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七海が犬を飼ったよ

カバーが破れっぱなしの椅子に脚を組んで腰掛け、今しがた読み終わった文庫本をパタリと閉じて表紙を指先でなぞる。
読んでいた本のタイトルはカーソンの「沈黙の春」だ。海洋生物学者の作者が書いた地球の環境に纏わる本、歴史を変えた20世紀のベストセラーの一つ、環境学の入門書としてはこれ以上無い程に読みやすく知識の深まる一冊だ。

人間が汚染した環境、いずれ自然は我等人類へ逆襲をするだろう。
そうしていつか、世界には沈黙の春がやって来る。

それはきっと静かな春だ、汚染された土壌から育まれた水分で育った草花で満ちた、人間の残した悪しき爪痕の残る、静寂の春。
そんな春が早く来れば良いと私は思う。

人類はあまりに増えすぎた、毎日何処かで人が死ぬ。それはきっと、特別なことでは無い。
病気で、寿命で、事故で、戦争で、自殺で、人は簡単に死ぬのに、数は減らない。
それどころか、呪いは今も増え続けている。

右手の指先に止まる、暗い青緑色の美しい蝶、アオバセセリを見つめて口を開く。

「非術師だから全員殺害するなんて、なんだか勿体無いですね」

鋭い瞳で仏のように微笑みながら、理想を語った男を視界から外して蝶と戯れる。
アオバセセリ、アカマダラ、ルリシジミ、カラスアゲハ。
この世の美しい蝶達。
パタパタと不規則な飛び方で私の周りを飛び回る蝶を笑みを浮かべて愛でながら、話半分でスカウトに来たらしい呪詛師の言葉を聞く。
非術師が呪いを産む限り、呪いは消えない。
呪術師がどれだけ平和に貢献しようと、非術師は関係無く生きていく。
まるで吐き出した吐瀉物の処理をさせられているようだ、しかしその行為は、どれだけしようと評価されることは無い。
それどころか、呪いが見えるからと社会から迫害される。
非術師には生きる価値が無い。

五条袈裟を身に纏い、口元に優しい笑みを貼り付けて耳障りの良い声でツラツラと語る男は、仏のような見目をしていようとも語る内容はあまり平和的では無かった。
独善的とでも言えば良いのか、しかし理には叶っているので一概に可笑しいとも言えない。


はじめて人を殺めてから半年以上が経過した、私はあれから、今まですれ違う事すら無かったような人間との様々な出会いを経験した。
そうして分かったことの一つとして、人間は自分勝手な生き物であることを学んだ。
人間は自分の都合で戦争を起こし、自分の都合で平和を守る。
この世から争いは無くならないし、絶対的平和な時代など来やしない。

例え呪いが消えようと、完璧な世界になることはあり得ない。

呪いが消えたら何と戦う?決まっている、より激しく人間同士で殺し合うのだ。
非術師が世界から消えようと、どうだろうと。

「夏油さんは、非術師が居なくなれば…完璧に近い世界が来ると思ってらっしゃるんですか?」

指先で羽を休めるカラスアゲハへ微笑みながら、私は自分の気持ちを偽ること無く言葉にする。

「呪術師だって人間なのに?呪術師だけが特別って、それって「お世辞」と「希望」でしょ?」

非術師がこの世から居なくなれば、夏油さんが…呪術師が息をしやすい世界が来るかも。
そうしたら呪霊も消えて、世界は輝き出す、かも…なんて、


「残念だけど、それはあり得ない」


答えを口にした瞬間、空気が張り詰めた。
羽を休めていた蝶達が一斉に羽ばたき、ただの呪力となって宙へ溶けるように消えていく。

何も居なくなった指先を畳んで、脚を組み換え、再び口を開く。

「呪いが見えていようと、呪術師だろうと、醜い人間は醜い」

世界を変えたいのならば好きにすれば良い、ロザリオ握り締めて宗教家になるも良し、化粧品工場の前でデモをするも良し、環境活動家にでもなれば良い。つまりはそれらと同じだ、理想を語る人間は、理想の先に都合の良い結果しか見ていない場合が多い。
狭まった視野では見逃すこともある、例えば、私みたいな人間が存在することとか。

「私は、私が美しいと感じる人間だけを尊重し、美しい者だけが重んじられていればそれで良いんです」

醜い人間は必要無い、呪術師だろうと呪詛師だろうと非術師だろうと、老若男女問わず、私は美しい人間だけを尊ぶと決めた。
妖精のように美しく、優しかった母と同等の価値を見出だした人間以外を、私は敬わない。

私の目的と夏油さんの理想はあまりに違いすぎる。
そう、私の最終目標は…

「全ての醜い人間の魂と肉体を分離させること」

私による、私のための世界に対する強制的美化活動。
自然が人類に逆襲する前に、私が間引きをしておいても良いだろう。
だって醜い人間は、美しい人を不幸にするのだから。

このやり方を傲慢だと憤りたければ好きなだけ憤れば良い。
人間は理由が無くとも生きられるのかもしれない、でも私には無理だった。
だから狂っていようと、破綻していようと、無理矢理に目的を作った。母と生きることが叶わないのなら、母を尊重出来ない分、同じ価値を他者に見出だせば良い。

きっと、私は未熟者だ。

大人は現実と折り合いを付けて生きることが出来る、足掻いて、諦めて、強がるのをやめて、自分の心と人生を平坦に均して生きていくやり方を成長していく過程で経験して、気付きを得て、理解する。
私は、その域に達するには成長も時間もが足りなかった。
書を読み、他者の人格を時間をかけて整理して、そうやって足りない部分の穴埋めをして、大人になろうとした。
大人として生きようとした。

でも無理だった。
生きることはあまりに大変だ、だからこれは、大変で辛い現実から目を背けるための目眩ましの方法。

高い理想や大きな使命は、自分の存在価値に疑問を抱かなくて良いまやかしになる。

きっと己の価値に自ら正しい値段を付けた時、私は本当に壊れてしまうだろう。
だからこれで良い、これが正解だ。
狂っていなければ、この世界で息をしてはいけないのだから。

手の平に呪力を込めて、握りこむ。ゆっくりと、指をほどくように広げていけば生み出されるは可憐なる宝石の羽。
コノハチョウ。近年、森林開拓などの影響で数が激減している準絶滅危惧種の蝶である。

「人間より、美しい蝶達が幸せに生きられる世界にしたい」

醜い人間の変わりに、美しい蝶が飛び交う世界ならば、きっと私は心から世界を愛せるだろう。

「活動化の真似事かい?」
「あの人達は言うだけ、私は違いますよ。ちゃんとこうして醜い命を美しい命へと変えている、行動している」

私をスカウトしに来たであろう目の前の男、夏油傑は私の言葉に苦笑を漏らした後、椅子から立ち上がって「また話に来るよ」と部屋を後にした。
遠ざかる足音に、少しだけ安堵の息を漏らす。



目を瞑れば目蓋の裏には淀みの無い幸せな記憶が浮かび上がる。
夕陽の差す部屋で、母が歌を唄いながら洗濯物を畳んでいる。私は何度も記憶を反復させる、色褪せないように、忘れないように。

私の年齢で身体を売れば、それはブランド品だ。
青い春が与える快楽には高値が付く、身体を売って生きる方法もあった、しかし私は人を殺して生きる道を選んだ。

まともな人間は、人が人を殺すことに精神が耐えられない。

結局私も狂気の域には達していない人間だった、だからこうして破壊された幸せだった頃の風景を思い出して、この日常が醜い人間…父とその愛人によって奪われたことを再確認することで、憎悪を途切れさせること無く、憎しみを原動力にして戦い続けている。

瞳を開き、何も無い寂れた部屋を眺めた。
床に無造作に積み重なった本と、空のペットボトルが二本だけ転がっている寂しい部屋だ。

明日になったらこの部屋から別の部屋へ移動しよう。
長く留まることは、特定されるリスクを伴う。もう半年、精神を張り詰めたまま憎しみを抱えて走り続けるような、明るい昼空の下を歩けない生活を続けている。
表では、私は行方不明者だ。
裏では、殺人鬼。
そして、呪術を知る者達の中では呪詛師の扱いを受けている。

一体いつまで……と考えた所で意識を反らす。
弱音や疲れに気付いてはいけない、立ち止まったらきっと二度と歩けない。
振り返ったら、終わりだ。

何も無い、すきま風が入りこむ部屋の椅子の上で膝を抱えて丸まった。

少しだけ寝よう。
起きたらきっと、明日こそ素晴らしい朝がやって来る。
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