Gの解法/“ M” clef

「ねえ、結局『G』って何?」
 登校日でもなく、課外授業もなく、互いに何の予定も入っていない日曜日。キッチンで洗い物をしている本日の昼食当番から飛んできた唐突な質問に、ソウルは読んでいた雑誌から顔を上げた。いつものエプロン、いつものツインテール。昼食当番もとい彼のパートナーのマカは、普段と変わらぬ様子で皿を拭いているように見える。
「何の話だよ……まさか出たのか、黒とか茶色の『アレ』が」
「そっちじゃないから。ほら、前に課外授業でさ。道化師の狂気攻撃を受けたでしょ」
 あぁ、とソウルは合点がいったように相槌を打った。
 キッド組・ブレアと共に向かった課外授業で相対した鬼神と同じ狂気を持つ道化師。退魔の波長を持つマカでさえも影響を受けた衝撃は記憶に新しい。その道化師の話と『G』とくれば、二人の思い浮かべる同じ景色は全く同じ赤と黒であるはずだ。ソウルの体内に混じった黒血がきっかけとなって生まれたブラックルーム。
 ソウルの視線は再び手元の雑誌に落ちて、けれど再び片付けへと向き直ったマカの目には映らない。
「……GはGだろ。『ソ』で『ト』で『ゲー』」
「えっなんて? っていうかそういうことが聞きたいんじゃなくて」
 狂気に染められかけたマカの魂をどうにか引き上げた先。ブラックルームのピアノでマカが選んだ一音が『G』。ドレミでいうところの『ソ』であり、イロハで表すなら『ト』、ABCをアーベーツェーと読むならば『ゲー』……というところなのだが、ソウルのその説明は当然ながらマカの望むところではないようだった。
「言ってたよね、マカらしいーとか」
 口元を歪めて音もなくついたため息は、やはりマカには届かない。
「音に「らしい」なんてあるの? なんかこう……性格診断みたいなのとか?」
 たとえば、と言いながらマカがあげたものは十二星座や血液型、誕生日の数字をバラバラにして足したり割ったりするものなど、ソウルにとってはあまり馴染みのない文化圏のあれこれだ。ソウルは目を丸くして、「お前もそういうの興味あったのか」と本心混じりの軽口を叩けば「知らないわけじゃないもん」と微妙にズレた答えが返ってくる。
 実家にいた頃も死武専に入ってからも、女子との交流こそゼロではなかったとはいえ、ソウルという男子を相手にそんな話題をわざわざ振ってくる相手はそうは居ない。それをまさかマカの口から聞くことになろうとは、とはさすがに言わなかった。
「それに、ソウルはわかりやすいって言ってたけど、わかりやすい音ならやっぱり『C(ド)』なんじゃないの?」
 スリッパのたてるかわいた足音は、キッチンからリビングへ。ソウルの対面に位置するソファへと滑り込んだマカの視線は真っ直ぐで、ソウルの眉間の辺りをじりじり焼いている。
 物事には時と場合、タイミングというものがあるとソウルは思っている。あの場でついするりと正直な感想が口をついて出たことも、そう。自然な流れがあっての事だ。ところが今と来たらどうか。勝手知ったる自宅のリビング、外では太陽がいつも通り鼻ちょうちんでも浮かべながら外壁を暖めているのだろう、微睡みが似合う穏やかな陽気で。奇しくももう一匹の同居猫が外出しているために二人だけという状況で、恥ずかしげもなく己の『マカ観』とでもいうものを本人に言えというのは、いささか思春期の青少年にはハードルが高すぎる。普段のソウルであれば早々に適当な理由をつけてトイレや自室に逃げたり、はたまた外をぶらつくことで有耶無耶にしてしまう類の話題ではあった。
 しかし。
(まあ、でも)
 こうしてマカと音楽にまつわる話をするのはいつぶりだろうか。ソウルの表情には苦々しさ以外のものも浮かんでいた。
 幼い頃から音楽に親しみ、演奏も鑑賞も好むソウル。一方芸術センスが残念と言われる部類で、好みの音楽ジャンルもソウルとはまるで合わないマカ。『自己紹介』がそれほど印象的だったのか、はたまた魂の波長を合わせるためのとっかかりのひとつであったのか。パートナーを組んでからしばらくは、ソウルに直接聞いたり図書室で本を借りてきたりと、マカなりのやり方で歩み寄りを見せていた……のであるが、いつしかぱったり途絶えてしまっていた。それどころか過敏に避けていた時期さえあって、その頃の喧嘩のタネ筆頭とも言えただろう。
 そんな事があったからこそ、近頃は音楽の話をすることは互いにかなり減っていた。幸いソウルはキリクやリズのように音楽の趣味の近い友人にも恵まれている。そこを敢えて苦手なマカに強いることもない――そういう落とし所はとっくにつけていた。マカの当初の動機は理解した上で、音楽が己の全てでは無いのだから、と。
 ソウルが広げていた雑誌を閉じて脇に置くと、ぴくりとマカの髪が跳ねる。
「お前、楽譜は?」
 無言で首を横に振るのをチラと目だけで確認しつつ、適当に手繰り寄せたメモパッドの上でソウルはペンを走らせる。真っ白な紙の上には五本の平行線。そのうちの1本にぐるぐると黒丸を描き加えると、マカの方へついと滑らせた。
「さて問題。これはなんの音でしょうか」
 マカの眉間に皺が寄った。緑の双眸の物言いたげな視線にもソウルは表情を変えず、「ん、」と顎をしゃくって答えを促すだけである。マカはなおも唇を尖らせるが、何も言い返すことなくもう一度紙上へと向き合った。
「……G……なんじゃないの、話の流れからして。……あーもう、わかんないに決まってるじゃん! で、答えは!?」
 と噛み付かんばかりに身を乗り出した。うまく上体を反らしたソウルはそこで少し口角を上げる。
「さあ? 何の音だろうな」
「は?」
 とんとん、とソウルの人差し指が軽くテーブルを叩く。両手の指の腹をつけるようにしたその姿勢は、ピアノの鍵盤を前にしている時とおなじものだ。
「ピアノにはこの両手の指より多い鍵盤があっただろ。でもこの五線譜に書けるのは……あ〜……、基本的には九音」
 線の上、線と線の間……と下から順にとんとんと人差し指が跳ねること九回。シャープやフラット、加線音符についてはひとまず省略し、メモパッドを己の手元へ引き戻す。
「……で、大抵ピアノの楽譜はこう」
 最初に書いた五本線の下に同じものを描き加えると、それぞれに『R』『L』と書き加えた。
「上が右手、下が左手ってこと?」
「ああ。もしこの状態で線と音階が対応してたら、せっかく両手があんのに限られた範囲の音しか使えねえ。もっと線が欲しくなる」
「でもそれって絶対見づらい」
「だろ? だからこいつに決めてもらう」
 五線譜の上にさらに何事かを書き込むソウルの方へとさらに身を乗り出していたマカであったが、ソファーから跳ね降りるとソウルの隣で腰をかがめた。書き終えたソウルが黙って横にずれると、ソファーの空いた隙間にそのまま滑り込む。そうして真正面に取り残された紙をそのままのぞき込んだ。
 右手用の五線譜にはぐるぐる渦を巻いた記号、左手用の五線譜にはハートマークを右半分だけにしたような記号が書き足されている。
「こいつが書き込まれてる時はここがピアノの中心のCで、」
 上の五線譜の下に短く線を書き加え、線上にぐるりと丸を書く。
「こいつの場合はここ」
 下の五線譜の上にも同じように線と丸を書き記す。
「これで表せる音域が広くなるってわけだな」
 ソウルの解説を聴きながら、マカは書き足されたCから始めの黒丸へと数えるように視線を動かしていく。右手用の五線譜の下から二番目の線を貫くそれは、
「じゃあ最初に書いた方の音は……やっぱりG?」
「そうなるな。ちなみに下の記号の方だったら低い『B(シ)』。つーことで、解説終了」
 やりきった、とばかりにソファの背に体を預けるソウルを、じとりとマカの視線が追いかける。
「……ねえ。煙に巻かれた気がするんだけど」
「ようやく気づいたか」
 ニヤリと笑う歯の隙間からくつくつと笑う声。不満げにぶすくれた表情を一瞬浮かべるものの、すぐにマカは破顔した。それに虚をつかれたようなソウルを見て取って、マカはさらに楽しげに鼻を鳴らす。
「ま、割と面白い話だったし。今日のところは許す!」
「あーゆーのが面白いのかよ……優等生の趣味はわかんねーな」
「うっさい。でも、いつかは聞かせてもらうんだから」
 二人同じようにソファーにもたれかかって、互いに顔を見合わせる。どちらともなく欠伸を漏らしながら、覚えてたらな、とソウル。忘れないでしょ、とマカ。
 いくらもしないうちに、リビングで発せられる音は時計の針が動く音と、二人分の寝息だけとなった。






 見知った屋敷の一室に、仕立てのいい服に身を包んだ少年が二人。いずれも記憶にあるよりだいぶ幼い姿をしていて、ソウルは僅かに目を細める。遠くのものを目をこらして見る時のように。あるいは眩しいものを見ようとする時のように。
「いいか、ソウル。俺たち演奏家が譜面の読み方を覚える上で最初に出会うのがこの『G clef(ト音記号)』だ」
 背の高い方の少年が、ピアノの脇に立って譜面を指さすと、低い方の少年が椅子から身を乗り出すようにその指を追った。手書きのメモではなく印刷された本物のバイエルの上、少年の人差し指によって指し示された記号は、ぐるぐると渦を巻いた形をしている。
「こいつの書き始め――そう、渦巻きのところだな。ここの線上にあるのがGの音になる。だから俺たちはこのGを基準に何音上か下かで譜面上の音を覚えていくんだ」
 そう、演奏家が譜面上で最初に認識する音。――右も左も目標も目的も。何一つ分からず不確かで中途半端な少年が、死武専で出会ったひとりの少女。その勇気。
 ポーン……と人差し指がその音を鳴らす。その音を鳴らすのはいつかのどこかの幼い兄弟ではなくて、ストライプのスーツに身を包んだ魔鎌の少年、ソウル・イーターだ。
「全く、よくできた話だよ」
「それで? お前はソイツを頼りに鍵盤を叩くだけか?」
 カーテンの影に浮かぶ横たわった三日月。否、ブラックルームのもう一人の住人の口が紡ぐ挑発的な言葉にソウルは「まさか」と笑った。
「あいつが迷っても立ち止まっても自分を思い出せるように、目印になってやるのも俺の役目なんでね」
 ぐるり、と楽譜の始まりに位置する記号を指でなぞると、「そうかい」とだけ言って小鬼は闇へと解けていく。
 座学の成績もよく、頭の回転も悪くない割に、いつでも真っ直ぐ体当たりに突き進んでいく自身の職人。何度でも立ち上がる胆力を持ち、けれど不器用な相棒。彼女の持つ『強さ』は、他でもないソウルの胸の中にとっくの昔に灯を点している。だから。
(これは俺の役目だ。せいぜい気張るさ)
 誰にともなく胸の内で呟いて、ソウルは鍵盤蓋をゆっくりと下ろした。
1/1ページ