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だがしかしこの女、パンツを穿いていないのである。

乙骨とリカの攻撃により瀕死の状態となった夏油は、血を流して息を切らしながら戦線を離脱しようと足を引き摺って歩いていた。

乱れた髪、上がる息、眩む視界、失った腕に片手を添えながら何処かを目指して足を前に進める。

そんな夏油の背後からカツ、カツ、カツ、と軽やかなヒールの音が聞こえ、次いで「やっぱり居た」と女の声が聞こえた。
壁に手をつき振り返った夏油が見たものは、先程乙骨と居た寒そうな姿をした少女。
やや首を傾げながら、コート片手に背後に立つその表情は、先程のものとは違いどうにも重く固く冷たく感じる。
シミやソバカスの無い透き通るように瑞々しい肌を露出させ、髪をあげて首を晒し、5cmはあるだろう黒のヒールブーツを履く脚はスラリと無駄な筋肉の無い美しい至極の物だ。その脚を一歩、二歩と前に進めると少女は小さく溜め息をついて口を開いた。

「…男か、出来れば女が良かったんだがな……仕方無い、そこは妥協してやるか」

一度首をグルリと回してから右手に鎖を現す、瀕死の状態だろうと警戒体勢を取った夏油に「もう遅い」と冷ややかに言うと、少女は一度鎖を引くような仕草を見せた。
すると、夏油の身体の上を見えない何かが這い、グルリと囲んだかと思えばその身を強く締め付け拘束する。
首筋にまで這い上がって来た何かが夏油の首を細い舌のような物でシュルリと舐めた。
得体の知れない補食者が、確かに自分を狙っていた。

「戦いってのは嫌な物だな、自分から手を出したにしろ、強制されたにしろ、一度触れてしまえば一生人生に付きまとう呪いだ」

コツ、コツ、一歩一歩近付いてくる少女の顔に暗い影が差す。暗闇と同化して見えなくなった表情で「夏油傑、若くして異例の道を歩かれた、努力したのですね」と、実に淡々とした世辞が飛ぶ。

「君にくらべたら良い歳さ」

何だ、この子供は。
いや、子供か?身を締め付ける力とは別に、身体も空間も支配されていくような息苦しさを感じる。なのに、目の前の存在から妙に目を離せない。
一体何が起きている。

「貴方の思想もやり方も決して間違いでは無い、今時聖人だって神の愛を説きながらアサルトライフルを乱射する」

とつとつと語る言葉は決して否定のものでは無い。少女が口を閉ざして数秒、不意に小さな笑い声が聞こえたと思えば少女は夏油の側へと再び歩き出した。
夕焼けの下、見えた表情は笑みの形、楽しげに細められた瞳と上がる口角。酷く愉しそうに笑みを携えながら、至近距離までやって来た少女は夏油の顔を下から見上げるようにして見据えると、自らの両手を持ち上げ、演説のように語ることを再開した。

「地獄の淵を歩いた貴方の人生には、今、二つの扉が用意されている」

右手を持ち上げながら、少女は大層愉快に口の端を持ち上げる。

「一つは地獄への扉だ、後数分すれば五条悟が来て終わり。そうすれば貴方の行き着く先はただ一つ、地獄に他ならない」

地獄は貴方を歓迎してくれるだろう、貴方が殺した非術師が歓喜と絶望の雄叫びを挙げながら、何度も何度も貴方に懊悩煩悶(おうのうはんもん)を煮詰めた罰を与えてくれるだろう。
舌を抜かれて、身を裂かれ、針の山で串刺しにされても飽き足らぬ責め苦を与えられることだろう。


「さて、しかし貴方にはもう一つ扉がある」


少女はスカートをヒラリと翻しながら、クルリとその場で一回転し、夏油から距離を取ると、恭しく腰を折って左手を誘うようにして扉を開ける仕草をした。


「楽園への扉だ」


瞬間、夏油の呼吸が止まる。
瞳を見開き、小さく口を開いた。
その言葉は、ずっとずっと夏油が求め続けた言葉に他ならない。
非術師の存在しない世界、呪いの無い世界、自分が心から笑える世界。

少女は超俗的なオーラを纏って夏油の瞳を射抜くように見つめる。

「貴方達は平和のために命を賭して戦った、だが、一体この世界に何の影響を与えられたと言うのか」

非術師を殺せば世界は救われる?馬鹿な、呪術師と呪術師の間からだって一般人みたいな奴等は産まれてくる。
地獄への扉を潜れば楽になれる、もう世界平和なんて考えなくていいんだ。

だが、それで良いのか?
地獄への扉の先には死が待っている。
逃亡?その選択肢は果たして答えに通じているか?馬鹿な、10年掛けて見付からなかった答えが、逃げた先に用意されているわけが無い。

「楽園への扉の先に、やっと答えは待っている」

力強い、豪然たる眼差しで夏油を見据えた少女は、爪の先まで寸分違わず完璧なまでに美しき彫刻のような手を差し出した。

「私と共に楽園に行かないか?夏油傑」


旧約聖書において、蛇は人間を誘惑し、禁断の果実を口にさせたという。
楽園を追放された蛇は、神の呪いを受け地を這いずることとなった。

蛇は楽園において、唯一神に反逆する感情を持ち、行動が出来た生き物だ。
神の命令を知る蛇だけが、人間と会話出来た。
何故なら蛇とは悪魔に他ならない。


蛇は人を唆す。
知恵の実を食べよ、さすれば目が開け、神のように善悪を知るものとなる。

見たい物が見れる。
答えを知れる。

探求心、知的欲求、知りたいと思う願望を止める者など居なかった。
何故なら、蛇だけが人間と会話をする権利を持っていたからだ。


夏油傑と対話していたのは、他ならぬ蛇であった。


知恵を求めて伸ばされた夏油の手は少女の指先にそっと触れた。
その瞬間、首元に居座り彼を拘束していた何かが口を開き、補食者の証とも言える鋭い歯で夏油の首に噛みつく。

そうして、夏油の意識が暗転していく、美しい笑みを浮かべた少女が手をしっかりと握りながら囁くように呟いた。

「王道楽土へようこそ、貴方を歓迎するよ」

行き着く先は一体何処か。

それは誰にも知らぬこと。
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