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七海が犬を飼ったよ

段々と肩を切る風に寒さを感じるようになって来る頃、集団幻覚から覚めぬ大人達の計らいにより、少女には今暫く精神の健康を優先させる運びとなった。

優しくされること、甘やかされることに罪悪感を抱く少女は一人、朝晩に七海から許されている外出範囲にて、肉体を鍛えるためストイックにトレーニングに励んでいた。
朝はご飯を食べたら走り込み、基礎トレーニングをする。夜は入念な柔軟体操と木刀の素振り、仮想敵を脳内に描きシャドーボクシングなども行う。
その合間を縫って家事を行い、七海の帰宅後は「愛犬」として癒しをご提供。休めと言われたが休む暇など無い生活リズムを自らに課している。

そのため、七海は定期的に飼い主の務めとして少女を強制的に休ませている。
「今日はゆっくりしていなさい」と七海に真面目な声で言われてしまえば、少女は「はい」と答える他に無かった。大人の言うことは聞いておくべきだと判断しているためである。

さて、前日に「明日はゆっくりしていなさい」命令が発令された少女は翌日、いつもよりやや遅い時間に目を覚ましベッドから出た。
「ゆっくりしていなさい」の日はご飯の担当も少女では無い、掃除や洗濯も七海がする。唯一やることと言えば、オリーブの木に水をやるくらいだ。
寝惚け眼を擦りながら洗面台へ行き、顔を洗って歯を磨く。
部屋へ戻りクローゼットからブラウス、スカート、靴下を取り出しパジャマを脱いで着替え、髪を簡単に説かせば身支度は終了だ。

元々料理が趣味である七海の作る朝食は整っていて、尚且つ美味しい。
少女は朝食に期待をしながらリビングへと続く扉を開いた。



「おはようございます、七海さん」
「はい、おはようございます」

挨拶をすれば当たり前に挨拶が返ってくる生活に密かな喜びを感じながら、キッチンへ向かい飲み物の用意をする。
ティーポットを手に取り、ポットからお湯を注いで一度置く。
茶葉や珈琲豆等が並ぶ棚を開いて眺め、チラリと振り返り七海の調理風景を見やれば、綺麗なスパニッシュオムレツが出来上がりそうなのを見て茶葉を決めた。

H.M.Bにしよう、美味しい朝食と美味しい紅茶には魔法がかかっているのだ。

温めたポットからお湯を捨て、ティーメジャーで茶葉を計り投入する。しっかり沸騰したお湯を茶葉がジャンピングしやすいように勢い良く注ぎ、すぐに蓋をして4分蒸らす。
カップにも同じようにお湯を注ぎ、ミルクの用意をして少女が待っていれば、七海の方も朝食の調理が終わったらしく、カトラリーを並べ始めた。

テーブルに並べられていく料理はどれも出来立てで、見ているだけで少女の頬は緩んだ。
リーフサラダ、スパニッシュオムレツ、ウインナー、コンソメスープ、バケット。
そして淹れたての紅茶。

席に着き、いただきますの挨拶をして手を付ける。
レモンベースのドレッシングが掛かったリーフサラダは、酸味がサッパリとした爽やかな味わいを感じさせる。
口に入れた葉のものを一度飲み込んでから、「美味しいです」と伝えれば、七海も食事を飲み込んでから「それは何より」と返した。

ふわふわしたまだ熱いオムレツをふぅふぅと冷ましつつ口に運ぶ、優しい味付けながらも、ジャガイモやトマトの入った食べごたえのある食感にモグモグと咀嚼を繰り返す少女の様子を眺めていた七海はやや思考した後に口を開いた。

「そろそろ冬物が必要ですね」
「冬物…」
「衣服です、コートもマフラーも無かったでしょう」
「………その、えっと…」

少女は記憶を思い返す。去年の冬に着ていた物があったような……そのことを思い出し、尋ねようとするも七海に先を越された。

「あれはもう着れないでしょう、論外ですので」
「そんな…まだ着れますよ?」
「生地が傷んでいたでしょう、それに丈もあっていない」
「……でも、もう沢山買って頂いてますし…」

少女は自らの身を見下ろして言葉を詰まらせた。
貝ボタンがついた白いブラウス、臙脂色のコルセットスカート、靴下もスリッパも、全て七海に買って貰った物である。
他にも、シャンプーやヘアピン、箸もマグカップも、全て。
七海が選び、買い与えた物を使って生活をしている少女は常に申し訳無い気持ちを抱いていた。

だがしかし、七海からすれば収入源の無い未成年に自分で買えと言い捨てるつもりはさらさら無かった。そもそも飼い主は自分である。飼い犬に物を無条件に与えるのは当たり前……という認識である。この飼い犬と飼い主の関係図を七海は幻覚バグにより信じきってしまっているため、彼の脳内にはツッコミが必要であるのだが、悲しいかな、現在彼に関係の見直しを提案する人は居なかった。
なんなら、少女を前にすると皆揃って「うわ~!可愛いねえ~!(愛くるしい子犬を見た時の悲鳴)」状態となるため、誰も彼もが揃ってバグる。
皆バグってる、この世は多数派を優先する社会だ、バグってる人間の方が多いならば、そちらが正常となり意見は有利となる。
つまり七海の対応は周りから「正常」と太鼓判を押されていたのだった。

「今日は防寒具を買いに行きましょうか」
「出世払いします……」

七海目線だと、愛犬の服を楽しく選んでいる状態なのだが、少女からすれば「そろそろ勘弁して欲しい」状況であった。
何せ七海の元に来るまで暫くは粗食に耐える生活を強いられていたのだ、精神に貧乏性が根を張っている。
服などある程度清潔で、あとは着れれば正直何でも良い、食事も腹を壊さなければまあ良し。
だから万単位の服を買われても目がクラクラしてしまうだけであった、七海の手前、似合うと褒められれば喜んで見せるが、内心は全く喜べなかった。お金が沢山あると怖い、少女は根っからの小市民である。


朝食を終え、洗い物や洗濯、掃除その他細々としたことを終わらせ、休息を挟んだ後に昼食がてらショッピングへ向かうこととなった。
ブラウスだけでは寒いと思い、カーディガンを羽織ろうとクローゼットを開いた少女は、そういえば洗濯に出してしまったのだと思い出す。二つある内の一つは洗濯に、もう一つは……。

「…まだ穴塞いで無かった」

買い出しに行った際、呪霊を引き寄せてしまい、それを祓っている時に穴を開けてしまったままであった。
やや悩んだ後に、縫う時間を貰えないか打診しようとカーディガンを掴み七海の元へ向かう。気分は粗相をしてしまった犬のようだった。

支度を整え終えて読書をしている七海へ、おずおずとカーディガンを広げながら穴を縫いたいことを伝えれば、七海はやや悩んだ後に「待っていて下さい」と一言残して自室へと向かった。

リビングに一人、ポツンと取り残された少女はカーディガンを握り締めたまま立ち尽くし、七海の置いていった本に手を取りタイトルを読む。

「いぬの気持ち……」

やっぱり七海さん疲れてるんだなあ…私をワシャワシャすることで疲れが取れるならば存分にワシャワシャさせてあげよう……。少女はそう思いながら何も見なかったように本を元あった場所へと戻した。

「お待たせしました」
「あ…ありがとうございます、これは……」
「ストールです」

大きめのストールを肩に掛け、ブローチピンで留める。一連の行動をし終えた七海は満足そうに少女を上から下まで眺めて一人「良し」と呟いた。
うちの子が寒くて悲しい思いをするなど飼い主として許しはしない、そんな確固たる意思を秘めた「良し」であった。


荷物を持ち、玄関へと向かう。
休日、愛犬とのショッピング。なんて理想的な大人の休日だろうか。

七海の幸せな幻覚はまだ覚めない。
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