夏油傑による姉神信仰について.2
小学生の頃、姉の将来の夢は「宇宙飛行士」だった。
私達姉弟は、私が小学生に上がるまでの期間は特別仲の良い姉弟では無かった。
姉からしたら、些細な事でも無いこと。
だが私からしたら、人生を変える出来事を経て、私達姉弟は現在の関係へと至った。
仲を深めて以来、私は姉によく着いて回るようになった。
春になれば咲き誇る野花に道草を食いながら、ヨモギやつくしを取っては家に持ち帰り、夏になれば快晴の下でザリガニ釣りだの田んぼに居るカブトエビを見に行くだの。
秋になると紅葉を踏みながら綺麗なドングリを毎日探しに行っていたし、冬は雪が降る度に親から貰った使い捨てのフィルムカメラを持って姉は上着も忘れて元気に外に飛び出して行った。
幼少期の私はそんな姉に毎回、待って待ってと言いながら付いて回った次第である。
私には一体何が楽しいのか分からなかったが、友達と遊ぶでもなく、毎日毎日一人で探検ごっこをし続ける姉は、学校や家に居る時よりもイキイキとして見えた。
多分、きっと、恐らく。
曖昧な枕詞でしか語れないような話だが、姉さんは他人のことをちゃんと認識出来ていない。
そこにあることは分かっていても、それだけだ。背景にあるオブジェクトと変わらぬ扱いをしている。
だから友人を作らないし、作れない。血の繋がりがある相手にすら本心を見せず、理解も同情も共鳴も求めずに生きている。
憶測に過ぎないが、姉さんにとっては人間も呪いもドングリも、同じ価値なのだろう。
まさにどんぐりの背比べだ。
だからだろうか、私の姉に対する好意は幼少期から一方通行のままだった。
小学生の頃はそれが嫌で、何とかして気を引きたくて色々してみたものだ。
探検に着いて行くのは当たり前のこと、寂しいからと言って姉のベッドに毎日のように潜り込み、呪いを怖がって見せて手を繋いで貰ったり。
あまりに相手にして貰えない時はわざとらしく拗ねてみたり、我儘を言って学校の休み時間に一緒に居てもらったり。
あの手この手で気を引くため、お菓子作りをやった時もあった。学校が文集を作るという時には、作文には姉の尊さと偉大さについて書いたりもした。
勿論一緒に風呂にも入ったことがあるし、風邪を引いた時は泣いて側に居て欲しいと頼んだりもした。
姉は、言えば大体「分かった」と軽く承諾してくれる人なので、大体のことは受け入れてくれたが、しかし、一つだけ駄目だと言われたことがある。
それは、同じ夢を持つことだった。
姉の将来の夢を知り、当たり前のように「お姉ちゃんが宇宙に行くなら僕も行く」と言った日、姉は暫し口を閉ざした後に「だめ」と短く、しかしキッパリと否定を口にした。
はじめてのことだった。
はじめて、姉から否定を受けた。
その瞬間、どうして?という疑問よりも先に、裏切られたという思いを抱いた。
ショックを受ける私のことなど見ずに、誕生日に買って貰ったらしい分厚い月の図鑑を眺めながら姉は言う。
「傑くんを月には連れて行けないよ」
「なんで、やだ、僕も」
「可愛い弟をあんな寒くて暗い、何も無い世界に連れて行くなんて可哀想だもの」
まるで月を見たことがあるかのように語る姉は、私に向けたことの無い慈愛に満ちた瞳で紙に印刷された何の面白みも無い、価値なんて感じられない月の写真を指先で優しく撫でてみせた。
私はこの瞬間、自分から姉を奪おうとする月のことが嫌いで嫌いでたまらなくなった。
空に浮かび、こちらを見下ろすあの荘厳の白が、忌々しくて仕方が無かった。
姉が焦がれる星にして、私から姉を奪う悪魔の輝き。
私は月が嫌いだ。
月が綺麗ですね、だなんて誰もが使いまくって特別でもなんでも無くなった言葉も、私にとっては特別なものだ。
特別、嫌いな言葉だ。
綺麗な月なんて嫌いだ。
あの空から撃ち落としてやりたいくらいには。
憎くてたまらない、私の敵だ。
___
高専の寮には当たり前だが部屋ごとに鍵が付いている。
私は勿論掛けているし、悟もしっかり戸締まりをしている。
だが、姉は何度言っても戸締まりを忘れる人であった。曰く、「貴重品なんて無い」「傑くん以外に部屋に来た事ある人いない」だそうだ。
私以外が部屋に入った事が無い事実は喜ばしいと同時に、まあ当然のことかという気持ちだが、貴重品が無いなんてのは嘘だ。だって姉さんこそが、この世で最も尊く貴重かつ崇高な物なのだから。
「だから鍵を締めてくれ」
「締めたはずなのになあ…なんでいつの間にか傑くんが部屋に居るのかなあ…」
「私の出入りは自由だから」
「そっかぁ…」
姉さんの部屋の戸締まりを確認しに行ったら、中から物音がしなかったため部屋に入った次第だ。
どうやら共同の風呂に入っていたらしく、湯上がりホコホコな姉さんは髪をガシガシと乱暴に拭きながら部屋に戻って来た。
折角私が丁寧に手入れをして伸ばさせている髪をあんな風に手荒く扱われては、たまったもんじゃない。
全く、私がしてあげないと全然ちゃんとしてくれないんだから。
困った人だ、まあそうなるよう仕込んで来たのは他でもない私なのだが。この髪も、態度も、全ては私の努力の賜物である。
櫛を通してからドライヤーをかける。
水を吸って重くなった黒髪に指を通しながら、私は機嫌良く姉に話し掛けた。
「姉さん、窓の鍵が開いたままだったから気をつけてくれ」
「うん」
「あと、髪はもっと大切にするように」
「うん」
「ちゃんと聞いてるかい?」
「…うん」
反応が薄い、どうやらもう寝る体制に入っているみたいだ。
髪を乾かし、ヘアオイルを付け、もう一度髪を梳かせば手入れは終わり。
うん、毎日のようにやっているだけあって今日も完璧な仕上がりだ。
「姉さん、寝るならベッドに行きなね」
「もうむり…」
「もう、仕方無いなぁ」
グデグデと脱力し、完全にこちらに身体を預けている姉さんを後ろから抱き留め、体温を分けるように抱き締め頭のてっぺんに鼻を擦り付けた。
姉さんの香りがする、目眩がするくらい甘美な匂いだ。
暫くすれば規則的な呼吸音が小さく聞こえ始め、寝付いたことが分かった。
おやすみ3秒、本日も健やかな入眠を見届けられて一安心。
細くて小さな身体を抱き上げベッドまで運び、肩まで毛布をかけてやる。
すうすうと、小さく口を開けながら眠る姉は、幼い頃からあまり変わっていない。
相変わらず人間関係を築くのが下手くそで、暇さえあれば探検に行き、私に対して無警戒だ。
もうとっくの昔から姉に対して数多の欲を抱えているというのに、一向に気づかず、簡単に部屋に招き入れて側に居ることを許してしまう。
この人の中では、私はあの大泣きした月の輝く夜から何も変わっていないのかもしれない。
貴女の弟はもう可愛いだけの男の子では無いのだと言ってやりたかった。
けれど、言ったが最後というやつなのも分かっている。
それでもそろそろ、少しくらいは意識して欲しかった。
姉が望むのならば信者にだってなんだって成ってやるが、神ならば私の願いの一つくらい叶えてくれてもいいだろう。
眠る姉さんの耳元に唇を寄せ、静かに口を開く。
「起きたら姉さんが私のことを今日も可愛いと褒めてくれますように、起きた姉さんが朝一番最初に私に挨拶してくれますように、朝ご飯を一緒に食べた後にホームルームが始まるまでずっと側に居てくれますように、膝の上に自分から座ってくれますように、昼は探検より私を優先してくれますように、夜は甘えられますように、一日百回頼って貰えますように、頭を沢山撫でて貰えますように、悟を探検に誘いませんように、いや絶対に誘うな、誰も誘うな、誰とも喋るな、私以外の名前を呼ぶな、誰も姉さんに触れるな、触れるな、触れるな…私だけ…私だけ…絶対に全部私だけ…」
「う"〜ん……」
「姉さんは私の物、姉さんは私の物、姉さんは私の物……事実婚…既成事実…死ぬまで私の神様……」
姉さんは星のように輝き、私の魂を照らしてくれるお人だ。
そして、私の腕の中に落ちてきた流れ星でもある。
だからこうして毎晩星に願いを捧げるように、姉さんに願い事を囁いている。
無意識の刷り込みは大切だって、洗脳やマインドコントロールに関する本にも載っていたからね、それを100%信じているわけじゃないが、やっておいて損にはならないだろう。
「ふぅ…これくらいにしておこうかな」
寝返りを打って布団に潜ってしまった姉さんに満足し、私は一言「おやすみ」と呟いてから部屋を後にした。
さあ私も寝なければ、明日も早起きして姉さんの一日の始まりを見届けるんだ。
はあ………姉さん好き、明日もがんばろ。
私達姉弟は、私が小学生に上がるまでの期間は特別仲の良い姉弟では無かった。
姉からしたら、些細な事でも無いこと。
だが私からしたら、人生を変える出来事を経て、私達姉弟は現在の関係へと至った。
仲を深めて以来、私は姉によく着いて回るようになった。
春になれば咲き誇る野花に道草を食いながら、ヨモギやつくしを取っては家に持ち帰り、夏になれば快晴の下でザリガニ釣りだの田んぼに居るカブトエビを見に行くだの。
秋になると紅葉を踏みながら綺麗なドングリを毎日探しに行っていたし、冬は雪が降る度に親から貰った使い捨てのフィルムカメラを持って姉は上着も忘れて元気に外に飛び出して行った。
幼少期の私はそんな姉に毎回、待って待ってと言いながら付いて回った次第である。
私には一体何が楽しいのか分からなかったが、友達と遊ぶでもなく、毎日毎日一人で探検ごっこをし続ける姉は、学校や家に居る時よりもイキイキとして見えた。
多分、きっと、恐らく。
曖昧な枕詞でしか語れないような話だが、姉さんは他人のことをちゃんと認識出来ていない。
そこにあることは分かっていても、それだけだ。背景にあるオブジェクトと変わらぬ扱いをしている。
だから友人を作らないし、作れない。血の繋がりがある相手にすら本心を見せず、理解も同情も共鳴も求めずに生きている。
憶測に過ぎないが、姉さんにとっては人間も呪いもドングリも、同じ価値なのだろう。
まさにどんぐりの背比べだ。
だからだろうか、私の姉に対する好意は幼少期から一方通行のままだった。
小学生の頃はそれが嫌で、何とかして気を引きたくて色々してみたものだ。
探検に着いて行くのは当たり前のこと、寂しいからと言って姉のベッドに毎日のように潜り込み、呪いを怖がって見せて手を繋いで貰ったり。
あまりに相手にして貰えない時はわざとらしく拗ねてみたり、我儘を言って学校の休み時間に一緒に居てもらったり。
あの手この手で気を引くため、お菓子作りをやった時もあった。学校が文集を作るという時には、作文には姉の尊さと偉大さについて書いたりもした。
勿論一緒に風呂にも入ったことがあるし、風邪を引いた時は泣いて側に居て欲しいと頼んだりもした。
姉は、言えば大体「分かった」と軽く承諾してくれる人なので、大体のことは受け入れてくれたが、しかし、一つだけ駄目だと言われたことがある。
それは、同じ夢を持つことだった。
姉の将来の夢を知り、当たり前のように「お姉ちゃんが宇宙に行くなら僕も行く」と言った日、姉は暫し口を閉ざした後に「だめ」と短く、しかしキッパリと否定を口にした。
はじめてのことだった。
はじめて、姉から否定を受けた。
その瞬間、どうして?という疑問よりも先に、裏切られたという思いを抱いた。
ショックを受ける私のことなど見ずに、誕生日に買って貰ったらしい分厚い月の図鑑を眺めながら姉は言う。
「傑くんを月には連れて行けないよ」
「なんで、やだ、僕も」
「可愛い弟をあんな寒くて暗い、何も無い世界に連れて行くなんて可哀想だもの」
まるで月を見たことがあるかのように語る姉は、私に向けたことの無い慈愛に満ちた瞳で紙に印刷された何の面白みも無い、価値なんて感じられない月の写真を指先で優しく撫でてみせた。
私はこの瞬間、自分から姉を奪おうとする月のことが嫌いで嫌いでたまらなくなった。
空に浮かび、こちらを見下ろすあの荘厳の白が、忌々しくて仕方が無かった。
姉が焦がれる星にして、私から姉を奪う悪魔の輝き。
私は月が嫌いだ。
月が綺麗ですね、だなんて誰もが使いまくって特別でもなんでも無くなった言葉も、私にとっては特別なものだ。
特別、嫌いな言葉だ。
綺麗な月なんて嫌いだ。
あの空から撃ち落としてやりたいくらいには。
憎くてたまらない、私の敵だ。
___
高専の寮には当たり前だが部屋ごとに鍵が付いている。
私は勿論掛けているし、悟もしっかり戸締まりをしている。
だが、姉は何度言っても戸締まりを忘れる人であった。曰く、「貴重品なんて無い」「傑くん以外に部屋に来た事ある人いない」だそうだ。
私以外が部屋に入った事が無い事実は喜ばしいと同時に、まあ当然のことかという気持ちだが、貴重品が無いなんてのは嘘だ。だって姉さんこそが、この世で最も尊く貴重かつ崇高な物なのだから。
「だから鍵を締めてくれ」
「締めたはずなのになあ…なんでいつの間にか傑くんが部屋に居るのかなあ…」
「私の出入りは自由だから」
「そっかぁ…」
姉さんの部屋の戸締まりを確認しに行ったら、中から物音がしなかったため部屋に入った次第だ。
どうやら共同の風呂に入っていたらしく、湯上がりホコホコな姉さんは髪をガシガシと乱暴に拭きながら部屋に戻って来た。
折角私が丁寧に手入れをして伸ばさせている髪をあんな風に手荒く扱われては、たまったもんじゃない。
全く、私がしてあげないと全然ちゃんとしてくれないんだから。
困った人だ、まあそうなるよう仕込んで来たのは他でもない私なのだが。この髪も、態度も、全ては私の努力の賜物である。
櫛を通してからドライヤーをかける。
水を吸って重くなった黒髪に指を通しながら、私は機嫌良く姉に話し掛けた。
「姉さん、窓の鍵が開いたままだったから気をつけてくれ」
「うん」
「あと、髪はもっと大切にするように」
「うん」
「ちゃんと聞いてるかい?」
「…うん」
反応が薄い、どうやらもう寝る体制に入っているみたいだ。
髪を乾かし、ヘアオイルを付け、もう一度髪を梳かせば手入れは終わり。
うん、毎日のようにやっているだけあって今日も完璧な仕上がりだ。
「姉さん、寝るならベッドに行きなね」
「もうむり…」
「もう、仕方無いなぁ」
グデグデと脱力し、完全にこちらに身体を預けている姉さんを後ろから抱き留め、体温を分けるように抱き締め頭のてっぺんに鼻を擦り付けた。
姉さんの香りがする、目眩がするくらい甘美な匂いだ。
暫くすれば規則的な呼吸音が小さく聞こえ始め、寝付いたことが分かった。
おやすみ3秒、本日も健やかな入眠を見届けられて一安心。
細くて小さな身体を抱き上げベッドまで運び、肩まで毛布をかけてやる。
すうすうと、小さく口を開けながら眠る姉は、幼い頃からあまり変わっていない。
相変わらず人間関係を築くのが下手くそで、暇さえあれば探検に行き、私に対して無警戒だ。
もうとっくの昔から姉に対して数多の欲を抱えているというのに、一向に気づかず、簡単に部屋に招き入れて側に居ることを許してしまう。
この人の中では、私はあの大泣きした月の輝く夜から何も変わっていないのかもしれない。
貴女の弟はもう可愛いだけの男の子では無いのだと言ってやりたかった。
けれど、言ったが最後というやつなのも分かっている。
それでもそろそろ、少しくらいは意識して欲しかった。
姉が望むのならば信者にだってなんだって成ってやるが、神ならば私の願いの一つくらい叶えてくれてもいいだろう。
眠る姉さんの耳元に唇を寄せ、静かに口を開く。
「起きたら姉さんが私のことを今日も可愛いと褒めてくれますように、起きた姉さんが朝一番最初に私に挨拶してくれますように、朝ご飯を一緒に食べた後にホームルームが始まるまでずっと側に居てくれますように、膝の上に自分から座ってくれますように、昼は探検より私を優先してくれますように、夜は甘えられますように、一日百回頼って貰えますように、頭を沢山撫でて貰えますように、悟を探検に誘いませんように、いや絶対に誘うな、誰も誘うな、誰とも喋るな、私以外の名前を呼ぶな、誰も姉さんに触れるな、触れるな、触れるな…私だけ…私だけ…絶対に全部私だけ…」
「う"〜ん……」
「姉さんは私の物、姉さんは私の物、姉さんは私の物……事実婚…既成事実…死ぬまで私の神様……」
姉さんは星のように輝き、私の魂を照らしてくれるお人だ。
そして、私の腕の中に落ちてきた流れ星でもある。
だからこうして毎晩星に願いを捧げるように、姉さんに願い事を囁いている。
無意識の刷り込みは大切だって、洗脳やマインドコントロールに関する本にも載っていたからね、それを100%信じているわけじゃないが、やっておいて損にはならないだろう。
「ふぅ…これくらいにしておこうかな」
寝返りを打って布団に潜ってしまった姉さんに満足し、私は一言「おやすみ」と呟いてから部屋を後にした。
さあ私も寝なければ、明日も早起きして姉さんの一日の始まりを見届けるんだ。
はあ………姉さん好き、明日もがんばろ。