ヴィーナスお願い
真衣にとってその生き物との出会いはとてつもない衝撃だった。
足元を見て屋敷内を一人闊歩していれば、廊下の曲がり角で誰かとぶつかってしまった。
ドンッと衝撃を受けると同時、グラリと体幹を崩し後ろへ倒れかけた身体は腰に腕を回され見事に抱き留められる。
グッと相手の方へと引き寄せられ、「おっと、すまなかった」と謝られた所で顔を上げれば、そこには焔の如く見事に紅く染まった美丈夫が自分を見ていた。
まず、この家では真衣に謝る人間は居ないこと。そして、ぶつかりなんぞすれば罵声を浴びせられ、酷いときなど手を上げられること。さらに、男に優しくされることなどいつ振りかという三つの要因が重なったのが災いとなり、真衣は初動を遅らせてしまった。
自身の腕の中で固まった少女を見下ろす男……いや、正確には女なのだが、禪院家に行ってナメられないために術式を使って男っぽい身体になっている"加茂のヒモ"は自身の餌に習って小首を傾げた。はて、私…なんかしちゃいましたかね?
「大丈夫かな、痛くなかった?」
「………は、離して貰えるかしら。別にぶつかったくらいでどうにかなるような身体の作りしてないわよ」
「そう、なら良かった。改めてすまなかったね、可愛い人」
「……………は?」
この場合の可愛い人の意味は、イコール「可愛い人間ちゃん」という種族的な意味である。
なので別に真衣を女性として可愛いと褒めたわけでもなければ、そういう意図があって発したわけでもない。
しかし相手からしてみれば、初対面の美形に抱き締められて「可愛い君が無事で良かった」などと言われば、まあそりゃあ…ちょっとは"良いじゃねぇか…"となるもので。
真衣の喉元まで一気に何かが駆け上がり、既の所で耐え忍ぶ。
熱くなった耳の裏に気を取られながらも、頭の中では必死に己を律した。
この家に出入りしてる男にまともな男なんて居ない、きっとコイツもその類い。そもそも初対面の女に可愛いとか平気で言う男がまともなわけが無いでしょう。てか何この赤毛?派手過ぎない?ロックバンドでもやってるの?私、ベースとシンセサイザーの男とは絶対付き合いたくないのだけれど。
キュッと口元を引き結んで自分を見上げてくる女の子を自然な手付きで元の体勢に戻し、笑みを一つ浮かべて男は尋ねる。
「実は迷子になっちゃって…この家凄く広いね、良ければ案内して貰えるかな?」
「…良いけど、何処に行きたいの?そもそも貴方名前は?誰の客人?」
「高専入学についての諸々を頼まれて、色々届けに来たんだけど」
「高専…?貴方、高専の術師なの?」
名前については名乗らず、高専からの者であることだけを伝える。そうすれば真衣は高専のワードに食い付いた。
高専、自分と真希が春から行く場所。
互いに別々の地域への所属となるが、もしも…もしも、このイケメンが京都校所属だったのならば、真希に勝てた要素が多くなるに違い無い。
あわよくばこのイケメンが根っからの善人であれば文句無し。
見つめる視線には少しでも多くの情報を欲す意気込みが見られた。紅の吸血種はその視線を、なんかめっちゃ見られてて草、と思った。動物園で小さい生き物と視線がかち合ってしまった時の気持ちである。
「京都の高専に居るよ、来年から二年生」
「そう、じゃあ私の先輩ってことね。私は真衣、どうぞよろしく」
「うん、よろしくね真衣ちゃん」
親しみを込められて呼ばれた名前に真衣は心の中で天を仰いだ。
悪くねぇ……いや、むしろ"良い"。
なにこの曇りの無い、嫌な感じが一切しない爽やかな挨拶とちゃん付け…ロングの赤毛男とか絶対地雷物件だと思ってたけど…良い、凄く良い。
そんな気持ちで澄ました顔をしながら改めて男の出で立ちを見た。
背中の真ん中辺りまで伸びた艷やかな赤毛も見慣れれば美しいと思えた。
スラリと伸びた手足は爪の先まで手入れが行き届いており、白いシンプルなシャツは清潔感が溢れている。
自分よりも高い身長、引き締まった体躯、付けている香水は嫌らしくないビターなジャスミン系。
自分の後輩になる女から不遜な態度を取られても嫌な顔は一切せず、終始友好的かつ柔らかな姿勢を崩さない。
この男、優良…いや、最良物件だ。
いやでもこれで術式の無い階級の低い奴だったら……
「私は一応一級術師だから、何か助けが必要だったらいつでも頼ってね」
「…完璧じゃない……何よコイツ…」
「どうかした?」
「何でも無いわ、案内するから付いてきて」
早くこの家の人間、この男の爪の垢煎じて飲め。
勝ち確ファンファーレが真衣の頭の中に響き渡る。
呪術師になるなんて…と自分のこれから歩む道に落胆していたが、この男が居る京都校に行けるのはまあまあ運が良かったんじゃないかしらと思えた。
客人と当主の話し合いを待つ間、真衣はやって来た真希に先程のことを少しだけ自慢気に話す。
「赤毛の一級術師なんて聞いたことねぇな…で、名前は?」
「………名前、そういえばまだ聞いて無かったわね」
「そいつに惚れたのか?」
「違うわよ、気色の悪いこと言わないで貰える?」
そんなことを話していれば、話し合いを終えた男が赤毛を揺らしながら真衣の元へと戻ってきた。
側に居た真希は噂の人物の登場に注視する。なるほど、確かに真衣が認めるだけの顔面レベルだ。
男は真希と真衣を交互に見て、「双子だったんだね」と小さく微笑んだ。
「…なんで分かるのよ、そんなに似てる?」
「つか、お前名前は?」
「ちょっと、私が話してるんだから邪魔しないで黙ってて」
「名前聞くって言ったのは真衣だろ」
やっぱ名前聞かれるんだな…と、若干面倒になったのには理由があった。
名前とはこの世で最も短い呪いである。
その効果は絶大で、目に見えぬものでさえ名を与えれば存在を明確にしてしまえる程だ。
名前はエネルギーを固定するための大事な要因、であるからして…吸血種となった少女は元々持っていた親から付けられた"人間"としての名を奪われ、今の彼女を縛るに相応しい名が与えられた。
だが、その名も彼女は嫌っている。
なので大体において勝手に「カモ・カネトシ」と名乗っていた。金星の金と加茂憲紀の紀を合わせた名である。ちなみに加茂憲紀本人は、物凄く迷惑に思っている。
そんなわけでカモ・カネトシを名乗れば姉妹は面白いくらい表情をスンッ…とさせた。
なんだよ加茂の男かよ、あの嫡男の親戚とか期待ダダ下がりなんだけど。
自室で座学の予習復習を頑張っていた加茂はクシャミをした。
「そう、加茂家の…」
「あ、いや、御三家の加茂は全然関係無いよ。むしろ関係者面すると嫌な顔されるんだよね、憲紀くんに」
「…待って、意味分からなくなってきた」
ややこしいにも程がある。
そして「憲紀くん」て…仲良しかよ。憲紀お前友達居たんだな。
真衣と真希は一瞬チラリと視線を合わせた。
この男、ちょっと放っておけないタイプかも…。
ただただ優しいイケメンなわけじゃない、ちょっと隙があるところが女心を擽られる。
これは春が少し楽しみになってきたわね。
妹の嬉しそうな横顔に真希はほんのちょっと表情を和らげた。
男がどういう出自のどんな強さの奴かは知らないが、それでも妹が良いと思えたなら背中を押してやろうと思えた。
輝ける青空と共に淡い春がやってくる。
甘い恋の気配がほんのりと二人にそよいだ。
まあ、蓋を開けるとどちらも女子なのだが。
足元を見て屋敷内を一人闊歩していれば、廊下の曲がり角で誰かとぶつかってしまった。
ドンッと衝撃を受けると同時、グラリと体幹を崩し後ろへ倒れかけた身体は腰に腕を回され見事に抱き留められる。
グッと相手の方へと引き寄せられ、「おっと、すまなかった」と謝られた所で顔を上げれば、そこには焔の如く見事に紅く染まった美丈夫が自分を見ていた。
まず、この家では真衣に謝る人間は居ないこと。そして、ぶつかりなんぞすれば罵声を浴びせられ、酷いときなど手を上げられること。さらに、男に優しくされることなどいつ振りかという三つの要因が重なったのが災いとなり、真衣は初動を遅らせてしまった。
自身の腕の中で固まった少女を見下ろす男……いや、正確には女なのだが、禪院家に行ってナメられないために術式を使って男っぽい身体になっている"加茂のヒモ"は自身の餌に習って小首を傾げた。はて、私…なんかしちゃいましたかね?
「大丈夫かな、痛くなかった?」
「………は、離して貰えるかしら。別にぶつかったくらいでどうにかなるような身体の作りしてないわよ」
「そう、なら良かった。改めてすまなかったね、可愛い人」
「……………は?」
この場合の可愛い人の意味は、イコール「可愛い人間ちゃん」という種族的な意味である。
なので別に真衣を女性として可愛いと褒めたわけでもなければ、そういう意図があって発したわけでもない。
しかし相手からしてみれば、初対面の美形に抱き締められて「可愛い君が無事で良かった」などと言われば、まあそりゃあ…ちょっとは"良いじゃねぇか…"となるもので。
真衣の喉元まで一気に何かが駆け上がり、既の所で耐え忍ぶ。
熱くなった耳の裏に気を取られながらも、頭の中では必死に己を律した。
この家に出入りしてる男にまともな男なんて居ない、きっとコイツもその類い。そもそも初対面の女に可愛いとか平気で言う男がまともなわけが無いでしょう。てか何この赤毛?派手過ぎない?ロックバンドでもやってるの?私、ベースとシンセサイザーの男とは絶対付き合いたくないのだけれど。
キュッと口元を引き結んで自分を見上げてくる女の子を自然な手付きで元の体勢に戻し、笑みを一つ浮かべて男は尋ねる。
「実は迷子になっちゃって…この家凄く広いね、良ければ案内して貰えるかな?」
「…良いけど、何処に行きたいの?そもそも貴方名前は?誰の客人?」
「高専入学についての諸々を頼まれて、色々届けに来たんだけど」
「高専…?貴方、高専の術師なの?」
名前については名乗らず、高専からの者であることだけを伝える。そうすれば真衣は高専のワードに食い付いた。
高専、自分と真希が春から行く場所。
互いに別々の地域への所属となるが、もしも…もしも、このイケメンが京都校所属だったのならば、真希に勝てた要素が多くなるに違い無い。
あわよくばこのイケメンが根っからの善人であれば文句無し。
見つめる視線には少しでも多くの情報を欲す意気込みが見られた。紅の吸血種はその視線を、なんかめっちゃ見られてて草、と思った。動物園で小さい生き物と視線がかち合ってしまった時の気持ちである。
「京都の高専に居るよ、来年から二年生」
「そう、じゃあ私の先輩ってことね。私は真衣、どうぞよろしく」
「うん、よろしくね真衣ちゃん」
親しみを込められて呼ばれた名前に真衣は心の中で天を仰いだ。
悪くねぇ……いや、むしろ"良い"。
なにこの曇りの無い、嫌な感じが一切しない爽やかな挨拶とちゃん付け…ロングの赤毛男とか絶対地雷物件だと思ってたけど…良い、凄く良い。
そんな気持ちで澄ました顔をしながら改めて男の出で立ちを見た。
背中の真ん中辺りまで伸びた艷やかな赤毛も見慣れれば美しいと思えた。
スラリと伸びた手足は爪の先まで手入れが行き届いており、白いシンプルなシャツは清潔感が溢れている。
自分よりも高い身長、引き締まった体躯、付けている香水は嫌らしくないビターなジャスミン系。
自分の後輩になる女から不遜な態度を取られても嫌な顔は一切せず、終始友好的かつ柔らかな姿勢を崩さない。
この男、優良…いや、最良物件だ。
いやでもこれで術式の無い階級の低い奴だったら……
「私は一応一級術師だから、何か助けが必要だったらいつでも頼ってね」
「…完璧じゃない……何よコイツ…」
「どうかした?」
「何でも無いわ、案内するから付いてきて」
早くこの家の人間、この男の爪の垢煎じて飲め。
勝ち確ファンファーレが真衣の頭の中に響き渡る。
呪術師になるなんて…と自分のこれから歩む道に落胆していたが、この男が居る京都校に行けるのはまあまあ運が良かったんじゃないかしらと思えた。
客人と当主の話し合いを待つ間、真衣はやって来た真希に先程のことを少しだけ自慢気に話す。
「赤毛の一級術師なんて聞いたことねぇな…で、名前は?」
「………名前、そういえばまだ聞いて無かったわね」
「そいつに惚れたのか?」
「違うわよ、気色の悪いこと言わないで貰える?」
そんなことを話していれば、話し合いを終えた男が赤毛を揺らしながら真衣の元へと戻ってきた。
側に居た真希は噂の人物の登場に注視する。なるほど、確かに真衣が認めるだけの顔面レベルだ。
男は真希と真衣を交互に見て、「双子だったんだね」と小さく微笑んだ。
「…なんで分かるのよ、そんなに似てる?」
「つか、お前名前は?」
「ちょっと、私が話してるんだから邪魔しないで黙ってて」
「名前聞くって言ったのは真衣だろ」
やっぱ名前聞かれるんだな…と、若干面倒になったのには理由があった。
名前とはこの世で最も短い呪いである。
その効果は絶大で、目に見えぬものでさえ名を与えれば存在を明確にしてしまえる程だ。
名前はエネルギーを固定するための大事な要因、であるからして…吸血種となった少女は元々持っていた親から付けられた"人間"としての名を奪われ、今の彼女を縛るに相応しい名が与えられた。
だが、その名も彼女は嫌っている。
なので大体において勝手に「カモ・カネトシ」と名乗っていた。金星の金と加茂憲紀の紀を合わせた名である。ちなみに加茂憲紀本人は、物凄く迷惑に思っている。
そんなわけでカモ・カネトシを名乗れば姉妹は面白いくらい表情をスンッ…とさせた。
なんだよ加茂の男かよ、あの嫡男の親戚とか期待ダダ下がりなんだけど。
自室で座学の予習復習を頑張っていた加茂はクシャミをした。
「そう、加茂家の…」
「あ、いや、御三家の加茂は全然関係無いよ。むしろ関係者面すると嫌な顔されるんだよね、憲紀くんに」
「…待って、意味分からなくなってきた」
ややこしいにも程がある。
そして「憲紀くん」て…仲良しかよ。憲紀お前友達居たんだな。
真衣と真希は一瞬チラリと視線を合わせた。
この男、ちょっと放っておけないタイプかも…。
ただただ優しいイケメンなわけじゃない、ちょっと隙があるところが女心を擽られる。
これは春が少し楽しみになってきたわね。
妹の嬉しそうな横顔に真希はほんのちょっと表情を和らげた。
男がどういう出自のどんな強さの奴かは知らないが、それでも妹が良いと思えたなら背中を押してやろうと思えた。
輝ける青空と共に淡い春がやってくる。
甘い恋の気配がほんのりと二人にそよいだ。
まあ、蓋を開けるとどちらも女子なのだが。