夏油傑による姉神信仰について.2
気が付くと自室に居た。
これが世に聞くワープ現象というやつかもしれない。
ベッドの隣で椅子に腰掛けながら本を読む姉さんは果たして本物なのだろうか、側頭部が痛い、頬も痛い、一体私の身に何があったのか。
「ねえ、さん…?」
「おや、お目覚めかね。眠り姫の傑くん」
呼び声に気付いた姉さんは、読んでいた文庫本をパタンと閉じてベッドに横たわる私を覗き込んで来た。
黒い髪がサラサラと肩から流れ落ちていくのを眺める、働かない頭で良い景色だなと思った。
縁起でも無いが、死ぬ時はこれと同じ光景が見たいなと、ボンヤリと眺め続ける。
「私が呼んでも起きないものだから心配したよ」
「すまない、心配をさせて…」
「構わんさ」
姉さんに心配させていたとは、何たる行い。
健やかに、穏やかに、自由に生きている姉さんこそ美しいのに…と建前で思いつつも、心配されたという事実がやっぱり嬉しくて口元がニヤけるのを我慢出来ず、隠すために布団をモゾモゾとずり上げた。
そんな私を見て息を零すように笑った姉さんは、私の髪を梳くように頭を撫でた。
細くしなやかな指先が頭を撫でてから眉間をスリスリと擦り、確認するように瞼に触れて、頬をサラリと撫ぜる。
指先から伝わる温度と優しさが心地良くて、思わずもっとしてくれと請うように手のひらに擦り寄れば、耳の縁をなぞってからまた頭へと手が戻っていった。
「その分だと何も覚えていないようだね」
「何かあったのかい?」
「まあ、うん…悟くんに迷惑を掛けていたよ」
悟に…?本当に何があったんだろう。
朧気な記憶を辿る。
任務後、悟と合流し彼の希望でアイスを食べに行った。
で、確かその店に姉さんが…そうだ、姉さんが居て、で…新婚生活が始まって、だけどそこに間男が割り込んで来て…。
最後の記憶は、姉さんが誰かに奪われ何処かに行ってしまったものだった。
それを思い出した私はハッとして、勢い良くベッドから身体を起こす。
「姉さんこそ無事なのか!?」
「噛まれたくらいかな」
「噛まれた!?クソッ、私が付いていながら…!」
「やっぱり脳ミソやられてる?」
椅子に座る姉さんの身体を抱き上げ、私の膝の上に座らせてから、頬や首元、手脚、指の先、耳、項などに触れながら確かめる。
噛まれた、噛まれたのか、誰になんで、どうして。
何処を噛まれたのか、まさか服の下を…?この衣服の下に私以外の噛み跡があるとでも?
沸々と湧き上がる怒りを堪えながら、私は尋ねる。
「何処を噛まれたのか聞いても?」
「舌とか」
「下!?」
下って何処からが下だ、下半身ってことか?は?姉さん、下半身を噛まれたの?
脚か?尻か?それとも……。
「姉さん、正直に言って欲しい」
「あ、はい」
ガシッと肩を掴み、殺し切れなかった威圧感を凄ませながら姉さんを問い詰める。
もう余裕なんて無かった、何処ぞの誰かに姉さんを汚された事実で頭の中も心の中もグチャグチャだった。
「誰にやられたんだ」
「えっと…」
「言ってくれ、お願いだ」
「ああ、うん…その…」
歯切れ悪く言い淀む姿に苛立ちが募っていく。
私に言えないようなことなのか、そんなことをされたのか。どうして私に言わないんだ、言え、言わないのなら無理矢理にでも聞き出すつもりだが…さて、どうするか。
上り詰めた怒りは急降下し、一気に心が冷え切っていく。眉間からは力が抜け、口元に浮かべた笑みには何の意味も無かった。
室内に蔓延る静寂が、嫌に耳につく。
「姉さん、私に言えないようなことをしたのかな」
高圧的かつ抑圧的な態度で静かに尋ねる。
あくまでも紳士的に、それでも駄目なら無理矢理にでも聞くつもりではいるが。
「…………傑くん、ちょっと怖い…」
「話を逸らすな」
口元から笑みを消す。
私の話を逸らすことも、目を逸らすことも許さない。
今日までずっとずっと貴女を愛して来た、ずっと大切にしてきた、神として、愛として、恋として、守り、慈しみ、何よりも優先して己の人生の半分以上を貴女のためだけに費やして来たというのに。
今更、私を裏切るなど許さない。許されない。
私を捨てて他を選ぶなど、許してなるものか。
惨めだ、酷く惨めな心地だ。
こんなにも愛しているのに、思っているのに、月よりも星よりも他の男達よりも私の方が優れているのに、何故私を選ばない。
ああ、神よ、憐れみたまえ。
いついかなる時も、私は神を愛しているというのに、何故。
「すぐる、くん……」
震えた声で私の名を呼んだ姉さんを、色を無くした瞳ので見下ろし続ける。
ひたすらに。ただ、ひたすらに。
___
どれ程の時間が経ったことだろう。
長い時間だったようにも思うが、もしかしたらほんの数分かもしれない。
何も言わずに私達は見つめ合い、互いの腹を探り合った。
かつてここまで彼に追い詰められたことがあっただろうか、これ程までに怒らせたことがあっただろうか。何にせよ、私もそろそろ我慢の限界であった。
そも、何故私が怒られなければならないのか。
そもそもの原因は傑くんではないのか。
君がいきなり私の口の中に舌を突っ込んできたり舌を噛んだりしたからだろう、私が怒られる謂れは無いはずなんだが、そこの所どうなんだ。
腕の中から彼を見上げ、謎の圧迫感に恐怖し何も喋れず、ひたすらに無言で威圧されていたが、段々腹が立ってきた。
この野郎…弟この野郎……こっちが君よりも小さくて大人しくて術師としての階級が低いからって良い気になりやがって。
言っておくが、私がその気になれば君なんてプチンッて出来ちゃうんだぞ。やらないけど、そんな力ありませんってことにしてるけど。
というかなあ、そもそも……この世に姉に勝てる弟なんて、存在しないんだよ。
カチンッ。
私の中の怒りバロメーターがMAXになる。
それまで見せていた怯えた表情をスッと仕舞い、背筋を伸ばして泰然とした態度を取った。
右腕を伸ばし、弟の頬の位置を確認する。
うむ、ここだな、ここを、こう!!
ベチィッッ!
「イタッ!は!?」
「もういっちょ」
「は?ねえさ、」
バチィンッッ!
「イッタ!いや実際はそんなにでも無いけど音が痛い!!ちょっと待ってくれ、なんでいきなり、」
「罰です」
「私は何も悪くないだろう!!」
精神分析(物理)がキマったようで、私が有利なペースに戻ってきた。
よしよし、このまま一気に畳み込んでやろう。
弟よ、お前は姉の怒りを勝ったのだ。
「何も悪くないだって?何も覚えていない癖に滅多なこと言うもんじゃ無いよ」
「だから、それを教えて欲しいと…」
「私を噛んだのは君だ、他でもない君だよ」
私の発言に、傑くんは呼吸を止めた。
瞬きもせず静止し、細い瞳を見開いてこちらを見下ろす。
そっと腕の中から抜け出し、ベッドから降りて彼の前に腕を組みながら立ってやる。
今度は私が見下ろす番、頭が高いのもここまでである。
月は見上げるものだろう。
人間如きが私をどうこう出来ると思うなよ。
「君が、私を噛んだんだ」
「…私が、姉さんを?」
「口の中に舌を突っ込み、舌を噛み、散々だったよ」
「え………いや、待ってくれ、それって…」
ハッと息を大きく短く吐き出した傑くんは、狼狽えたように視線を右に左にやったかと思えば頭を抱え、背中を丸めながらブツブツと「いやそんな、まさか」「何で覚えていないんだ」「嘘だろう、待ってくれ」と言っていた。
前々から思ってたけど、傑くんって私の事になると余裕が無さすぎる。
別に悪いとは言わないが、他の女の子や年上のお姉さん相手には全然平気じゃん、その差は何。
若干感情に呆れが混ざりながらも、冷淡な目線で見下ろしながら話を続ける。
「私、ファーストキスだったんだけど」
「…………………あの、いいかな」
「やだ、傑くん当分近寄んないで」
「待ってくれ!!」
プイッ
そっぽを向いてこのまま部屋に帰ってやろうと思い、足を動かした瞬間、飛び掛かるように腕を伸ばして来た傑くんに取っ捕まる。
ええい!やめろやめろやめろ!
姉は不機嫌である!神の鉄槌ならぬ姉の鉄槌を喰らいたくなければ今日は大人しく引き下がれ、どうせ寝て起きたら「まあいっか」ってなってるから、それまで待ちなさい!
腕の中で「離せ、あっちいけ」とジタバタ暴れるも、ムギュムギュと抱き締められて身動きが取れなくなってしまう。
ああもう、何だってんだ全く。さっきからこの子は、頭を強く殴られ過ぎたのか。
「姉さん、責任を取らせてくれ」
「責任も天下も取らんでいい、私が取りたいのは睡眠だけだ!」
「結婚しよう」
「法律上不可能だよ!」
やっぱり頭を相当酷くやられているみたいだ、ちょっとやそっと寝て起きたくらいじゃどうにもならないらしい。頭の中にお花畑が出来てしまっている。
血走った眼をかっぴらき、捕食者のような表情で詰め寄る傑くんは完全に頭がオーバーヒートしていた。暴走状態である。
私知ってる、悟くんとかも凄い戦闘の後こんな感じになってるの見たことある。ハイ状態ってやつだ。
最近休める時間が少なかったから、それも合わさってどうにかなってしまったのだろう。
えらいこっちゃ。
「姉さん、この世には事実婚というものがあってだね」
「怖い怖い怖い」
「大丈夫、怖くないよ。姉さんは私が必ず守るから、幸せにするから」
「もう、十分守ってもらってるよ…」
ああ、もうこれは駄目ですね。
興奮のし過ぎで眼球がギョロギョロしているもの、マズいな。
このままじゃ頭の血管が1、2本当ブチッといってしまう。
私は一度フゥ…と力を抜いてから、腹に力を込め直し、息を大きく吸い込んだ。
ありったけの力を込めて、喉を震わせ大きな声で月に向かって吠え叫ぶ。
「だぁあーーれぇえーーかぁあーー!!!!」
「うるさっ」
「たすけてぇえーー!!!!!!」
バタッ!
ドカドカドカッ!!
寮のあちこちから扉を蹴破りこちらに向かってくる音が聞こえる。
聞こえる、というか、聞こえた、というか。
ぶっちゃけ叫んでいる最中に、第一陣が扉をバキィッッと破壊して殴り込んで来た。
木製の扉を木っ端微塵にし、凄まじい勢いで入って来た白い髪の青年は、こちらの状態を一瞬で理解すると拳を握り締めて殴りかかった。
「正気に戻れ最強パーンチッ!!!」
「うぁッ」
傑くんが華麗に吹っ飛ばされる。
ついでに傑くんに抱え込まれる私も吹っ飛ぶ。
ボスッとベッドに沈んだ傑くんの腕の中から無理矢理救出された私は、後からワラワラとやって来た新入生の後輩二人組に受け渡されて一命を取り留めたのだった。
「た、たすかった…」
「大丈夫ですか?」
「私はだいじょぶ、大丈夫じゃないのはあっち」
そう言って指を差す。
目の前では怪獣大戦争が勃発していた。
荒れ狂う暴力の宴、大乱闘最強ブラザーズ、椅子が宙を舞い、壁にヒビが入り、ベッドからバキッという音が聞こえてきた。
ああ、傑くんの部屋がめちゃくちゃになっていく…。
「どうしますかあれ」
「止めなきゃ!」
「ああ、うん…うん……止めるか……」
そうだね、止めなきゃね。夜だしね。近所迷惑になるね。
一応、一番年上なわけだし、後で監督責任云々言われるのは私だからな…早いとこ止めなければ。
さて、では。
ここは一発、年上の威厳というやつを見せてやろうではないか。
右手をゆるりと伸ばし、呪力を込める。
穏やかに、しなやかに。
ゆるやかに、健やかに。
月が在りしは夜である。
夜は眠りの時である。
月が、私が、その眠りを見守ろう。
穏やかであれ、健やかであれ。
さあ皆共よ、人類よ、今宵は暫し月に酔え。
瞼の裏に浮かぶは我が故郷の輝きなり。
相対万有理論術、展開開始。
「月狂条例、第一条、おねんねの時間」
さあ、良い子の皆はねんねしましょうね。
お月様に、おやすみなさいをしましょうね。
これが世に聞くワープ現象というやつかもしれない。
ベッドの隣で椅子に腰掛けながら本を読む姉さんは果たして本物なのだろうか、側頭部が痛い、頬も痛い、一体私の身に何があったのか。
「ねえ、さん…?」
「おや、お目覚めかね。眠り姫の傑くん」
呼び声に気付いた姉さんは、読んでいた文庫本をパタンと閉じてベッドに横たわる私を覗き込んで来た。
黒い髪がサラサラと肩から流れ落ちていくのを眺める、働かない頭で良い景色だなと思った。
縁起でも無いが、死ぬ時はこれと同じ光景が見たいなと、ボンヤリと眺め続ける。
「私が呼んでも起きないものだから心配したよ」
「すまない、心配をさせて…」
「構わんさ」
姉さんに心配させていたとは、何たる行い。
健やかに、穏やかに、自由に生きている姉さんこそ美しいのに…と建前で思いつつも、心配されたという事実がやっぱり嬉しくて口元がニヤけるのを我慢出来ず、隠すために布団をモゾモゾとずり上げた。
そんな私を見て息を零すように笑った姉さんは、私の髪を梳くように頭を撫でた。
細くしなやかな指先が頭を撫でてから眉間をスリスリと擦り、確認するように瞼に触れて、頬をサラリと撫ぜる。
指先から伝わる温度と優しさが心地良くて、思わずもっとしてくれと請うように手のひらに擦り寄れば、耳の縁をなぞってからまた頭へと手が戻っていった。
「その分だと何も覚えていないようだね」
「何かあったのかい?」
「まあ、うん…悟くんに迷惑を掛けていたよ」
悟に…?本当に何があったんだろう。
朧気な記憶を辿る。
任務後、悟と合流し彼の希望でアイスを食べに行った。
で、確かその店に姉さんが…そうだ、姉さんが居て、で…新婚生活が始まって、だけどそこに間男が割り込んで来て…。
最後の記憶は、姉さんが誰かに奪われ何処かに行ってしまったものだった。
それを思い出した私はハッとして、勢い良くベッドから身体を起こす。
「姉さんこそ無事なのか!?」
「噛まれたくらいかな」
「噛まれた!?クソッ、私が付いていながら…!」
「やっぱり脳ミソやられてる?」
椅子に座る姉さんの身体を抱き上げ、私の膝の上に座らせてから、頬や首元、手脚、指の先、耳、項などに触れながら確かめる。
噛まれた、噛まれたのか、誰になんで、どうして。
何処を噛まれたのか、まさか服の下を…?この衣服の下に私以外の噛み跡があるとでも?
沸々と湧き上がる怒りを堪えながら、私は尋ねる。
「何処を噛まれたのか聞いても?」
「舌とか」
「下!?」
下って何処からが下だ、下半身ってことか?は?姉さん、下半身を噛まれたの?
脚か?尻か?それとも……。
「姉さん、正直に言って欲しい」
「あ、はい」
ガシッと肩を掴み、殺し切れなかった威圧感を凄ませながら姉さんを問い詰める。
もう余裕なんて無かった、何処ぞの誰かに姉さんを汚された事実で頭の中も心の中もグチャグチャだった。
「誰にやられたんだ」
「えっと…」
「言ってくれ、お願いだ」
「ああ、うん…その…」
歯切れ悪く言い淀む姿に苛立ちが募っていく。
私に言えないようなことなのか、そんなことをされたのか。どうして私に言わないんだ、言え、言わないのなら無理矢理にでも聞き出すつもりだが…さて、どうするか。
上り詰めた怒りは急降下し、一気に心が冷え切っていく。眉間からは力が抜け、口元に浮かべた笑みには何の意味も無かった。
室内に蔓延る静寂が、嫌に耳につく。
「姉さん、私に言えないようなことをしたのかな」
高圧的かつ抑圧的な態度で静かに尋ねる。
あくまでも紳士的に、それでも駄目なら無理矢理にでも聞くつもりではいるが。
「…………傑くん、ちょっと怖い…」
「話を逸らすな」
口元から笑みを消す。
私の話を逸らすことも、目を逸らすことも許さない。
今日までずっとずっと貴女を愛して来た、ずっと大切にしてきた、神として、愛として、恋として、守り、慈しみ、何よりも優先して己の人生の半分以上を貴女のためだけに費やして来たというのに。
今更、私を裏切るなど許さない。許されない。
私を捨てて他を選ぶなど、許してなるものか。
惨めだ、酷く惨めな心地だ。
こんなにも愛しているのに、思っているのに、月よりも星よりも他の男達よりも私の方が優れているのに、何故私を選ばない。
ああ、神よ、憐れみたまえ。
いついかなる時も、私は神を愛しているというのに、何故。
「すぐる、くん……」
震えた声で私の名を呼んだ姉さんを、色を無くした瞳ので見下ろし続ける。
ひたすらに。ただ、ひたすらに。
___
どれ程の時間が経ったことだろう。
長い時間だったようにも思うが、もしかしたらほんの数分かもしれない。
何も言わずに私達は見つめ合い、互いの腹を探り合った。
かつてここまで彼に追い詰められたことがあっただろうか、これ程までに怒らせたことがあっただろうか。何にせよ、私もそろそろ我慢の限界であった。
そも、何故私が怒られなければならないのか。
そもそもの原因は傑くんではないのか。
君がいきなり私の口の中に舌を突っ込んできたり舌を噛んだりしたからだろう、私が怒られる謂れは無いはずなんだが、そこの所どうなんだ。
腕の中から彼を見上げ、謎の圧迫感に恐怖し何も喋れず、ひたすらに無言で威圧されていたが、段々腹が立ってきた。
この野郎…弟この野郎……こっちが君よりも小さくて大人しくて術師としての階級が低いからって良い気になりやがって。
言っておくが、私がその気になれば君なんてプチンッて出来ちゃうんだぞ。やらないけど、そんな力ありませんってことにしてるけど。
というかなあ、そもそも……この世に姉に勝てる弟なんて、存在しないんだよ。
カチンッ。
私の中の怒りバロメーターがMAXになる。
それまで見せていた怯えた表情をスッと仕舞い、背筋を伸ばして泰然とした態度を取った。
右腕を伸ばし、弟の頬の位置を確認する。
うむ、ここだな、ここを、こう!!
ベチィッッ!
「イタッ!は!?」
「もういっちょ」
「は?ねえさ、」
バチィンッッ!
「イッタ!いや実際はそんなにでも無いけど音が痛い!!ちょっと待ってくれ、なんでいきなり、」
「罰です」
「私は何も悪くないだろう!!」
精神分析(物理)がキマったようで、私が有利なペースに戻ってきた。
よしよし、このまま一気に畳み込んでやろう。
弟よ、お前は姉の怒りを勝ったのだ。
「何も悪くないだって?何も覚えていない癖に滅多なこと言うもんじゃ無いよ」
「だから、それを教えて欲しいと…」
「私を噛んだのは君だ、他でもない君だよ」
私の発言に、傑くんは呼吸を止めた。
瞬きもせず静止し、細い瞳を見開いてこちらを見下ろす。
そっと腕の中から抜け出し、ベッドから降りて彼の前に腕を組みながら立ってやる。
今度は私が見下ろす番、頭が高いのもここまでである。
月は見上げるものだろう。
人間如きが私をどうこう出来ると思うなよ。
「君が、私を噛んだんだ」
「…私が、姉さんを?」
「口の中に舌を突っ込み、舌を噛み、散々だったよ」
「え………いや、待ってくれ、それって…」
ハッと息を大きく短く吐き出した傑くんは、狼狽えたように視線を右に左にやったかと思えば頭を抱え、背中を丸めながらブツブツと「いやそんな、まさか」「何で覚えていないんだ」「嘘だろう、待ってくれ」と言っていた。
前々から思ってたけど、傑くんって私の事になると余裕が無さすぎる。
別に悪いとは言わないが、他の女の子や年上のお姉さん相手には全然平気じゃん、その差は何。
若干感情に呆れが混ざりながらも、冷淡な目線で見下ろしながら話を続ける。
「私、ファーストキスだったんだけど」
「…………………あの、いいかな」
「やだ、傑くん当分近寄んないで」
「待ってくれ!!」
プイッ
そっぽを向いてこのまま部屋に帰ってやろうと思い、足を動かした瞬間、飛び掛かるように腕を伸ばして来た傑くんに取っ捕まる。
ええい!やめろやめろやめろ!
姉は不機嫌である!神の鉄槌ならぬ姉の鉄槌を喰らいたくなければ今日は大人しく引き下がれ、どうせ寝て起きたら「まあいっか」ってなってるから、それまで待ちなさい!
腕の中で「離せ、あっちいけ」とジタバタ暴れるも、ムギュムギュと抱き締められて身動きが取れなくなってしまう。
ああもう、何だってんだ全く。さっきからこの子は、頭を強く殴られ過ぎたのか。
「姉さん、責任を取らせてくれ」
「責任も天下も取らんでいい、私が取りたいのは睡眠だけだ!」
「結婚しよう」
「法律上不可能だよ!」
やっぱり頭を相当酷くやられているみたいだ、ちょっとやそっと寝て起きたくらいじゃどうにもならないらしい。頭の中にお花畑が出来てしまっている。
血走った眼をかっぴらき、捕食者のような表情で詰め寄る傑くんは完全に頭がオーバーヒートしていた。暴走状態である。
私知ってる、悟くんとかも凄い戦闘の後こんな感じになってるの見たことある。ハイ状態ってやつだ。
最近休める時間が少なかったから、それも合わさってどうにかなってしまったのだろう。
えらいこっちゃ。
「姉さん、この世には事実婚というものがあってだね」
「怖い怖い怖い」
「大丈夫、怖くないよ。姉さんは私が必ず守るから、幸せにするから」
「もう、十分守ってもらってるよ…」
ああ、もうこれは駄目ですね。
興奮のし過ぎで眼球がギョロギョロしているもの、マズいな。
このままじゃ頭の血管が1、2本当ブチッといってしまう。
私は一度フゥ…と力を抜いてから、腹に力を込め直し、息を大きく吸い込んだ。
ありったけの力を込めて、喉を震わせ大きな声で月に向かって吠え叫ぶ。
「だぁあーーれぇえーーかぁあーー!!!!」
「うるさっ」
「たすけてぇえーー!!!!!!」
バタッ!
ドカドカドカッ!!
寮のあちこちから扉を蹴破りこちらに向かってくる音が聞こえる。
聞こえる、というか、聞こえた、というか。
ぶっちゃけ叫んでいる最中に、第一陣が扉をバキィッッと破壊して殴り込んで来た。
木製の扉を木っ端微塵にし、凄まじい勢いで入って来た白い髪の青年は、こちらの状態を一瞬で理解すると拳を握り締めて殴りかかった。
「正気に戻れ最強パーンチッ!!!」
「うぁッ」
傑くんが華麗に吹っ飛ばされる。
ついでに傑くんに抱え込まれる私も吹っ飛ぶ。
ボスッとベッドに沈んだ傑くんの腕の中から無理矢理救出された私は、後からワラワラとやって来た新入生の後輩二人組に受け渡されて一命を取り留めたのだった。
「た、たすかった…」
「大丈夫ですか?」
「私はだいじょぶ、大丈夫じゃないのはあっち」
そう言って指を差す。
目の前では怪獣大戦争が勃発していた。
荒れ狂う暴力の宴、大乱闘最強ブラザーズ、椅子が宙を舞い、壁にヒビが入り、ベッドからバキッという音が聞こえてきた。
ああ、傑くんの部屋がめちゃくちゃになっていく…。
「どうしますかあれ」
「止めなきゃ!」
「ああ、うん…うん……止めるか……」
そうだね、止めなきゃね。夜だしね。近所迷惑になるね。
一応、一番年上なわけだし、後で監督責任云々言われるのは私だからな…早いとこ止めなければ。
さて、では。
ここは一発、年上の威厳というやつを見せてやろうではないか。
右手をゆるりと伸ばし、呪力を込める。
穏やかに、しなやかに。
ゆるやかに、健やかに。
月が在りしは夜である。
夜は眠りの時である。
月が、私が、その眠りを見守ろう。
穏やかであれ、健やかであれ。
さあ皆共よ、人類よ、今宵は暫し月に酔え。
瞼の裏に浮かぶは我が故郷の輝きなり。
相対万有理論術、展開開始。
「月狂条例、第一条、おねんねの時間」
さあ、良い子の皆はねんねしましょうね。
お月様に、おやすみなさいをしましょうね。