番外編
我が親愛なる生徒、真人くんに誘われ(もとい、拉致され)連れて来られた先は、南国リゾートと見粉う程の澄み渡る空と延々に続く海で青く染められた地であった。
マンションの扉を潜った先に用意された穏やかな潮風を浴びながら、私は務めて冷静にアロハシャツなんぞを着ている男に声を掛けた。
「お宅の教育どうなってるの?」
「私のせいにされても困るな…あ、親権あげようか?」
「世界で一番いらない」
横目で睨めば、無言でにこやかに微笑まれたので、私もそれ以上は何も言わなかった。
真人くんに手を引かれ、砂浜から海水の方へと歩いて行く。靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、スカートの裾に注意しながら海に素足を浸せば、足先から感じる冷たさに思わず声を挙げてしまった。
「つめたっ」
「先生冷たいの駄目?」
「熱いのも冷たいのも嫌いだね」
「って言いながら楽しそうじゃん」
まあね。
海なんて一体何年ぶりだろうか、正直な気持ちを言えば、少し興奮している。例え外見年齢が16歳から変わっていなくとも、年甲斐も無くはしゃいでしまうのはみっともないと思い感情を腹の底に仕舞いこむ。
だがしかし、魂の揺らぎを認知出来る彼にはお見通しらしく、楽しんでいると見抜かれてしまった。
揺らめく海面に手を伸ばし、片手で海水を掬いあげてみる。
磯の香りがする、つまりは…この海には、しっかりとプランクトンが存在しているということ。
中々精度の高い呪いに満たされた空間だ、いっそ芸術的とも言えよう。
指先についた海水を口に運べば、塩辛い味がした。
涙と似た味のするそれを味わっていれば、真人くんにいきなり抱き上げられた。
「先生、俺と泳ごうよ」
バシャバシャと水飛沫を立てながら、ズンズン海の深い方へと歩いて行く彼に驚きながらも、「替えの服が無い」と苦言を呈すれば、至極当然のように「放っておけば乾くよ」と言われてしまった。
君ねぇ……いや、呪霊だから人間だからとか、人間と違ってお前達は…なんて言わないが、それにしたってもうちょっと自分以外の「他」について考え配慮する力を養った方が良いと思うな。迷惑行為を控えること、気を使う必要がある場合は出来る範囲で気を使うこと、確認やお礼の言葉……そういった一つ一つの積み重ねで世界はより良くなっていき……
「でも先生はそんな世界が嫌いなんでしょ、そして俺の方が好き。違う?」
「…その通りだけども」
それを言われちゃ理屈を捏ねらんないじゃない。私のアイデンティティの喪失なのだが、というか君だって別に感情のみを優先して生きているわけでは無いだろう、都合の良い時だけ「先生は俺のことが好き!」を前面に持って来ないで頂きたい。
ザブザブと海の深い方へと歩む度に、服が水分を吸って重たくなっていく。
内臓が冷えるような、妙に不安な心地だ。
真人くんは余裕で足が付く場所でも、私は爪先立ちにならないと呼吸が出来ないような深さの場所まで来る。
海は青く、静かに、私を包み冷たくさせる。
真人くんの手が静かに離れていく。
それと同時に彼はいきなりザブリッと頭まで潜り何処かへ泳いで行った。
彼の動きを目で追う。速い、海面が揺れる場所は既に私からずっと遠くで、その揺蕩う水の揺らぎを一人冷たい場所で置き去りにされながら眺めていた。
次第に彼が何処で泳いでいるか分からなくなり、困った私は砂浜へ戻るために身体を回転させた。
しかし、向きを変えた先、いきなり水飛沫をあげながら、海面から勢い良く顔を出した真人くんは、髪をかきあげつつ「見て!」と、子供のようにハシャいだ声をあげる。
「人魚!先生は人魚姫って知ってる?」
見て、と言われた通りに視線を動かせば、なんと彼の下半身は見事な魚人のそれであった。
私は思わず「おぉ…」と驚きや感動から声と息を漏らす。
「知っているとも。求めた愛を得られなかったけれど、姫は自分の愛を貫いた…哀しくて切ないお話しだね」
「先生って詩人だよね」
彼は私の感想を特別面白くも思わずに、乾いた笑い声を少しあげて笑って終わらせた。
冷たい指が私の頬にヒタリと触れる。
海の中、身を冷やす海水に沈みながら、人の形をした呪いはまるで人間の真似事をするように、在り来たりな質問をする。
「俺が人魚姫みたいになったら、先生はキスしてくれる?」
そう問いかける彼の瞳に、およそ熱は灯っておらず、この質問がただの「興味」だけであることを私は正しく理解した。
そして、同時に彼の「先生」である私は、愛や恋では語れない解答をしなければならない。
矛盾無く、堂々とした、"正解"を導き出すためのヒントを求められているのだ。
人魚姫において、キスとは誓いである。
姫の愛に答え、共にあることを誓う行為。
呪いを解くものであり、呪われることでもある。
それを踏まえた上で、私は静かに、淡々と、言葉を重ねる。
「いや、出来ない」
「えー……なんで?俺が泡になってもいいの?」
「私は自らの在り方を捨て、痛む脚で人間のように地上を歩く君なんて見たくは無い」
だから、そう、私は……私が選ぶ結末は…
「私の心臓に剣を突き立て、人魚に戻って貰う。君が君らしく生きることこそが、最も価値のある結末だ」
私の答えに合わせて真人くんの手がスルリと動く。
頬から胸に、心臓の真上に置かれた手のひらに、私の鼓動が伝わった。
やや時間をかけて、私の答えを咀嚼した彼はニンマリと口元を歪ませて楽しそうな声を出した。
「ダメ、先生は俺とキスして、俺と世界をめっちゃくちゃにして、それから死ぬんだよ」
だから駄目。
俺は海には帰んないし、先生は願いを叶えて死ぬなんて出来ない。残念だったね。
下半身を人魚のそれから人間の物に戻した真人くんは、水の中でバランスを取っていた私をヒョイッと抱きあげると「戻ってビーチバレーしよ」と言った。
「そもそも真人くんには私の助けなんて必要無いだろう」
「はー、ロマンが無いなぁ」
「変えようの無い事実を述べたまでだよ」
ユラユラ、一歩一歩砂浜へ近付いていく。
濡れた服は重く気持ちが悪い、肌を照り付ける太陽が鬱陶しい。
それ以上に、この美しく残酷で悪逆な呪いに冗談でも必要とされたことに、ささやかな喜びを感じ取ってしまった自分が忌々しく思えた。
これもそれも、全て夏のせいだ。
夏のせいにしておこう。
暗いマンションの外にある景色なんて、射撃場以外、私には不似合いだと言うことだ。
それでも、どうしてだろうか。
私は確かにこの日、はじめて「夏」を美しく尊べたのだ。
マンションの扉を潜った先に用意された穏やかな潮風を浴びながら、私は務めて冷静にアロハシャツなんぞを着ている男に声を掛けた。
「お宅の教育どうなってるの?」
「私のせいにされても困るな…あ、親権あげようか?」
「世界で一番いらない」
横目で睨めば、無言でにこやかに微笑まれたので、私もそれ以上は何も言わなかった。
真人くんに手を引かれ、砂浜から海水の方へと歩いて行く。靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、スカートの裾に注意しながら海に素足を浸せば、足先から感じる冷たさに思わず声を挙げてしまった。
「つめたっ」
「先生冷たいの駄目?」
「熱いのも冷たいのも嫌いだね」
「って言いながら楽しそうじゃん」
まあね。
海なんて一体何年ぶりだろうか、正直な気持ちを言えば、少し興奮している。例え外見年齢が16歳から変わっていなくとも、年甲斐も無くはしゃいでしまうのはみっともないと思い感情を腹の底に仕舞いこむ。
だがしかし、魂の揺らぎを認知出来る彼にはお見通しらしく、楽しんでいると見抜かれてしまった。
揺らめく海面に手を伸ばし、片手で海水を掬いあげてみる。
磯の香りがする、つまりは…この海には、しっかりとプランクトンが存在しているということ。
中々精度の高い呪いに満たされた空間だ、いっそ芸術的とも言えよう。
指先についた海水を口に運べば、塩辛い味がした。
涙と似た味のするそれを味わっていれば、真人くんにいきなり抱き上げられた。
「先生、俺と泳ごうよ」
バシャバシャと水飛沫を立てながら、ズンズン海の深い方へと歩いて行く彼に驚きながらも、「替えの服が無い」と苦言を呈すれば、至極当然のように「放っておけば乾くよ」と言われてしまった。
君ねぇ……いや、呪霊だから人間だからとか、人間と違ってお前達は…なんて言わないが、それにしたってもうちょっと自分以外の「他」について考え配慮する力を養った方が良いと思うな。迷惑行為を控えること、気を使う必要がある場合は出来る範囲で気を使うこと、確認やお礼の言葉……そういった一つ一つの積み重ねで世界はより良くなっていき……
「でも先生はそんな世界が嫌いなんでしょ、そして俺の方が好き。違う?」
「…その通りだけども」
それを言われちゃ理屈を捏ねらんないじゃない。私のアイデンティティの喪失なのだが、というか君だって別に感情のみを優先して生きているわけでは無いだろう、都合の良い時だけ「先生は俺のことが好き!」を前面に持って来ないで頂きたい。
ザブザブと海の深い方へと歩む度に、服が水分を吸って重たくなっていく。
内臓が冷えるような、妙に不安な心地だ。
真人くんは余裕で足が付く場所でも、私は爪先立ちにならないと呼吸が出来ないような深さの場所まで来る。
海は青く、静かに、私を包み冷たくさせる。
真人くんの手が静かに離れていく。
それと同時に彼はいきなりザブリッと頭まで潜り何処かへ泳いで行った。
彼の動きを目で追う。速い、海面が揺れる場所は既に私からずっと遠くで、その揺蕩う水の揺らぎを一人冷たい場所で置き去りにされながら眺めていた。
次第に彼が何処で泳いでいるか分からなくなり、困った私は砂浜へ戻るために身体を回転させた。
しかし、向きを変えた先、いきなり水飛沫をあげながら、海面から勢い良く顔を出した真人くんは、髪をかきあげつつ「見て!」と、子供のようにハシャいだ声をあげる。
「人魚!先生は人魚姫って知ってる?」
見て、と言われた通りに視線を動かせば、なんと彼の下半身は見事な魚人のそれであった。
私は思わず「おぉ…」と驚きや感動から声と息を漏らす。
「知っているとも。求めた愛を得られなかったけれど、姫は自分の愛を貫いた…哀しくて切ないお話しだね」
「先生って詩人だよね」
彼は私の感想を特別面白くも思わずに、乾いた笑い声を少しあげて笑って終わらせた。
冷たい指が私の頬にヒタリと触れる。
海の中、身を冷やす海水に沈みながら、人の形をした呪いはまるで人間の真似事をするように、在り来たりな質問をする。
「俺が人魚姫みたいになったら、先生はキスしてくれる?」
そう問いかける彼の瞳に、およそ熱は灯っておらず、この質問がただの「興味」だけであることを私は正しく理解した。
そして、同時に彼の「先生」である私は、愛や恋では語れない解答をしなければならない。
矛盾無く、堂々とした、"正解"を導き出すためのヒントを求められているのだ。
人魚姫において、キスとは誓いである。
姫の愛に答え、共にあることを誓う行為。
呪いを解くものであり、呪われることでもある。
それを踏まえた上で、私は静かに、淡々と、言葉を重ねる。
「いや、出来ない」
「えー……なんで?俺が泡になってもいいの?」
「私は自らの在り方を捨て、痛む脚で人間のように地上を歩く君なんて見たくは無い」
だから、そう、私は……私が選ぶ結末は…
「私の心臓に剣を突き立て、人魚に戻って貰う。君が君らしく生きることこそが、最も価値のある結末だ」
私の答えに合わせて真人くんの手がスルリと動く。
頬から胸に、心臓の真上に置かれた手のひらに、私の鼓動が伝わった。
やや時間をかけて、私の答えを咀嚼した彼はニンマリと口元を歪ませて楽しそうな声を出した。
「ダメ、先生は俺とキスして、俺と世界をめっちゃくちゃにして、それから死ぬんだよ」
だから駄目。
俺は海には帰んないし、先生は願いを叶えて死ぬなんて出来ない。残念だったね。
下半身を人魚のそれから人間の物に戻した真人くんは、水の中でバランスを取っていた私をヒョイッと抱きあげると「戻ってビーチバレーしよ」と言った。
「そもそも真人くんには私の助けなんて必要無いだろう」
「はー、ロマンが無いなぁ」
「変えようの無い事実を述べたまでだよ」
ユラユラ、一歩一歩砂浜へ近付いていく。
濡れた服は重く気持ちが悪い、肌を照り付ける太陽が鬱陶しい。
それ以上に、この美しく残酷で悪逆な呪いに冗談でも必要とされたことに、ささやかな喜びを感じ取ってしまった自分が忌々しく思えた。
これもそれも、全て夏のせいだ。
夏のせいにしておこう。
暗いマンションの外にある景色なんて、射撃場以外、私には不似合いだと言うことだ。
それでも、どうしてだろうか。
私は確かにこの日、はじめて「夏」を美しく尊べたのだ。
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