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深淵巨乳伝説

神々の指先に誘われ、微睡みの彼方へと意識をやってしまった少女が高専まで無事に帰れたのは、彼女の中に巣食い根を張る男のお陰であった。

その名を夏油傑という。
彼は既に死した身でありながら、少女の見るおぞましき悪夢の世界にて出会いを果たし、一時の邂逅を寄る辺に少女の中に取り憑いた史上最悪の呪詛師…もとい、絶賛未成年女子乗っ取り作戦を遂行中の悪い大人であった。

そしてなんと、この度運良く少女が深遠に堕ちたことを切っ掛けに肉体の支配権を彼は手にしてしまったのだ。


唐突に感じる太陽の光を手のひらで遮りながら、久方ぶりに生身の身体で感じる風や空の青さを暫し堪能する。
雑踏ひしめく都会は、彼にとってはまさに吐き気を催すに相応しき場所だった。

非術師がすぐ側を通り、汚らしく笑いながら闊歩する。
無駄に生きて、無駄に息をして、無駄に生活を営み、術師にだけ負担を強いて生きる無能で愚かな生き物を、夏油は少女の身で冷ややかな顔を浮かべながらその場をすぐに離れた。

選択肢として、このまま逃亡することも頭の片隅にはあったが、それを彼はしなかった。
何故ならあまりにも無謀な策だからだ。

少女の後ろに居るのは何も気紛れな神々だけではない。
禪院家という、屈強で大きな一族が目を光らせているのだ。下手に逃げれば養子だろうがなんだろうが、危険人物として首が飛ぶことは間違いない。

慎重に物事は運ばなくてはならない。

なので夏油は大人しく高専へと向かうこととした。
少女の目が覚める短い間にやれることはやらねばならない。
調べたいことは沢山あったし、試してみたいことも山程あった。

夏油はサイズの合わない制服のスカートを揺らしながら、小さく細い足で前へ前へと進む。
嫌に神経が過敏で、聴覚や嗅覚が鋭利な疲れやすい身体を可哀想に思いながら駅へと向かった。


夏油傑の少女への感情は憐憫で出来ている。

夏油はこの惨く哀れな少女を気に入っている。
気紛れな神々が少女を気に入るように、夏油も必死に目と耳を塞ぎながら笑って生きている馬鹿な少女を憐れみながら愛しく思っている。

どうしようもなく憐れだから、変わりに生きてあげようと思ってしまう程には大切な信者である。

そして彼はそんな同情と欲望を、愛だと笑顔で言い切るのだ。




___




暗転、地獄。


頭の奥の奥から、脳裏を引っ掻くおぞましく不快な音がする。
暗く(くらく)、冥く(くらく)、昏い(くらい)、地獄の淵に二つの脚で立たせられて、名も無き霧に全ての手脚を捕まれ、今か今かと私の魂が堕ちるのを待つ者共の歓迎の宴が始まるのを確かに感じ取った。

鼻の奥にこびり付く不快な獣臭が、ぞくりと背筋を震わせる。
底の底に居るのは人間なんてものじゃなく、なにか常識を超えた、人畜生の成れの果てとも言える腐った獣の群れであることをにわかに悟る。


私の魂が堕ちた先は、どうやら地獄らしい。


涎を垂らし、自慰に浸る阿呆共。
目と歯を剥き出しにして私を指差し笑う猿共。
牙を光らせ息を荒げ、叫び狂う地獄の使者達。
一拍の間もあけずに響き続ける悲鳴と絶叫の狂乱。
とても正気じゃいられない、私を歓迎する乱痴気騒ぎの深き夜が、すぐそこまでやって来る。

ギャイギャイと喚く猿の如き不愉快な笑い声が、頭の中のそこかしこで大合唱を奏で始めた。


ギャアギャアギャア、ギャアギャアギャア


魂を掻き毟る不快な感覚、嘲るような無数の視線。
耐え難く、苦痛でしかない地獄の合唱をその身に浴びながら、私は耳と目を塞いで、地獄の淵にてただただ救いを待つ。


ギャアギャアギャア、ギャアギャアギャア


最早自分の輪郭すら朧気だ。
手脚がどこにあるのか分からない、自分が何を見ているのかすら分からない。
分からない、わからない、わからない。
何故こんな場所に居るのか、どうして自分は生きているのか、何に抗っているのか。

視界は歪み、身は滑り、奥歯がガタガタと噛み合わなくなっていく。
私は笑っているのか、泣いているのか、それとも怒っているのか。
いや、救いを。救いを欲していたはずだ。確かに私は救いを。
誰か、どうか、どうして。
たすけて、たすけて、たすけて。


ギャアギャアギャア、ギャアギャアギャア


次第に意識は霞み、上か下かも分からなくなっていく。自分の身体の大きさも、名前も何もかも、するりと解けるように分からなくなる。

頭があるのかすら分からない、指の数も分からない。
首がどちらを向いているのか分からない、何を言っているのか分からない、息の吸い方も分からない。
首を絞めようにも首がない、舌を噛み千切ろうにも舌がない、声を挙げようにも声はない、涙を流そうにも瞳は無い、腹を切ろうにも魂の在り処がわからない。



ギャアギャアギャア、ギャアギャアギャア


救われようにもここに仏はいない。
私の神様はここにはいない。
助かろうにも救いの手はない。
この地獄に神などいない。
もう、何もかもがわからない。


狂気、凶気、恐気。


堕ちているのか、昇っているのか。
歪んでいるのか、これが正しいのか。
自分は誰か、お前は誰か。

地獄の底から聞こえる狂気の合唱。
神も仏もここには来ない、気狂い共だけが諸手を挙げて、涎を垂らし悦に浸る。

享楽、歓楽、悦楽、快楽、安楽。
この世のあらゆる楽を享受する。
淫楽の海で絶頂の声を挙げる者、悦楽の海で酒に溺れる者、狂楽の果てで首を括る者。
とても正気じゃいられない、狂気でいられた方がどれだけマシか。
招き、歌う、極彩色の地獄の宴。


狂暴な極彩色の曼荼羅の海に魂が汚され、散り散りとなり、溺れていく。


身体の輪郭は既に溶け、あるのは剥き出しの魂一つきり。

どぼん。
堕ちた先は地獄の底、招き謳うは知性無き悪意の詩。
身包み剥がされ、肉を裂き骨をしゃぶり、全ての尊厳を奪われ自分を失う。


さあさあ、ちっぽけな人間の憐れ極まる生はここまでだ。
ここから先は狂気と地獄の上に立つ、正真正銘、本物の神々が選んだ恵まれたる者による邪悪を引き連れた暗く瞬く人生だ。

こうして嘆きの夜は終わり、新しい朝がやって来る。
美しく、おぞましく、日の灯らない深き朝が楽土の向こうから両の手を高々と上げてやって来る。

ああ、そうだ。そうだとも。
私は最初から知っていた。

私は彼方からの使者が恵みを与えた者であったということを。


ギャアギャアギャア、ギャアギャアギャア


地獄の底にて喚く亡者を蹴散らして、星辰狂う海を渡り、私はとうとう静かに目を覚ます。

現実と言う名の星の表面で最後まで踊るため、私は私の狂気を受け入れ、地獄の手綱を握ったのだった。

ああ、そうだ。
私は初めから神に寵愛されていた。
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