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夏油傑による姉神信仰について.2

傑が姉ちゃんに噛み付いた。
噛み付いたというか、思っくそキスしてた。ディープなやつ。


それは本当にいきなりのことだった。


姉ちゃんにアイス食わされてから行動停止した傑に、またいつものかと思って俺達は仲良くアイスを食べさせあいっこしていた。知らないオッサンも交えて。
いやだから誰だよコイツ、この安っぽい生地のトレーナー着てる男、つか姉ちゃんとコイツから焼肉の匂いするんだけど。

トリプルで頼んだアイスを食べながら二人の様子を見る。
そりゃあもう仲良し小好し、気を許している仲というのが伝わってくる距離感と会話のリズム。俗に言う、友達関係。

俺だって仲良かっただろ、とか、俺の誘いは断った癖になんでコイツなんだ、とか…色々思う所はあれど、姉ちゃんが楽しそうに肩の力を抜いてアイスを食べているのを見ると、色々強くは言えなかった。

新学期になり、新しい奴がやって来てそれだけでストレスだったのだろう。それに加えて毎日朝から夕方まで研究室で作業の日々、日を追う事に口数が減って、反応が鈍くなっていく自分の姉を傑はとても心配していた。勿論、俺も。
だから少しホッとした、何処で知り合ったのか知らない素性の分からない野郎な事には変わらないが、姉ちゃんが笑っている姿を見て安堵を覚える。


そうやって、穏やかに美味しくアイスを食べている時だった。
姉ちゃんが傑に話掛ける。

「美味しいね、傑くん」
「………………………」
「おや、傑くん?」

黙り込み続ける傑に、カップを机に置いてから傑の顔を覗き込む。
何処を見ているか分からない瞳をした傑が「ああ、そうだね姉さん」と言うや否や、事は起きた。

突然傑が姉ちゃんの肩を勢い良くガシッと掴む。

「は」

という姉ちゃんの声が聞こえたと思ったら、その時には既にぶちかまされていたのだ。キスを。
いや、正しくは捕食を。

薄い唇に噛み付き、半開きの口に舌が潜り込む。
驚きに目を見開き硬直する相手をの意思を放って、傑の舌先が音を立ててねっとりと絡みつくのを見せられた。
歯列の付け根、上顎、舌の裏側。敏感な場所が探られていく。
見てるこっちの唇まで熱く痺れる。
否応なしに耳に届くいやらしい音に下半身が反応する前に、最初に動いたのは姉ちゃんの前の席に座っていた男だった。

立ち上がったと思えば、次の瞬間容赦無く男は傑の頭をぶん殴った。
ゴンッなどと表現するのは生温い鉄拳制裁。
固く握った拳で殴られた傑は、グラリとよろめく。
それでもなんとか姉にしがみついて離れようとしないので、男は傑の側に回ると無理矢理に問答無用で二人を引き離し、オマケと言わんばかりに傑の頬をベチッと叩いてからその身を床に放り捨てた。

ピクリとも動かなくなった親友。
唾液まみれにされた口元で放心する親友の姉。
息子の萎えた俺。
慌てた様子の店員。
他の客の目線。

「とりあえずお前は行くぞ」

と、男は言ってポカンと虚空を見上げる姉ちゃんを軽々と抱き上げると足早に店から出て行ってしまった。


………いや、これ…どうすんだよ。

俺の元に残されたのは姉ちゃんが置いてったダブルアイスと、俺の食い掛けのアイスと、床に転がる気を失った親友。

産まれて初めてかもしれない、誰かに助けて欲しいとここまで思ったのは。







気が付くと知らない家に居た。
これが世に聞く誘拐というやつかもしれない。
何故か隣に居た男の子もきっと、誘拐されてしまった仲間なのだろう。
年上として安心させるには一体どうしたら……。
よし、とりあえず声でも掛けてみるか。

「あ、あの…」
「……おやじよんでくる」
「ぇ、ぇ………アエェ…」

まさかの敵だった。
そんなアホな…あんな幼子を味方に付けるとは、まだ見ぬ敵め…倫理観終わってるな。

とかなんとか思っていたらやって来たのは甚爾さんだった。
もしやここは、お、お、お友達の家…?どうしよう、お友達の家に来ちゃった、お土産なんにも持って来てないよ。困る。

「大丈夫か」
「あの、私…一体何が何やら…」
「とりあえず水飲め、水」

差し出されたコップに口を付け、ゴクリと喉を鳴らして飲む。
水道水の味がする、というか…なんか、このコップ汚いな…水垢ついてないか?

それに…なんだこのぺしゃんこな敷布団。
改めてチラリと部屋の中に目を配らせる。
ティッシュや食べたまま捨てていないパンなどが入っていただろう袋のゴミ、床に落ちた髪の毛と絡まる埃、散乱する衣服、食べたままのカップ麺の器と割り箸、いつ開けたか分からない色褪せたカーテン。
饐えた臭いが鼻につく。
ここが、甚爾さんの住んでいる家なのか?

じゃあ、あれは…甚爾さんの後ろに居る小さな黒い子供は。

「子供……名前はなんていうの」
「あー……気にすんな」
「…小さくて可愛いね、無垢な生き物は好きだよ」
「それ初耳だわ」

コップを置き、おいでおいでと手招きするが、控え目なのかシャイなのか何なのか知らないが来てはくれなかった。
まあ仕方ないか、私も知らん人間に構われるの得意じゃないし。って思って諦めたのに、甚爾さんは子供の元まで行くと雑に抱き上げて私の元にヒョイッと差し出した。

思わず受け取る。
いやそんな、犬猫の扱いじゃないんだから、これはどうかと…。

首元がヨレヨレの服を着た小さな男の子は緊張したように私の腕の中でジッとしている。
何歳、くらいだろうか…4歳とか5歳とか、そのへんかもしれない。
小さくて軽い、腕が細い、色が白い。
眼下にある頭部からは子犬のようなミルク臭いすっぱい匂いがした。

抱き締め直し、子供の頭頂部を自分顎の裏でスリスリと撫でる。
よく傑くんが泣いた時もこうしてあげたっけ。
片手はお腹や背に、もう片手はお指をにぎにぎしてあげて、ゆらゆらと揺れながら顎の裏で頭を撫ぜるのだ。
ピッタリとくっついて、体温を伝って大丈夫だよと言い聞かせる。
こうしてあげるとあの子は不思議なくらい落ち着いてくれたのを覚えている。

甚爾さんの子供にも同じことをしてやる。
小さな子は好きだ、悪意も善意も無い純粋な疑問と衝動で生きている幼子は波長が合う。
難しく、複雑な感情は読み取ることは愚か、受け取ることすら困難だ。
だから、分かりやすく単純な感情に突き動かされることの多い生き物は良い。好きだ。

ゆらゆらとゆっくり揺れながら、背中をぽん、ぽん、と叩く。
大丈夫、私は無害だよ。
月からやって来ただけの君と同じ生命だ。
怖くないからね、安心してね。
そんな気持ちを込めて手を握れば、小さく柔い指先が、キュッと力を込めた。

「お前にそんな特技があったなんてな、もっと早く知っときゃ良かった」
「だって私、あの子のお姉ちゃんだもん」
「そういやそうだ」

そうだよ、私はあの傑くんのお姉ちゃんなんだよ。
それ以外のなんでも無いんだ、彼が姉だと言ってくれるから、そのレッテルと言う名の鋲でこの星に縫い付けられている。

「お前、その弟に何されたか覚えてんのか」
「うん、口の中食われた」
「よく平然としてられんな」
「まあ、うん」

驚きはしたが、納得はしている。

キス、唇を合わせる行為。
これは好意を伝えるためでもロマンティックな行動でもない、ただの生物学的な確認行為だ。

口内のバクテリアを探り合い、身体的相性を確かめる。
自分に無いバクテリア情報がある方が子孫を残す上で都合が良いのだ、それを無意識の内に求めているからこそ、キスという行為が発生する。
つまりは、キスとは生理学的相性を確かめ合う行為に他ならない。

では何故傑くんがそんなことをしたのか、それにもちゃんと理由がある。


それは、彼が本能的に私を「姉」と認識していないからだ。


これは正しい反応だ、むしろ私を本気で姉と認識していたらそっちの方が大変なこと。
私は前に説明した通り、月から分離した小惑星内部に閉じ込められていた、微小の生命体が元である。
食物連鎖に組み込まれ、今はこうして人間の体へと成り果てたのだが、そもそもが人間では無い。
謂わば、人間の身体に寄生した月の破片に過ぎない。

それを傑くんは本能的に察知しているからこそ、心の底では私を姉と認識していないのだろう。

だが、彼が私をどう認識しているかなど些細な事だ。
大切なのは、私を姉として慕い見ていてくれているかどうかだ。
彼が私を「姉さん」と呼ぶ限り、私は彼の姉を続けるつもりでいる。

だから別に、キスされようが管理されようが崇拝されようが何だろうが、気にはしない。
居心地が良ければそれでいい、私は一々人間の細かい感情なんぞ気にはしない。

結論は出ている、だからこれしきの事で揺らぐ事は無い。
むしろ傑くんが心配なくらいだ。

「傑くんは大丈夫かな…」
「金くれたら送ってってやるよ」
「お金は普通にあげるよ、私にはあっても無くてもどっちでも良いものだし」

リュックサックを指差して、「茶色い封筒、あげるよ」と言えば、甚爾さんは何か言いたげな目をしながらもリュックサックを取りに行った。

その間も私は子供を撫でて抱き締め続ける。
大人しい子だ、緊張感が解けて落ち着いているのか身体からは力をが抜けて、ポヤンとした目をしながらくっついてくれている。
あらまあ、可愛い。持って帰りたい、月に。

「君も月に来るかい?」
「やめろ、俺で我慢しとけ」
「で、この子名前は?」
「………恵」

めぐまれたもの。
哀れみと慈しみの意味を併せ持つ美しい単語だ、良い名前だ。

「恵くん、また来るよ。その時はお土産に何か持って来るからね」
「……ん」
「良い子だね、何かあったらいつでも言いなさい」

そうして、そっと彼の身体から手を離し、甚爾さんに返す。
恵くんを受け取った甚爾さんは「高専までなら連れて帰ってもいいぞ」と言ったが、ややこしくなるから今日はやめておくと伝えた。

茶封筒が消えたリュックサックを背負い、礼を言って暗い玄関へと向かう。

靴を履く私の頭上から、甚爾さんの声が降り注ぐ。

「なあ」
「ん?」

呼び掛ける声に反応し、靴を履き終えて立ち上がり振り返る。
やや難しい表情をした甚爾さんは、恵くんを抱えながら一度何かを言い淀み、しかしもう一度口を開いて緊張感を交えながら、言葉を発した。

「月でなら、俺もマシな人間になれるか」

そう口にした甚爾さんの瞳は、何かを堪えるような、痛みを耐えるような、そんな色を含んでいた。

数回瞬きをし、私は彼の目を見つめて微笑んでみせる。

「あんな場所でマシでいる必要なんて無いさ、君は君らしくあればそれでいい」

月には何も無い。
暗い空と白い風化した大地が並ぶだけ。
そんな場所でマシな人間を気取り続ける必要なんて無い、楽しく可笑しく、気が済むまで私と生きてくれたらそれでいい。
死んだら剥製にでもして、記念品として飾っておいてあげるよ。

ポケットの中を漁り、取り出した飴玉を手のひらに乗せて差し出す。
チケット代わりの品がこんなもので悪いが、それでも


「私は君を歓迎するよ」


暗い玄関先でひっそりと、月へ共に行く約束を交わす。
チケット代わりの飴玉は甚爾さんのポケットの中へと消えていった。

そうして、彼は安心したように肩の力を抜いて、「また連絡する」と言って私を見送った。

夜が近い、月が私を見下ろしている。
ああやはり、私はどうしても月に焦がれてしまうようだ。
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