番外編
前回のあらすじ、我が優秀なる弟殿に、耳に穴を開けられそうになった。
なった…というか、現在進行系でなっている。
あの後、穴を開けるための物を処分してしまおうと考えついた私は、弟の部屋に勝手に入ってピアッサーなる物を探そうとした。
探そうとしたのだが…
「た、たくさん…ある、だと……」
机の引き出し、箪笥の中、ゴミ箱の背中側、本棚の隙間、テレビの裏、枕の中、果ては未使用のトイレットペーパーの芯の中まで。
一体何故こんなにも大量にあるのか、そもそもなんだこの数は、ピアス屋さんでも始める気なのだろうか。
「…見なかったことにしよう」
とてもじゃないが見つけ切れそうに無いと判断し、そっと引き返して部屋を後にした。
傑くん……耳に開けられる穴の数には限度ってものがあるとお姉ちゃん思うんだ…。
それに私は別にピアスを開けたいとは一言も言っていない、あの時雑誌を読みながら呟いたのは、いつも色々して貰っているから、何か傑くんにお礼がしたくて…たまたまピアスが目に止まったからだ。他意は無いのだ。
だが、このままいけば確実に寝ている隙だとか、ボーッと日光浴している最中に背後からとか、もしくは悟くんを巻き込んで…やられてしまう、かもしれない…。
どうしよう、それは困る。
そもそも、人間の身体には既に幾つも穴が開いているではないか、それなのに自ら開けてさらに穴を増やすだなんて、とてもじゃないが正気とは思えない。
お洒落だ何だと言うが、別に耳たぶでお洒落しなくたって、他にも着飾れる部分は人体に幾らでもあろうに…全く持って理解に苦しむ。
あと、ファーストピアスが黒なのもちょっとだけ嫌だ。
私は目も髪も真っ黒で、制服だって黒。
月の欠片だった時代からすれば懐かしい、親しみのある色ではあるが、同じ懐かしさならば満月のような、まあるい黄色が好ましい。
地球で人間が月を表現する場合、黄色や白が多用されるからだろうか、私は黄色くて丸い物は大好きだ。たんぽぽとか、目玉焼きの黄身とか、レモン、オオキンケイギクなどなど、微笑ましい限りである。
なので、黒は避けたい。全身真っ黒はあまりに味気無い、傑くんは似合ってるから良いけれど…私まで黒一色にしたら流石にどうかと思う。
「…どうせ開けられる定めなら…自分でやるか…」
「姉さん?何か開かないものでもあった?」
「……あれ…今、授業中じゃなかった?」
「姉さんが脱走したって担任から言われてね、探しに来たんだ。さあ戻ろう」
ちくしょう、今日の冒険終了。
折角昨日雨が降ったから、カエルでも探しに行こうかと思ったのに…。
悩みながら適当な廊下を歩いていたら背後からヌルリと現れた弟によって捕らえられてしまった。
ピアッサーを買いに行く時は是非とも隠密を心掛けねば。
よし、今から練習しておこう。
抜き足…差し足…忍び足…静かに呼吸を、服の擦れる音に注意して……ゆっくり、丁寧に、慎重に…。
「…姉さん?いきなりどうしたんだい?」
「私は忍ぶ練習をしながら教室に行く、傑くんは先に行きなさい」
「この速度だと着く頃には授業が終わってしまうと思うけど」
「構わん、行け」
「構うよ、先生が」
あ、と思った時には遅く、ヒョイッと軽々抱き上げられた私は、そのまま横抱きにされ教室まで連行されてしまった。BGMはドナドナ、売られていく子牛はこんな気分だったのかもしれない。
…
んで、数日後
「ね、ね、姉さ……ミミミ、ミ、ミ…」
「耳に穴の開いているタイプのヒューマンになっちまった」
「ハッ、ハッ、ハッ…硝子、硝子ーー!!!」
耳に穴を開けたことを、朝の仕度をしている最中にやって来た弟に見付かったと思ったら、同級生の名前を叫びながら部屋から出てしまった。朝から元気な事だ。
「硝子ー!!!大変なんだ、助けてくれ、姉さんが!!!」
バキィッだとか、ドゴォッだとか、とんでもない音が開きっぱなしの扉の先から聞こえてくる気がするのだが、大丈夫だろうか。
そして、まあいいやと着替えの続きを終え、髪を梳かそうする頃、息を切らした弟が一人の女の子を連れて来た。
家入さんだ、彼女は傑くんの同級生である。
「お姉さんおはよーございます」
「硝子、頼む」
「すみません、買収されてるんで大人しくしてて下さいね」
「ぇ、ぁ、あ、あの…えっと…」
瞬き一つ。
次の瞬間、風を感じたと思ったら背後からガッシリと腕事抱き締められた。
ぎ、ギチギチいってる、これでは抜け出せない…!
目前には眠そうな家入さんがあくびをしながら迫って来ている、彼女は手を伸ばすと、私の昨日開けたばかりのピアスに触れて来た。
「硝子、姉さんに触れるのは最低限にしてくれ」
「お姉さん本当美人ですよね、今度私とデート行きません?」
「あ、あぅ…あ、や…ちか…」
睫毛が長い、ホクロの位置が色っぽい、指先が擽ったい。
目の前で息を溢すようにフッと笑われると、どうして良いか分からなくなる。どうしよ、ちょっとドキドキしてきちゃった。照れてしまう。
「硝子!!!」
「はい、おわり」
え、何が?
その疑問はすぐに分かった。
彼女の手のひらに転がる黄色い人工石の付いた一対のピアスが、朝日に照らされキラキラと黄色く輝く。
あれ、なんで?ピアス…取られた?なんで?
あ、そうか…私はまだ世話になったこと無いが、確か家入さんは反転術式が他人にも使えたんだっけか。
じゃあ、もしかして…耳に開けた穴を…?
「…良かった、塞がってる」
傑くんの片手が耳の縁をなぞりながら耳朶まで降りて、フニフニと確かめるように揉んだ。
その間にも家入さんは部屋から、もう用は済んだとばかりに出て行ってしまう。
そんなアホな、買収ってそういう??
「こら、駄目だろう姉さん」
「術式の無駄遣いだ…」
「聞いているのかい?全く、私の許可無くこんなことして…私、怒っているんだからね?」
フニフニフニフニフニフニ…。
耳たぶをコネコネされまくる。
もう片手が首を伝いながら顎へと添えられ、ごく軽い力で上を向くようにと誘導される。
従うままに顔を上げれば、笑っていない瞳でこちらを見下ろす、口元だけ笑みを象った弟が私の顔に影を落とすように見おろしていた。
これはまあ、なんというか…確かに怒っている、気がする…ような。
「駄目だろ?勝手にピアスなんて開けたら、失敗したらどうするんだい?私は姉さんのためを思って言っているんだからね?」
顎に置かれた手が、何度も、何度も、何度も、喉の形を確かめるように首元を上下する。
「例え姉さん本人だろうと、私以外が姉さんに傷を作るだなんて許せないんだ、分かってくれ」
穏やかに、慈しむように、そしてそれらでは隠しきれなかった嫉妬心を瞳の奥に携えながら、私を見下ろす傑くんは今日も絶好調であった。
「姉さん、私はね、」
「この体勢もうむり、首疲れた」
「あ、すまない」
だが調子が良いのは私も同じ。
そして、姉に勝てる弟などいないのだ。
顔の位置を戻した私は、「撫でられるのも疲れた」と言ってベリッと纏わり付く指を強制的に離し、そのままスタスタと歩き用意済のリュックサックを手に取る。
案の定「私が持つよ」と言ってきた弟の言葉を無視してリュックサックを背負う。
梳かしていない髪を手櫛で適当に整えながらそのまま自室の玄関口へ向かえば、喋らない私に焦り始めた弟があれやこれやと尋ねてくる。それも無視して部屋に鍵を掛け、いつもより早めの歩調で教室を目指した。
「ね、姉さん?何か言って欲しいな、あ!ほら、今日はよく晴れているよ、散歩日和だ」
「………」
「姉さん…?あの、ほら、そうだ!朝御飯がまだだっただろう?何か食べてから…」
「………」
「…………姉さん、無視は、やめてくれないか…」
やめません、ぷいッ。
覗き込んで来たのと別方向へ顔を背けてやる。
そうすれば、行動停止した弟は数秒後にグシャリと廊下に力無く崩れ落ちていった。
チラリと後ろを見れば、大きな身体が小さく丸まりながらプルプルと震えていて面白い状態になっていたので、思わず笑い声を溢す。
まったくすぐ拗ねて、子供だなぁ。
「傑くん、人にされて嫌なことはやったら駄目なんだよ、分かったかい?」
「姉さん…怒ってる…?」
「ぜんぜん、そもそも別にピアス開けたかったわけじゃないし」
「え、そうなのかい?」
側に近寄ってしゃがめば、丸まり状態を解除した傑くんは上体をゆっくりと起き上がらせる。
そうだよ、私ピアス開けたいなんて一言も言っていない。
多分、いや絶対、傑くんの早とちりだよ。
その事を伝えれば、「いや、でも…」だとか「しかし…」だとか言いながら狼狽えた様子を見せた。
「私はピアスを開けたかったんじゃなくて、ピアスを買おうかなって思っただけだよ」
「誰にだ」
「いつも健気に頑張ってくれている私の可愛い弟にだよ」
「え」
私の弟は早生まれだ。
まだ雪の溶け切らない、草花が芽吹きはじめ、春が恋しくなる季節に生まれた子だ。
小さな子だった、誰にも本当の笑みを見せない子だった。
いつも怯え、陰で泣き、しかし理解を求めようとしない子だった。
いつからだろうか、そんな子だった弟が甘えるようになってくれたのは。
気持ちを吐き出し、恐怖を訴え、甘え、求めてくるようになった時から、私はそれまで無意味に過ごしていた時間を終え、この子の姉になったのだ。
だが、残念ながら私は人間としても姉としても未熟だ。
余程弟の方がしっかりしているだろう、だから形だけでも良いから何か姉らしいことをしてやりたいと思ったのだ。
それだけだ、それ以外にはない。
私には弟だけだ、弟以外にはこんなことしない。
再び固まった弟を置いて立ち上がり、背を向け教室を目指し歩き始める。
弟は強く逞しく育ってくれた。
しかし、それでもまだほんの十数年しか生きていない人間だ。私と違って正しい人間の成長をしている子だ。
図体は大きくても中身はまだ大人に成り切れていないのだ。
守ってやらねばならない、導びいてやらねばならない。
月に行けなくとも、あの子の隣には居られるのだから、贈り物の一つくらいたまにはしてやらなければならないだろう。
私は一応、姉なのだし。
「置いて行っちゃうよー」
「…待って、姉さん待って!」
「待ちまーす」
「あと、プレゼントならピアスより指輪がいい、お揃いの」
「指に嵌める物は邪魔になる」
「チェーンで通してネックレスにするのはどうかな?邪魔にならないよ、ね?それがいい、そうしよう」
それがいいならそうしよう。
指輪一つくらいなら、いつか月に帰る時も、荷物にならないだろうから。
それを見るたび、弟のことを思い出すことにするよ。
なった…というか、現在進行系でなっている。
あの後、穴を開けるための物を処分してしまおうと考えついた私は、弟の部屋に勝手に入ってピアッサーなる物を探そうとした。
探そうとしたのだが…
「た、たくさん…ある、だと……」
机の引き出し、箪笥の中、ゴミ箱の背中側、本棚の隙間、テレビの裏、枕の中、果ては未使用のトイレットペーパーの芯の中まで。
一体何故こんなにも大量にあるのか、そもそもなんだこの数は、ピアス屋さんでも始める気なのだろうか。
「…見なかったことにしよう」
とてもじゃないが見つけ切れそうに無いと判断し、そっと引き返して部屋を後にした。
傑くん……耳に開けられる穴の数には限度ってものがあるとお姉ちゃん思うんだ…。
それに私は別にピアスを開けたいとは一言も言っていない、あの時雑誌を読みながら呟いたのは、いつも色々して貰っているから、何か傑くんにお礼がしたくて…たまたまピアスが目に止まったからだ。他意は無いのだ。
だが、このままいけば確実に寝ている隙だとか、ボーッと日光浴している最中に背後からとか、もしくは悟くんを巻き込んで…やられてしまう、かもしれない…。
どうしよう、それは困る。
そもそも、人間の身体には既に幾つも穴が開いているではないか、それなのに自ら開けてさらに穴を増やすだなんて、とてもじゃないが正気とは思えない。
お洒落だ何だと言うが、別に耳たぶでお洒落しなくたって、他にも着飾れる部分は人体に幾らでもあろうに…全く持って理解に苦しむ。
あと、ファーストピアスが黒なのもちょっとだけ嫌だ。
私は目も髪も真っ黒で、制服だって黒。
月の欠片だった時代からすれば懐かしい、親しみのある色ではあるが、同じ懐かしさならば満月のような、まあるい黄色が好ましい。
地球で人間が月を表現する場合、黄色や白が多用されるからだろうか、私は黄色くて丸い物は大好きだ。たんぽぽとか、目玉焼きの黄身とか、レモン、オオキンケイギクなどなど、微笑ましい限りである。
なので、黒は避けたい。全身真っ黒はあまりに味気無い、傑くんは似合ってるから良いけれど…私まで黒一色にしたら流石にどうかと思う。
「…どうせ開けられる定めなら…自分でやるか…」
「姉さん?何か開かないものでもあった?」
「……あれ…今、授業中じゃなかった?」
「姉さんが脱走したって担任から言われてね、探しに来たんだ。さあ戻ろう」
ちくしょう、今日の冒険終了。
折角昨日雨が降ったから、カエルでも探しに行こうかと思ったのに…。
悩みながら適当な廊下を歩いていたら背後からヌルリと現れた弟によって捕らえられてしまった。
ピアッサーを買いに行く時は是非とも隠密を心掛けねば。
よし、今から練習しておこう。
抜き足…差し足…忍び足…静かに呼吸を、服の擦れる音に注意して……ゆっくり、丁寧に、慎重に…。
「…姉さん?いきなりどうしたんだい?」
「私は忍ぶ練習をしながら教室に行く、傑くんは先に行きなさい」
「この速度だと着く頃には授業が終わってしまうと思うけど」
「構わん、行け」
「構うよ、先生が」
あ、と思った時には遅く、ヒョイッと軽々抱き上げられた私は、そのまま横抱きにされ教室まで連行されてしまった。BGMはドナドナ、売られていく子牛はこんな気分だったのかもしれない。
…
んで、数日後
「ね、ね、姉さ……ミミミ、ミ、ミ…」
「耳に穴の開いているタイプのヒューマンになっちまった」
「ハッ、ハッ、ハッ…硝子、硝子ーー!!!」
耳に穴を開けたことを、朝の仕度をしている最中にやって来た弟に見付かったと思ったら、同級生の名前を叫びながら部屋から出てしまった。朝から元気な事だ。
「硝子ー!!!大変なんだ、助けてくれ、姉さんが!!!」
バキィッだとか、ドゴォッだとか、とんでもない音が開きっぱなしの扉の先から聞こえてくる気がするのだが、大丈夫だろうか。
そして、まあいいやと着替えの続きを終え、髪を梳かそうする頃、息を切らした弟が一人の女の子を連れて来た。
家入さんだ、彼女は傑くんの同級生である。
「お姉さんおはよーございます」
「硝子、頼む」
「すみません、買収されてるんで大人しくしてて下さいね」
「ぇ、ぁ、あ、あの…えっと…」
瞬き一つ。
次の瞬間、風を感じたと思ったら背後からガッシリと腕事抱き締められた。
ぎ、ギチギチいってる、これでは抜け出せない…!
目前には眠そうな家入さんがあくびをしながら迫って来ている、彼女は手を伸ばすと、私の昨日開けたばかりのピアスに触れて来た。
「硝子、姉さんに触れるのは最低限にしてくれ」
「お姉さん本当美人ですよね、今度私とデート行きません?」
「あ、あぅ…あ、や…ちか…」
睫毛が長い、ホクロの位置が色っぽい、指先が擽ったい。
目の前で息を溢すようにフッと笑われると、どうして良いか分からなくなる。どうしよ、ちょっとドキドキしてきちゃった。照れてしまう。
「硝子!!!」
「はい、おわり」
え、何が?
その疑問はすぐに分かった。
彼女の手のひらに転がる黄色い人工石の付いた一対のピアスが、朝日に照らされキラキラと黄色く輝く。
あれ、なんで?ピアス…取られた?なんで?
あ、そうか…私はまだ世話になったこと無いが、確か家入さんは反転術式が他人にも使えたんだっけか。
じゃあ、もしかして…耳に開けた穴を…?
「…良かった、塞がってる」
傑くんの片手が耳の縁をなぞりながら耳朶まで降りて、フニフニと確かめるように揉んだ。
その間にも家入さんは部屋から、もう用は済んだとばかりに出て行ってしまう。
そんなアホな、買収ってそういう??
「こら、駄目だろう姉さん」
「術式の無駄遣いだ…」
「聞いているのかい?全く、私の許可無くこんなことして…私、怒っているんだからね?」
フニフニフニフニフニフニ…。
耳たぶをコネコネされまくる。
もう片手が首を伝いながら顎へと添えられ、ごく軽い力で上を向くようにと誘導される。
従うままに顔を上げれば、笑っていない瞳でこちらを見下ろす、口元だけ笑みを象った弟が私の顔に影を落とすように見おろしていた。
これはまあ、なんというか…確かに怒っている、気がする…ような。
「駄目だろ?勝手にピアスなんて開けたら、失敗したらどうするんだい?私は姉さんのためを思って言っているんだからね?」
顎に置かれた手が、何度も、何度も、何度も、喉の形を確かめるように首元を上下する。
「例え姉さん本人だろうと、私以外が姉さんに傷を作るだなんて許せないんだ、分かってくれ」
穏やかに、慈しむように、そしてそれらでは隠しきれなかった嫉妬心を瞳の奥に携えながら、私を見下ろす傑くんは今日も絶好調であった。
「姉さん、私はね、」
「この体勢もうむり、首疲れた」
「あ、すまない」
だが調子が良いのは私も同じ。
そして、姉に勝てる弟などいないのだ。
顔の位置を戻した私は、「撫でられるのも疲れた」と言ってベリッと纏わり付く指を強制的に離し、そのままスタスタと歩き用意済のリュックサックを手に取る。
案の定「私が持つよ」と言ってきた弟の言葉を無視してリュックサックを背負う。
梳かしていない髪を手櫛で適当に整えながらそのまま自室の玄関口へ向かえば、喋らない私に焦り始めた弟があれやこれやと尋ねてくる。それも無視して部屋に鍵を掛け、いつもより早めの歩調で教室を目指した。
「ね、姉さん?何か言って欲しいな、あ!ほら、今日はよく晴れているよ、散歩日和だ」
「………」
「姉さん…?あの、ほら、そうだ!朝御飯がまだだっただろう?何か食べてから…」
「………」
「…………姉さん、無視は、やめてくれないか…」
やめません、ぷいッ。
覗き込んで来たのと別方向へ顔を背けてやる。
そうすれば、行動停止した弟は数秒後にグシャリと廊下に力無く崩れ落ちていった。
チラリと後ろを見れば、大きな身体が小さく丸まりながらプルプルと震えていて面白い状態になっていたので、思わず笑い声を溢す。
まったくすぐ拗ねて、子供だなぁ。
「傑くん、人にされて嫌なことはやったら駄目なんだよ、分かったかい?」
「姉さん…怒ってる…?」
「ぜんぜん、そもそも別にピアス開けたかったわけじゃないし」
「え、そうなのかい?」
側に近寄ってしゃがめば、丸まり状態を解除した傑くんは上体をゆっくりと起き上がらせる。
そうだよ、私ピアス開けたいなんて一言も言っていない。
多分、いや絶対、傑くんの早とちりだよ。
その事を伝えれば、「いや、でも…」だとか「しかし…」だとか言いながら狼狽えた様子を見せた。
「私はピアスを開けたかったんじゃなくて、ピアスを買おうかなって思っただけだよ」
「誰にだ」
「いつも健気に頑張ってくれている私の可愛い弟にだよ」
「え」
私の弟は早生まれだ。
まだ雪の溶け切らない、草花が芽吹きはじめ、春が恋しくなる季節に生まれた子だ。
小さな子だった、誰にも本当の笑みを見せない子だった。
いつも怯え、陰で泣き、しかし理解を求めようとしない子だった。
いつからだろうか、そんな子だった弟が甘えるようになってくれたのは。
気持ちを吐き出し、恐怖を訴え、甘え、求めてくるようになった時から、私はそれまで無意味に過ごしていた時間を終え、この子の姉になったのだ。
だが、残念ながら私は人間としても姉としても未熟だ。
余程弟の方がしっかりしているだろう、だから形だけでも良いから何か姉らしいことをしてやりたいと思ったのだ。
それだけだ、それ以外にはない。
私には弟だけだ、弟以外にはこんなことしない。
再び固まった弟を置いて立ち上がり、背を向け教室を目指し歩き始める。
弟は強く逞しく育ってくれた。
しかし、それでもまだほんの十数年しか生きていない人間だ。私と違って正しい人間の成長をしている子だ。
図体は大きくても中身はまだ大人に成り切れていないのだ。
守ってやらねばならない、導びいてやらねばならない。
月に行けなくとも、あの子の隣には居られるのだから、贈り物の一つくらいたまにはしてやらなければならないだろう。
私は一応、姉なのだし。
「置いて行っちゃうよー」
「…待って、姉さん待って!」
「待ちまーす」
「あと、プレゼントならピアスより指輪がいい、お揃いの」
「指に嵌める物は邪魔になる」
「チェーンで通してネックレスにするのはどうかな?邪魔にならないよ、ね?それがいい、そうしよう」
それがいいならそうしよう。
指輪一つくらいなら、いつか月に帰る時も、荷物にならないだろうから。
それを見るたび、弟のことを思い出すことにするよ。