弟によって神格化されそうになっているのだが…2
今まで一度だけ、姉と喧嘩をしたことがあった。
と言っても、喧嘩と呼べるような代物ではなく、私が勝手にへそを曲げていただけだったのだが。
姉さんを特別好きになってから何度目かのクリスマスの後、その年の姉さんへのプレゼントは子供用の天体観測用望遠鏡だった。
細長い鏡筒の、前面にはめた対物レンズが遠くの夜空を鮮明に映し出す。
姉さんは案の定、すぐに望遠鏡に夢中になった。
クリスマスが来るまでは、毎日私と宿題や雪遊び、図書館で借りてきた間違い探しの本を読んだり七並べをしたりしていたのに…望遠鏡が来てから、姉さんはずっと接眼部から覗いた空を、飽きること無く見続けていた。
「今日は南のリゲルが良く見える」
誰に言うでも無く呟いて、学校で配られた星座早見盤と照らし合わせて空を見る。
最初は姉さんの邪魔をしないようにと我慢していたが、何日も何日も、正月が来ても、三が日が終わっても、ずっと望遠鏡を覗き続ける姉さんに、ある日とうとう嫌気が差した。
夜空なんかよりも私を見て欲しくて、その思いが止められなかったことを理由に、私は朝早くにこっそり望遠鏡を隠してしまった。
勿論、姉さんは朝起きてすぐに気がつく。
まずは自分で色々と探し、それでも見つからなくて親に尋ねる。
親が知らないと言えば、もう一度自分で探す。しかし、見つからない。
自分がやったことのせいで困る姉さんを眺めるのは、正直に言って気持ちが良かった。
間接的に自分のために時間が割かれていると錯覚したからだ。
本当は私のことなど眼中に置いているはずもなく、ただ望遠鏡を探す以外にその行動に意味は無かったのだが、幼い私にとって「姉さんが私のせいで困っている」という状況は、中々に優越感に似た感情を覚えさせた。
だが、結局姉さんは私が隠した望遠鏡を見つけ出し、その日の夜もまた、空を眺め出してしまった。
「おねえちゃん…」
「おいでよ、今日はオリオン大星雲が見事な、」
「やめろよ!!!」
多分、姉さんに強い言葉を使ったのはあの日が最初で最後だと思う。
私の叫びにも近い声に、振り返って目を見開いた姉さんに、涙を堪えながら寂しさを訴えた。
「星ばっか見て、そんなだから、ともだちいないんだよ!」
「…………友達は、べつにいらないけど」
驚いたように目を大きくしたまま、姉さんは当たり前のことを当たり前のように呟いた。
そりゃあそうだ、この人は友達を欲したことなんて幼少期に一度たりとも無かったし、今だって本当は別にあってもなくても良い物なはずだ。
けれど、当時の私にとっては輝ける憧れの姉の、唯一の欠点にも見える要素だったのだ。
それをそんな風に否定されてしまえば、何も言えなくなる。
悔しさに背中を向けた私は、姉さんの「あっ」という声を耳にしながらも自室へと走って逃げて行き、ベッドの中に頭から突っこんで閉じ籠もった。
姉への苛立ちと同時に、酷いことを言ってしまったという罪悪感がまぜこぜになって、息の仕方を忘れるくらいに泣いた。
星と比べれば、自分はどれだけ惨めでちっぽけなのだろう、あの人を喜ばせる努力の一つもしていないのに、何を言っているんだろう。
グサグサと、自分の心に後悔という名のナイフを突き立て続ける。
姉との喧嘩などはじめてで、このあとどうしたら良いのかも勿論分からなくなった。
酷いことを言ってしまったのに許して貰えるだろうか、もしかしたら自分のことなど面倒でどうでも良くなってしまっただろうか、今もまだ星を見ているのだろうか。
不安が心の中を渦巻き、顔の下にある部分のベッドシーツをグショグショに濡らし尽くした頃、ノックの一つも無くガチャリと扉が開いた。
「傑くん、さっきはごめんね」
扉の側から動かない気配が、普段と変わらない声色で謝る。
「友達はいらないけど、傑くんは大切だから仲直りさせてくれないかな」
「……………………」
「ごめんね、君のことがとても好きだよ」
「……………………おねえちゃん」
ベッドから顔を出せば、こちらをジッと見つめる姉の姿があった。
その姿を見てしまえば最後、苛立ちも嫉妬も不安も忘れて駆け出さずにはいられなくなる。
クチャクチャになった顔で布団を跳ね除け、飛び付くように抱き着けば、ふわりと一瞬風が消えて、身体が軽くなる。そうして、そのままギュッと抱き締められた。
「ほんとに?星よりも好き?」
「もちろん」
「月よりも好き?」
「ええ」
「どこにもいかない?ずっと一緒?ずっとだいすき?」
「君が思ってくれる限りは、きっとそうだろうね」
求めていた肯定の言葉に、心が歓喜に満ちていく。
安堵からくる涙をもう一度だけ流し、身体から抜けていく力に身を任せながら瞼を閉じれば、意識の端で姉さんが何かを言うのが分かった。
しかし、何と言っていたのかは記憶に無い。
こうして翌日、スッキリと朝を迎えた私はリビングにあった望遠鏡が消えていることに気付くこととなる。
何処へ消えたのかは聞かなかったが、姉さんはあれ以来星を見上げることを私の前ではあまりしなくなったのだった。
…
姉さんと小学生ぶりに喧嘩をしている。
いや、正しくは"していた"かもしれない。
何せ私の負けはほぼ確定だからだ。
それは何故かと言うと、攻撃を仕掛けた瞬間にその攻撃が別エネルギーとして私に跳ね返ってきてしまうから。
さらに言えば、愛しい姉さんを殴るだなんて、とてもじゃないが出来るわけが無い。
つまり、私に出来ることは何も無いのだ。
だがしかし、それは姉さんも同じな様子。
カウンターを狙う姉さんは、構えを解かずに一定のリズムで左手を小さく揺らしながら、私が動くのを待っている。
さて、どうしたものか。
「姉さん、私にも悪いところがあったから、ここは引き分けにしないかい?」
「やだ」
「でも私は攻撃しないよ?」
「じゃあ私が攻撃するよ」
え、するんだ。
てっきり先に手を出した方の負けとか、そういう雰囲気かと思っていたんだが、どうやら違ったらしい。
姉さんはスッと拳を降ろすと、少し考え込むように明後日の方向へと視線をやった。
そうして暫くした後、話し始める。
「最近テレビで見た技をやります」
「姉ちゃんテレビとか見るんだ」
「予言します、この技を喰らったら傑くんはぶっ飛ぶ」
一体私は何をされるというのか。
ドキドキとその瞬間を待っていれば、姉さんの両手がスッ…と持ち上がり、親指を下へ斜めに向け、余った4本の指がアーチを描くように丸くなる。
ま、まさか…あの構えは!?
「いきます、必殺」
待て、そんな…やるのか!?あの俗世の一切とは無縁な姉さんが!?下々が面白がって喜ぶ魔法の言葉を!?
そして、神は言う。
「もえ、もえ、きゅんっ」
瞬間、あらゆる時間が止まった。
呼吸が止まり、瞬きが止まる。
空に流れる雲は急停止し、地球は太陽のまわりを回ることをやめた。
戦場では銃声は鳴り止み、赤子は産声を上げず、夜の街からは喧噪が消え失せた。
花々は芽吹きを止め、鳥は羽ばたきを控える。
全ての存在が神の言葉に耳を傾け、その思想と、尊き御心を傾聴した。
この日、この瞬間ばかりは世界のありとあらゆる存在はただひたすらに、天から舞い降りし神のために息を潜めたことだろう。そしてその後、思い思いの時を神の言葉を胸に秘め、過ごしたはずだ。
あるものは咽び泣き、またあるものは祈りを捧げ、そしてまたあるものは喜びにより廊下の端まで自主的に吹っ飛んでみせた。
必殺技をやり終えた姉さんは恥ずかしかったのか、スッと構えを解いて「…おわり」と言いながら頬を人差し指でぽりぽり掻く。
それを見た瞬間、私はあらゆる衝動を両足に注ぎ込み、その場から廊下の一番突き当りに向けて一気に矢の如く駆け出した。
そしてそのまま、望まれた通りに壁にぶつかってみせる。
ここまでの所要時間実に1.5秒、愛のなせる技であった。
バゴォオオッンッッッ!!!と盛大な音を立てて私は自ら廊下の壁に思い切りぶつかる。
後ろからは、悟による「す、傑ーーー!!!」という、腹から出した本気の叫びが聞こえた。
いいんだ、悟。
姉さんがぶっ飛べと言うならば、私はアラスカまでだってぶっ飛んでみせるとも。
それに、恥を忍んでここまでやってくれた姉さんに私だって報いたい。
痛みを抱えるのは姉さん一人だけでいいはずがない。
そう、引くに引けぬこの勝負の落としどころを姉さんが指し示してくれたのだ、乗っからないなんて選択肢は端から存在しなかった。
パラパラと砕けた壁と一緒に私も廊下の床に膝を付く。
こちらへ走り寄る2つの足音に顔を上げれば、二人は微妙な表情をしながら私の元までやって来たのだった。
「誰もここまでしろとは言ってねえだろ…ねぇ、姉ちゃん」
「うん…傑くん、大丈夫?」
「全然大丈夫、心配してくれてありがとう姉さん」
そして悟は少し姉さんと距離が近過ぎるから離れてくれ。
グイッと姉さんの手を引けば、私側へと寄って来てくれたので、そのまま立ち上がって腕の中に仕舞い込んでしまう。
ああ、小さくて薄くて可愛い。
たまらないサイズ感、一番フィットする。
ムギュムギュ、スリスリ。
「姉さん、さっきのまたやってくれない?今度はオムライスとセットで」
「モガガッ」
「傑!姉ちゃん絞まってる!」
「あ、すまない姉さん!私ったら…」
どうやら愛しさのあまり力加減を間違えていたらしく、私の胸元で酸素不足に陥ってしまっていた姉さんが「ぷはっ」と空気を吸うため大きく口を開いた。
…………私に向かって口を開いてる、体勢的にキスに最適なんだが…いや駄目だ、我慢だ。
そういうことはしっかり順序を守ってお行儀良くしていきたいからね。
あくまでも私は姉さんから見て、可愛くて優秀で頼れる弟で居たい。そして、その形を崩さぬままに特別になりたい。
そう、私は誰よりも姉さんの特別な存在でありたい。
星よりも、月よりも、他の全てより私のことを思っていてくれなきゃ嫌だ。
幼い頃からその気持ちは変わらない。
これは紛れもなく愛そのものだ。
私の愛は、太陽よりも明るく、星よりも輝かしく、万物から永遠に祝福されるべき愛だ。
神も悪魔もこの愛は引き裂けまい。
だって姉さんは言ってくれた。
私が思い続ける限り、何処にも行かないと。
ならば思い続けてみせるとも。
思って、想って、重しになってやる。
貴女は何処にも、行かせやしない。
と言っても、喧嘩と呼べるような代物ではなく、私が勝手にへそを曲げていただけだったのだが。
姉さんを特別好きになってから何度目かのクリスマスの後、その年の姉さんへのプレゼントは子供用の天体観測用望遠鏡だった。
細長い鏡筒の、前面にはめた対物レンズが遠くの夜空を鮮明に映し出す。
姉さんは案の定、すぐに望遠鏡に夢中になった。
クリスマスが来るまでは、毎日私と宿題や雪遊び、図書館で借りてきた間違い探しの本を読んだり七並べをしたりしていたのに…望遠鏡が来てから、姉さんはずっと接眼部から覗いた空を、飽きること無く見続けていた。
「今日は南のリゲルが良く見える」
誰に言うでも無く呟いて、学校で配られた星座早見盤と照らし合わせて空を見る。
最初は姉さんの邪魔をしないようにと我慢していたが、何日も何日も、正月が来ても、三が日が終わっても、ずっと望遠鏡を覗き続ける姉さんに、ある日とうとう嫌気が差した。
夜空なんかよりも私を見て欲しくて、その思いが止められなかったことを理由に、私は朝早くにこっそり望遠鏡を隠してしまった。
勿論、姉さんは朝起きてすぐに気がつく。
まずは自分で色々と探し、それでも見つからなくて親に尋ねる。
親が知らないと言えば、もう一度自分で探す。しかし、見つからない。
自分がやったことのせいで困る姉さんを眺めるのは、正直に言って気持ちが良かった。
間接的に自分のために時間が割かれていると錯覚したからだ。
本当は私のことなど眼中に置いているはずもなく、ただ望遠鏡を探す以外にその行動に意味は無かったのだが、幼い私にとって「姉さんが私のせいで困っている」という状況は、中々に優越感に似た感情を覚えさせた。
だが、結局姉さんは私が隠した望遠鏡を見つけ出し、その日の夜もまた、空を眺め出してしまった。
「おねえちゃん…」
「おいでよ、今日はオリオン大星雲が見事な、」
「やめろよ!!!」
多分、姉さんに強い言葉を使ったのはあの日が最初で最後だと思う。
私の叫びにも近い声に、振り返って目を見開いた姉さんに、涙を堪えながら寂しさを訴えた。
「星ばっか見て、そんなだから、ともだちいないんだよ!」
「…………友達は、べつにいらないけど」
驚いたように目を大きくしたまま、姉さんは当たり前のことを当たり前のように呟いた。
そりゃあそうだ、この人は友達を欲したことなんて幼少期に一度たりとも無かったし、今だって本当は別にあってもなくても良い物なはずだ。
けれど、当時の私にとっては輝ける憧れの姉の、唯一の欠点にも見える要素だったのだ。
それをそんな風に否定されてしまえば、何も言えなくなる。
悔しさに背中を向けた私は、姉さんの「あっ」という声を耳にしながらも自室へと走って逃げて行き、ベッドの中に頭から突っこんで閉じ籠もった。
姉への苛立ちと同時に、酷いことを言ってしまったという罪悪感がまぜこぜになって、息の仕方を忘れるくらいに泣いた。
星と比べれば、自分はどれだけ惨めでちっぽけなのだろう、あの人を喜ばせる努力の一つもしていないのに、何を言っているんだろう。
グサグサと、自分の心に後悔という名のナイフを突き立て続ける。
姉との喧嘩などはじめてで、このあとどうしたら良いのかも勿論分からなくなった。
酷いことを言ってしまったのに許して貰えるだろうか、もしかしたら自分のことなど面倒でどうでも良くなってしまっただろうか、今もまだ星を見ているのだろうか。
不安が心の中を渦巻き、顔の下にある部分のベッドシーツをグショグショに濡らし尽くした頃、ノックの一つも無くガチャリと扉が開いた。
「傑くん、さっきはごめんね」
扉の側から動かない気配が、普段と変わらない声色で謝る。
「友達はいらないけど、傑くんは大切だから仲直りさせてくれないかな」
「……………………」
「ごめんね、君のことがとても好きだよ」
「……………………おねえちゃん」
ベッドから顔を出せば、こちらをジッと見つめる姉の姿があった。
その姿を見てしまえば最後、苛立ちも嫉妬も不安も忘れて駆け出さずにはいられなくなる。
クチャクチャになった顔で布団を跳ね除け、飛び付くように抱き着けば、ふわりと一瞬風が消えて、身体が軽くなる。そうして、そのままギュッと抱き締められた。
「ほんとに?星よりも好き?」
「もちろん」
「月よりも好き?」
「ええ」
「どこにもいかない?ずっと一緒?ずっとだいすき?」
「君が思ってくれる限りは、きっとそうだろうね」
求めていた肯定の言葉に、心が歓喜に満ちていく。
安堵からくる涙をもう一度だけ流し、身体から抜けていく力に身を任せながら瞼を閉じれば、意識の端で姉さんが何かを言うのが分かった。
しかし、何と言っていたのかは記憶に無い。
こうして翌日、スッキリと朝を迎えた私はリビングにあった望遠鏡が消えていることに気付くこととなる。
何処へ消えたのかは聞かなかったが、姉さんはあれ以来星を見上げることを私の前ではあまりしなくなったのだった。
…
姉さんと小学生ぶりに喧嘩をしている。
いや、正しくは"していた"かもしれない。
何せ私の負けはほぼ確定だからだ。
それは何故かと言うと、攻撃を仕掛けた瞬間にその攻撃が別エネルギーとして私に跳ね返ってきてしまうから。
さらに言えば、愛しい姉さんを殴るだなんて、とてもじゃないが出来るわけが無い。
つまり、私に出来ることは何も無いのだ。
だがしかし、それは姉さんも同じな様子。
カウンターを狙う姉さんは、構えを解かずに一定のリズムで左手を小さく揺らしながら、私が動くのを待っている。
さて、どうしたものか。
「姉さん、私にも悪いところがあったから、ここは引き分けにしないかい?」
「やだ」
「でも私は攻撃しないよ?」
「じゃあ私が攻撃するよ」
え、するんだ。
てっきり先に手を出した方の負けとか、そういう雰囲気かと思っていたんだが、どうやら違ったらしい。
姉さんはスッと拳を降ろすと、少し考え込むように明後日の方向へと視線をやった。
そうして暫くした後、話し始める。
「最近テレビで見た技をやります」
「姉ちゃんテレビとか見るんだ」
「予言します、この技を喰らったら傑くんはぶっ飛ぶ」
一体私は何をされるというのか。
ドキドキとその瞬間を待っていれば、姉さんの両手がスッ…と持ち上がり、親指を下へ斜めに向け、余った4本の指がアーチを描くように丸くなる。
ま、まさか…あの構えは!?
「いきます、必殺」
待て、そんな…やるのか!?あの俗世の一切とは無縁な姉さんが!?下々が面白がって喜ぶ魔法の言葉を!?
そして、神は言う。
「もえ、もえ、きゅんっ」
瞬間、あらゆる時間が止まった。
呼吸が止まり、瞬きが止まる。
空に流れる雲は急停止し、地球は太陽のまわりを回ることをやめた。
戦場では銃声は鳴り止み、赤子は産声を上げず、夜の街からは喧噪が消え失せた。
花々は芽吹きを止め、鳥は羽ばたきを控える。
全ての存在が神の言葉に耳を傾け、その思想と、尊き御心を傾聴した。
この日、この瞬間ばかりは世界のありとあらゆる存在はただひたすらに、天から舞い降りし神のために息を潜めたことだろう。そしてその後、思い思いの時を神の言葉を胸に秘め、過ごしたはずだ。
あるものは咽び泣き、またあるものは祈りを捧げ、そしてまたあるものは喜びにより廊下の端まで自主的に吹っ飛んでみせた。
必殺技をやり終えた姉さんは恥ずかしかったのか、スッと構えを解いて「…おわり」と言いながら頬を人差し指でぽりぽり掻く。
それを見た瞬間、私はあらゆる衝動を両足に注ぎ込み、その場から廊下の一番突き当りに向けて一気に矢の如く駆け出した。
そしてそのまま、望まれた通りに壁にぶつかってみせる。
ここまでの所要時間実に1.5秒、愛のなせる技であった。
バゴォオオッンッッッ!!!と盛大な音を立てて私は自ら廊下の壁に思い切りぶつかる。
後ろからは、悟による「す、傑ーーー!!!」という、腹から出した本気の叫びが聞こえた。
いいんだ、悟。
姉さんがぶっ飛べと言うならば、私はアラスカまでだってぶっ飛んでみせるとも。
それに、恥を忍んでここまでやってくれた姉さんに私だって報いたい。
痛みを抱えるのは姉さん一人だけでいいはずがない。
そう、引くに引けぬこの勝負の落としどころを姉さんが指し示してくれたのだ、乗っからないなんて選択肢は端から存在しなかった。
パラパラと砕けた壁と一緒に私も廊下の床に膝を付く。
こちらへ走り寄る2つの足音に顔を上げれば、二人は微妙な表情をしながら私の元までやって来たのだった。
「誰もここまでしろとは言ってねえだろ…ねぇ、姉ちゃん」
「うん…傑くん、大丈夫?」
「全然大丈夫、心配してくれてありがとう姉さん」
そして悟は少し姉さんと距離が近過ぎるから離れてくれ。
グイッと姉さんの手を引けば、私側へと寄って来てくれたので、そのまま立ち上がって腕の中に仕舞い込んでしまう。
ああ、小さくて薄くて可愛い。
たまらないサイズ感、一番フィットする。
ムギュムギュ、スリスリ。
「姉さん、さっきのまたやってくれない?今度はオムライスとセットで」
「モガガッ」
「傑!姉ちゃん絞まってる!」
「あ、すまない姉さん!私ったら…」
どうやら愛しさのあまり力加減を間違えていたらしく、私の胸元で酸素不足に陥ってしまっていた姉さんが「ぷはっ」と空気を吸うため大きく口を開いた。
…………私に向かって口を開いてる、体勢的にキスに最適なんだが…いや駄目だ、我慢だ。
そういうことはしっかり順序を守ってお行儀良くしていきたいからね。
あくまでも私は姉さんから見て、可愛くて優秀で頼れる弟で居たい。そして、その形を崩さぬままに特別になりたい。
そう、私は誰よりも姉さんの特別な存在でありたい。
星よりも、月よりも、他の全てより私のことを思っていてくれなきゃ嫌だ。
幼い頃からその気持ちは変わらない。
これは紛れもなく愛そのものだ。
私の愛は、太陽よりも明るく、星よりも輝かしく、万物から永遠に祝福されるべき愛だ。
神も悪魔もこの愛は引き裂けまい。
だって姉さんは言ってくれた。
私が思い続ける限り、何処にも行かないと。
ならば思い続けてみせるとも。
思って、想って、重しになってやる。
貴女は何処にも、行かせやしない。