真人と先生の話
車内ではドビュッシーのシランクスがスピーカーから奏でられている。フルート奏者は20世紀において最も偉大なフルート演奏家だ、奏でられる独創的でありながら計算された美しい音色がエンジン音と重なり心に響く。
音楽は良い、偉大なクラシック達は人種も争いも超えて人と歴史を繋ぎ私の耳にも届く。
「シランクスは月の女神、アルテミスの従者であるニンフの名だよ。彼女に惚れた牧神が彼女を追っかけるも、怖がられ最終的に葦に変身されてしまうって話さ。さてここで問題、その牧神は葦になった彼女にどんな反応をしたでしょうか?」
助手席に座る生徒…呪霊の真人くんに問題を出す。
夏油くん(仮)の目的は、彼に色々人間について教えたいのだろう。私は銃の先生だが、何も銃だけ撃たせりゃ良いってもんじゃない。
拳銃には歴史があり、銃を持つ人間にも歴史がある。同じように撃たれる人間にもだ。
あと普通に射撃場から何故か連れ出されてしまったので、銃のお勉強が出来ない。
「身体の形を変えちゃったんだ!へー、俺と似てるね」
「そうだね、彼女は川の妖精に頼んで姿を変えて貰っていた……はず」
「じゃあ俺が川の妖精ポジションか~」
妖精と言うか呪いだけど。まあ、似たようなものか、どちらも人間の空想や虚像などから生み出された妖しい存在には違いない。
「好きな女に振られて、その女は葦に…葦ってなに?」
「イネ科の植物だよ」
「ふーん……全部引っこ抜くとか?」
全部か、何とも躊躇いの無い選択だ。まあしかし、確かに好きな女が葦になってまで自分を拒むのならば、気のイった奴ならそれくらいするだろうか。いや、もっと酷い選択肢だってある。この呪霊なら踏み荒らしたりもしそうだ、どうだろうか。まだ彼はお子様だ。
「結構良い線言ってるよ、正解はこうだ」
この悲恋の結末はこのような物である。
シランクスの歌声に惚れた牧神は、葦になった彼女と共にあるために、葦を手折って笛にした…そしてそれを自身のトレードマークとした。と言う物語だ。
「どうかね、ご感想は」
「うーん…キモい」
「ギリシャ神話はだいたいそんなもんさ」
「どうしてこんな話を?」と真人くんが質問してくれる。うん、良い問いだ。
「ギリシャ神話と言うのは、後世で人間が生み出した様々な物語の前提となっているんだよ。神々の話だけれどね、人間より人間臭い、人を理解するには良い教材の一つさ」
ギリシャ神話は女性が不憫な扱いを受ける物語が多い。読み解けば分かるが、男性優位で悪いものは女性のせい、だがしかし様々なエピソード達を知れば確実に世界は広がる。ミュルラが実の父と叶わぬ恋をした話を知って、エジプトで親子婚を辞さないためにミルラ(没薬)が珍重されていた訳を知ることが出来るように、文芸や芸術、人間の想像力の恐ろしさを知ることに繋がれる。
「私としては、紀元前八世紀の詩人ヘシオドスが書いた「神統記」、ホメロスの「イリアス物語」「オデュッセイア物語」、さらに古代ギリシアの三大悲劇作家アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの戯曲などを中心に学ぶことをオススメしたい」
「俺、本読めるよ。今度夏油に聞いてみる」
良いことだ、読書は他人にものを考えてもらうことである。自分で世界を見て、発見し、獲得する価値を彼は分かっているのだろう。
この呪いは結構良い生徒かもしれない、好き勝手はするが…自分の考えを持ち、思考出来ると言うことは人生において最も大切で重要なことだと私は思う。
「さて、締めに入ろう。何故、私がこんなことを語ったと思う?」
真人くんは考える。
問を与えて素直に思考する、結論を先に出してから理由付けをするも良し、筋道を立てて答えに行き着くことも良し、正解はあれど、一番は本人が問題に対して深く追求し、最後に納得出来ることが大切だ。
隣で沈黙する呪霊に考える時間を与える。
神々が人間よりも人間味のある過ちを行うように、呪いである彼も、人間よりも人間らしく己の証明をして欲しい。
スピーカーから次の曲が流れる、ウィリアムテルの序曲をスキップして次もスキップ、あった。ウィーン古典舞曲、クライスラーの美しきロスマリン。
ロスマリンとは、ローズマリーのことだ。紫色の花が可愛らしいことを例えて、愛らしい人の象徴として用いられることもある。なんとなく、真人くんの日に照らされた髪を見ていたらこの曲を無性に聴きたくなったのだ。
ヴァイオリンの音色を聞き流しながら彼が口を開くのを待った。
「俺にも…人間が気持ち悪いって共感して欲しいから、とか?」
「私は君の先生だよ?生徒のためにしていることさ、もう一度よく考えてみて」
「えぇ……俺にもっと人間に近付いて欲しい?」
「惜しい」
左折する道が現れた、真っ直ぐ行っても別に構わないが、左に曲がれば景色が良い。そう判断し、その答えに従ってハンドルをひねりながら私はこう答える。
「私は、君が君の判断に従ってこの世で生きていって欲しいんだよ」
神が…いや、創造主から人間が離れ、人間は人間の意思決定に基づき生きていく姿勢を定めたように。私は真人くんに創造主である人間の手から離れて彼らしく生きて欲しいのだ、そこにどんな結末があり、どんな悲惨な世界が待ち受けていようとも、人間による支配的な生き方に縛られて欲しくない。
だって少なくとも、人間にとって我々が生きる世紀では、すでに"神は死んだ"のだから。
ならば今度死に絶え、自由を手にするのはどの存在なのであろうか。
真人くんがキョトンとした、可愛らしい表情でこちらを見てくる。
「先生ってもしかして、結構俺のことすき?」
「うん、私は美しい生命が好きなんだ」
運転を止めずに、横目でチラリとそのツヤツヤした瞳を見て微笑んで見せる。
人間は嫌いだ、世界も武器も嫌い。それでも、私は可能性のある生命は好きなんだ。
神々にも、神の生み出した人間にも抱かなかった感情を今、人間の生み出した呪いに対して抱いている。
「君はこの星の美しい生命だよ、真人くん」
私は今日、はじめて少しだけ世界を好きになれた気がした。
だってこの世界にはこんなに可愛い生徒が頑張って生きているのだから。
…うん、私の褒め言葉に対して変なキノコ食べたみたいに元気に笑う君は素敵だよ。
音楽は良い、偉大なクラシック達は人種も争いも超えて人と歴史を繋ぎ私の耳にも届く。
「シランクスは月の女神、アルテミスの従者であるニンフの名だよ。彼女に惚れた牧神が彼女を追っかけるも、怖がられ最終的に葦に変身されてしまうって話さ。さてここで問題、その牧神は葦になった彼女にどんな反応をしたでしょうか?」
助手席に座る生徒…呪霊の真人くんに問題を出す。
夏油くん(仮)の目的は、彼に色々人間について教えたいのだろう。私は銃の先生だが、何も銃だけ撃たせりゃ良いってもんじゃない。
拳銃には歴史があり、銃を持つ人間にも歴史がある。同じように撃たれる人間にもだ。
あと普通に射撃場から何故か連れ出されてしまったので、銃のお勉強が出来ない。
「身体の形を変えちゃったんだ!へー、俺と似てるね」
「そうだね、彼女は川の妖精に頼んで姿を変えて貰っていた……はず」
「じゃあ俺が川の妖精ポジションか~」
妖精と言うか呪いだけど。まあ、似たようなものか、どちらも人間の空想や虚像などから生み出された妖しい存在には違いない。
「好きな女に振られて、その女は葦に…葦ってなに?」
「イネ科の植物だよ」
「ふーん……全部引っこ抜くとか?」
全部か、何とも躊躇いの無い選択だ。まあしかし、確かに好きな女が葦になってまで自分を拒むのならば、気のイった奴ならそれくらいするだろうか。いや、もっと酷い選択肢だってある。この呪霊なら踏み荒らしたりもしそうだ、どうだろうか。まだ彼はお子様だ。
「結構良い線言ってるよ、正解はこうだ」
この悲恋の結末はこのような物である。
シランクスの歌声に惚れた牧神は、葦になった彼女と共にあるために、葦を手折って笛にした…そしてそれを自身のトレードマークとした。と言う物語だ。
「どうかね、ご感想は」
「うーん…キモい」
「ギリシャ神話はだいたいそんなもんさ」
「どうしてこんな話を?」と真人くんが質問してくれる。うん、良い問いだ。
「ギリシャ神話と言うのは、後世で人間が生み出した様々な物語の前提となっているんだよ。神々の話だけれどね、人間より人間臭い、人を理解するには良い教材の一つさ」
ギリシャ神話は女性が不憫な扱いを受ける物語が多い。読み解けば分かるが、男性優位で悪いものは女性のせい、だがしかし様々なエピソード達を知れば確実に世界は広がる。ミュルラが実の父と叶わぬ恋をした話を知って、エジプトで親子婚を辞さないためにミルラ(没薬)が珍重されていた訳を知ることが出来るように、文芸や芸術、人間の想像力の恐ろしさを知ることに繋がれる。
「私としては、紀元前八世紀の詩人ヘシオドスが書いた「神統記」、ホメロスの「イリアス物語」「オデュッセイア物語」、さらに古代ギリシアの三大悲劇作家アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの戯曲などを中心に学ぶことをオススメしたい」
「俺、本読めるよ。今度夏油に聞いてみる」
良いことだ、読書は他人にものを考えてもらうことである。自分で世界を見て、発見し、獲得する価値を彼は分かっているのだろう。
この呪いは結構良い生徒かもしれない、好き勝手はするが…自分の考えを持ち、思考出来ると言うことは人生において最も大切で重要なことだと私は思う。
「さて、締めに入ろう。何故、私がこんなことを語ったと思う?」
真人くんは考える。
問を与えて素直に思考する、結論を先に出してから理由付けをするも良し、筋道を立てて答えに行き着くことも良し、正解はあれど、一番は本人が問題に対して深く追求し、最後に納得出来ることが大切だ。
隣で沈黙する呪霊に考える時間を与える。
神々が人間よりも人間味のある過ちを行うように、呪いである彼も、人間よりも人間らしく己の証明をして欲しい。
スピーカーから次の曲が流れる、ウィリアムテルの序曲をスキップして次もスキップ、あった。ウィーン古典舞曲、クライスラーの美しきロスマリン。
ロスマリンとは、ローズマリーのことだ。紫色の花が可愛らしいことを例えて、愛らしい人の象徴として用いられることもある。なんとなく、真人くんの日に照らされた髪を見ていたらこの曲を無性に聴きたくなったのだ。
ヴァイオリンの音色を聞き流しながら彼が口を開くのを待った。
「俺にも…人間が気持ち悪いって共感して欲しいから、とか?」
「私は君の先生だよ?生徒のためにしていることさ、もう一度よく考えてみて」
「えぇ……俺にもっと人間に近付いて欲しい?」
「惜しい」
左折する道が現れた、真っ直ぐ行っても別に構わないが、左に曲がれば景色が良い。そう判断し、その答えに従ってハンドルをひねりながら私はこう答える。
「私は、君が君の判断に従ってこの世で生きていって欲しいんだよ」
神が…いや、創造主から人間が離れ、人間は人間の意思決定に基づき生きていく姿勢を定めたように。私は真人くんに創造主である人間の手から離れて彼らしく生きて欲しいのだ、そこにどんな結末があり、どんな悲惨な世界が待ち受けていようとも、人間による支配的な生き方に縛られて欲しくない。
だって少なくとも、人間にとって我々が生きる世紀では、すでに"神は死んだ"のだから。
ならば今度死に絶え、自由を手にするのはどの存在なのであろうか。
真人くんがキョトンとした、可愛らしい表情でこちらを見てくる。
「先生ってもしかして、結構俺のことすき?」
「うん、私は美しい生命が好きなんだ」
運転を止めずに、横目でチラリとそのツヤツヤした瞳を見て微笑んで見せる。
人間は嫌いだ、世界も武器も嫌い。それでも、私は可能性のある生命は好きなんだ。
神々にも、神の生み出した人間にも抱かなかった感情を今、人間の生み出した呪いに対して抱いている。
「君はこの星の美しい生命だよ、真人くん」
私は今日、はじめて少しだけ世界を好きになれた気がした。
だってこの世界にはこんなに可愛い生徒が頑張って生きているのだから。
…うん、私の褒め言葉に対して変なキノコ食べたみたいに元気に笑う君は素敵だよ。