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七海が犬を飼ったよ

小さな頃、人並みに夢があった。

「誰かを笑顔に出来る人になりたいな」と、テレビの中で輝くアイドル歌手を見て憧れた時もあったし、「人を助けられる仕事に就きたいな」と、医者や看護師になりたいと作文に書いた時もあった。


将来への夢や希望に溢れた幼少期は、紛れもなく私の人生で、私が一番輝いていた時期であっただろう。


私の家族は父と母だけ、母は優しくて愛らしくて可憐な人だった。
父は厳しい人で、でも母や私のことをちゃんと考えてくれている人だと思っていた。
思っていたかった。
そうであれと願っていた。
ずっと私は勘違いをしていたのだ。
完璧な幸せなんて存在しない、私がそれを理解したのは12歳の頃だった。


病気を患った父が死んだ後に残ったものは何も無かった。
いや、高額の治療費を請求する書類だけが残された。
2000万の借金、母と娘。
憂いの無い、幸せだった時間は父の死と共に呆気なく終わりを迎える。
父には愛人が居たらしい、その人に沢山お金を使っていたと、だから父の貯金はすっからかん。

私を育てるため、共に生きるために、美しく純真さを抱えた妖精のような母は夜の仕事へ出ることとなった。
窶れていく母、胸の開いた服、強い香水の香り、睡眠導入剤の多用、酒に焼けた声、涙を流して苦しみの呪詛を吐く母、知らない男、払えない家賃、溜まったままの食器、積もる埃、謝りながら私を抱き締める母。

給食にパンが出た日は必ず半分持ち帰って、その日の晩御飯に食べた。
毎日二食、朝は食べない。お弁当が必要な行事の日は貯めておいたお年玉で、誕生日には何もねだらない、サイズの小さくなった靴を無理矢理履き続けて、学校に内緒で地域の牛乳配達の仕事をちょこっとだけして、そうやって、沢山沢山我慢して犠牲にして頑張って生きて、中学を卒業したら高校には行かずに夜の仕事だって何だって就職してやろうと覚悟を決めて、借金を返したら一から全てやり直すんだって生きていた時に、母が飛び降りてしまった。


居間のテーブルの上に置かれた遺書には、「一緒に生きてあげられなくてごめんなさい」とか細い字で小さく短く書かれていた。

その日は、家賃の支払日だった。


救急車やパトカーのサイレン、暇な野次馬が集まる、シャッターの音が何処かから聞こえた。
私は警察や病院や何やらで時間を使った後に、親戚が居ないからと担任の先生に書類等をお世話になった。
感情の整理も出来ないまま、長い一日が終わり、家に一度帰って、私は引き出しに貯めておいたお金から家賃分の金を茶色の封筒に納めると、遺書が置いてあった場所に変わるように置いて、残りのお金とリュックサックを持って家を出た。

母が死んだ、飛び降りて。
一人、私を残して天に旅立った。
無責任とは言うまい、しかし、この数年間は一体何だったのだろう、私の頑張りは無意味で無価値な物だったのか。
悲しみよりも、途方も無い虚無感が私を包み込む。

宛ても無く朝まで電車を乗り継いで、知らない街をひたすらに歩いた。
死に場所を求め探し歩いた。


お母さんが市役所に何度も行っていたのを知っている。
生活保護を受けられないかと申請に行っていたのだ、でも三回、三回共に「働けますよね?」と言われて追い返された。
窶れた身体で私を抱き締めて、ポロポロと涙を流す母を抱き締めて、「大丈夫 一緒に生きようね」と励ました。

もう、一緒に生きる約束をした母はいない。


知らない街を歩き、疲れて眠くなった私は、小さな公園の汚れたベンチに座って浅い眠りについた。
起きたら、もう少し移動して、そうしたら丈夫な木を見付けよう。
包丁とロープを入れたリュックサックを守るように抱き締めて、何も考えないようにしながら静かに意識を夢の中へと沈めた。



薄っぺらな夢を見た。
父が居て、母が居て、テーブルの上にはホールケーキとご馳走があって、チョコプレートに私の名前が書いてある。
「お誕生日おめでとう!」母が私を嬉しそうに抱き締めて優しく麗らかに笑ってくれた。
父が大袈裟だと言いながらも私の頭を撫でてくれた。
私の頭を、肩を、胸を、腹を……。



身体をまさぐられる感覚で意識が急速に覚醒していく。

違和感に目を開けば、私の胸を鷲掴み、息を荒くする汚くて苦く臭う男が至近距離に居たのだ。
人は本当に恐怖すると悲鳴も出ない、気が動転して身を固める。
そうすれば、男はニタリ…とガチャガチャで黄色い歯が見えるように笑った。
不快感とおぞましさに身を震わせながら、私は慌てて身を捩る。脚をでたらめにバタつかせて腕を振れば、どれかが男の身体にぶつかったらしく一瞬怯む。
その隙を見てリュックサックを掴んで、転がるようにベンチから距離を取って走り出した。

辺りはいつの間にか真っ暗で、何処が道で、いずこへ走っているのか分かりゃしない。

後ろからは、男の叫ぶような怒号が夜闇を裂くように聞こえてくる。

暗くて、恐ろしくて、気持ち悪くて、怖くて堪らない、疲れの抜けない身体で必死に夜の暗い道を走る。
何が何か分からない、土地勘も無い場所で追われているうちに気付けば、人気の無い場所へと私の足は向かっていた。

私は、深い後悔をする。


もっと早くに死んでいれば良かったと。


母が本当に欲しかった言葉は、「一緒に生きようね」じゃなくて、「一緒に楽になろうか」だったんだ。
私の存在は、言葉は、気持ちは、母を長く苦しめていただけだったのだ、あの人はずっと前から生きたくなんて無かったのに、私が、私のせいで、母は生きなければならなかった。

生きることが正解だなんて誰が決めたんだろう、少なくとも、母が生きることは私が決めて良いことじゃ無かったのに、ずっとそれに気付けなかった。
心まで美しいあの人は、娘の言葉で生きるしか選択肢が無かったのだ。
人生の選択を狭めていたのは私だ。
母を苦しめていた一番の理由は私だ。
私が、私こそが、母の生を呪っていたのだ。


気付けば、足は止まっていた。
リュックをその場に捨て、両手で包丁を手が白くなるくらい強く握り締める。


恥知らず、私が望んだ幸せ、一つも、一つも、叶わない。
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