程よりも強く絡んだ視線に富嶽の唇が柔く開いて、再び吐息。けれどそれはすぐに眉間と共に苦々しく歪められ、ちっと舌を打たれてしまった。
「⋯⋯この平和ボケが」
――なじられた。
そう呆気にとられる白花を置いて、富嶽は忌々しげに立ち上がる。それを追いたげに体を起こしかけた白花を、富嶽はすぐさま布団に押し戻してしまった。顔の全てを覆い隠すように、頭の上からずっぽりと。布団の中でじたばたもがくその様は、とても病人らしくはないだろう。子供じみた反応に何度目かの溜息をつきながら、富嶽は頭を掻き毟る。
「こう、今みてえに布団に潜り込んで目ぇ閉じてりゃ、そのうち朝が来るだろうが!」
「あっ。⋯⋯ああ〜⋯⋯そうしてほしかったの?」
布団の中で白花はぴたりと動きを止めた。
それからもぞもぞ蠢いて、ぐちゃぐちゃになった髪をそのままに布団から顔をのぞかせる白花の額には、つい先程乗せられたはずの湿った手ぬぐいがどこにもない。暴れているうちに布団の中に置き去りになったのであろう。髪を整える素振りも手ぬぐいを探す素振りもなく、ただ真っ直ぐ富嶽を見上げる。
そんな白花を、富嶽は呆れたように見下ろした。その視線を受けていっそう、嬉しげに白花は笑う。
「さっきのなら全然怖くも嫌でもなかったし⋯⋯富嶽でいっぱいだったから、月の明るさなんてどっか行っちゃった!」
僅かに乱れた夜着の隙間から覗く肌色さえ、年相応の柔らかな曲線さえ霞む、淑やかさも趣も色気もへったくれもないはずのそれに、富嶽の指先がぴくりと動いた。それに白花は気づかない。もっとも、いくらもしないうちに拳の中にきつく握りしめられ、隠されてしまったのであるが。
「俺を殺してどうすんだ。あんまりボケたこと抜かしてやがると、てめえの骨も残してやれなくなるぞ」
僅かばかりの抵抗と嫌味を吐き出したところで、
「え、なに⋯⋯? なんか言ってることめちゃくちゃじゃない⋯⋯?」
結局のところ暖簾に腕押し。いずれ至る着地点を思い浮かべて、富嶽は最後に月を仰いだ。
「私はそれが怖かったんだよね」
布団の中から顔だけを覗かせて、窓の隙間から差し込む明かりに目を細めて、白花は密やかな声で呟いた。
白花という女は、ウタカタの里のモノノフのひとりである。霊山より派遣され着任から一年あたり。それながら、『ムスヒの君』再来を思わせる八百万のミタマを宿す力によって見る見るうちに頭角を現し、今やウタカタ討伐隊の長を任されるほどとなった。
それほどの才を持つ身としては意外なことではあるが、彼女は鬼内でなく外様の、それもあずまの国の出身であった。――あずまの、生き残りであった。
あの頃は、と。女は語る。
「大型から小型まで色んな鬼に溢れかえって、もう夢中で逃げた。昼も夜もなくて⋯⋯そう、瘴気が溢れ出したばかりで異界化まではしてなかったんだけど、まず真っ先に空が綺麗に見えなくなって。ずうっと同じ色をしてた。明けることも更けることもなくなっちゃって」
疲れれば休み、動けるようになれば走る。身を隠して包み込んでくれる物陰だけを、親しく思ったのだと。
だから。
「⋯⋯だからどうにかそこを抜け出して、人の世界にたどり着いてからも、夜が明るいときは落ち着かなかったんだぁ⋯⋯あんなに綺麗なのにね」
ごろりと寝返りを打って、長く長く息を吐いた。それはまるで大きな荷物をおろした時のように。やっと言えた、という声なき声を、その場にいた『男』も恐らく感じ取っている。
板間が小さく軋む。衣擦れの音。白花が再び月明かりの方へと顔を出すと、大きな手のひらが伸ばされた。薄らと顔貌がわかる。いや、見えなくとも白花にはわかっている。富嶽の指は白花の前髪をちょいとかき分けて、汗の滲む額にしっとりと添えられた。
「⋯⋯上がっちゃいなさそうだな」
体温を確かめると、そっと離れていく手のひら。へへへと笑いながら、白花は顔の下半分を掛け布団に埋めた。
枕元の木桶の水は、人の体温よりも未だ冷たい。その中で泳いでいた手ぬぐいをいま一度すくい上げ、きつく絞ってやると、富嶽はそれを白花の額に乗せた。一瞬ぎゅっと瞑られた目がほっと弛緩する様を眺めながら、富嶽はただ何も言わず腕を組んでいた。
ただ、じっと白花を見ていた。
「ありがとね、こんな時間に様子見に来てくれて。あと話聞いてくれて。いつも朝早いのにさ」
「そうだな」
照れくさいのか遠慮しているのか、微熱によって様々な動作が緩慢になっている中、気持ち早口で白花はまくし立てた。肯定しながらも動く気配のない富嶽の様子を伺いながら、口をもごもごさせている。
「てめえがまず早く寝ろ」
「うん、でも⋯⋯」
「なんだよ」
「朝も昼もずっと寝てるから⋯⋯」
「そうか」
「⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
板間が大きく軋む。身動ぎの音。富嶽の位置がずれた。――月を遮るように。そうして薄明かりに縁取られた富嶽の前半身は影となって、その影の中に白花はいた。見下ろす眼差しと見上げる眼差しは少しも途切れることなく、夜の静寂に横たわっている。軒下の虫の声も、すぐ側を流れる清水のせせらぎも、今ここにあってはひどく遠い。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯その⋯⋯」
消え入りそうな声は白花の唇から。
「悪いよ⋯⋯」
そっと逸れた視線にどれほどの意味があっただろうか。いくらもしないうちに富嶽の体温と匂いが近づいて、降ってくる吐息を肌で感じる。反射的に見開かれた白花の目に飛び込んできたのは、覆いかぶさらんとするほどの近さで自身を見下ろす富嶽の姿。
明るさも暗さも恐怖も安堵も、それら全てが、ただ至近にある男の存在を超えない。そう直感して、白花は呼吸を忘れた。
先程よりも強く絡んだ視線に富嶽の唇が柔く開いて、再び吐息。けれどそれはすぐに眉間と共に苦々しく歪められ、ちっと舌を打たれてしまった。
「⋯⋯この平和ボケが」
――なじられた。
そう呆気にとられる白花を置いて、富嶽は忌々しげに立ち上がる。それを追いたげに体を起こしかけた白花を、富嶽はすぐさま布団に押し戻してしまった。顔の全てを覆い隠すように、頭の上からずっぽりと。布団の中でじたばたもがくその様は、とても病人らしくはないだろう。子供じみた反応に何度目かの溜息をつきながら、富嶽は頭を掻き毟る。
「こう、今みてえに布団に潜り込んで目ぇ閉じてりゃ、そのうち朝が来るだろうが!」
「あっ。⋯⋯ああ〜⋯⋯そうしてほしかったの?」
布団の中で白花はぴたりと動きを止めた。
それからもぞもぞ蠢いて、ぐちゃぐちゃになった髪をそのままに布団から顔をのぞかせる白花の額には、つい先程乗せられたはずの湿った手ぬぐいがどこにもない。暴れているうちに布団の中に置き去りになったのであろう。髪を整える素振りも手ぬぐいを探す素振りもなく、ただ真っ直ぐ富嶽を見上げる。
そんな白花を、富嶽は呆れたように見下ろした。その視線を受けていっそう、嬉しげに白花は笑う。
「さっきのなら全然怖くも嫌でもなかったし⋯⋯富嶽でいっぱいだったから、月の明るさなんてどっか行っちゃった!」
僅かに乱れた夜着の隙間から覗く肌色さえ、年相応の柔らかな曲線さえ霞む、淑やかさも趣も色気もへったくれもないはずのそれに、富嶽の指先がぴくりと動いた。それに白花は気づかない。もっとも、いくらもしないうちに拳の中にきつく握りしめられ、隠されてしまったのであるが。
「俺を殺してどうすんだ。あんまりボケたこと抜かしてやがると、てめえの骨も残してやれなくなるぞ」
僅かばかりの抵抗と嫌味を吐き出したところで、
「え、なに⋯⋯? なんか言ってることめちゃくちゃじゃない⋯⋯?」
結局のところ暖簾に腕押し。いずれ至る着地点を思い浮かべて、富嶽は最後に月を仰いだ。
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