夏油傑による姉神信仰について.2
鍵が無い。
部屋の鍵が無い。
朝、傑くんに鍵を渡してそのままだったのかもしれない、どうしよう、部屋に入れない。
本日午後から、我が優秀な弟殿は緊急の任務に行かれてしまった。
予定では深夜近くか、もしくは一泊して明日の昼に帰って来るらしい。未成年に深夜労働をさせるな、法律守れ。
弟に鍵を渡したままだったのをてっきり忘れ自室に戻って来たが、鍵が開かねば部屋には入れない。
現在、季節は冬の外れ程の気候、若干の寒さを感じずにはいられない気温だ。
困ったなこりゃ…どうしたものか。
他の女子の部屋…と言われても、今居るのは家入さんくらいだろうか。
家入さんは、傑くんの同級生の女子生徒だ。傑くんが言うには「副流煙が心配だから姉さんは安易に近付かないように」とのこと。
近付かないようにも何も、私はまともに家入さんと話したことが殆ど無い。人見知りと内気な性格が災いして、話し掛けられると何にも言えず、弟の背に隠れてしまうのだ。
しょうがないじゃない、知らない人は怖いんだもん。
未知への恐怖は生命ならば当たり前だろう。
扉を開くことを諦め、悩んだ末にその場を離れる。
こういう時に頼れる人を私は一人しか知らない。
リュックサックを背に、日の落ちた廊下をポテポテ歩き、目当ての部屋まで足を運ぶ。
本当に仕方無いことだが、寒いまま廊下で震えるよりは良い判断だろうと己に言い聞かせ、扉をノックした。
コンコンッ
「悟くーん、たすけ」
「傑の姉ちゃん!?」
ガバッと勢い良く内側から開いた扉が額のギリギリを掠めていく。
仰け反りながら見上げた先には、上下グレーのスウェットを着た悟くんが驚いた顔をして私を見ていた。
「あの、その…弟が、鍵……」
悟くんデケェ〜…近くで見ると目線合わないな。
しどろもどろに現状を説明し始めると、彼はニュッと両手を上げたかと思えば、私の頬に遠慮無く触れてきた。ムイムイッと頬を揉み込まれる。
「冷た!」
「か、鍵が…私の、部屋の鍵…傑くんが持ってて、部屋、入れなくて…」
「はあ〜?アイツ弟失格ね」
「あの、寒い…」
「とりあえず俺の部屋入って」
失礼しますと断りを入れてから部屋に入る。
うん、男の子の部屋だ、弟の部屋とそう変わらない。
しかし、見知らぬ部屋には違い無い、何処へ腰掛けて良いか分からず突っ立っていれば、「そのへん座って」と指示されたので、その通りにラグの上に座った。
背負っていたリュックサックを下ろし、お腹に抱えてギュッと抱き締める。
高専で弟以外の部屋に来たのなんて初めてだ、緊張する。
「お茶飲む?」
「水筒あるから大丈夫」
「緊張してんの?」
「……してる」
なんで、と笑いながら言った悟くんは、冷蔵庫から取り出したプリンとスプーンを出してくれた。
なんか知らんが良くして貰ってしまっている、私のが歳上なのに。
微妙な気持ちになりながらも、プリンの蓋をペリペリと捲って「いただきます」と口にしてからスプーンを入れた。
これあれだ、焼きプリンってやつだ。
表面が焼いてある、シワシワでなんか可愛いな…スケッチしておこう。
刺したスプーンを戻し、リュックサックからスケッチブックを取り出して鉛筆を握る。
「プリンより俺描けば?なんなら脱ぐけど」
「悟くんより焼きプリンのが可愛いからいいや」
「カッパよりも焼きプリンよりも下なの、俺…」
ガックリと肩を落とし、深々と溜息を吐き出した悟くんに流石に申し訳無くなり、ページの隅っこに白い毛玉に黒丸を2個並べた物を描き、その近くに「さとるくん」と書き記しておいた。
ほら、描いてやったぞ。
無言でスケッチブックを開いて見せれば、覗き込んでくれた。
彼は数秒眺めた後に鼻で笑って「それちょーだい」と言った。
「この部分だけでいいの?」
「いいよ、ね、頂戴」
「ちょっと待って、切るから」
ハサミを取り出し、上手いことカットする。
絵を欲しいって言われたの、傑くん以外からだと初めてかもしれない。
チョキチョキとハサミの刃を動かしながら、適当な大きさに切り取る。
こんなんで本当に良いのか、もうちょいマシなの描けば良かったかもしれないと思っても遅い。
切り取り終わった紙がヒラリと机に落ちる前にキャッチした悟くんは、改めて絵を眺め、そして再び鼻で笑った。
そんな何回も鼻で笑わなくてもいいじゃん。
ムッとしながらハサミを片付けていれば、悟くんは携帯を取り出しピロリンピロリンと音を鳴らしながら絵を撮影し始めた。
「傑に自慢してやろ」
「自慢したところで、これじゃ別に…」
「いや、アイツならめちゃめちゃ悔しがる」
でも普段から傑くんには落書きよく押し付けてるし…。
そもそも今任務中だろうし…。
部屋の中には携帯をいじり出した悟くんと、焼きプリンをスケッチする私だけ。
ペンを走らせながら考える。
傑くんは今頃何をしているだろうか、もう戦闘は終わったかな、怪我は無いかな。
疲れているかもしれないから、帰って来たら沢山褒めて甘やかしてあげよう。
弟は良くも悪くも一般人の感性を持ち合わせているから、ここ…呪術界での身の置き方や思想の違いなんかを割り切れずにいる。今はまだ、過酷な環境が与える正義感と、自分にしか出来ない特別感でやっていけている部分もあるだろうが、そんなまやかしはそのうち摩耗してしまう。
そうなった時には、残った感性と信じられる物にしか縋れなくなる。
何かに縋り、それを指針にしなければ、真面目なあの子は生きていけないだろう。
理由無く生きることを、きっとあの子は自分に対して許さない。
もし、もしも…この先、あの子が道を踏み外すようなことがあれば…その時は…
ふと、ペンを握る指先が目に入る。
自然は、不必要なものは作らない。
無益な物などこの世に存在しない。
この星の哲学者の言葉を思い出し、一人納得する。
ああ、そうか。
私が月から零れ落ちて、あの子の腕の中に収まってしまったのは、その時が来た時のためなのだろう。
もし、もしも、その時が来てしまったら、星の無い夜に迷う人間のために、私が星となるんだ。
きっとそういう事だ。
だってあの子、夜みたいに真っ黒だから。
そう思えばなる程、夜空に月の欠片である私が当て嵌まるのは何も不自然なことでは無い。
むしろ、収まるべくして収まっているとも言えよう。
だとか何とか考えていると、眠気が襲ってきた。
「………ねむ」
「は?」
「スカピー……」
「ちょ、姉ちゃん?嘘、男の部屋で寝るなよ、おい、」
むりです、沢山難しいことを考えたら眠くなってしまったので寝ます。電源オフります。
「クピプ〜……」
「いやいやいや、ガチ寝じゃん、ちょっとお姉さま?」
「…スピプー……」
「……とりあえず写真撮っとくか」
抗い難い睡魔に身を委ね、ヒュノプスの手招く方へと緩やかに意識は落ちていった。
傑くんよ、我が弟よ。
私を神だ何だと言って管理したがるならば、もっとちゃんと見ておきなさい。
優しいのに雑なんだから、全く…君がそんなんだから私はいつまで経っても君に堕ちきれない。
月に未練を残したまま、今日も眠らなきゃならない。
部屋の鍵が無い。
朝、傑くんに鍵を渡してそのままだったのかもしれない、どうしよう、部屋に入れない。
本日午後から、我が優秀な弟殿は緊急の任務に行かれてしまった。
予定では深夜近くか、もしくは一泊して明日の昼に帰って来るらしい。未成年に深夜労働をさせるな、法律守れ。
弟に鍵を渡したままだったのをてっきり忘れ自室に戻って来たが、鍵が開かねば部屋には入れない。
現在、季節は冬の外れ程の気候、若干の寒さを感じずにはいられない気温だ。
困ったなこりゃ…どうしたものか。
他の女子の部屋…と言われても、今居るのは家入さんくらいだろうか。
家入さんは、傑くんの同級生の女子生徒だ。傑くんが言うには「副流煙が心配だから姉さんは安易に近付かないように」とのこと。
近付かないようにも何も、私はまともに家入さんと話したことが殆ど無い。人見知りと内気な性格が災いして、話し掛けられると何にも言えず、弟の背に隠れてしまうのだ。
しょうがないじゃない、知らない人は怖いんだもん。
未知への恐怖は生命ならば当たり前だろう。
扉を開くことを諦め、悩んだ末にその場を離れる。
こういう時に頼れる人を私は一人しか知らない。
リュックサックを背に、日の落ちた廊下をポテポテ歩き、目当ての部屋まで足を運ぶ。
本当に仕方無いことだが、寒いまま廊下で震えるよりは良い判断だろうと己に言い聞かせ、扉をノックした。
コンコンッ
「悟くーん、たすけ」
「傑の姉ちゃん!?」
ガバッと勢い良く内側から開いた扉が額のギリギリを掠めていく。
仰け反りながら見上げた先には、上下グレーのスウェットを着た悟くんが驚いた顔をして私を見ていた。
「あの、その…弟が、鍵……」
悟くんデケェ〜…近くで見ると目線合わないな。
しどろもどろに現状を説明し始めると、彼はニュッと両手を上げたかと思えば、私の頬に遠慮無く触れてきた。ムイムイッと頬を揉み込まれる。
「冷た!」
「か、鍵が…私の、部屋の鍵…傑くんが持ってて、部屋、入れなくて…」
「はあ〜?アイツ弟失格ね」
「あの、寒い…」
「とりあえず俺の部屋入って」
失礼しますと断りを入れてから部屋に入る。
うん、男の子の部屋だ、弟の部屋とそう変わらない。
しかし、見知らぬ部屋には違い無い、何処へ腰掛けて良いか分からず突っ立っていれば、「そのへん座って」と指示されたので、その通りにラグの上に座った。
背負っていたリュックサックを下ろし、お腹に抱えてギュッと抱き締める。
高専で弟以外の部屋に来たのなんて初めてだ、緊張する。
「お茶飲む?」
「水筒あるから大丈夫」
「緊張してんの?」
「……してる」
なんで、と笑いながら言った悟くんは、冷蔵庫から取り出したプリンとスプーンを出してくれた。
なんか知らんが良くして貰ってしまっている、私のが歳上なのに。
微妙な気持ちになりながらも、プリンの蓋をペリペリと捲って「いただきます」と口にしてからスプーンを入れた。
これあれだ、焼きプリンってやつだ。
表面が焼いてある、シワシワでなんか可愛いな…スケッチしておこう。
刺したスプーンを戻し、リュックサックからスケッチブックを取り出して鉛筆を握る。
「プリンより俺描けば?なんなら脱ぐけど」
「悟くんより焼きプリンのが可愛いからいいや」
「カッパよりも焼きプリンよりも下なの、俺…」
ガックリと肩を落とし、深々と溜息を吐き出した悟くんに流石に申し訳無くなり、ページの隅っこに白い毛玉に黒丸を2個並べた物を描き、その近くに「さとるくん」と書き記しておいた。
ほら、描いてやったぞ。
無言でスケッチブックを開いて見せれば、覗き込んでくれた。
彼は数秒眺めた後に鼻で笑って「それちょーだい」と言った。
「この部分だけでいいの?」
「いいよ、ね、頂戴」
「ちょっと待って、切るから」
ハサミを取り出し、上手いことカットする。
絵を欲しいって言われたの、傑くん以外からだと初めてかもしれない。
チョキチョキとハサミの刃を動かしながら、適当な大きさに切り取る。
こんなんで本当に良いのか、もうちょいマシなの描けば良かったかもしれないと思っても遅い。
切り取り終わった紙がヒラリと机に落ちる前にキャッチした悟くんは、改めて絵を眺め、そして再び鼻で笑った。
そんな何回も鼻で笑わなくてもいいじゃん。
ムッとしながらハサミを片付けていれば、悟くんは携帯を取り出しピロリンピロリンと音を鳴らしながら絵を撮影し始めた。
「傑に自慢してやろ」
「自慢したところで、これじゃ別に…」
「いや、アイツならめちゃめちゃ悔しがる」
でも普段から傑くんには落書きよく押し付けてるし…。
そもそも今任務中だろうし…。
部屋の中には携帯をいじり出した悟くんと、焼きプリンをスケッチする私だけ。
ペンを走らせながら考える。
傑くんは今頃何をしているだろうか、もう戦闘は終わったかな、怪我は無いかな。
疲れているかもしれないから、帰って来たら沢山褒めて甘やかしてあげよう。
弟は良くも悪くも一般人の感性を持ち合わせているから、ここ…呪術界での身の置き方や思想の違いなんかを割り切れずにいる。今はまだ、過酷な環境が与える正義感と、自分にしか出来ない特別感でやっていけている部分もあるだろうが、そんなまやかしはそのうち摩耗してしまう。
そうなった時には、残った感性と信じられる物にしか縋れなくなる。
何かに縋り、それを指針にしなければ、真面目なあの子は生きていけないだろう。
理由無く生きることを、きっとあの子は自分に対して許さない。
もし、もしも…この先、あの子が道を踏み外すようなことがあれば…その時は…
ふと、ペンを握る指先が目に入る。
自然は、不必要なものは作らない。
無益な物などこの世に存在しない。
この星の哲学者の言葉を思い出し、一人納得する。
ああ、そうか。
私が月から零れ落ちて、あの子の腕の中に収まってしまったのは、その時が来た時のためなのだろう。
もし、もしも、その時が来てしまったら、星の無い夜に迷う人間のために、私が星となるんだ。
きっとそういう事だ。
だってあの子、夜みたいに真っ黒だから。
そう思えばなる程、夜空に月の欠片である私が当て嵌まるのは何も不自然なことでは無い。
むしろ、収まるべくして収まっているとも言えよう。
だとか何とか考えていると、眠気が襲ってきた。
「………ねむ」
「は?」
「スカピー……」
「ちょ、姉ちゃん?嘘、男の部屋で寝るなよ、おい、」
むりです、沢山難しいことを考えたら眠くなってしまったので寝ます。電源オフります。
「クピプ〜……」
「いやいやいや、ガチ寝じゃん、ちょっとお姉さま?」
「…スピプー……」
「……とりあえず写真撮っとくか」
抗い難い睡魔に身を委ね、ヒュノプスの手招く方へと緩やかに意識は落ちていった。
傑くんよ、我が弟よ。
私を神だ何だと言って管理したがるならば、もっとちゃんと見ておきなさい。
優しいのに雑なんだから、全く…君がそんなんだから私はいつまで経っても君に堕ちきれない。
月に未練を残したまま、今日も眠らなきゃならない。