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ヴィーナスお願い

最初の数日は良かったのだ、空腹を苦痛に感じるだけだったから。

しかし、次第に日を追う事に苦痛は凶暴性へと変貌の一途を辿っていった。
飢餓による残虐性の目覚め、欲望は次第に剥き出しになり、コントロールが不可能になっていく。


「あぁ…あ、あぁぁ…ぅぅ……」


奇妙なうめき声を上げながら、伸びた爪を噛じり何とか理性を保つ。
忙しなく動く眼球は虫の一匹でもいないかと必死に周囲を見渡した。
座敷牢の中に用意されていたのは少量の水だけで、そんなものはとっくに終わっていたから、私はひたすらに色々なことを考えて気を紛らわした。
何も考えられなくなることが怖かったのだ。
日に日に凶暴になっていく今までとは違う自己の在り方を、必死に制御しようとしていた。

やがて、噛む爪もなくなる。
そうしてとうとう噛み締めた自身の指先は奇妙な多幸感を生み出した。

皮膚に食い込んだ犬歯が皮を破り肉を傷付ける。
小さく流れ出した赤い液体はまろく、柔らかな味がした。
それをひたすらにペロペロと犬のように舐める。変わってしまった自分の有り様に涙しながら。

ああ、そうか。
私はもう化け物なのだ、化け物だから牢屋に繋がれなければならないのだ。
飢えて死ぬことを望まれ、自身の血を啜って惨めったらしく生き延びる他に無いんだと…しゃくり上げながら声を殺して泣き続けた。

そして次第に泣く力も失せ、皮膚を噛み切る力も消え、ヒュウ…ヒュウ…と小さく呼吸をすることしか出来ない死にかけの虫になる。

ボーッとする頭を無理矢理働かせようにも、色々考えても死ぬだけだと諦めかけていたそんな時、突如座敷牢に光が差す。
呪符の貼られた鉄格子の向こうにある引き戸が開き、一人の人間が入ってきたのを霞んだ視界で捉えた私はそちらを見上げて最後の気力を振り絞りキツく睨んだ。

そんな私の様子を人間…の少年は何でもない顔で見やり、「思ったより元気そうだ」と言った。

んなわけあるかボケ、こちとら2週間飯食ってなくて自分の指噛じってやり過ごしてたんだぞ、もっと他に言うことあるだろふざけるな。
と、言いたかったが言う気力が無かったので小さな唸り声を上げるに留める。

「五条さんが君を返せと迎えに来てね、立てるかい?」
「……………」
「もう話す気力も無いか、特級呪霊との適合個体とは聞いたが……所詮はこんなものか」

つまらなそうに…いや、とくに感情も込めずに言われた言葉に私はその時やっと今まで溜め込んでいた怒りを正しく処理することが出来た。

頭の中が急速に冴え渡り、一本の糸がぷつりと切れる。
やたらに冷静な感情は目の前の人間を「別種」と判断し、同時に「餌」だと認識した。

歯を食いしばって力の入らない身体を無理矢理動かし、座敷牢の鉄格子を握り締める。

「……どいつもこいつも、人のことを何だと思ってんだ…」
「…君はもう人ではないだろう」
「ああ…なんだお前、裕福そうなナリしてる癖に…相対主義の一つも可能性として思い付かないのか」
「いきなり何の話だ?今の君にその話が関係あると?」

コテンと首を傾げた少年は訝しげにこちらを見ている。
品の良い上質な着物と手入れの行き届いた黒い髪、いかにもお坊ちゃんな風だ。きっと毎日良い物を食べているのだろう、ああ…ああ、喉が渇いたなぁ。


自分の中にある凶暴性が鎌首をもたげるのを感じ取った時には、もう行動は終わっていた。


気付けば私は何処にそんな力が備わっていたのかという具合に鉄格子を粉々に破壊して、少年の身体を押し倒し、着物の合わせを崩して真っ白く滑らかな骨の浮いた首筋に"牙"を立てていた。

自分の下から聞こえるくぐもった鈍い悲鳴に、ゾクゾクと心が踊る。

「…ッ!!やはり理性の失せた化け物だったか!!」
「…ぷはっ、だから相対主義だってば、お前達が私を化け物だと思うから私は化け物なんだよ。そういうもんだろ、この世界って」
「何を言って…!」

若い新芽の如くアッサリとした、上質かつ程よく甘い血に酔いしれる。鼻を抜ける清廉潔白とした香りは、きっとこの少年の魂の香りなのだろう。
共に息が乱れる、気分が高揚する、下半身にグズリと熱が溜まっていく。
身体に灯った快楽がクラクラと煮え立ち、少年の頬が赤く染め上げられる。同時に、心拍数が上がり脈拍が早くなる。

なるほど、血を吸うってのは実にアンモラルな影響が及ぶのだな。

ハァ…ハァ…と、口で荒く息をしながら眉を顰めた眼下の少年を前に、私は自身の口元に付着した血を親指で拭って舌で舐め取った。

「…ごちそうさま。ありがとね、お陰様で元気が出たよ」
「……ハァ、ハァ…よくも、」
「ごめんて、食事のお礼はするから許してよ、えーっと……」

この餌、名前なんだっけ…まあ、餌だから名前とか知らんくてもいいか。

力の抜けた身体に熱を抱えながら、なんとか腕を伸ばし私を退けようとしてくる姿はほんのちょっぴり可愛かった。
私の冷たい手のひらを赤らんだ頬に添えてやれば、冷たさを感じ入るようにほぅ…と熱の籠もった息を吐き出す。

「…ンッ……ひ、一先ず…ハァ…上から退いて、くれないか……」
「…お、君は加茂憲紀くんっていうのか」
「ッ!?何故、名前を…」
「6月5日生まれ…勉強が好きで友達が居なくて…」
「待て、友人くらい私にだって居る…!」

血液にはありとあらゆる情報が詰まっている。
それを飲んだせいだろう、この私の下で慌てふためく少年改め、加茂憲紀くんの情報がズバズバと私の脳内に勝手に入り込んできた。
好きな食べ物から始まり嫌いな人間の名前、挙げ句の果てには最後に自慰をした日付までフルオープン。

えっと、なになに?
好きなタイプはお淑やかで母性を感じられるタイプで、好きな部位はうなじや首筋、耳などか…他には…ふむ、なるほど。

「…赤血操術の使い手、加茂家相伝の術式……」
「まさか、血を吸った事で私の情報を得たのか?」
「そして最近珈琲の美味しさに気付いた……あと今日のパンツは無地の紺…」
「じょ、女性が下着について口にするなど…!」

色んな意味で慌てふためく憲紀くんのことが色んな意味で心配になった。

先程までの怒りはいずこへ、今はこのイマイチ足りていないお坊っちゃんがこれから先この呪術界で上手くやっていけるかどうか…という親心に似た気持ちが沸き立つ。
恐らくこれは庇護愛というやつだろう、人間が犬や猫を守り愛でたくなる心情に近い。
まあ、私は呪術界なんて大して知らないし、人間は餌として認識出来るようになっちゃたんで、どっちかと言うと畑に育つ農作物に対する農家の気持ちの方かもしれないが。

それはさておき、同学年の異性が自分の下で息を乱しながら顔を赤くさせプリプリしている様はなんとも愉快なものでして。
思わず勝手に口端が片方だけ上がり、フッと笑い声が小さく鼻から漏れ出てしまう。
頬に添えた指先をスルリと滑らせ、顎を撫でてそのまま親指を掛けた。
痛快痛快、獲物が手の内にあるのは実に良い気分だ。

全身を強張らせ歯を食いしばる姿に食欲がそそられる。
どれ、折角だしもう一噛みしておこうかと口を開いたその瞬間であった。

視線を感じ、そちらを向く。
すると、開け放たれた引き戸の向こうには見知った男が興味を抑えきれない様子でこちらを注視していた。


「あ、ごめんお楽しみ中だった?続けて続けて、僕は外で待っとくから!」
「……だってよ憲紀くん、続ける?」
「…私は早く退いてくれとさっきも言ったはずだが。あと、その馴れ馴れしい呼び方を止めてくれ」


いやでも加茂ってお名前の方沢山居るみたいだし、呼び捨ては恥ずかしいし、さん付けは距離感あり過ぎるし…。

餌の適切な呼び方に悩みながらも、私は彼の上から言われた通りに退き、よっこいせと立ち上がった。
久方振りに力を入れた脚はまるで自分の物では無いかのようにしっかりとしており、身体の隅々まで行き渡る得体の知れないパワーを確かに感じる。
これが…NASAが追い求めていた(かもしれない)パワー…!!
果てしなくいらねえ!!普通の身体に戻りたい!!

両の手を見下ろしながら、グッパグッパと手を開いたり閉じたりして感覚を確かめる。

「これ…元に戻れるの……?」
「戻りたいの?」

私の呟きに反応した五条さんが尋ねてくる。
それに対し、首を小さく縦に振って答える。

「じゃあ一緒に探そうか、戻れる方法」
「……どうやって?」
「呪術師をしながら、君の食した呪いについて調べていけば良い」
「……ここから出て良いの?」
「勿論!」

「そのために僕が来たんだから」 そう言って得意気な笑みを浮かべる五条さんの姿に、すり減った人の心が少しだけ戻ってくる感覚がした。


人が私を化け物と呼ぶ時、私は化け物になる。
しかして反転、人が私を人と慈しむ時、私は人としての心を取り戻せる。

他人の認識は私をどう変えていくのか。
この時の私は、数年先の自分の有り様など何も知らなかった。
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