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夏油傑による姉神信仰について.2

現在の状況、ボロボロになった自室にて男四人で雑魚寝。

どうしてこうなっているのか、全く思い出せない。
昨夜は、一体何があったと言うんだ。

携帯を確認すれば、現在時刻は朝の8時20分。
あと10分でホームルームが始まる、今から準備をした所で間に合わない。何もかもがめちゃくちゃだ。

「何故……」

諦めよう、とりあえず全員起こすか…いや、私だけでもとりあえず行って事情を説明するか、どうするか…。
そんなことを考えながらも、何も出来ずに寝起きの回らない頭で呆然と壁が一部破壊された荒れ果てた室内を座って眺めていれば、頭上から影が差す。

「おはよう、よく眠れたかい」

降って来た声に首を反らして上を向けば、サラリと黒髪を揺らしながらこちらを見下ろす姉の姿があった。
澄ました顔で静謐な空気を纏い、私の様子をジッと見てくる姉に「…おはよう、姉さん」と挨拶を返せば、「ああ良かった」と笑みを綻ばせながら言う。

一体何のことだ?今のこの状況と何か関係が?
何も良くないと思うのんだけど、壁壊されてるし。

「あの、姉さん…何か知ってる?」
「大丈夫、先生には言っておいたからゆっくり支度しなさい」
「ありが、とう?」

姉さんがいつに無く頼もしい、どうしたというんだ一体。

こっちが色々と疑問を抱いている間も、本人はいつも通り飄々とした雰囲気で室内を眺めている。
足元に落ちていた破れた枕を摘み上げ、「買い直さなきゃね、色々と」と苦笑する姿に、やはり何か知っていると確信した。

「姉さん、昨日一体何があったのか聞いても?」

よっこいせと、とりあえず立ち上がり凝り固まった身体を解すために伸びをする。
私の質問に対して姉さんは相変わらず雲を掴むような態度を取りながらニコニコとするだけだった。
クソ、朝から可愛いな、姉さんから挨拶に来てくれるのも悪くないかもしれない。

本当は色々聞かなければならないのだろうが、本人が語りたくないのであれば無理矢理聞き出すつもりは無い。
私は優しくて良識ある弁えた弟だからね。

だが、そんな聞き分けの良い態度を取る私に、姉は片手を差し出しながら突然絶望に突き落とすような罰を突き付けた。

「傑くん」

名前を呼ばれる。

こちらを見上げる黒い瞳の中に月が昇っているのが見えた。
黒い夜の奥で、静かに佇む月に吸い込まれるように魅了される。

この時の姉は、今までで最も、神に近かった。
そう思った。


「鍵を、私の部屋の鍵を返しなさいな」


ひっそりと、粛清と、穏やかに、嫋やかに、ゆとりある態度で微笑みながら、姉は言う。

「先生に言われてね、君から私の部屋の鍵を回収しておけと」

ゆるりと瞳を細めた姉さんに、心臓がバクバクと鳴った。
いきなり突き付けられた言葉のショックに、ただただ棒立ちになりながら尋ねる。

「…………どうしてか、聞いても?」
「君が悪いことをしたからだよ」

だから私の部屋の扉を、君に対して閉ざすんだ。

神罰

その二文字が頭に過ぎる。
悪辣なる罪を背負いし者に天国の門が閉ざされるように、愛し、敬い、崇拝する姉の部屋の扉が閉ざされる。

言葉に表すならば唖然呆然、愕然。記憶に無い、しかし確かに犯したであろう過ちのせいで、どうやら私は姉の怒りを買ってしまったらしい。
そんな馬鹿な、いつも何よりも姉さんのことを思い、考え、気をつけているしている私が?
だが、確かに姉さんからは有無を言わなぬオーラを放っていた。

姉さんが、怒っている。
怒りによって、神聖さを増している。

前々から、怒りや憎しみ、強いストレス負荷が掛かることで姉さんは人ならざる者の方へと在り方が寄って行くことがあった。
だから今、こんなにも私はこの人の前に跪きたくなっている。

許しが欲しくてたまらなくなっている。

口からは、咄嗟に謝罪の言葉が出ていた。

「姉さん、すまなかった」
「……………………」
「私が悪かった、だから、見捨てないでくれ」
「……………………」

触れることすら出来ない荘厳なる威厳。
差し出された手のひらから伝わる無言のプレッシャー。
姉の意思一つで決まる私の命運。

ゾクゾクと背筋を這いずる感覚に心臓を震わせながら、笑みを携える姉さんをひたすらに見つめ返す。

本気で後悔をしている。
本気で姉さんを愛している。
姉さんに酷いことをしてしまった、何故記憶に無いのだろう、悔やんでも悔やみ切れない。


何も言わない姉さんに、とうとう心が折れそうになった時だった。
沈黙を打ち破るように遠くから始業開始のチャイムが鳴り響いく。
それを聞き届けた後、ポツリと姉さんが呟いた。

「もう行かなきゃ」
「姉さん、」
「大丈夫、怒ってなんかないよ」

瞳を閉ざし、頭を振ってからこちらを見上げてニコッと笑った姉さんの目の中には、もうあの憎き恋敵とも言える月は昇っていなかった。
いつもの、私の姉さんに戻っていた。
月に支配されていない、私の姉さんに。

思わず深い息を吐き出し、肩の力を盛大に抜く。
その間にも姉さんは悟と七海と灰原の名前を何度も呼びながら揺すり起こしていた。

相当深い入眠をしているのか、中々起きない彼等を起こすのを私も手伝う。
不機嫌さを隠しもしない七海が唸り声を上げながら、こちらをゲシゲシと蹴ろうとしてくるのを交わしていれば、後ろに居る姉さんが語った。

「悪いことをしたならば、跪いて、祈りなさい。そしていついかなる時も神を愛することだ。そうすれば、天の歓喜が与えられることだろう」
「…聖書の言葉か何かかな?」
「神の言葉だよ」

君の神様は誰だっけ?

その言葉に振り返った先、ほんの一瞬だけ、視界にあの中学生の時に見た月色の女神が映る。

だが、瞬きの後にそこに居たのは紛れも無くいつも通りの姉の姿であった。
いつも通り所か、姉さんはこちらを見ずにひたすら悟を揺すり起こすことに集中していた。

そこで違和感を抱く。

あれ……姉さん、さっきからずっと皆の名前を呼んだり何だりしていたよな?
じゃあ、さっき私が聞いた神の言葉は何だったんだ?
あれは、本当に姉さんが語ったのか?

起こす手を止め、考える。
私の姉さんはわざわざそんなことをツラツラと語るような人じゃない、そもそも信仰に興味関心が薄い。一応知識としては知っているが、人生において生きやすさの観点から宗教を必要とはしていないし、私が勝手に信仰していることに対しても「フーン」で終わらせている人だ。

そんな人が聖書の引用じみたことをいきなり語るだろうか。

だったら、さっきの言葉は何だ。
私は一体、誰の言葉を聞いたのだ。

そもそも、姉さんの瞳の奥にあるあの月は、何者だ。


無意識の内に後輩を起こす手が止まる。
見つめる目線の先では、起きた悟が目を擦り、その横に居た姉さんが視線に気付き、こちらを振り返った。

「どうかした?」
「………いや、うん…大丈夫、何でもないよ」
「とりあえず顔洗って来たら?」
「そうするよ」

いつもと変わらない日常、いつもと変わらない姉さん。
可笑しいのは、私だけ。

洗面所に行き顔を洗いながらふと、前に自分で思ったことを思い出す。


神を神たらしめるのは、いつの時代も人の祈りと献身である。
それと同じく、姉さんを姉さんたらしめる理由は弟である私に掛かっている。


じゃあ、つまり。

姉さんを、人ならざる者へと…神へと近付けているのは。

「私の、せいなのか」

顔を上げて鏡を見る。
そこには姉さんと同じ瞳の色をした自分が写っていた。
その顔が途端にいびつに歪む。
穢らしい笑みを浮かべ、口角がグニャリと曲がる。
瞳に灯ったドロリとした熱は、あの清らかな月の浮かぶ瞳とは真逆の色をしていた。


私が姉さんを神にした。
私のせいで姉さんは神に近づいていく。
私の献身と信仰が実ったのだ。

あの人はもう、私以外の物にはなれないんだ。


気付いた事実に歓喜する。
上がる心拍数を抑えるため、濡れたままの手で服の上から心臓を抑えた。


恋人や家族なんて括りじゃ足らないとずっと思っていた。
私の姉さんへ対する思いは簡単な関係では済まされて良いものじゃないと、そんなものに成り下がるなと祈っていた。

願いと祈りは確かな形となり、ただの人である私の、私だけの神と成り得たあの人は、最早私の前でしか神では在れない。
私無くして、あの人の存在は保たれない。

とうとう私は、憎き月から姉さんを引き摺り堕としたのだ。
もう何処にも行けやしない、ずっと私の神様だ。

神よ、憐れみたまえ。
否、月よ、憐れみたまえ。

歓びに胸が満ちる。
姉さんはついに、私だけの物になったのだ。

この結果こそが、私の信仰そのものだ。
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