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七海が犬を飼ったよ

街灯も照らさぬ月の下、夜の冷たく乾いた風が少女の髪をフワリと撫でた。

背後から近付く荒い息が湿気った空気を濁す。


人間には、「自己保存の本能」という「生きたい」という本能が存在する。これは、細胞レベルで働く動物であれば当然のように存在する生存本能だ。
この本能にはルールがある、「生きていくためには自分を守らなければならない」というものだ。これは防衛本能へと繋がる。
だが一方で、「生存のためには闘わなければならない」という命令も脳は発する。

生存本能は、生命が抱く最も根源的欲求。

知性の無い生き物にすら備わる、原始の時代から続く抗うことが出来ない欲求。

人は追い詰められた時にこそ力を発揮する。



少女は振り返る、しかし俯いたままだった。
未だ1m以上程離れた場所に居る男の足元を夜と同じ深く黒々とした瞳で見つめる。

なんだこれは、どうして、どうして、私はこんな人間に追われているんだ。


絶望により思考は暗み、負の意識へと切り替わった。


汚い臭いだ、汚い身体だ、醜い、腐りきった汚い魂。
命は平等?生きていくことは素晴らしい?

そんなものは、お気楽な生き方しか知らない馬鹿の吐いた妄言だ。

見よ、この薄汚い人間を。
こんなものがあの妖精のように美しい母と同価値だと?そんな訳が無い。
そんなこと許せない、許さない、許して良い訳が無い。

母と同じ価値を持つ人間の命だけが平等に尊ばれれば良い。
それ以外の汚い人間は死んで構わない。

私も、お前も

「平等に死ねばいい」


逆手に持った包丁の刃が月明かりで鈍く輝いた。
その輝きを最後に、男は突如、息も出来ない程の風圧を感じ、その後腹を、否、全身を貫く衝撃に襲われた。
夜の道に撒き散らされる血と臓物。悲鳴すら挙げることを許されずに数m吹き飛び、頭が地面に叩きつけられた頃には絶命していた。

アスファルトは抉られたようにひび割れ破壊され、未だ男が立っていた場所には熱か衝撃か、空間に歪みが生じている。

包丁を持った腕をダラリと垂れさせ、少女はゆらりと顔を上げて道の先を見つめる。
光の灯らない瞳に涙は無い。
その少女を覆うように、抱き締めるように、黒く大きな蝶の羽が身体に触れた。

「…お母さん、一緒に生きようね」

蝶の羽にそっと触れながら、少女は小さく呟いて夜の晦冥へと消えていった。


翌日、ニュースには少女の失踪と、男の惨殺死体のニュースが報道された。
世間は3日もすれば事件を忘れていく、男を弔う人間が居ないことと同様に、少女のことを心配する者もこの世には居なかった。
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