姉と私の信仰恋慕
たまには私からも幼少期の話をしよう。
といっても、私にとって人間の身体を得てからの幼少期とは、単なる肉体の慣らし期間に過ぎなかった。
浅い自我と慣れない手足を駆使し、一刻も早い環境適応をする。そのためだけに日々を消費していた。
2歳の頃か、弟…と呼ばれる個体が、私を産み出した人物から産まれた。
一目見て「興味の対象外」と判断し、私はソレを意識の端に追いやった。
弟が産まれてからは、母はそちらに付きっきりになった。
私にとって家族とは、私の適応を助ける一要因でしかないため、母が弟にばかりかまけているのも別に何とも思わなかった。
そもそも、母親だとも心の底では思ったことは無い。
私の家族は月だけだ。
あの夜の黒に神々しく昇り続ける、空の向こうにある星だけ。
月だけが、私の母であり父であり故郷だった。
家族仲は良好だと、母は皆に自慢する。
頭の良い、手の掛からない子供だと私のことを自慢する。
まるで自分の子じゃないみたい、と口に出して自慢する。
私はそれを聞きながら、心の中で冷たく謗る。
これが人間、これが親。
人間は上辺だけを見て他人を理解する。
例えそれが腹を痛めて産んだ子であろうと、自分に都合が良いように曲解する。
理解しようとする脳が足りていない、理解するつもりが端からない。
ああ、私はこんなもの達と同じものになってしまったのか。
この先、こんなもの達と意思疎通を図りながらやっていかねばならないのか。
なんて面倒臭い、馬鹿馬鹿しい、あまりにも惨めな末路だ。
月よ、私を嘲笑ってくれ。
お前が生み出し捨てた命は、とうとう地獄で苦しみを得たぞ。
これがお前の望んだ私の在り方ならば、存分に蔑み笑えばいい。
それでも私はお前を諦めはしないだろうよ。
月を睨み上げて人間を軽蔑する。
それが私の幼少期。
そんな日々を辿っていたある日、日常はくるりと色を変えた。
その日は、とても月の綺麗な夜だった。
………
「スグルくんが帰って来ない」
慌て出した母を尻目に、私はピアノを弾いていた手を止め楽譜を仕舞いだした。
どうせ次に言われる言葉は分かっている、スグルくんを探してこいって話に決まっている。
この母親という個体は、私が何も言わないのを良いことに、私に遠慮無くあれこれ物事を頼んでくる癖がある。
面倒で厄介だが、出来る事が増えるのは非常に有り難い。
私はさっさと家族等と呼称される、この狭くて小さな、最小単位の社会から出ていきたいのだ。
だからまあ、今回も二つ返事で請け負い家を出た。
今日のアレは、珍しくも学校から帰宅後、校庭に遊びに行くと言って出ていった。
だから、校庭にまだ居るか…下校ルートをほっつき歩いているかの二択だろう…と、私は早足で家から学校へ向かった。
しかし、辿り着いた学校のグラウンドにはもう誰も居らず、顎に指を掛けて考える。
これは帰宅途中に何かあったと考えるべきだろう。
呪霊にでも襲われたか、はたまた逃げている最中か。
どちらにせよ、さっさと見つけないと"家族"が壊れる。弟はていの良い防波堤なのだ、母親が私に干渉しないための。それを失うのは些か惜しい。
仕方無い、探し出してやるか。
集中力を高め、空を見上げながら呪いの気配を手繰り寄せる。
西の空、太陽の沈む方。
茜の終わり、夜の始まり。
脆く、弱い、子供を狙った呪霊の歪な笑い声が空気を微かに揺らしていた。
それを確かに感じ取り、子供の小さな足で走り出す。
別に、弟に対して愛着など持っていない。
私にとって、アレはただの同じ遺伝子を持っただけの他人だ。特別な物でも無ければ、愛しいと感じたことは一切無い。
視界に入ることすら稀なソレの恐怖を感じ取り、ただ義務として助けに向かう。
向かい風を払って、灯りの無い道をひたすらに進み、闇に紛れて手招く者達の尽くを片っ端から重力を持って押し潰す。
邪魔だ、煩わしい。無価値な者が私に近付くな、不愉快だ。
ああ、そうだ、そうなのだ。
全く持ってこの"人生"等というのもは、不愉快極まるものなのだ。
下等で愚かで分かり合えない奴等と暮らすのは不愉快だ。
自分と私が同じレベルだと勘違いして対話を試し見てくる学校の奴等が不愉快だ。
見れば分かる程度の物事を成し遂げただけで天才だと囃し立てる奴等が不愉快だ。
何よりも、月に見捨てられた己の有り様が不愉快だ。
苛立ちを胸に、視線の先で今にも弟に襲い掛かろうとしている呪霊を睨み付ける。
あんなゴミのような奴のせいで、偉大なる月の下をこの惨めな手足を揺らして歩かなければならないなんて。
ああ、不快だ、不愉快だ。
こんな世界、さっさと終わってしまえば良いのに。
ピキリッ
アスファルトが割れる音がした。
それは私の荒んだ心を表すに相応しい一撃であった。
術式を使った高等な技術でも無ければ、繊細な技術でもない。単なる八つ当たり。
ただただ、呪力を重力に変換し、上から押し潰しただけの、単純かつ単調な技。
グチュリッ
不愉快な物が潰れる、不快な音がした。
白く輝く月の下にはあまりに不似合いな悲鳴を、指先一つで質量として呪力に変換し、強制的に静寂を取り戻す。
呪霊が居た場所のすぐ側には、見窄らしく涙を流しながらこちらを唖然と見つめる弟の姿があった。
私と同じ黒髪で、私と同じ黒い目をした、私とは違う正しい人間。
守られるべき子供、愛されるべき命、救われるべき人。
つまらない、ただのガキ。
それに向かって、私は"姉"としての義務を果たすために口を開いた。
「傑くん、転んじゃったの?」
首を傾げ、割れたアスファルトの上に立ちながら、下等な生き物を見下すように見下ろした。
私を見上げるその顔が、あまりにも惨めで汚らしく、見るに堪えないと思ったのでハンカチを取り出し拭ってやる。
ゴシゴシと、遠慮のない力加減でひたすらに。
「ピアノから帰ったらいないんだもん、探しに来ちゃったよ」
「ンググッ」
「宿題やったの?あ、今日の夕ごはんシチューだって」
姉らしく、あたかも心配していましたと言わんばかりに優しいフリをする。
泣き止まない弟を面倒に思いながらも、さっさと帰って一人の時間を過ごすために立ち直らせてやろうと抱き寄せた。
「怖かったね、もう大丈夫だからね」
私の形だけの言葉に感極まったのか、緊張の糸が切れたのか、はたまた孤独から解放されたとでも思ったのか。
弟は火が着いたかのように、私にしがみつきながらワンワンと泣き出した。
それはもう聞いたことの無いくらいに、悲鳴に近い声で独りぼっちの寂しさを訴える。
「も、もうやだ!いやだ!!」
「うん、やだね」
ああ本当に、やだね。こんな世界。
「こんなの、なんで、ぼくばっかり!」
「うん、怖かったね傑くん」
「こわかった、こわかった、おねえちゃあぁん!」
この時はじめて、私は人間に同族意識を持った。
それは産まれて初めての感情だった。
私はずっと、弟と同じ気持ちで生きてきたのだと他人事のように理解する。
寂しかった、独りぼっちで辛かった。
孤独だった、誰とも分かりあえず悲しかった。
怖かった、この世で自分ただ一人が異物であることが。
私と同じ黒髪の、私と同じ目の色をした、私とよく似た男の子は、私と同じ孤独を募らせ生きていた。
その事実に、どうしてだろうか…私は不思議なくらい、酷く安堵してしまった。
自分だけでは無いのだと、自分だけが異物では無い、自分だけが惨めで哀れな命なわけじゃない。
弟も同じだ。こんなどうしようもない世界に頼んでもないのに生み出されて、立派に生きろと期待され、誰にも理解されない悩みを抱えて生きている。
夜を怖がり、人と分かりあえず、呪いを受けて産まれてきた。
私と同じ。
私達は同じ。
この子だけは、同じ人間なのだ。
初めて抱いた同族意識は、日常をゆっくりジワジワと変えていく。
私の意識の端にはいつだって弟が居るようになった。
弟は同じ人間、弟だけが同族、同族ならば大切にしなければならない。だから、彼の我儘を沢山聞いてあげた。それは義務ではなく、愛着から来るものだった。
弟が嫌がるならば、星は見ない。
君が望むのならば、一緒に寝よう。
傑くんが愛してくれるなら、私はここに居よう。
信者が望むのならば、神様にだってなってやろう。
君が好きだから。とてもとても大切だから。
月よりも星よりも、隣に居てくれる同じ存在の方が愛しくなるに決まっている。
私を見てくれる、私を愛してくれる、私を見捨てないでいてくれる。
私の弟、私の唯一の同族、私だけの家族。
洗脳?独占欲?近親相姦?
そんなもの、どうだっていい。
だって君の側を選んだのはこの私だ、私が自ら「傑くんだけは絶対だ」と定めたのだから、文句なんてあるはず無い。
私は君の姉として、唯一の同族として、誰よりも何よりも君の幸せを願っている。
健やかなる巣立ちと、幸福な毎日を見つけて欲しいと毎日思っている。
ただそれだけだ、本当に。
愛なんだ、唯一無二の。
掛け替えのない、私のための夜なんだ。
といっても、私にとって人間の身体を得てからの幼少期とは、単なる肉体の慣らし期間に過ぎなかった。
浅い自我と慣れない手足を駆使し、一刻も早い環境適応をする。そのためだけに日々を消費していた。
2歳の頃か、弟…と呼ばれる個体が、私を産み出した人物から産まれた。
一目見て「興味の対象外」と判断し、私はソレを意識の端に追いやった。
弟が産まれてからは、母はそちらに付きっきりになった。
私にとって家族とは、私の適応を助ける一要因でしかないため、母が弟にばかりかまけているのも別に何とも思わなかった。
そもそも、母親だとも心の底では思ったことは無い。
私の家族は月だけだ。
あの夜の黒に神々しく昇り続ける、空の向こうにある星だけ。
月だけが、私の母であり父であり故郷だった。
家族仲は良好だと、母は皆に自慢する。
頭の良い、手の掛からない子供だと私のことを自慢する。
まるで自分の子じゃないみたい、と口に出して自慢する。
私はそれを聞きながら、心の中で冷たく謗る。
これが人間、これが親。
人間は上辺だけを見て他人を理解する。
例えそれが腹を痛めて産んだ子であろうと、自分に都合が良いように曲解する。
理解しようとする脳が足りていない、理解するつもりが端からない。
ああ、私はこんなもの達と同じものになってしまったのか。
この先、こんなもの達と意思疎通を図りながらやっていかねばならないのか。
なんて面倒臭い、馬鹿馬鹿しい、あまりにも惨めな末路だ。
月よ、私を嘲笑ってくれ。
お前が生み出し捨てた命は、とうとう地獄で苦しみを得たぞ。
これがお前の望んだ私の在り方ならば、存分に蔑み笑えばいい。
それでも私はお前を諦めはしないだろうよ。
月を睨み上げて人間を軽蔑する。
それが私の幼少期。
そんな日々を辿っていたある日、日常はくるりと色を変えた。
その日は、とても月の綺麗な夜だった。
………
「スグルくんが帰って来ない」
慌て出した母を尻目に、私はピアノを弾いていた手を止め楽譜を仕舞いだした。
どうせ次に言われる言葉は分かっている、スグルくんを探してこいって話に決まっている。
この母親という個体は、私が何も言わないのを良いことに、私に遠慮無くあれこれ物事を頼んでくる癖がある。
面倒で厄介だが、出来る事が増えるのは非常に有り難い。
私はさっさと家族等と呼称される、この狭くて小さな、最小単位の社会から出ていきたいのだ。
だからまあ、今回も二つ返事で請け負い家を出た。
今日のアレは、珍しくも学校から帰宅後、校庭に遊びに行くと言って出ていった。
だから、校庭にまだ居るか…下校ルートをほっつき歩いているかの二択だろう…と、私は早足で家から学校へ向かった。
しかし、辿り着いた学校のグラウンドにはもう誰も居らず、顎に指を掛けて考える。
これは帰宅途中に何かあったと考えるべきだろう。
呪霊にでも襲われたか、はたまた逃げている最中か。
どちらにせよ、さっさと見つけないと"家族"が壊れる。弟はていの良い防波堤なのだ、母親が私に干渉しないための。それを失うのは些か惜しい。
仕方無い、探し出してやるか。
集中力を高め、空を見上げながら呪いの気配を手繰り寄せる。
西の空、太陽の沈む方。
茜の終わり、夜の始まり。
脆く、弱い、子供を狙った呪霊の歪な笑い声が空気を微かに揺らしていた。
それを確かに感じ取り、子供の小さな足で走り出す。
別に、弟に対して愛着など持っていない。
私にとって、アレはただの同じ遺伝子を持っただけの他人だ。特別な物でも無ければ、愛しいと感じたことは一切無い。
視界に入ることすら稀なソレの恐怖を感じ取り、ただ義務として助けに向かう。
向かい風を払って、灯りの無い道をひたすらに進み、闇に紛れて手招く者達の尽くを片っ端から重力を持って押し潰す。
邪魔だ、煩わしい。無価値な者が私に近付くな、不愉快だ。
ああ、そうだ、そうなのだ。
全く持ってこの"人生"等というのもは、不愉快極まるものなのだ。
下等で愚かで分かり合えない奴等と暮らすのは不愉快だ。
自分と私が同じレベルだと勘違いして対話を試し見てくる学校の奴等が不愉快だ。
見れば分かる程度の物事を成し遂げただけで天才だと囃し立てる奴等が不愉快だ。
何よりも、月に見捨てられた己の有り様が不愉快だ。
苛立ちを胸に、視線の先で今にも弟に襲い掛かろうとしている呪霊を睨み付ける。
あんなゴミのような奴のせいで、偉大なる月の下をこの惨めな手足を揺らして歩かなければならないなんて。
ああ、不快だ、不愉快だ。
こんな世界、さっさと終わってしまえば良いのに。
ピキリッ
アスファルトが割れる音がした。
それは私の荒んだ心を表すに相応しい一撃であった。
術式を使った高等な技術でも無ければ、繊細な技術でもない。単なる八つ当たり。
ただただ、呪力を重力に変換し、上から押し潰しただけの、単純かつ単調な技。
グチュリッ
不愉快な物が潰れる、不快な音がした。
白く輝く月の下にはあまりに不似合いな悲鳴を、指先一つで質量として呪力に変換し、強制的に静寂を取り戻す。
呪霊が居た場所のすぐ側には、見窄らしく涙を流しながらこちらを唖然と見つめる弟の姿があった。
私と同じ黒髪で、私と同じ黒い目をした、私とは違う正しい人間。
守られるべき子供、愛されるべき命、救われるべき人。
つまらない、ただのガキ。
それに向かって、私は"姉"としての義務を果たすために口を開いた。
「傑くん、転んじゃったの?」
首を傾げ、割れたアスファルトの上に立ちながら、下等な生き物を見下すように見下ろした。
私を見上げるその顔が、あまりにも惨めで汚らしく、見るに堪えないと思ったのでハンカチを取り出し拭ってやる。
ゴシゴシと、遠慮のない力加減でひたすらに。
「ピアノから帰ったらいないんだもん、探しに来ちゃったよ」
「ンググッ」
「宿題やったの?あ、今日の夕ごはんシチューだって」
姉らしく、あたかも心配していましたと言わんばかりに優しいフリをする。
泣き止まない弟を面倒に思いながらも、さっさと帰って一人の時間を過ごすために立ち直らせてやろうと抱き寄せた。
「怖かったね、もう大丈夫だからね」
私の形だけの言葉に感極まったのか、緊張の糸が切れたのか、はたまた孤独から解放されたとでも思ったのか。
弟は火が着いたかのように、私にしがみつきながらワンワンと泣き出した。
それはもう聞いたことの無いくらいに、悲鳴に近い声で独りぼっちの寂しさを訴える。
「も、もうやだ!いやだ!!」
「うん、やだね」
ああ本当に、やだね。こんな世界。
「こんなの、なんで、ぼくばっかり!」
「うん、怖かったね傑くん」
「こわかった、こわかった、おねえちゃあぁん!」
この時はじめて、私は人間に同族意識を持った。
それは産まれて初めての感情だった。
私はずっと、弟と同じ気持ちで生きてきたのだと他人事のように理解する。
寂しかった、独りぼっちで辛かった。
孤独だった、誰とも分かりあえず悲しかった。
怖かった、この世で自分ただ一人が異物であることが。
私と同じ黒髪の、私と同じ目の色をした、私とよく似た男の子は、私と同じ孤独を募らせ生きていた。
その事実に、どうしてだろうか…私は不思議なくらい、酷く安堵してしまった。
自分だけでは無いのだと、自分だけが異物では無い、自分だけが惨めで哀れな命なわけじゃない。
弟も同じだ。こんなどうしようもない世界に頼んでもないのに生み出されて、立派に生きろと期待され、誰にも理解されない悩みを抱えて生きている。
夜を怖がり、人と分かりあえず、呪いを受けて産まれてきた。
私と同じ。
私達は同じ。
この子だけは、同じ人間なのだ。
初めて抱いた同族意識は、日常をゆっくりジワジワと変えていく。
私の意識の端にはいつだって弟が居るようになった。
弟は同じ人間、弟だけが同族、同族ならば大切にしなければならない。だから、彼の我儘を沢山聞いてあげた。それは義務ではなく、愛着から来るものだった。
弟が嫌がるならば、星は見ない。
君が望むのならば、一緒に寝よう。
傑くんが愛してくれるなら、私はここに居よう。
信者が望むのならば、神様にだってなってやろう。
君が好きだから。とてもとても大切だから。
月よりも星よりも、隣に居てくれる同じ存在の方が愛しくなるに決まっている。
私を見てくれる、私を愛してくれる、私を見捨てないでいてくれる。
私の弟、私の唯一の同族、私だけの家族。
洗脳?独占欲?近親相姦?
そんなもの、どうだっていい。
だって君の側を選んだのはこの私だ、私が自ら「傑くんだけは絶対だ」と定めたのだから、文句なんてあるはず無い。
私は君の姉として、唯一の同族として、誰よりも何よりも君の幸せを願っている。
健やかなる巣立ちと、幸福な毎日を見つけて欲しいと毎日思っている。
ただそれだけだ、本当に。
愛なんだ、唯一無二の。
掛け替えのない、私のための夜なんだ。