錆びた灯火
学生の身分にある いたいけな少女にさせることでは無い、という内容の労働を強いられ、解放されたのは夜の9時であった。
空には欠けた月が登り、湿った空気が頬を撫でる。
震えているのは、寒さが理由では無かった。
先程からずっと震えが止まらない、とうとうこれ以上歩くことが辛くなって、高専敷地内の適当な道端にしゃがみこんだ。
小さく息をして、大きな感情の波が過ぎるのを待つ。
初めて人を傷付けた。
呪霊では無い、人間に攻撃して傷つけてしまった。何度も何度も殴り付け、血が飛んで、制服を派手に汚す。
あの感覚が手から消えない、離れない。
こんな思いをするのなら、全て諦めて死んでおけば良かったとすら思う。思考が極端な方へと向いているのを分かっていても止められない、私は人を殴りたくなんて無かった。
暴力なんてしたこと無い、奮われたことも無い、人を殴ることがこんなに怖くて痛いことだなんて知らなかった。
「やめて」だなんて、言われたくなかった。
私は、人を傷つけられる人間になってしまった。
怖い、怖い、怖い。
必死だった、仕方なかった、でもあんな…私が殴ったから、沢山殴って蹴ったせいで、私より弱いと判断されたから、あの人間は仲間に見捨てられて殺されてしまった。私の、目の前で。
自分の精神面が未熟なことは良く理解している、こんな程度のことで揺らぐようではこの先やって行けないなんてこと分かっている。
それでも仕方無いでしょう、だって私の元になった"私"は、ただの平穏で平凡な中学生だったのだ、こんな痛みなんて一生知る予定の無い人間だったんだ。
知りたくなんて無かった、ずっと何でも無い有象無象であれたのなら…。
逃げたい、私は呪術師に向いていない。あの人の妹を辞めたい、そして どこか遠くへ逃げて透明になって、それで…そうしたら…。
「ね、大丈夫?怪我してる?」
「ぁ」
突然掛けられた声に、反射的に顔を上げた。辺りは真っ暗だけれど、辛うじて判別出来る距離にある顔と、声でその人物が灰原くんだと分かった。
「泣いてるの?大丈夫?歩けない?」
隣にしゃがみこみ、私の背中を撫でながら質問をしてくる。
答えようとして、しかし喉が震えて上手く声にならずに終わった。涙は出ていないはずだけれど、泣いているように見える状態なのか。
なんとかしなければ、動かなければ、そう思えど身体からは逆に力が抜けていった。背中に添えられた手の温度を感じれば感じるほど、脚から力が抜けていき、とうとうペタリと膝をついてしまう。なんて無様なのだろうか。
「任務だった?」
「…うん、」
「そっか、お疲れ様。大変だった?」
「…人を」
灰原くんは優しく背中を撫でてくれながら、話を聞こうとしてくれている。言葉をつっかえながら、どうにか話そうとするも、上手く文章が纏まらずに喉の奥で止まってしまう。
人を……私は、人を…。目を背けたい真実を再び自覚し、灰原くんの優しさも相まって感情がグチャグチャになってく。目の奥が痛くなったと思った時には、涙が頬を伝っていた。
「わ、わ、わ、わたし」
「…大丈夫だよ、泣かないで」
「でも、こんなこと初めてで、どうしたら良いか…!」
「大変だったね、おかえり」
背中から掌が離れ、変わりに私の身体を覆うように横から灰原くんが抱き締めてきた。
とうとう決壊した涙腺は、ボロボロと大粒の涙を流す。喉がしゃくり上げ、顔を見られたくなくて、掌で顔を覆った。
「ずっと思ってたんだけどさ」と灰原くんが声を潜めて語り掛ける、私の頭に頬を寄せ、あやすように一定のリズムで身体を優しく叩いていた。
「僕も夏油さんに賛成、辛いなら戦わなくて良いんじゃないかな」
僕や七海が頑張るし、とちょっと明るい声でそんなことを言う。
……………そんなこと、言うな。
そう言ってしまいそうになるのを奥歯を強く噛んで止め、灰原くんの身体を押し退け無理矢理立ち上がった。
灰原くんには家族が居る。妹が居て、卒業した中学校の頃の友人が居て、名前があって、帰れる家がある。
…私には?私には、何も無い。何もかも無くなった、消えてしまった。どれだけ大切に思っても、どんなに願っても、私の人生は白紙なのだ。
この世界の人と同じになりたくて、そのためには…走って、走って、走って、走り続けてようやく、スタートラインに立てることを知った。
模範解答じゃ特別にはなれない、だけれど応用問題なんて難しくて解けやしない、あの人の妹と定義付けられた瞬間から、私はずっとずっと…あの人が誇れる妹であろうと努力してきたのだ。
でも、無理だ。
私は所詮平凡な人間であることからは変われなかった。
家族も世界も失ったのに、そんなものだけは残ってしまった。
戦場に立つ度、それを思い知らされる。分かっている、学んだ、理解した。私じゃ特別には並び立てない、どんどん一人になっていく兄を、高い所に置き去りにしたままにしか出来ない。届かないのだ、幾千の中の一に過ぎない私には。それでも、
「私から戦いを取ったら何も無い!!」
思うがままに、叫ぶように私は言った。
灰原くんに当たって、馬鹿みたいだ。いや違う、馬鹿なんだ。彼は何も悪くない、私が弱くて惨めなだけなの。貴方は何も悪くない、悪くないけれど、私の努力を「無駄だった」の一言に変えさせないで!
強くなりたい、でも戦いたくない、中途半端だから特別になれないのだ。
神様、どうして私を選んだの?
私じゃない、他の誰かが生き残れば良かったのに!
「何にも無い、何にも……この魂すら、紛い物なのに…」
これ以上、自分を失いたくない。
諦めたら楽なんて、そりゃそうだ。
でも、強くなければ五条悟の妹じゃない。
衝動的に思いをぶちまけた、ハァーッハァーッと獣のように息を荒げて、意味も無く地面を睨む。
「違うよ」
「違くなんて、」
「じゃあ僕は何!?」
立ち上がった灰原くんが私の肩を掴んだ。珍しく、怒ったような表情でこちらの瞳を覗きこみながら大きな声を出した。
「僕が居るよ、僕だけじゃ足りないなら七海も、僕達じゃキミの何かには なれないの!?そんなこと無いでしょ、戦いを取ったってキミには僕達があるよ!」
彼の瞳は真剣だった。
「そうでしょ?そうだって言って、僕の半分をあげたっていい、だから何も無いなんて言わないでよ…」
項垂れるように首が下に傾く。
「お願い…お願いだから、そんなこと言わないで」
最後に、小さく小さく願い請うと、灰原くんは再び私を抱き締めた。
兄さんにクチャクチャと羽交い締めにされるのに慣れると、他の人が見た目では小さく見えるようになってしまったが、灰原くんは普通に私より大きくて逞しかった、肉が硬い…男の子だなあ、と場違いな感情を抱く。
そうして、気づけば、「ごめんなさい…」と謝っていた。
(感情が)暴れて、落ち着けと抱き締められ……私は怒った犬か、ドッグトレーナー灰原…や、やだな…一気に恥ずかしくなってきた。
感情が一気に冷めていく、私はなんてことを言って、そして言わせてしまったのだろうか。
「も、もう大丈夫、離して…」
「駄目」
「暴れたりしないから、落ち着いたわ」
「やだ」
「えぇ……」
抱き締め返すのも何だかおかしくて、手をプラプラと下げながら溜め息を吐いた。
泣いたせいか、ストレスがだいぶ楽になった気がした。
灰原くんの腕の中で、段々と瞼が重くなってくる。ふと、帰って来るならここが良いな…と、そんなことを思った。
深い意味は無い。ただ何となく、灰原くんや七海くんが待つこの場所に帰って来れるのならば、それこそが私の価値なのかもしれない。
今日で、願うことは最後にしよう。
届かなくて良い、白紙の人生で構わない、私は友人を苦しめる私にはなりなくない。
「寝そう…」
「え、駄目だよ、お風呂入ってご飯食べて!」
「勘弁してくれませんか…」
「とりあえず戻ろう、寝ないで、頑張れ!」
手を引かれるままにダラダラと歩く。
「もし、本当に半分くれるなら」
「うん」
「もう半分は七海くんにしましょう」
「いいね、名案だ」
寮までの道、七海くんの権利を本人の許可無く半分頂く話をした。
…本当はね、ここまで迷わず帰って来れたのは二人のお陰なの。
あんなこと言ってごめんなさい、私だって二人のことが大好きよ、大切、ずっとずっと一緒に居たい。
だから、そのためには、やっぱり強くならなければならないのだ。
空には欠けた月が登り、湿った空気が頬を撫でる。
震えているのは、寒さが理由では無かった。
先程からずっと震えが止まらない、とうとうこれ以上歩くことが辛くなって、高専敷地内の適当な道端にしゃがみこんだ。
小さく息をして、大きな感情の波が過ぎるのを待つ。
初めて人を傷付けた。
呪霊では無い、人間に攻撃して傷つけてしまった。何度も何度も殴り付け、血が飛んで、制服を派手に汚す。
あの感覚が手から消えない、離れない。
こんな思いをするのなら、全て諦めて死んでおけば良かったとすら思う。思考が極端な方へと向いているのを分かっていても止められない、私は人を殴りたくなんて無かった。
暴力なんてしたこと無い、奮われたことも無い、人を殴ることがこんなに怖くて痛いことだなんて知らなかった。
「やめて」だなんて、言われたくなかった。
私は、人を傷つけられる人間になってしまった。
怖い、怖い、怖い。
必死だった、仕方なかった、でもあんな…私が殴ったから、沢山殴って蹴ったせいで、私より弱いと判断されたから、あの人間は仲間に見捨てられて殺されてしまった。私の、目の前で。
自分の精神面が未熟なことは良く理解している、こんな程度のことで揺らぐようではこの先やって行けないなんてこと分かっている。
それでも仕方無いでしょう、だって私の元になった"私"は、ただの平穏で平凡な中学生だったのだ、こんな痛みなんて一生知る予定の無い人間だったんだ。
知りたくなんて無かった、ずっと何でも無い有象無象であれたのなら…。
逃げたい、私は呪術師に向いていない。あの人の妹を辞めたい、そして どこか遠くへ逃げて透明になって、それで…そうしたら…。
「ね、大丈夫?怪我してる?」
「ぁ」
突然掛けられた声に、反射的に顔を上げた。辺りは真っ暗だけれど、辛うじて判別出来る距離にある顔と、声でその人物が灰原くんだと分かった。
「泣いてるの?大丈夫?歩けない?」
隣にしゃがみこみ、私の背中を撫でながら質問をしてくる。
答えようとして、しかし喉が震えて上手く声にならずに終わった。涙は出ていないはずだけれど、泣いているように見える状態なのか。
なんとかしなければ、動かなければ、そう思えど身体からは逆に力が抜けていった。背中に添えられた手の温度を感じれば感じるほど、脚から力が抜けていき、とうとうペタリと膝をついてしまう。なんて無様なのだろうか。
「任務だった?」
「…うん、」
「そっか、お疲れ様。大変だった?」
「…人を」
灰原くんは優しく背中を撫でてくれながら、話を聞こうとしてくれている。言葉をつっかえながら、どうにか話そうとするも、上手く文章が纏まらずに喉の奥で止まってしまう。
人を……私は、人を…。目を背けたい真実を再び自覚し、灰原くんの優しさも相まって感情がグチャグチャになってく。目の奥が痛くなったと思った時には、涙が頬を伝っていた。
「わ、わ、わ、わたし」
「…大丈夫だよ、泣かないで」
「でも、こんなこと初めてで、どうしたら良いか…!」
「大変だったね、おかえり」
背中から掌が離れ、変わりに私の身体を覆うように横から灰原くんが抱き締めてきた。
とうとう決壊した涙腺は、ボロボロと大粒の涙を流す。喉がしゃくり上げ、顔を見られたくなくて、掌で顔を覆った。
「ずっと思ってたんだけどさ」と灰原くんが声を潜めて語り掛ける、私の頭に頬を寄せ、あやすように一定のリズムで身体を優しく叩いていた。
「僕も夏油さんに賛成、辛いなら戦わなくて良いんじゃないかな」
僕や七海が頑張るし、とちょっと明るい声でそんなことを言う。
……………そんなこと、言うな。
そう言ってしまいそうになるのを奥歯を強く噛んで止め、灰原くんの身体を押し退け無理矢理立ち上がった。
灰原くんには家族が居る。妹が居て、卒業した中学校の頃の友人が居て、名前があって、帰れる家がある。
…私には?私には、何も無い。何もかも無くなった、消えてしまった。どれだけ大切に思っても、どんなに願っても、私の人生は白紙なのだ。
この世界の人と同じになりたくて、そのためには…走って、走って、走って、走り続けてようやく、スタートラインに立てることを知った。
模範解答じゃ特別にはなれない、だけれど応用問題なんて難しくて解けやしない、あの人の妹と定義付けられた瞬間から、私はずっとずっと…あの人が誇れる妹であろうと努力してきたのだ。
でも、無理だ。
私は所詮平凡な人間であることからは変われなかった。
家族も世界も失ったのに、そんなものだけは残ってしまった。
戦場に立つ度、それを思い知らされる。分かっている、学んだ、理解した。私じゃ特別には並び立てない、どんどん一人になっていく兄を、高い所に置き去りにしたままにしか出来ない。届かないのだ、幾千の中の一に過ぎない私には。それでも、
「私から戦いを取ったら何も無い!!」
思うがままに、叫ぶように私は言った。
灰原くんに当たって、馬鹿みたいだ。いや違う、馬鹿なんだ。彼は何も悪くない、私が弱くて惨めなだけなの。貴方は何も悪くない、悪くないけれど、私の努力を「無駄だった」の一言に変えさせないで!
強くなりたい、でも戦いたくない、中途半端だから特別になれないのだ。
神様、どうして私を選んだの?
私じゃない、他の誰かが生き残れば良かったのに!
「何にも無い、何にも……この魂すら、紛い物なのに…」
これ以上、自分を失いたくない。
諦めたら楽なんて、そりゃそうだ。
でも、強くなければ五条悟の妹じゃない。
衝動的に思いをぶちまけた、ハァーッハァーッと獣のように息を荒げて、意味も無く地面を睨む。
「違うよ」
「違くなんて、」
「じゃあ僕は何!?」
立ち上がった灰原くんが私の肩を掴んだ。珍しく、怒ったような表情でこちらの瞳を覗きこみながら大きな声を出した。
「僕が居るよ、僕だけじゃ足りないなら七海も、僕達じゃキミの何かには なれないの!?そんなこと無いでしょ、戦いを取ったってキミには僕達があるよ!」
彼の瞳は真剣だった。
「そうでしょ?そうだって言って、僕の半分をあげたっていい、だから何も無いなんて言わないでよ…」
項垂れるように首が下に傾く。
「お願い…お願いだから、そんなこと言わないで」
最後に、小さく小さく願い請うと、灰原くんは再び私を抱き締めた。
兄さんにクチャクチャと羽交い締めにされるのに慣れると、他の人が見た目では小さく見えるようになってしまったが、灰原くんは普通に私より大きくて逞しかった、肉が硬い…男の子だなあ、と場違いな感情を抱く。
そうして、気づけば、「ごめんなさい…」と謝っていた。
(感情が)暴れて、落ち着けと抱き締められ……私は怒った犬か、ドッグトレーナー灰原…や、やだな…一気に恥ずかしくなってきた。
感情が一気に冷めていく、私はなんてことを言って、そして言わせてしまったのだろうか。
「も、もう大丈夫、離して…」
「駄目」
「暴れたりしないから、落ち着いたわ」
「やだ」
「えぇ……」
抱き締め返すのも何だかおかしくて、手をプラプラと下げながら溜め息を吐いた。
泣いたせいか、ストレスがだいぶ楽になった気がした。
灰原くんの腕の中で、段々と瞼が重くなってくる。ふと、帰って来るならここが良いな…と、そんなことを思った。
深い意味は無い。ただ何となく、灰原くんや七海くんが待つこの場所に帰って来れるのならば、それこそが私の価値なのかもしれない。
今日で、願うことは最後にしよう。
届かなくて良い、白紙の人生で構わない、私は友人を苦しめる私にはなりなくない。
「寝そう…」
「え、駄目だよ、お風呂入ってご飯食べて!」
「勘弁してくれませんか…」
「とりあえず戻ろう、寝ないで、頑張れ!」
手を引かれるままにダラダラと歩く。
「もし、本当に半分くれるなら」
「うん」
「もう半分は七海くんにしましょう」
「いいね、名案だ」
寮までの道、七海くんの権利を本人の許可無く半分頂く話をした。
…本当はね、ここまで迷わず帰って来れたのは二人のお陰なの。
あんなこと言ってごめんなさい、私だって二人のことが大好きよ、大切、ずっとずっと一緒に居たい。
だから、そのためには、やっぱり強くならなければならないのだ。